ドラゴンは笑わない




黒い雨 前



城の正面玄関に繋がる広間に、彼らは揃っていた。
冷たい床に座ったセイラは、広く高い壁に付いた窓をじっと見ていた。外は、激しい雨に覆われている。
雨音しか聞こえず、虫や風の声も届いてこない。その寂しさと共に、無性に不安に駆られていた。
窓に映る三本のツノが生えた単眼の顔を、ぼんやりと見つめていた。兄妹達は、無事でいるだろうか。
そればかりが、セイラの思考を支配していた。来客達も気になっていたが、そちらの方が気掛かりだった。
末広がりの階段の中程に腰掛けた城の主は、眠たげだった。足を組み、手すりに翼の生えた背を丸めている。
その手元には、数枚の紙が置かれていた。いずれも同じ大きさで、全く同じ文面が書かれている便箋だった。
フィフィリアンヌは、封筒と便箋を見比べた。それを一通取った大柄な甲冑が、少女を背後から見下ろしている。

「どういうことだ?」

「私に聞くな」

ちらりとギルディオスを見、フィフィリアンヌは便箋に目を戻した。簡素な紙の中心に、数行だけ文字がある。
少年は、雨に濡れた外套の水滴を払ってから、階段の下の段に腰掛けた。ランスは、素っ気なく言う。

「事の真相を知りたくば、竜の城の来られたし。書いてあるのはそれだけだけど、ここを指してるのは明らかだ」

「真相って、どこからどこまでなんすかね?」

マークの後ろで身を縮めながら、ジャックは顔を出した。無表情な少女の目が向くと、すぐに引っ込んだ。
湿った茶色い髪の頭を、マークはぐしゃりと押さえ付けた。怯え気味の息子を見、苦々しげに笑う。

「そう怖がるな。いい加減に慣れてくれよ」

「見た感じ、最初から最後まで、って感じだけどさぁ。何が最初なのか、よく解らないんだよねぇ」

がしゃり、とバスタードソードを背中から外したメアリーは、階段に横たえた。その脇に座り、鎧を緩める。
ガントレットを外してから、濡れてしまった黒髪を掻き上げた。ギルディオスを見上げ、変な顔をした。

「あたしが知ってるのは、あんたが死んでから後のことぐらいだし」

「そもそも、今回の事っていつから始まってたのかはっきりしないのよねぇん」

ランスの隣に、パトリシアはぺたんと座った。えーとぉ、と少し面倒そうな声を出す。

「最初にギルさんが殺されて、その犯人がイノセンタス様で、マークさんとジュリアさんが利用されていて、ランス君も利用されそうになって、ってことだから、やっぱりイノセンタス様が大元よねぇ?」

「それ以前に、根本的な原因がある、とでも言うんでしょうか?」

ハンカチでカトリーヌを拭ってやりながら、カインはフィフィリアンヌを見上げた。そうだな、と彼女は甲冑へ向く。

「私がニワトリ頭を蘇らせたことも原因と言えば原因だが、これは本当に偶然なのだ」

「うむ。それは我が輩が保証するのである」

デイビットに運ばれてきた伯爵は、フィフィリアンヌの斜め上に置かれた。フラスコの中で、スライムがうねる。

「それは、そうであるな、丁度一年ほど前の今頃である。とある依頼を受けたフィフィリアンヌは、その依頼の実験に使用するための魂を探しに、市民共同墓地へ赴いたのだ。そこで見つけ出したのが、このギルディオス・ヴァトラスである。その依頼を果たすにあたり、フィフィリアンヌは依頼主から他言無用とされていたから、その前後は、誰とも関わっておらんのだ。故に、指図されたり誘導されたりということはないのである」

「てことは、オレを蘇らせたのは本当に実験だったのか」

ギルディオスは、自分の胸を銀色の手で押さえた。フィフィリアンヌは、便箋を眺める。

「そういうことだ」

「その依頼って、一体何なんだ?」

マークに尋ねられ、フィフィリアンヌは嘲るように呟いた。

「下らんことだ」

「まぁ、いずれにせよ、ここで誰かが何かをするのは間違いはなさそうですね」

フィフィリアンヌさんじゃなさそうですけど、と言いながらカインは階段を昇った。竜の少女の隣で、足を止めた。
隣に立ったカインを見上げたフィフィリアンヌは少しやりづらそうだったが、拒否する言葉は出なかった。
それを了承と判断し、カインは彼女の隣に腰を下ろした。頬を赤らめたフィフィリアンヌは、すぐに顔を背けた。
手の中で幼子が羽ばたいたので、カインは手を放す。ぎゅる、とカトリーヌはセイラを鼻先で指した。
ぱたぱたと体を浮かばせたカトリーヌは、先程から会話に混ざってこないセイラに、するりと近付いていった。
末広がりの階段の右脇に座り込んでいるセイラは、窓ばかりを見ていた。カトリーヌが鳴くと、やっと振り向いた。

「カトリィ」

ぎゅるぎゅる、とカトリーヌは首をかしげる。セイラは金色の単眼を、少し伏せた。

「平気。心配、イラナイ」

きゅーん、と高い声を出してから、カトリーヌはセイラの肩に乗る。太い首筋に、鼻先をぐいぐいと擦り付けた。
ランスはセイラを見上げていたが、その背後の窓を見上げた。窓枠の下に填められた紋章に、見覚えがある。
ぐるりと広間を見回して探してみると、それは他にもいくつかあった。扉の上、階段の上の壁、天井の四隅など。
ランスは、腰から短剣を抜いた。刃に刻まれた紋章を確かめていると、パトリシアが手元を覗き込んできた。

「短剣なんてどうするのん?」

「うん、ちょっとね」

ランスは短剣を掲げ、窓の紋章の下に出してみた。艶やかな銀の刃には、スイセンの家紋が彫られている。
窓の下にある浮き彫りの紋章と、花を囲む枠は違っているがほぼ同じものだった。ランスは、にやりとする。

「やっぱり」

「何がやっぱりなんだい、ランス」

メアリーに問われ、ランスは短剣を差し出した。

「こいつは父さんからもらった短剣なんだけどね。一応ヴァトラス本家のもので、家紋も本家のそれなんだ」

で、とランスは後方を指した。扉の上には、スイセンの浮き彫りが填め込まれている。

「これとあれが同じなんだよね。囲いが違うから本家のものじゃないけど、囲いがあるってことは、ここは直系の筋の家ってことになるんだ。まぁ要するに、この城の前の持ち主は、間違いなくヴァトラスだったってことさ」

「あらホント、同じだわ。でも、そんなのはギルさんが気付いていても良さそうなもんだけどぉ」

と、パトリシアはギルディオスを見上げた。ギルディオスは顎に手を添えていたが、俯く。

「いや。解らなかった。今の今まで、スイセンが家紋だってことすら忘れてた」

「追憶を禁ずる呪いの弊害だ。あれは貴様の妹に関する記憶を封じたのだから、家の記憶も封じられたのだ」

そう返しながら、フィフィリアンヌは手紙を折り畳んで封筒に戻していった。マークは、かなり面倒そうな顔をした。

「ただでさえ面倒な事ばっかりだってのに、その上でこれか? 頭がいかれちまいそうだ」

「でも、この城の前の持ち主はあんたなんだろ、デイブ」

少し嫌そうにしながら、メアリーはデイビットを見上げた。半透明の男は、ふわりと下降してきた。
不安定そうな前傾姿勢になると、愛想良く笑った。小さな目を上向け、高い天井を見回した。

「ええ、そうですねぇ。確かにこの城は、私が生前に所有していたものですけどねぇ」

「じゃあなんであんたは、ヴァトラスでもないのにヴァトラスの城に住んでいたのさ?」

ランスは短剣を腰の鞘に戻してから、幽霊を見上げる。デイビットは、にんまりする。

「それはおいおい説明いたしますよぅ。まぁ、どうせ今日中には解ってしまうと思いますけどねぇ」

「どうして、すぐに説明しないのさ?」

疑わしげなランスに、デイビットは少し困ったように眉を下げた。

「その理由を、今言ってしまっては面白くありませんよぅ」

不意に、ある気配と物音を感じた。セイラが弾かれるように立ち上がると、ぎゃあ、と驚いてカトリーヌが飛んだ。
雨の匂いに混じって、血の匂いがしている。単眼をしきりに動かして、それがどこから出ているのか探っていく。
金色の大きな瞳が、正面玄関で止まった。背の高い扉の向こうから、兄妹達の気配がじわりと感じられた。
大きく目を見開いて、セイラは呆然としている。正面玄関を見、フィフィリアンヌは面倒そうに小さく漏らした。


「今日は客の多い日だ」


どん、と扉が外から拳で叩かれた。徐々に押し開かれた扉の隙間から、水を滴らせた白い人影が入ってきた。
その背には、力の抜けた人型の獣が背負われている。ぎちぎちと軋みながら、巨大な扉は内側に開いていく。
開き切ると、扉に背を預けていた者がずるりと倒れた。汚れた漆黒の装甲に包まれた、人の姿をしたクモだった。
雨水に混じった赤が、じわりと床に広がっている。人型のクモを、灰色に身を包んだ幼女が支え起こした。
翼の折れ曲がった人狼を背中から下ろし、白衣の男はどしゃりと座り込んだ。その肩に、小柄な女が手を添える。
茶色く柔らかな髪が顎の辺りで切り揃えられ、可愛らしさのある顔だった。薄茶の目が、不安げな色を帯びていた。
造形こそ似てはいないが、雰囲気は彼に似ていた。見覚えのある女を見つめ、マークは恐る恐る呟いた。

「お前は」

マークは、慎重に女を指す。ここ最近、捜していた女だった。

「ジュリア・ヴァトラス?」

何も言わず、女は頷いた。その傍らの白衣の男を、ギルディオスは信じられないような気持ちで見据えていた。
服も髪の長さも違うが、間違いなくあの男だった。竜神祭を乱した人間達の一人で、牢獄の中で震えていた男だ。
目立たない顔立ちの男は、ギルディオスを認めた。疲れ果てた顔をしていたが、少しだけ嬉しそうだった。
竜王都で殺さずに生かした聖職者の男が、なぜ妹と共にいるのか。それが、まるで理解出来なかった。
ギルディオスは階段を数段下りて、ガントレットの片手を挙げた。銀色の指先が、白衣の男を示す。

「ゼファード…だよ、な。なんで、お前が、ここにいるんだ」

「お久し振りです、ギルディオスさん。あの時は、ありがとうございました」

白衣の男、ゼファードは扉に手を付いて立ち上がった。そして、項垂れているウルバードを見下ろす。

「積もる話も色々とあるのですが、それは、この子達の命を繋いでからにさせて下さい」

「大丈夫よ。それくらいだったら、治せないことはないから」

パトリシアは雨と風の吹き込む扉の前にやってくると、ウルバードとレオーナの手を取る。

「でも、これだけひどいと威力がないと治せないわねぇ。魔法陣を描かなくちゃ」

一番傷のひどいスパイドを担ごうとして、パトリシアは手を止めた。あ、と幼女が名残惜しげにする。
びしょ濡れの灰色の外套から、派手な色の髪が見えている。負傷しているようだったが、血の匂いはしない。
その違和感に、パトリシアは妙な顔をした。左手で右腕を押さえ、幼女はパトリシアを見上げる。

「わたしのお友達、治りますー?」

「ええ、まぁねぇ。上位魔法を使えば、骨折と裂傷ぐらいは一発で治せるけどぉ。でも、あなたは平気なの?」

不思議そうに首をかしげたパトリシアに、幼女は弱々しく笑った。

「はいー、一応はー」

幼女は頭を下げ、レベッカと申しますー、と名乗った。パトリシアはまだ不思議そうだったが、扉を閉めた。
ゼファードに担がれたウルバードと、ジュリアに支えられたレオーナは、スパイドを担いだパトリシアに誘導された。
広間の隅の方にやってくると、パトリシアはランスに振り向いた。白墨っ、と叫ばれてランスは反射的に頷いた。
服を探って白墨の箱を出したランスは、勢い良くパトリシアへ投げた。それを受け取り、彼女はスパイドを下ろした。
石組みの床にがりがりと白墨を滑らせながら、パトリシアは耐水の呪文を唱えた。そうしないと、水で消えてしまう。
三人の魔物を魔法陣の中に横たえたパトリシアは、魔法陣の中心に立った。胸の前で両手を組み、目を閉じる。

「天に住まう全知の神よ、全能なる光を我が手に与えたまえ。万物に宿りし血潮の滾りに、今こそ生の力を」

柔らかく温かな風が、魔法陣から巻き起こる。パトリシアは、声を張る。

「大地の上に生きる魂の器に、空の下に生きる魂の器に、生けとし生けるための力を、ここに分け与えたまえ!」

唱え終えた直後、パトリシアは両手を解いて座り込んだ。肩を落として息を荒げながら、魔物達を見る。
ウルバードの折れた翼も、レオーナの傷も、スパイドの火傷も全て治っていた。パトリシアは、口元を綻ばせる。
額に手を当てて目を伏せ、あー、と力なく唸った。駆け寄ってきたランスに振り向くと、力なく笑う。

「あー、大丈夫ー。でも、ちょっと使いすぎたぁん」

はい、とランスに白墨の箱を返してから、パトリシアはぐらりとよろけた。ランスは、慌てて彼女を支えた。
項垂れたパトリシアは、苦しげに眉を歪めていた。相当に魔力を消耗したらしく、顔が青ざめてしまっている。
パトリシアを抱き留めたまま座り、ランスは少し呆れたような顔をした。彼女は、それなりに重かった。

「一度に三人は無茶だよ。パティの魔力、そんなに多くないんだから」

「心配したぁ?」

パトリシアは上目にランスを見、そっとその頬を撫でた。ランスは、言いづらそうに返した。

「…まぁね」

その光景に、ありゃま、とメアリーは目を丸くした。ギルディオスを見上げると、恐る恐る妻を見下ろしている。
メアリーも多少驚いているので、気付かないうちに発展していたようだ。ギルディオスは、ヘルムを押さえた。
煽ってはいたが、いざくっついてしまうと複雑な心境になる。親として、喜ぶべきだが少し物悲しかった。
目を覚まして起き上がった人造魔物達は、いつのまにか移動していたためか、少し不思議そうにしている。
起き上がったスパイドの傍に座ったレベッカはしきりに、ごめんなさいー、と泣きそう声で繰り返していた。
居ても立ってもいられなくなったセイラは、あまり急がないようにしながら兄妹達の元へ向かっていった。
広間の隅の魔法陣は、ウルバードらの体から落ちた水と血が溜まっていた。その傍で、セイラは巨体を屈めた。

「兄サン、姉サン」

「セイラ」

翼が治ったか確かめながら、ウルバードは末っ子を見上げた。セイラは口元を広げ、牙を覗かせる。
頭を振ったレオーナは、数回側頭部を叩いた。情けなさそうに笑ってから、赤茶けた髪を掻きむしった。

「ちょっと、やられちゃってね」

二人の目が、レベッカに向かった。レベッカは小さな体を更に縮めて、泣き出しそうな顔になる。
幼女の肩に、スパイドが手を乗せていた。ごめんなさい、と項垂れるレベッカにスパイドは頬を寄せた。

「僕もお兄ちゃん達も大丈夫だから。レベッカちゃんは、ちゃんと手加減してくれていたんだよね」

左手で顔を押さえたレベッカは、小さく頷いた。大きな目からぼろぼろと涙が落ち、灰色の外套に染みる。

「ごしゅじんさまに、おこられちゃう」

「ちゃんと話せば解ってくれるよ、きっと」

レベッカの肩を抱き、スパイドは金色の目を細めた。だといいけど、とレベッカは泣き声混じりに呟いた。
灰色の外套の隙間から覗くレベッカの右腕は、木製の骨と人工外皮で出来ていて、肘から先が千切れていた。
それを見、ジャックは顔を引きつらせた。人間だとばかり思っていたので、人外と知って恐ろしくなった。
あわあわあわ、と変な声を出しているジャックに、ギルディオスは歩み寄った。少年を、ぐいっと押さえ付ける。

「そう慌てるな。あれはグレイスの野郎がいない限り、何もしねぇよ」

「でっ、でも、あの子なんなんすかぁ!」

泣き出しそうなジャックは、不安げにギルディオスを見上げた。ギルディオスは、首を曲げる。

「まぁ、人間じゃあねぇな。石人形っていうか、魔導兵器なんだとさ」

カインはなんとなく、レベッカを慰めるスパイドと、腑に落ちない様子のウルバードらを眺めていた。
人造魔物の兄妹を見るのは、初めてだった。話に聞いていた通り、いずれも人格のはっきりした魔物達だ。
色々と話を聞いてみたかったが、今は明らかに無理そうだった。もっと良いときに会いたかったなぁ、と思った。
背中に重量を感じたので振り向くと、フィフィリアンヌが縋っていた。ウルバードが、イヌの類はやはりダメらしい。
彼女の小さな手でぎゅっとマントを掴まれる感触に、カインは場違いだと思いながらも、幸せだと思った。
後ろを窺うと、フィフィリアンヌは気恥ずかしげで情けなさそうだった。弱点を、晒してしまっているからだ。
背中の少女へ手を回したカインは、大丈夫ですよ、と言った。フィフィリアンヌは、頷いたようだった。
ジャックを解放してやったギルディオスは、魔物達を撫でたりしている女を、改めて眺めてみた。
記憶にない女。それが、ジュリアという名の妹だと言う。名前と顔が一致せず、未だにぴんと来なかった。
申し訳なさそうにセイラを見上げていたジュリアは、ふと、ギルディオスに気付いた。優しげな笑みが、消えた。
ごめんなさい、兄様。言葉にはならなかったが、血の気の失せた薄い唇は、間違いなくそう動いていた。
それでも、ギルディオスは何も思い出せなかった。


人造魔物の兄妹が落ち着いた頃、ようやくゼファードも落ち着いたようだった。
階段に深く座った彼は、すっかり濡れた白衣を脱いで、メアリーが作ってきた温かいワインを飲んでいた。
ジュリアは、ゼファードのカバンから出した包帯を魔物達に巻いてやっていた。時折、言葉を掛けている。
少女の面影が残るジュリアの横顔を見つめていたが、ゼファードは温かいマグカップを両手で握った。

「私は元々、ジュリア教授の助手をしていたんです。魔生物生態学、要するに魔物の研究者でした」

湯気の昇るワインを少し飲んでから、ゼファードは続けた。

「私と教授は、ヴェヴェリスの大学から東王都近くにある研究所に移って、人型魔物の生体組織と成長過程を研究するために、あの子達を造りました。教授が若い頃に旅をしながら集めてきた魔物の体組織を使って、三本ツノを、セイラを生み出したまでは良かったんです。でもその後、大学からの研究資金の供給が唐突に途絶えてしまったんです。何度か大学にも学会にも掛け合ってみたんですが、ろくな答えは返ってきませんでした。このままでは、研究どころか魔物達を生き長らえさせることも出来なくなってしまう。そう判断した私と教授は、仕方なく、セイラを手放すことにしたんです。外見が外見ですから、戦闘用としてすぐに売れてしまいました」

ですが、とゼファードは目を伏せた。

「セイラは他の子達以上に不安定なんです。見ての通り年齢にそぐわない大きさで、いつ成長に不具合が起きるか解らない。無茶な戦闘を繰り返せば、竜族の血が与えてくれた回復力も、衰えてしまうかもしれない。そう思ったら、堪えきれなくなって、必死に行方を捜し回りました。そして行き着いた先は、ギルディオスさんは知っていますが、ドラゴン・スレイヤーのパーティで、前衛にされるために買われたばかりでした。私はなんとか彼らに取り入ろうと思っていましたが、何分研究一筋だったもので、その辺の身の振り方がまるで解らなかったんです。途方に暮れていたら、近くの軍部に来ていたイノセンタス様に会ったんです」

ゼファードは、巨体の魔物を見上げた。

「君は、あの魔物を生かすために、ドラゴン・スレイヤーになりたいのか。だが、それは簡単に出来ることではない。見た目だけでも冒険者にならなければ、彼らは相手もしてくれない。そう言ってイノセンタス様は、私をすぐに聖職者に仕立て上げたのです。どこから調達したのかは知りませんけど、ドラゴン・スレイヤーの紋章まで与えられました。あの四人に、セイラを殺させないようにするのは、本当に骨が折れましたよ。形だけですが、ドラゴン・スレイヤーとなった私は、グレイス・ルーに誘われるままに彼らと共に竜王都へ乗り込みました。そこで、ギルディオスさんの名を聞いて、本当に驚きました。なぜここに、教授やイノセンタス様の血縁者がいるのか、とね」

「じゃあ、お前はあの時、エリスティーンを助けなかったんじゃなくて」

ギルディオスが呟くと、ええ、とゼファードは少し辛そうな顔をした。

「エリスティーンを助けられなかったんです。小手先の回復魔法は知っていますが、あそこまでの傷となると」

「グレイスが貴様を殺さなかったわけだ。イノセンタスの手駒となれば、泳がせていた方が得策だからな」

カインのマントをしっかり握ったまま、フィフィリアンヌは階段を見下ろした。男と甲冑の背が、並んでいる。
ギルディオスは腕を組み、体を前に倒した。俯き加減のゼファードを、下から覗き込むようにする。
疲れ果ててはいたが、以前よりも覇気があった。上辺だけの聖職者よりも、こちらの方が余程似合っていた。
兄妹達の傍に座っていたセイラは、ゼファードへ振り返った。彼の話は腑に落ちたが、まだ納得が出来なかった。

「ゼフィ、母サン、助手、ダッタ、ンダ。デモ、セイラ、覚エテ、ナイ」

「セイラは小さかったからなぁ、覚えていなくて当然だよ。今までずっと言わずにいて、すまなかったな」

ゼファードはセイラを見上げ、少し笑った。セイラはその優しげな笑顔を、多少複雑な心境で見下ろしていた。
長い間敵だと思っていた人間から、実は味方だったと言われても、すぐに信用することは出来なかった。
だが、兄や姉は信用している。だから味方には違いない、とセイラは思おうとしたが、簡単にそうは思えなかった。
ぐったりしているパトリシアを支えながら、ランスは少し唸った。イノセンタスの目的が、解らなくなった。

「研究資金を打ち止めたのは、間違いなくイノ叔父さんだろうな。あの人、色々と顔が利くし。でも、追いつめた後でゼファードさんとセイラを助けるようなことをするなんて、何の意味があるんだか」

「道端で手を差し出すよりも、崖っぷちに追いつめてから手を差し出した方が食いつきがいいからさ」

温めたワインを運んできた盆を置いてから、メアリーは階段に腰掛けた。形の良い眉が、歪められる。

「この間ランスにしたことといいなんといい、えげつないことする野郎だよ。わざわざ手紙なんか送ってきて、フィルの城に呼び出してくれるしさ」

「手紙?」

ゼファードは、少し離れた位置に座る重装備の女に向いた。ああ、とメアリーは頷く。

「事の真相を知りたくば竜の城へ来られたし、って中身のやつさ。ご丁寧なことに、今度のことに関わった人間全員に配られていたんだよ。あんたか、イノセンタスじゃないのかい?」

「いえ。そんなものがあったなんてこと、今、知りました」

「本当かい?」

訝しげなメアリーに、ゼファードは顔を背け、悔しげに漏らす。

「そんなに器用なことが出来たら、私はイノセンタス様の下になんか付きませんよ」

「じゃあ、グレイスか?」

ギルディオスは、スパイドの隣にちょこんと座っているレベッカに封筒を向けた。レベッカは首を横に振る。

「いいえー、御主人様の字じゃありませんー。御主人様は、もっと下手ですー。それにー、剣士さんのお兄さんの字とも違う字ですー」

「そういやあ、あの子が請求書の代筆をしてたもんなぁ」

マークは、七年前にグレイスと接触した際のことを思い出していた。意外にも、妙なところが不器用のようだ。
じゃあ誰なんだよ、と少し腹立たしげにギルディオスは封筒を置いた。カインは、控えめに挙手した。

「ところで、どうしてセイラの兄妹の皆さんが傷だらけになっているんですか? それが本題では?」

「教授がグレイス・ルーに攫われたんですよ。罠だと解ってはいましたが、あの子達が行ったので、それで私も」

と、ゼファードは人造魔物の兄妹を指した。フィフィリアンヌは、少し訝しげにする。

「それが罠であるならば、ジュリアはとっくに殺されているはずだ。何か妙だ」

「他の目的がある、ってことか?」

ギルディオスが言うと、そのようだな、とフィフィリアンヌは返した。

「それが何かは解らんがな」

「真相って、このことなんすかね?」

ジャックは、隣に座るマークを見上げた。マークは、黒い外套の下で腕を組む。

「これも真相には違いないだろうが、ちょいと遠いような気がしないでもないなぁ」

彼らが会話を交わす光景を、伯爵は階段の上から見下ろしていた。あまり、混ざる気にはなれなかった。
フラスコの下には、何通もの封筒が置かれていた。どの宛名も綺麗に書かれていて、見覚えのある文字だった。
地下室で、何度も見ていた字だ。跳ね方も止め方も、彼のクセが良く出ている。伯爵は、視点を上に向けた。
いつになく上機嫌なデイビットは、階段の手すりに腰掛けていた。彼は伯爵に気付き、にっこりと笑ってみせた。
伯爵は、この手紙の字がデイビットの字であると言おうかと思った。だが、その気になることが出来なかった。
ごぼごぼと泡を吐き出している伯爵に、デイビットはそっと降りてきた。半透明の男は、口元に人差し指を当てる。
気付いても言わないで欲しい、と言うことだろう。伯爵は泡を作るのを止め、まじまじと幽霊を眺めてみた。
何を考えているのか、全く解らなかった。だらしない笑顔は、表情を読まれないための策なのだろう。
友人は楽しそうでもあったが、少し寂しげでもあった。伯爵は何も言うことが思い付かずに、でろりと脱力した。
伯爵の心遣いに、デイビットは内心で感謝していた。あまり早くにばらされると、面白みがなくなってしまう。
それに、駒を詰めるのは駒が揃っていなければ出来ない。グレイスとイノセンタスが来なければ、進まない。
二人には早く来て欲しかったが、もう少し遅れていてもいい、とデイビットは矛盾した思いを持っていた。
最後までの猶予を、しばらく楽しんでいたかった。大切な友人である伯爵と、もう少し一緒にいたかった。
この城の秘密は、そろそろばれてしまいそうだ。だが、それを完全に明かすのは駒が揃ってからだ。
デイビットは眼下に並ぶ人間達を見ていたが、視線に気付いた。フィフィリアンヌの、赤い瞳が向いていた。
ああ、彼女も気付いている。デイビットは少し悔しくもなったが、なんとなく嬉しくもなっていた。
いつまでも隠していると、ばれてしまった方がいっそ楽になれる。そのための嬉しさだろう、と思った。
スパイドの右腕に包帯を巻き終えたジュリアは、立ち上がった。毅然とした眼差しが、ギルディオスを捉える。

「イノ兄様がああなってしまったのは、ここ最近のことではないわ。もっと、前からの事なのよ」

申し訳なさそうだったが、懐かしげでもあった。ジュリアは、兄へと歩いてくる。

「ごめんなさい、ギル兄様。あなたの記憶を封じてしまって。ギル兄様に掛けた呪いを解くために王都に来たのに、あの子達を使ってあんなことをしてしまって、本当にごめんなさい」

「覚えているのか?」

立ち上がり、ギルディオスは妹である女と向き合った。ええ、とジュリアは頷く。

「うっすらとだけどね。イノ兄様が私に掛けた暗示は、あまり強くはなかったから」

ぎゅっと自分の腕を握ったジュリアは、意を決したように顔を上げた。

「ギル兄様。あなたが思い出せば、なぜこうなってしまったのか解るわ。だから」

「ああ、頼む」

即答して頷き、ギルディオスはジュリアを見下ろした。ジュリアはなんともいえない表情になったが、頷いた。
ジュリアは、メアリーへ顔を向けた。小さく、ごめんなさいお義姉様、とかなり心苦しそうに言った。
その言葉の意味が解らず、メアリーはきょとんとしてしまった。ジュリアは、再びギルディオスを見上げた。
細い腕を伸ばしたジュリアは、ギルディオスのヘルムを両手で挟んだ。愛おしげな表情が、薄茶の目に浮かぶ。

「彼の者の魂を戒めし言霊よ、我が言霊に答えよ。忌まわしき契約を、ここに解くことを示さん」

ギルディオスを引き寄せながら、ジュリアはかかとを上げた。思わぬ事に、ギルディオスは動けなくなった。

「強き思いを解き放ち、我が言霊の服従より離脱せよ。彼の者の追憶を許すことを、今ここに命ずる」

ギルディオスの顔のすぐ前に、ジュリアがいる。

「我の記憶を、解き放ちたまえ」

甲冑の口元に、柔らかなものが触れた。冷え切った女の唇に金属の冷たさが移り、更に温度が下がっていく。
ジュリアから注がれる熱にも似た感覚を味わいながら、ギルディオスは後方にいる妻が気になっていた。
何も音が聞こえないということは、相当に驚いてしまったのだろう。後で弁解しておこう、とちらりと思った。
魂を納めた魔導鉱石が、徐々に熱を放ち始めた。ジュリアがそっと身を離すと、ギルディオスは胸を押さえた。
ないはずの鼓動が、起きた。記憶を封じていた枷が外れ、目の前の女の顔と名が一致し、全てが蘇ってきた。



兄様。ギル兄様。

こっちを見て。

妹が笑っている。

なぜだ。なぜ私ではない。なぜお前なのだ。

何が違う。何がおかしい。何もかもがおかしい。

兄が憤っている。


あいしてやれ。わたしのかわりに。

あいするべきなのだ。わたしとなって。

なぜなら、おまえは。


鏡の半分だからだ。



「…あ」

がしゃり、とギルディオスは身を下げた。何があったのか。なぜこうなったのか。全て、思い出した。
十七歳の夏の出来事だ。今日と同じように雨が降り続いていて、世界は薄暗く、陰鬱なものでしかなかった。
綻びが起きた日。綻びが広がった日。以前からあった兄の憎しみが、深く重くなってしまった日の記憶だ。
愛せよ。愛すべきでない者を。そう言われて、恐ろしくなって、家に背を向けて戦いへと駆け出した。
自分は間違っていない。間違っているのはあっちだ。そう思っても、時折それが揺らぎそうになっていた。
父と母は言う。お前が間違っている。彼女は言う。あんたは間違っちゃいない、おかしいのはあっちだよ。
ギルディオスは、顔を押さえた。硬いヘルムとガントレットが擦れ合う金属音で、意識を引き戻した。

「兄貴は」

片割れを、救えなかった。片割れを、深淵へと向かわせた。ギルディオスは崩れ落ち、床に膝を付いた。
冷たく硬い石の床から視点を上げて、扉の上に付けられた浮き彫りを見た。好きな花は、忌まわしい家紋だ。
扉を叩く雨音が、静まり返った竜の城に音をもたらしていた。


「イノは、オレを」




こうして呪いは解かれ、駒は進められた。
死した重剣士は、長く失われていた己を取り戻した。
そこにあったものは、兄妹との懐かしくも忌まわしき記憶だった。

暗雲は、未だ晴れそうにないのである。




 



05 7/10