ドラゴンは笑わない




黒い雨 中



雨は、降り続いていた。


竜の城の扉に背を当てて、分厚い暗雲を見つめていた。色のない世界を、細い縦線が覆い尽くしていた。
また濡れてしまった肩を払ってから、背後に目をやった。物音はせず、先程から会話は止まっているようだった。
無理もない。ヴァトラスの家に掛けられた呪いは根が深く、末裔までも腐らせるほどのものなのだから。
解けることのない呪詛の染みた血が、脈々と流れ続けている。彼らは、それを確実に受け継いでしまった。
その呪いを与えたのはこちらだが、こちらも同じように与えられた存在だ。どちらも、同じように呪われている。
ここまで来て、ようやくあの男の目的が見えた気がした。依頼の内容が、本当の狙いではないのだ。
グレイスはレベッカのことが気になっていたが、扉を開ける気にはなれなかった。というより、開けられなかった。
背中越しに、中の様子は感じられていた。感覚を多少上げてやれば、会話もちゃんと聞こえてくるだろう。
丸メガネの奧で、目を閉じた。ロザンナと一緒にここで大人しくしているのも悪くない、と思った。
胸に下げた金のペンダントから滲み出る彼女の気配が、優しかった。


城の広間に、甲冑は座り込んでいた。
際限なく溢れてくる情景に翻弄されて、目眩がした。生前から封じてきた記憶が、とても恐ろしくおぞましかった。
怖い。何もかもが恐ろしくて逃げ出してきた。長年に渡って鍛え上げたはずの心が、すっかり萎縮していた。
ギルディオスは、目の前のジュリアの背後を見上げた。正面玄関の扉の上には、スイセンの浮き彫りがあった。
結局、死んでも家からは逃げられなかったようだ。気付かぬうちに、再び濃い血の流れに引き込まれていた。
逃げられたと思っていたのは、気のせいだったようだ。ギルディオスは絶望しそうになり、項垂れた。
すると、背中に重量が掛かった。鎧に包まれた胸がマント越しに当たり、細身ながら筋肉質な腕が首に回される。

「ギル」

妻の声が、すぐ傍から聞こえた。ギルディオスは愛おしさが湧いたが、同時に苦しくもなっていた。

「…オレは」

「大丈夫さ。あたしがいる」

メアリーは体重を掛け、ギルディオスを抱き締めた。重たくも冷たい甲冑の体が、彼女の体重で少し軋んだ。
ガントレットを外した褐色の手が、胸に当てられる。ギルディオスは、その手にガントレットの手を重ねる。

「怖ぇんだ」

今にも泣き出してしまいそうな、怯え切った声だった。腕の下で僅かに震える肩を感じ、メアリーは顔を伏せた。
真紅の頭飾りを軽く撫でて、その下の兜に唇を当てた。すると、少しだけだが、ギルディオスの震えが納まった。
ぎしり、とギルディオスは手でヘルムを押さえた。穢れた己の過去が、背中の妻までも侵食しそうに思えた。
メアリーは、愛おしげに夫に頬を寄せた。いつになく気弱なギルディオスは、見ていられなかった。

「大丈夫。何があったって」

彼女の手を握っているガントレットに、力が込められた。

「ギルはギルなんだから」

ギルディオスは、不安と絶望の渦巻く心中を落ち着けた。妻は信じてくれている。だから、恐れることはない。
過去は過去だ。今に繋がってはいるが、過ぎ去ったことだ。それに、五年も前に体は失われているのだ。
父と母の命は、何があっても果たすことは出来ない。出来ないことは出来ないと、言い張れる状況にある。
ギルディオスはメアリーの手の温かさを感じながら、恐怖を押し込めた。恐れていては、前には進めない。
妻の腕に手を回し、ギルディオスは意を決した。彼女がいれば、愛すべき妻がいれば、大丈夫だ。
過去は、過去に過ぎない。ギルディオスが顔を上げるとメアリーは優しく笑んでいて、ん、と軽く頷いた。
ギルディオスはスイセンの家紋を見、十七年前の記憶を呼び起こした。ずっと、目を逸らしていた記憶だった。

「イノは、オレを許してくれなかったんだな」

鏡写しの兄と弟。割れているのも、どちらも同じ。

「だから、オレを殺したのかもしれねぇな」

思いの外静かな口調で、ギルディオスは呟いた。もう怖いことはない、愛する妻が背中を守っていてくれる。
だから、己の深淵と向き合っても、引きずり込まれることはないだろう。そう、強く確信していた。
甲冑となった片割れは、穏やかに過去を語り出した。




十七年前。イノセンタスとギルディオスは十七歳で、ジュリアは十歳だった。
その日は、夏の真っ直中だった。朝から煌々と輝いている太陽が、ヴァトラスの屋敷を見下ろしていた。
照り付ける日差しの中、ジュリアは裏庭を駆けていた。青々とした葉が光る生け垣の間を、小走りに抜けていく。
エプロンドレスの裾を上げて、なるべく急いでいた。いくつかの花壇と生け垣を抜け、裏庭の隅に向かった。
高い塀の下、背の高い木の根元に辿り着いた。そこはひんやりと冷たい空気が溜まっていて、湿気ていた。
ジュリアはエプロンのポケットを探り、黒光りする甲虫を取り出した。木の根元の穴に屈み、手を伸ばす。

「ほら、出ておいで」

少女の手に握られた甲虫を、薄暗い穴から見上げる瞳があった。ガラス玉のような目が、左右を探る。
周囲の安全を確かめてから、トカゲが這い出てきた。その体には、様々な色の横筋が模様として付いている。
ニジイロトカゲはちろちろと舌を出していたが、先の割れた細い舌先でジュリアの手を舐め、甲虫へ舌を伸ばした。
ジュリアが甲虫を放すと、すぐに舌に絡めて引っ込めた。一瞬の後、甲虫はニジイロトカゲの喉を通っていた。

「良い子良い子」

ジュリアは、ニジイロトカゲの頭を撫でた。滑らかでひやりとしたウロコの感触が、暑い日には心地良かった。
ニジイロトカゲは満足げに瞼を閉じ、ぎゅるぎゅる、と声を漏らしていた。すっかり、ジュリアに慣れてくれた。
手を伸ばして抱き上げても、抵抗しなかった。ジュリアは魔力の気配のあるトカゲを抱き、木の根元に座った。
この趣味を理解してくれるのは、ギルディオスだけだった。他の家族は、理解どころか嫌悪さえしている。
魔物は可愛いのになぁ、とジュリアは小さく呟いた。長く伸びた後ろ髪を持ち上げて、首筋の汗を拭った。
この髪も、切ってしまいたい。両親に言われて伸ばしているだけで、ジュリア自身は短い方が好きだった。
魔導師になるつもりはないし、将来は魔物を研究したいと思っている。そのためには、高い魔力は必要はない。
だから、何度も両親にそう言ったが、聞き入れてはくれなかった。ジュリアは、トカゲにぺたりと頬を当てた。

「ギル兄様、帰ってきてるかなぁ」

ジュリアは顔を上げて、屋敷の二階を見上げた。ずらりと並んでいる縦長の窓の、一番奥の窓で目を止めた。
窓は開いている。今日は修練から戻ってきている。そう思い、ジュリアはニジイロトカゲをエプロンで包んだ。
メイドに見つからないように身を屈め、生け垣の間を駆け抜けた。見つかったら、トカゲは捨てられてしまう。
ジュリアはうきうきしながら、足取りも軽く走っていた。ギルディオスが、大好きな次兄が帰ってきている。
普段は修練に出ていて、滅多に帰ってこない。帰ってきたと思っても、両親と罵り合っては出て行ってしまう。
今日は、両親は夜まで帰ってこないはずだ。ならば、ギルディオスはもうしばらく屋敷にいることだろう。
久々に遊んでもらえる。ジュリアは、もう一人の兄とどんなことを話そうか、どんなことをしようかと考えていた。
それを考えるだけでも、嬉しくて仕方なかった。


屋敷の二階の一番奥、左奧の部屋がギルディオスの部屋だった。
ジュリアは駆け足で廊下を走り、大きな扉に手を掛けた。鍵は掛かっておらず、既に半開きになっている。
エプロンを押さえながら、ジュリアは扉を開いた。短剣や武装の散らばる雑然とした部屋に、兄がいた。

「ギル兄様!」

「おう、ジュリィ」

幅広で長い剣を前に置いたギルディオスは、床から立ち上がった。以前にも増して、体付きは良くなっていた。
ジュリアは、逞しく力強い次兄に駆け寄っていった。近付くと、見上げなければならないほど背が高い。
ギルディオスの日に焼けた腕は、すっかり太くなっている。硬く大きな手が、ぐしゃりとジュリアを撫でた。

「元気してたか?」

「兄様も」

ジュリアは満面の笑みで返すと、そうか、とギルディオスも笑った。ジュリアは、床の剣を指す。

「そこのでっかい剣、どうしたの?」

「お師匠さんからもらった。まだ使う気にはなれねぇけどな」

ギルディオスは、床に転がしてあるバスタードソードを見下ろした。それは、相当な大きさがある剣だった。
ジュリアの身長など軽々と越していて、ギルディオスの身長の三分の二程度はありそうな、巨大なものだった。
こんなものを、どうやって操るのだろう。想像も付かず、ジュリアは半ば呆然とその剣を見つめていた。
ギルディオスはバスタードソードの柄を掴むと、するっと鞘を抜いて床に落とした。軽々と持ち上げ、刃を掲げる。

「お師匠さんの見立てだけあって具合は丁度いいんだが、今はまだ、こいつに振り回されそうな気がしてよ」

「凄い凄い! ギル兄様、どうしてそんなでっかいの持てるの!」

ジュリアは巨大な剣を掲げる次兄を見上げ、感心していた。戦えること以前に、持てることすら凄いと思った。
そうか、とギルディオスはバスタードソードを下ろした。鞘に納めてから、んー、と少し唸った。

「力の配分、っつーのかな。まぁ、やって出来ないことじゃないぜ」

「でも凄いなぁ」

目を輝かせる妹に、ギルディオスは少しばかり辟易した。事ある事に感心されるので、少々やりづらかった。
以前にも、王国主催の剣闘会で勝ち進んだだけで、兄様は世界一だ、とやたらに大きく解釈されてしまった。
実際は、準決勝で負けたので上位にも入れなかったのだが、それすらもジュリアにとっては凄かったらしい。
褒められるのは悪い気はしないが、師である剣士に毎日ダメ出しをされているので、その気にはなれなかった。
今日も、朝の修練で腰が甘いと散々言われてきたばかりだ。下半身の筋肉がまだ強くない、とも言われていた。
これから走り込んでこようかと思ったが、ジュリアが来たのでは出来そうもない。仕方ないか、と思った。
妹がいやに甘えてくるのは、両親ばかりでなくイノセンタスが冷ややかだからだ。他に、甘える相手がいないのだ。
なので、帰ってきたときぐらいは遊んでやろうと誓っていた。寂しい思いを、少しでも軽減させてやりたかった。
ジュリアはひとしきり、凄いなぁ、と言っていたが、エプロンの中身がもぞりと身動きした。さすがに窮屈らしい。
エプロンを下ろすと、ぼたっ、と子犬ほどの大きさのあるニジイロトカゲが床に落ちた。途端に、次兄は仰け反る。

「うぉわぁ!」

「ニジイロトカゲの子なの。可愛いでしょ?」

嬉しそうにニジイロトカゲを撫でるジュリアから、ギルディオスは慎重に距離を開けていった。

「…可愛いのか?」

「だってほら、こんなに」

ニジイロトカゲを抱き上げ、ジュリアはギルディオスに向けた。うひゃあ、とギルディオスは飛び退いた。

「寄るな来るな近付くなよお願いだから!」

「可愛いのに。ねぇ?」

トカゲと顔を見合わせ、ジュリアは首をかしげた。同じように、ニジイロトカゲも首を曲げてみせる。
長い尾がふらふらと揺れ、色とりどりの横縞模様の付いたウロコが艶々としている。それが、毒々しかった。
ウロコの感触は想像しただけで気色が悪く、感情のない目は空恐ろしく、鮮やかな色合いがまた不気味だった。
ギルディオスは嫌悪感と恐怖感で後退ったが、窓が背に当たった。これ以上は、もう下がることは出来ない。
ねー、とジュリアはニジイロトカゲの喉を撫でている。その背後、開け放たれた扉の先に、すっと人影が現れた。

「騒々しいと思ったら。やはりお前か、ギルディオス」

嫌そうな顔で、イノセンタスは扉を押し開いた。夏だというのに、長袖の魔導師の衣装に身を固めていた。
ギルディオスはトカゲへの嫌悪感と、イノセンタスの衣装にげんなりした。見ているだけで暑苦しい。

「イノ。その服、暑くねぇ?」

「いや、別に」

平然と、イノセンタスは否定した。実際、その顔には汗は浮いておらず、本当に暑くないようだった。
茶色の長髪を後頭部で一括りにしていて、顔付きには少年の面影が残っていた。色も白く、線も細めだった。
顔の作りや背格好はギルディオスとほぼ同じなのだが、生き方がまるで違うせいで、こうも違ってしまった。
毎日のように外へ出て剣の修練をするギルディオスとは違い、イノセンタスはずっと屋敷の中にいる。
魔法都市ヴェヴェリスから帰ってきてからというもの、課題が増えたらしく、以前にも増して外へ出なくなった。
ギルディオスは、自分なら耐えられないな、と思った。ただでさえ息の詰まる家の中に、一日中いたくはない。
イノセンタスは床を見、横たえてあるバスタードソードに気付いた。軽蔑するように、その剣を一瞥する。

「前線で役に立つものか。長物など使っても、懐に入られたら終わりだろうが」

「うるせぇな。戦いもしねぇのに解るのかよ」

「解るさ」

イノセンタスは、静かに部屋に入ってきた。夜空に似た藍色のマントが、ふわりとなびいて広がった。
妹の抱いているものを見下ろし、顔をしかめた。ジュリアがむくれると、イノセンタスは呆れたように言う。

「そんなもの、さっさと放してこい。アオイロトカゲなら血に薬効があるが、それにはないから役に立たん」

「役に立つわよ。綺麗で可愛いし、この子は良い子よ」

ジュリアが言い返すと、イノセンタスは顔を逸らした。これだから、と呟く。

「外見だけで魔物を判断するな。ニジイロトカゲは、成長すれば同族を捕食する。それが良い子なものか」

「良い子だもの」

機嫌を損ねたジュリアは、イノセンタスに背を向けた。妹が近付いてくるので、ギルディオスは顔を引きつらせる。

「おいこらジュリィちょっと待てよていうか来るなトカゲだけは来るな」

「ギル兄様までー。なんでそんなに、トカゲとかがダメなの?」

不満げに膨れたジュリアから目を外し、ギルディオスはイノセンタスを睨んだ。口元が、ぐにゃりと歪む。

「全部イノのせいなんだよ! 小せぇ頃に下らねぇことでケンカしたらイノがやたら根に持ちやがって、その辺にいたヘビを拾っては投げ拾っては投げして、オレを追いかけてきやがったんだ! それが死ぬほど怖かったんだよ!」

「報復だ。あれはお前が悪かったのだ」

「開き直るなよ! ついでに原因をオレにすんじゃねぇ、イノが悪かったんだろうが!」

イノセンタスを指し、ギルディオスは叫んだ。イノセンタスは、不愉快げに眉根を曲げた。

「水掛け論になるからやめろ。お前と言い合うとやたらと疲れるし」

「オレもやだよ。最後には、やりこめられちまうからな」

何度やっても勝てねぇしよ、とギルディオスは顔を背けた。ジュリアは、顔を背け合っている兄達を交互に見た。
兄達の仲が悪いのは、今に始まったことではない。毎度のように反発し合って言い合って、解り合おうとしない。
二人の間に立っているジュリアは、やりづらかった。この空気をなんとかしないと、と妙な使命感に駆られた。
ギルディオスにそっと近付き、ニジイロトカゲを持ち上げた。ぺたり、と次兄の腕にニジイロトカゲを乗せる。

「兄様、こっちを見て」

「うぇっ」

ギルディオスは、腕の冷たい感触に声を裏返した。にこにこと笑うジュリアの前に、ニジイロトカゲがいる。
左腕にしがみついたニジイロトカゲは、くりっとした目で見つめていた。その目に、背筋がぞわりとした。
振り払おうとしても、ジュリアがいるから振り払えない。後退ろうとしても、背後は窓で下がれない。
恐怖と緊張で固まったギルディオスは、次第に気が遠くなってきた。イノセンタスは、妹をちらりと見下ろした。

「放してやれ。気を失うと面倒だからな」

「はーい」

仕方なく、ジュリアはニジイロトカゲを持ち上げた。ギルディオスの腕から引き離し、しっかりと抱きかかえた。
冷たいものが貼り付いた感触が残る腕をさすり、ギルディオスは脱力した。ずり下がるように、座り込んだ。
目を上げると、ジュリアは悪気のなさそうな顔をしている。それを見ていたら、ギルディオスは怒れなくなった。
イノセンタスは背を向けて、足早に部屋を出て行った。ジュリアは、少し名残惜しそうに長兄を見送った。
苦々しげに笑ったギルディオスは、全くなぁ、と漏らした。ジュリアはニジイロトカゲと一緒に、その隣に座った。
小さな妹に寄り掛かられ、ギルディオスは仕方なくそのままでいた。本当のところは、逃げ出したかったが。
これもまた、仕方ない。そう思いながら、ギルディオスはジュリアの頭を抱き寄せ、柔らかな長い髪を梳いた。
この家の中で、居場所を与えてくれるのは彼女だけだ。妹だけが、異端と見ずに家族として扱ってくれる。
開けた窓から滑り込む弱い風を浴びつつ、ギルディオスは天井を仰いだ。壁との境に、スイセンの家紋があった。
いつのまにか、ジュリアは眠っていた。短い腕に抱かれたニジイロトカゲも、気持ちよさそうにしている。
この時間は、いつまでも続かない。ギルディオスは、半ば本能的にそうなるだろうと思っていた。
理由はなくとも、確信出来ていた。


その夜。ギルディオスは、父親の書斎の前に突っ立っていた。
帰ってきた両親に呼び出され、話をされた。その内容を反復しながら、薄暗い廊下の床を睨んでいた。
痛いほどの動悸が起こり、頭が痛くなりそうだった。廊下を歩いて階段に辿り着き、力なく座り込んだ。
頭を押さえ、目に染みるほどの暗闇を見つめた。父親は母親を伴って、いつものようにぞんざいに言った。
ギルディオス。お前はこの家の異端だ。だが、そうでなくなる方法がある。ただ一つだけ、あるにはある。
厳格な父親は、冷淡に言い放った。ギルディオスが訳も解らずにいると、母親も同じく冷淡に言った。
あなたみたいな無能者にあの子を渡すのは、少し腑に落ちないけれど。行く行くは、家のためになるのですよ。
ギルディオス。お前も一応は私達の子だ。イノセンタスにもしものことがあれば、お前が跡取りとなろう。
ですから、ギルディオス。あなたは、ジュリアの夫となりなさい。五年もすれば、あの子も大きくなりますしね。

「なんなんだよ」

訳が解らない。ギルディオスは、きつく目を閉じた。暗闇だとは解っていても、今は何も見たくはなかった。
父と母の声は蘇る。いいか、ギルディオス。お前に力がないのは不運だが、それでもお前はヴァトラスだ。
そうです。ですから、より良い血を残すためにあの子と交わりなさい。それが、あなたの生きる道なのです。
いくらお前が愚かでも解るな、ギルディオス。それだけしか、お前がヴァトラスとして長らえる方法はない。
剣の腕など、いくら鍛えても無駄ですよ。魔法には敵いません。いい加減に、目をお覚ましなさい。
それに、ジュリアのためにもなることだ。あれも趣味がいかれている。このままでは、お前の二の舞になる。
せっかくの力を使わずに、魔物になど心を奪われて。ジュリアもおかしな子です。あれも本家の子だというのに。
だから、ギルディオス。お前とジュリアがヴァトラスの中で生きるには、交わり子を成すしかないのだ。
優れた血を持つヴァトラスの子を作りなさい。それしかないのですよ、ギルディオス。さあ、婚礼を行いなさい。
母に寄られ、ギルディオスは後退った。見知ったはずの両親が、異世界の住人のように見えていた。
急いで扉を開けて廊下に出たが、二人は追ってこなかった。逃げられやしない、とでも思っているのだろうか。
ギルディオスは、背を丸めて顔を覆った。何がなんだか解らない。というか、少しも理解したくなかった。
理解したら、気が狂ってしまいそうだ。近親同士で子を成しても、まともな子供が生まれるはずがないのに。
だが両親は、それを強要しようとした。考えてみれば、両親はその近親同士から生まれた人間なのだ。
父親は血の繋がった従兄弟同士から、母親は実の兄妹の間から。そして自分は、その二人から生まれてきた。
気分が悪くなって、口を押さえた。胃液が込み上げてくるのを我慢出来ず、いくらか吐き戻してしまった。
口元を拭ってから、ギルディオスは立ち上がった。逃げなければいけない。ここにいては狂ってしまう。
壁に手を付いて深呼吸し、気を落ち着けた。まずは、自分の部屋に戻って武装を取ってこなければいけない。
剣術の師からもらった大事なバスタードソードや、鎧やなけなしの金などがある。それだけは、持って行こう。
ギルディオスは極力神経を張り、階段を下りていった。父親と母親が、追ってくるような気がした。
自然と早足になって、誰もいない廊下を駆け抜けていた。


部屋に戻ると、扉が開いていた。
嫌な予感がした。ギルディオスは慎重に扉を開いて中を覗くと、小さな姿が床に踞っていた。
泣き声を押さえながら、ジュリアは振り向いた。ギルディオスの姿を見た途端、恐れるように表情を引きつらせた。
ギルディオスは部屋に入り、そっと扉を閉めた。後退したジュリアは、いやいやいやぁ、と首を左右に振っている。
静かな室内に、少女の怯えた泣き声が反響していた。その足元で、ニジイロトカゲが心配げにしている。
ギルディオスは扉の前から動かずに、座り込んだ。ジュリアが誰に何を言われたのか、考えずとも解っていた。

「オレは何もしねぇよ。だから、泣くな」

「だけど、おかあさまが、わたしとぎるにいさまは」

途中の言葉はどうしても言えなかったのか、ジュリアは飲み込んでから声を上げた。

「そうしなきゃいけないって、お父様が、そうしなきゃ私とギル兄様は幸せになれないって、お父様とお母様が!」

いやぁあ、とジュリアは泣きじゃくった。恐らく、次兄に手込めにされることでも想像してしまったのだろう。
ギルディオスは、苦しくなった。確かにジュリアは好きだが、異性としての好きではなく、肉親としての好きだ。
可愛らしいから成長したら美しくもなるだろうが、欲情などしない。そもそも、出来るわけがないのだ。
だが、父親や母親の親達はそうしてきた。それがヴァトラスという一族の在り方だと言われても、理解出来ない。
嫌悪感は更に増した。自分の中に流れている血すらおぞましく思えてきて、また嘔吐してしまいそうになる。
一刻も早く、ここを出なければ気が持たない。ギルディオスは泣き喚いている妹に、静かに言った。

「ジュリィ。オレは、ここを出る。たぶん、二度と戻って来ねぇだろうな」

「いや、いや、いやぁ!」

ひとりにしないでぇ、とジュリアは声を上げた。ギルディオスはその気持ちが痛いほど解ったが、堪えた。

「それしかねぇんだ。オレとお前が無事でいるには、それぐらいしか方法はない」

「きらい、きらい、きらい、ギル兄様なんて! 私を愛していないの、愛してくれないの!?」

「そりゃ愛しているさ」

「だったらどうして、ギル兄様は私を一人にしてしまうの! 大嫌い!」

涙に濡れた顔を向け、ジュリアはギルディオスを睨んだ。だがすぐに、ぐしゃりと顔を歪めてしまった。

「…ごめんなさい」

いや、とだけ呟いてギルディオスは黙り込んだ。ジュリアは泣き止みそうになく、苦しげな泣き声は続いていた。
ジュリアの背後の窓が、ぱたぱたと雨粒に叩かれていた。昼間はあれだけ晴れていたのに、雨が降ってきた。
妹の姿を浮かび上がらせているランプの明かりが、いやに眩しかった。暗闇が、柔らかく薄らいでいる。
赤っぽい明かりに照らされた青年の顔が、窓に映っていた。表情がないと、双子の兄に良く似ていた。
ギルディオスはそれを眺めながら、兄はこの話を知っているのだろうか、と思った。恐らく、知っているだろう。
次にヴァトラスの家を継ぐのは、イノセンタスだ。煮詰まった血の一族だと、とうに知り得ているのが当然だ。
兄は、嫌悪しなかったのだろうか。胃液の味の残る唾液を飲み下してから、ギルディオスはそんなことを思った。
しゃくり上げながらも、妹は少し大人しくなった。ジュリアは顔を拭ってから、でも、と小さく呟いた。

「でも、違うのに。兄様は、ギル兄様は、本当は」

「何がだ?」

ギルディオスが問うと、あ、とジュリアは口に手を当てた。

「うん、でも、お屋敷の中じゃダメ。そのうち、言えるときが来たら言うわ」

「気になるじゃねぇか」

ギルディオスが少し笑うと、安心したようにジュリアは表情を緩ませた。

「ごめんなさい。でも、きっと言うから」

「約束だぞ」

「はぁい」

ようやく笑ったジュリアは、ニジイロトカゲを撫でた。良い子良い子、と愛おしさを込めた声で繰り返した。
それに答えるように、ニジイロトカゲはきゅうきゅうと高く鳴いている。鼻先を、少女の手に擦り付けている。
ギルディオスは近寄りたくはなかったが、昼間ほどは嫌悪感は湧かなかった。さすがに、多少は慣れた。
家を出た後は、剣術の師である剣士の元へ行けば大丈夫だろう。師は誇り高く力強い剣士だが、話の解る人だ。
それに、前々から家を出るとは言ってあったので、受け入れてくれるだろう。だが、気掛かりなのはジュリアだ。
家の中に残していっては、イノセンタスと婚礼を結ばされるかもしれない。そうなったら、元も子もない。
ジュリアはニジイロトカゲを撫でる手を止め、ギルディオスに向いた。大丈夫よ、と笑ってみせる。

「イノ兄様と結婚しろなんて言われたら、断ってやるわ。私にはギル兄様がいるのよーって」

「そりゃありがたいな」

ギルディオスは立ち上がり、バスタードソードを手に取った。ずしりとした鉄の重みが、肩にまで来た。
あまり多くない荷物を掻き集めて、カバンに押し込めていった。大した物もないので、すぐに終わってしまった。
窓に近寄って外を見下ろすと、一階の窓から明かりが漏れている。まだ、逃げ出すには早い時間のようだった。
家の中の人間が寝静まってから、裏口から出るしかない。いつもやっていることだから、不安はなかった。
裏口の鍵に掛けてある魔法を解く方法は知っているし、逃げる道筋も知っている。外に出れば、こっちのものだ。
完全に家の中が静まるまで、しばらく間がある。ギルディオスは窓際に座り、がしゃりとバスタードソードを置いた。
ジュリアはニジイロトカゲに、ここにいてね、と言ってから立ち上がった。次兄の隣に座り、寄り掛かった。

「しばらく、お別れなのね」

「そういうことになるな」

ギルディオスは昼間と同じく天井を仰いだが、四隅は深い闇が広がっていて、目を凝らしても何も見えなかった。
別れると思うと寂しくなってきたのか、ジュリアはまた泣き出しそうだった。小さな肩を、軽く叩いてやった。
ジュリアは兄に縋り、脇腹の辺りに顔を押し当てた。小さな手が、ギルディオスの服を硬く握り締めている。

「私ね、もっと色んな魔物に会いたいの。だから、私もいつか外に出るわ」

「そうか」

「うん。色んな所に行って、色んな子に会って、色んなことをしてみたいの」

「頑張れよ」

「うん。だから、一杯勉強するわ。イノ兄様に負けないくらい勉強して、いつか自分の子を作るの」

いつになく張り切っているジュリアに、ギルディオスは返す。

「作るって、人造のをか?」

「そうよ。ギル兄様みたいな強い子を作って、ずうっと一緒に暮らすのよ。だけど、その子が外の世界に出たいって言ったら、私はすぐに出してあげるわ」

ジュリアは、窓の外を見上げた。雨脚は強くなり、窓を叩く雨粒の量も増え始めていた。

「魔物も生き物だもの。私と兄様が思うみたいに、きっと思うはずだわ」

ランプに照らされた妹は、いやに大人びて見えた。



「外の世界に出たいって」



ギルディオスは、足音を聞いた気がした。扉越しに、廊下を歩く音が雨音に混じって小さく聞こえている。
覚えのある歩幅と重さを含んだ音が、次第に遠ざかっていく。そしていつしか、その足音は聞こえなくなっていた。
それが誰なのか、ギルディオスは考えないことにした。考えたところで、嫌になるだけだと思った。
狭く歪んだ世界に、魂を分けた片割れを置き去りにしていく自分を、今以上に嫌悪してしまうだけだろう。
ジュリアの温かな体温を感じながら、ギルディオスは雨音に耳を澄ませた。この時間は、もうすぐ終わってしまう。
予想はしていたが、やはり名残惜しかった。





 



05 7/12