ドラゴンは笑わない




黒い雨 中



屋敷の裏口を抜けたギルディオスは、足音を殺しながら夜道を歩いていた。足場は悪く、気を抜けば音がする。
粘ついた泥を踏まないようにしながら、明かりを最小限に絞ったランプを掲げ、細い道を進んでいた。
本当は明かりを付けたくはなかった。だが、まだ夜目を利かせられるほど、戦闘の腕は磨いていなかった。
ほのかなランプの光が、降り注いでくる雨粒を照らしている。水溜まりが反射して、少々眩しかった。
背中に乗せたバスタードソードが、肩に食い込んでいた。鞘に付けられた太いベルトが、重みを伝えてくる。
家々の密集した裏通りを慎重に通り抜けて、夜中でも音の絶えない貧民街の脇を通り、王都の外れに出た。
遠くに見える城壁は、外と中を区切っていた。朝にならなければ、あの城壁の門は開かないので出られない。
ギルディオスはまばらに木の生えた道端で立ち止まり、小さく舌打ちした。完全に出られるのは、夜明け後だ。
ランプを置いて、蓋を開けて火を吹き消した。途端に闇が広がり、気を張っていなければ何も見えなくなった。
唐突に、気配がした。ばちゃり、と数歩前に着地音がし、衣擦れの音がする。藍色のマントが、舞い降りた。
その手には、青白い月明かりがあった。荒く削られた魔導鉱石を填めたランプが、煌々と輝いていた。
淡く青い光が上げられ、顔が浮かび上がった。ギルディオスは身構えて、腰の剣を抜けるように手を置いた。

「どけ」

「悪いが、お前の命など聞く気はない」

抑揚のない、淡々とした声が返ってきた。同じはずの声なのに、真逆の口調であり声色をしていた。
イノセンタスは、マントに合わせた藍色の外套を被っていた。昼とは違い、夜には丁度良さそうだった。
フードに隠れた顔の下半分が、死人のような肌色になっていた。外套の下から、白い手が出て伸ばされた。

「逃げてどうする。お父様から逃れられるとでも思っているのか」

「思っちゃいねぇ」

ギルディオスはがちりと鍔を外し、剣を引き抜いた。鉱石ランプの明かりを受けて、刃が眩しく光る。

「離れられるだけ、離れてやるだけさ」

「お父様と戦うつもりか」

「そのつもりもねぇよ。親父と真っ向からやり合って死にたくないし、死んだらどうしようもねぇからな」

日焼けして色素の薄まった目を強め、ギルディオスは闇に沈む片割れを睨んだ。

「それに、親父はオレほど馬鹿じゃねぇ。出来損ないの息子を殺して、地位を吹っ飛ばしちまうつもりなんざないさ」

「解っているじゃないか」

「親父はそういう男さ。言うだけ言って、自分じゃほとんど動かねぇ」

「お母様が追ってくるとは思わないのか?」

「おふくろも似たようなもんだろ。親父より外面と家柄を気にしてる分、余計に嫌だけどな」

「そうだな。そうだものな」

イノセンタスは鉱石ランプを下ろし、フードを外した。襟元に入れていた後ろ髪を出し、背中に放る。

「だが、私はお父様とお母様の命でお前を追ってきたわけではない。私の意思だ」

「珍しいなぁおい。親父の鋳型にぎちぎちに填った、イノらしくねぇなぁ」

ギルディオスが毒づくと、イノセンタスは自嘲するように薄く笑う。

「そういうときもある。お前がお父様の言うことを聞くようなものだ」

「だったら何をしに来やがった。オレを連れ戻すつもりか?」

「そうだ」

「それじゃあ容赦しねぇぞ。そこをどかねぇと、手でも足でも切ってやろうじゃねぇか」

「随分と荒っぽいな」

「オレはお前ほど器用じゃないんでね」

ちゃきり、とギルディオスは剣を持ち上げた。銀色の鋭い切っ先が、同じ顔をした片割れを見据えている。
イノセンタスは、剣先越しに弟を見つめていた。光を映してはいるが、薄茶の目には輝きがなかった。

「私もお前ほど力任せには出来ない」

イノセンタスは、悔しげに口元を曲げた。表情の変わった兄を、ギルディオスは多少訝しみながら眺めた。
鉱石ランプを握る手に力が籠もり、ぎちり、と手袋が軋む。何かを堪えているような、そんな様子だった。
雨に肩を叩かれながら、ギルディオスは兄が動くのを待っていた。何か仕掛けてくれば、戦うまでだ。
だが、イノセンタスは魔法を唱えることもなく、項垂れた。藍色の外套は、濡れたせいで黒に近くなっていた。

「…なぜだ」

どちゃり、とイノセンタスは泥溜まりを踏みにじった。声に、苛立ちが滲んでいる。

「なぜ私ではない。なぜ、お前なのだ」

やはり、聞いていたのだ。ギルディオスはそう思いながら、動揺を押し殺しているイノセンタスを見ていた。
扉越しに、ジュリアとの会話を聞いていたのは兄だった。妹の相手に選ばれなかったのが、悔しいのだろうか。
だが、それにしては様子がおかしかった。ここまで感情を出すのは、感情表現の少ないイノセンタスらしくない。
すると、イノセンタスはがしゃりと鉱石ランプを投げた。水溜まりに青白い光が沈み、泥が散らばった。
ギルディオスを睨んだイノセンタスは、踏み出した。泣き出してしまいそうに思えるほど、表情が歪んでいる。

「何が違う!」

一歩、兄は弟に近付く。

「何がおかしい!」

剣先を押し退けた兄は、弟の胸倉を掴んだ。

「何もかもがおかしい!」

目の前で、イノセンタスは息を荒げていた。ギルディオスは剣を下げてから、怒りに満ちた兄と目を合わせた。
ジュリアとの婚礼から、逃げてきたからだろうか。それにしては、言葉の矛先が違うような気がする。
ギルディオスはイノセンタスに襟元を強く握られたまま、ふと、あることが思い当たった。

「イノ、まさかお前」

イノセンタスの手が緩み、ギルディオスは解放された。ああそうだ、と苦しげに兄は漏らした。

「…私は」

ジュリアを愛している。その言葉だけがいやに遠く、ギルディオスには聞こえなかったような気がした。
しかし、確実に聞こえていた。予想はしても聞きたくなかった言葉を、兄は、片割れは間違いなく喋っていた。
くそぅ、とイノセンタスは顔を押さえた。嫉妬心の入り混じった声で、片割れは唸るように言葉を吐き出している。
なぜお前なのだ。なぜ私ではない。何が違う。何がおかしい。なぜ、ジュリアは私を見てくれない。
顔を上げたイノセンタスは、いつになく凶悪な光を宿した目で弟を睨んだ。嫉妬と、憎しみが漲っていた。

「いつもそうだ」

ギルディオスには、見当が付かなかった。イノセンタスは、憤った声を荒げる。

「お前は私が成し得なかったことを、先にやってしまう!」

一歩、弟は後退する。兄は迫る。

「外に出ることも、剣の腕を高めることも、お父様に進言するのも、ジュリアと戯れることも!」

雨音が、絶叫で掻き消えた。



「妹の心を奪うことも!」



ギル兄様。兄様、こっちを見て。私ね、色んな魔物に会いたいの。だから私も、いつか外に出るわ。
脳裏に、妹の姿が過ぎった。ギルディオスは徐々に後退りながらも、ジュリアの記憶に安堵感を覚えていた。
そして、察した。兄がここまで嫉妬に駆られる理由が、ようやく思い出せた。妹が、こう言ったからだ。
ジュリアは、泣き顔で笑う。イノ兄様と結婚しろなんて言われたら、断ってやるわ。私には、ギル兄様が。

私にはギル兄様がいるのよーって。

ギルディオスは、怒りに震えるイノセンタスから逃げるのを止めた。足を止めて、真っ向から兄と向き合った。
それは誤解に過ぎない。あれはただ、ジュリアが軽く言っただけのことであり、本気の言葉ではない。
前後の脈絡からも解りそうなものであるはずなのに、なぜ。ギルディオスは、兄の怒りの原因を必死に探った。
イノセンタスは、鉱石ランプの逆光で表情が見えなくなっていた。ギルディオスは、ジュリアの言葉を再度反芻する。
イノ兄様と結婚しろなんて言われたら、断ってやるわ。恐らくイノセンタスは、これに衝撃を受けたのだろう。
ギルディオスは、腰を落としていた姿勢を戻した。いきり立つ兄を制するように、なるべく口調を落ち着けた。

「イノ。それは、誤解だ」

「誤解だと?」

誤解なものか、とイノセンタスは腹立たしげだった。

「ジュリアはお前を選んだ、私を選ばなかった! それが事実だろう!」

「だから、それは」

「同情などするな。お前に情など寄せられたら反吐が出る」

イノセンタスは吐き捨て、ギルディオスに背を向けた。外套の裾が、べちゃり、と泥を引き摺った。

「イノ…」

「もう私を名で呼ぶな。お前は帰ってこないのだろう、ならばもう、兄弟でもなんでもない!」

その言葉に、ギルディオスは伸ばしかけた手を下げた。予想以上に、兄の心を抉ってしまったようだった。
人並み以上に気位が高く理想が大きいが故に、愛する妹に言葉だけでも拒絶されたことが、深い傷を作った。
兄の声が消え、雨音が戻ってきた。鬱蒼と草の茂った道端からは、虫が鳴く金属的な声も小さく聞こえていた。
ギルディオスは、イノセンタスの背をぼんやりと眺めていた。同じ背格好のはずなのに、少し小さく思えた。
兄の心を、砕いてしまった。嫌ってはいるが、決して疎んではいなかった。むしろ、誇りに感じていたほどだ。
魔力がなく愚かな自分とは違い、才があり聡明な兄は、口には出さないが立派な存在だと常日頃から思っていた。
その兄を。ギルディオスは謝罪する言葉を見つけるために頭を巡らせたが、何一つ思い付かなかった。
ギルディオスが、どう謝るか考えていると、イノセンタスが呟いた。叫び過ぎたせいで、声が掠れていた。

「去るならば、去ってしまえ」

「元よりそのつもりだ」

謝ることも出来ず、ギルディオスは踏み出した。地面に転がる鉱石ランプが足元を照らし、泥が輝いている。
イノセンタスの気配が、背中越しに感じられていた。視線はなかったが、突き刺さるようなものはあった。
ギルディオスが離れてから、イノセンタスは言った。気を抜けば、雨音に掻き消されてしまいそうだった。

「ジュリアを、愛してやれ」

ギルディオスは、足を止めた。

「出来ねぇな」

「愛してやれ。私の代わりに」

「オレはオレだ。兄貴は兄貴だ」

「愛するべきなのだ、私となって。それがジュリアの望みなら、そうするべきなのだ」

イノセンタスは、僅かに語気を強めた。

「なぜなら、お前は」



「鏡の半分だからだ」



二人の声が重なった。幼い頃から、常々言ってきた言葉だ。廃屋で見つけた割れた鏡に、自分達をなぞらえた。
まるで同じで、まるで違う。どちらも鏡の裏であり、どちらも鏡の表。だから、一つで居てこそ本来の姿だ。
真ん中から、二つに割れた鏡。だがその割れ目は砕けていて、隙間を埋めるための破片は、もうどこにもない。
手に握っている剣が、鏡のように光っていた。鉱石ランプの光を跳ねて、藍色の魔導師を映し込んでいる。
その反対側には、重装備に身を固めた剣士が映っていた。割れた鏡は、もう一つではない。どちらも単体だ。
ギルディオスは、振り返らなかった。振り返ってしまっては、深淵の世界である家にまた戻されてしまう。
背後で、足音が次第に遠ざかっていった。引き摺るような足取りは重々しく、そして痛々しかった。
ジュリアへの未練を断ち切るような気持ちで、ギルディオスは歩いていった。遠くに、城壁の門が見えていた。
重苦しいヴァトラスの世界に片割れを置き去りにすることも、兄の望みを拒絶したことも心苦しかった。
許してはくれないだろう。一人だけ早々に逃げ出してしまったことも、誤解させてしまったことも。
ギルディオスは心中で一度だけ、兄の名を呼んだ。罪無きという意味の名を与えられた兄を、思っていた。
もう二度と思わないようにするために、断ち切るために思っていた。


それから三年後。ギルディオスは、二十歳になっていた。
剣術の腕が確かなものとなったので師の元を離れて傭兵となり、帝国と王国間の戦争で戦う日々を送っていた。
イノセンタスがどうなったのか、ジュリアがどうしているのかを知ることもなく、バスタードソードを振るっていた。
傭兵部隊に所属し、王国軍の一員として戦いながら、兄が事実上の上官となっていることを人づてに聞いた。
だが、関わることはなかった。戦場の最前線で兵士を薙ぎ払うギルディオスと違い、イノセンタスは上層にいた。
間接的にとはいえ、兄の下で戦うことは少々不愉快ではあった。だが、それでも戦わずにはいられなかった。
背中を合わせて共に戦うメアリーを守るために、戦いの中に自分の居場所を見つけるために、戦い続けていた。
帝国軍の砂漠越えを阻止せよと命じられた傭兵部隊は、帝国軍を待ち受けるため、廃墟の都市ダルバドにいた。
過去に起きた帝国と王国との戦いで、破壊された砂漠都市の市街地付近で、傭兵部隊は野営を行っていた。
小さな焚き火を背にして街を見回したメアリーは、懐かしそうだった。崩れた街は、砂に覆われている。

「十年くらいになるかねぇ」

「そういやぁ、そうだな。ダルバドの戦いが終わって、もうそんなにもなるんだな」

メアリーの向かいに座ったギルディオスは、バスタードソードを抱いていた。二人は、見張りの当番だった。
かっちりとした武装に身を包んだ彼女は、物悲しげな顔をした。視線の先には、倒壊した神殿があった。

「帝国の馬鹿共が来なきゃ、あたしはまだダルバドにいたはずなのにねぇ。王国も、見放しちまったようだし」

「場所が悪かったんだよ。両国の丁度中間ぐらいの位置にあって、独立した都市だ。どっちの国もダルバドを前線基地にしたいみてぇだけど、どっちもどっちを警戒しているから、ここを間にして睨み合う以外に何も出来ないのさ」

「ちったぁ気の利いたこと言えないのかい」

メアリーはむくれたが、すぐに表情を消した。羨ましげに、ギルディオスに目を向ける。

「ギルはいいね、あんたの実家は王都だから。あそこは王国領土のど真ん中だし、一度も襲撃されないしさ」

「そうでもねぇよ」

憂い気なメアリーから目を外し、ギルディオスは星空を仰いだ。月が明るいので、藍色に近い色をしていた。
すると、遠くに闇が現れた。その気配を感じたメアリーは顔を上げ、商店街の名残が残っている通りへ向いた。
黒い外套に身を包んだ細身の男が、足早にやってくる。ほとんど物音を立てずに、二人の傍まで近寄ってきた。

「見張りご苦労」

「マーク。奴さんの具合はどうだった?」

ギルディオスは、傍らに座った黒衣の若い男に尋ねた。左目を眼帯で塞いだ男は、難しげな顔をする。

「きわどいな。もう二時間もすれば、ここに到着する距離にいる。さっさと隊長どのを起こさないとやられるぜ」

「そこまで歩いたのかい?」

両足を伸ばしながら、メアリーはマークに顔を向けた。マークは、まさか、と肩を竦める。

「魔導師部隊の連中の会話を、横から聞いてきただけさ。奴ら、情報を早く掴むくせに出し惜しみしやがる」

「英雄にでもなりてぇんだろ。理解出来ねぇけどな。だが、それは罠とかじゃねぇんだな?」

「一応、裏は取ってきたから安心しろ。傭兵部隊は捨て駒だからな、気を付けないと切り捨てられる」

オレらをなんだと思ってんだか、とマークは苦々しげにした。ギルディオスは、剣を傍らに横たえる。

「全くだ。まぁ、軍人共の考えもまるっきり解らねぇってわけでもねぇけどな」

「軍人って言えばな。イノセンタス・ヴァトラスって上位軍人、名前とツラからしてギルの兄弟だろ?」

「まぁな。兄貴だ」

ギルディオスが素っ気なく返すと、マークは服を探った。二通の封筒を取り出し、ギルディオスに差し出す。

「知り合いかって言われて、そうだと言ったらこいつを渡されたんだ。しかし驚いたな、ギルの兄貴が魔導師部隊の第二小隊長とは。まだ若いってのに、随分と偉くなっているじゃないか」

「兄貴は兄貴だ。オレはオレだ」

マークから渡された封筒を、ギルディオスはひっくり返したりしてみた。魔導書簡ではなく、普通の手紙だ。
一通目は、ヴェヴェリスの魔法学校からのジュリアの手紙。二通目は、王都からの両親の手紙だった。
ジュリアからの手紙を開け、ギルディオスは流し読みした。読みやすいように、簡単な字で書いてくれていた。
丸みのある可愛らしい字で、ヴェヴェリスの魔法学校がいかに楽しいか、魔物達が素晴らしいかを書いている。
拙い絵も端に描いてあり、ギルディオスは少し笑った。あれから、ちゃんと妹は外の世界に出られたようだ。
二通目は乱雑に開けて、がばっと広げた。角張った父親の字と、滑らかな母親の字が便箋に並んでいた。
帰ってこい、ギルディオス。今ならまだ、やり直すことが出来る。ジュリアを拒んだお前は、間違っている。
ギルディオスは、手紙をぐしゃりと握った。今更、ヴァトラスの家に戻ることなど出来るわけがない。
二通目の封筒には、もう一枚の便箋が入っていた。それを取り出して開くと、神経質な兄の文字が現れた。
お父様とお母様の願いを受け入れろ。それが、お前とジュリアのためだ。便箋の中心に、その一文だけだった。
ギルディオスは、たまらなくなって手紙を下ろした。それを脇から覗き込んだメアリーが、声を掛けてきた。

「どうしたんだい、ギル」

「あ、いや。別に」

便箋を折り曲げてから、ギルディオスは笑った。メアリーは腑に落ちないのか、不思議そうにしている。
未だに、考えていたことはこれだったのか。ギルディオスは両親に呆れると同時に、空しくなった。
三年も経ったのだから、逃げ出した出来損ないの息子のことなど忘れてくれても良かったのに、と思っていた。
気に掛けてくれていた、ということは両親は、ギルディオスにもそれなりに愛情を持っていたのだろうか。
後から考えてみれば、少しはそう思えないこともない。ギルディオスは、シワだらけの二通目の便箋を手にした。
ならば、両親の愛情に答えてやるべきなのではないか。それが、息子としての役割ではないのか。
だが、妹と婚礼を結ぶのは間違っている。ギルディオスはそう思おうとしたが、僅かに揺らいでしまった。
ギルディオスは、両親からの手紙を見下ろした。ちらちらと揺れる火が、便箋の上に明暗を作っている。
独りでに、言葉が出ていた。間違っている、と思ったことを、間違っていない、と思ってしまいそうで怖かった。

「なぁ。実の妹と、実の兄貴が結婚することが正しいと思うか」

父親と母親の名を、ギルディオスは見つめていた。

「その結婚で、結果として二人とも一族での居場所が出来ることが、幸せだと思うか」

目を見開いたマークは、ギルディオスを凝視した。メアリーは、恐ろしいものでも見たような顔をしている。
二人の反応に、やはり間違っているのだ、とギルディオスは痛感した。近親婚は、正しいわけがない。
だが、これは両親の願いだ。ギルディオスはあまり感情の籠もらぬ声を出しながら、兄貴みたいだ、と思った。

「それは、その一族じゃずっと続けてきたことなんだ。昔っからのことだから、もう普通のことなんだよ」

ぱちり、と焚き火が爆ぜる。

「けど、間違ってると思うんだ。それで幸せになれるはずがねぇ、なれると思う方がおかしいはずだよな」

「あっ、当たり前じゃないか!」

跳ねるように立ち上がったメアリーは、ギルディオスに寄った。肩を掴み、強引に自分の方へ向けさせる。

「なんだいそりゃあ! あんたは間違っちゃいないよ、おかしいのはあっちだよ!」

「…ああ」

ギルディオスは、額を押さえた。言ってしまったことを後悔した。揺らいでしまった自分が、情けなくなった。
重苦しい沈黙が、三人の間に広がっていた。消え入りそうな焚き火が、時折、息を吹き返して爆ぜている。
ヴァトラスは正しくはない。ひどく歪んだ狭い世界に長らえて濃い血を連ねてきた、穢れた一族だったのだ。
忘れかけていた嫌悪感が沸き起こり、己の血が嫌になった。ギルディオスは、強く奥歯を噛み締めた。
褐色の手が、ギルディオスの手に触れた。顔を上げると、心配げなメアリーが、隣で膝立ちになっている。

「ギル」

温かな彼女の手が、ギルディオスの手を握り締める。

「あんたが間違ってると思うなら、間違ってるんだよ」

「そうだ。だから、あんまり下らねぇこと考えるな。戦いに支障が出るぜ」

マークはギルディオスへ、頷いてみせた。ギルディオスはメアリーの肩越しに、親友に目をやる。
なんとか平静を装っているのか、まだ少し表情がぎこちなかった。それでも、彼の気遣いは嬉しかった。
さて、とマークは立ち上がった。服に付いた砂を払ってから、傭兵部隊員達の寝床になっているテントを指す。

「オレは隊長どのを叩き起こしてくる。このままじゃ、王国軍の本隊共の世話になっちまうからな」

「あ、おう」

ギルディオスが頷くと、マークはにっと笑った。

「それにオレがいない方が、お前らもやりやすいだろうしなぁ。色々と」

「なっ」

がばっと顔を上げたメアリーは、マークを見上げた。何か言いたげだったが、口籠もってしまう。
にやついたマークは、背を向ける。鎖を巻き付けた手を軽く振りながら、足取りも軽く歩いていった。

「しっかりやれよー」

マークの姿が見えなくなってから、ギルディオスはメアリーへ顔を向けた。やりづらそうに、唇を曲げている。
メアリーは、次第に項垂れてしまった。ギルディオスは彼女のバンダナが巻かれた額に手を当て、上げさせた。
照れくささを堪えているのか、表情が固まっていた。しばらく目線を合わせていると、ようやく緩んだ。
彼女は、ギルディオスに体重を預けた。がちゃり、と互いの甲冑がぶつかり、硬く重たい金属音を立てた。

「あのさ、ギル」

多少上擦った声を落ち着けながら、メアリーはギルディオスの手を引き寄せた。冷たい装甲が、手に当たる。
そこは、下腹部だった。訳も解らずギルディオスがきょとんとすると、メアリーは嬉しそうに笑った。

「この中、なんだか解るかい」

「え、あ、ってことは?」

「やけに調子が悪いから軍医に診てもらったら、いるんだってさ。あんたの子が、あたしの中に」

微笑むメアリーに、ギルディオスはぎょっとした。すぐに、声を上げる。

「あっ、じゃあ帰れよ! 戦いなんかするんじゃねぇよ、流れちまうじゃねぇか!」

「解ってるさ。ギルと一緒に戦えないのは残念だけど、それよりもこっちの方が大事だからね」

ギルディオスに寄り掛かり、メアリーは目を細めた。ギルディオスは、いつになく慎重に彼女の体に腕を回した。
細身の腰を覆う装甲の下に、血を分けた存在がいる。とても嬉しかったが、同時に不安にもなっていた。
この子が、兄と同じようにヴァトラスに染められてしまったら。自分を疎み、更に穢れた道へ進んでしまったら。
ギルディオスは、メアリーの髪に頬を寄せた。先程よりも体重を掛けてきた彼女を、しっかりと抱き締めた。

「メアリー。オレの家のこと、多少は知っているだろ」

「うん、それなりにね。ギルが話してくれた範囲だけだけど」

「知っての通り、オレに魔力はない。だが、ヴァトラスは魔力がなきゃ、一族だと認めてもくれない血筋だ」

ギルディオスは、声を落としていた。

「その子が兄貴みてぇに高い魔力を持っていたら、やっぱ、オレを疎むのかねぇ」

「馬鹿。あんたの子なんだから、良い子に決まってるじゃないか」

メアリーの手が、ギルディオスの頬に触れる。愛おしげに、しなやかな指先がなぞっていく。

「変な心配するんじゃないよ」

「すまねぇ。ありがとな、メアリー」

「いいってことよ」

身を捩ったメアリーは、腰を上げた。ギルディオスはメアリーの後頭部へ手を回し、引き寄せて唇を合わせた。
不安と嫌悪感が、溶けていくようだった。口内に滑り込んでくる彼女の舌に、舌を絡め合わせてやった。
求めてきてくれる彼女が、愛おしく嬉しかった。舌を吸ってやると、メアリーが声を漏らしたので顔を放した。
子のいる今は、その気になられては困る。ギルディオスもその気になってはいけないと思い、苦笑いする。

「すまん」

「全く」

何を考えてんだいあんたは、とメアリーは気恥ずかしげに呟く。ギルディオスは、無性に情けなくなった。
もう少し、自制心を持つべきだと思った。考えてみれば、彼女の体のことがなくとも調子に乗るべきではない。
多少昂ぶってしまいそうだった気分を落ち着けながら、ギルディオスは消えかけた焚き火を見下ろした。
二通の手紙は、砂の上に放ったままだった。ぐしゃぐしゃに握り潰された両親からの手紙を、火に投げ入れた。
すぐさま燃え上がり、薄い灰となって夜空に昇っていった。兄の手紙も、そうしようと思って手に取った。
神経質な字ながらも、どこか苦しげにも見えた。結局、破ることも燃やすことも出来ず、折り畳んだ。
ジュリアからの手紙にイノセンタスの便箋を差し込んで、封筒を閉じた。腰の物入れに、押し込んでやった。
沸き起こってきた兄への思いは、すぐに払拭した。





 



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