ドラゴンは笑わない




黒い雨 中



それから、更に七年後。ジュリアは二十歳に、二人の兄達は二十七歳になっていた。
魔導師学校での修了課程を数年飛ばして修了したジュリアは、久し振りに、実家のある王都に戻ってきていた。
合成実験で生み出した魔物の子、ウルバードは順調に育っていた。その子も、一緒に連れてきていた。
ヴァトラスの屋敷の門の前に立ったジュリアは、少し妙な気がした。人の気配が少なく、空気が違っていた。
物珍しげに、ウルバードは門と母を見比べた。子供ほどの大きさの有翼の人狼は、金色の瞳を屋敷に向ける。
唸り声のような言葉で、どうしたのか、とジュリアに尋ねてきた。ジュリアはウルバードへ、笑ってみせる。

「なんでもないわ」

そうは言いながらも、ジュリアは家の様子が違っていることが気になっていた。以前にも増して、静かだった。
前庭は手入れされているが、メイドの姿が見当たらない。広い屋敷なのに、使用人がいないのはおかしい。
ジュリアは訝しみながらも、そっと門を開いた。ぎぃ、と重たく軋む蝶番の音が、いやに辺りに響いた。
眩しい日差しに照らされているのに、ヴァトラスの屋敷は暗く見えた。


屋敷に入ると、イノセンタスが出迎えてくれた。
長兄は七年の間に昇格したようで、魔導師の衣装に縫われた紋章が以前とは違っていた。国王付きだった。
ジュリアとウルバードは、やはり誰もいない屋敷の中を歩いて、やはり人気のない居間へと通された。
まるで音のない家の中が恐ろしいのか、ウルバードは尖った耳を伏せていた。母の腕に縋り、翼を下げている。
ジュリアの向かい側に座ったイノセンタスは、ウルバードを入念に眺めていた。訝しげに、眉根を歪める。

「魔物にしては、魔力がいやに低いな」

「測定器を使わなくても、イノ兄様には解っちゃうのね」

ジュリアはウルバードを落ち着けるように、オオカミに酷似した頭を撫でてやった。ぐぅ、と幼子は低く唸る。

「ウルバードは生体構造としてはワーウルフだけど、まるで別の種族でも飛行能力を得られるかを実験するために鳥人族の組織を合成してみたの。双方の魔力濃度を合わせるのは多少面倒だったけど、思った通り、魔力濃度を合わせて合成したら、拒絶反応も起きなかったわ。ただ、成長する速度が速い分、老化速度まで速いのが難点ね。この子や今後に作る兄弟達を商品にするわけじゃないけど、長く生きてほしいわ。せっかく生まれてきたんだから」

ウルバードの顎の下を指先で撫でながら、ジュリアは少し笑った。

「魔力濃度は最低限にしたの。あまり力があるとそれに振り回されてしまうし、真っ当じゃない人達がこの子のことを嗅ぎ付けてしまいそうだしね。それに、私は魔力は高いよりもいっそ少ない方が好きだわ。ギル兄様みたいで」

イノセンタスの表情が僅かに変わったが、ジュリアはそれに気付かなかった。

「様々な魔物を研究していくと、解ってくるの。魔物と言われている生物達は、基本的な生体構造は一般の獣達とはなんら変わらないの。何十年か前に捕獲された竜族の骨格標本を大学で一度見たんだけど、ワイバーンのそれとあまり違いはなかったの。もちろん後ろ足の有無は違っているけど、頸椎の数も肋骨の本数も、骨盤の構造も尾の形状も、頭蓋骨の大きさも脳の体積もほぼ同じだったわ。竜族とワイバーンの違いは、魔力の高さだけだと思うの。両者の始祖たる生物は、ずっと昔に何らかの理由があって、別々に進化したのよ。その理由も、突き詰めてみたいけど、竜族に関する研究は私の範疇じゃないから。興味はあるんだけどねぇ」

手に鼻先を擦り寄せてきたウルバードを、ジュリアは抱き上げて膝に乗せた。

「竜族だけが独立した種族として認識されて、ワイバーンは魔物の一種としてしか認識されていない。その違いも、根本は魔力の高さに過ぎないけど、違いが大きく開いた原因がなんとなく解る気がするの。といっても、私の主観に過ぎないけどね。竜族、すなわちドラゴンは、突然変異で高魔力を得たワイバーンの一種だと思っているの。それに伴って知能が上がり、眠っていた脳の部分を活性化させることに成功した。そして独自の文化を築き上げ、強大な力を持つ種族として地上に君臨した。人が魔法の扱いを知る以前から竜族は魔導に通じ、そしてその魔導の知識が人に伝わってきた、と仮定して考えてみると色々と面白いのよ。でも、これはまるきり根拠のない妄想じゃないわ。少しだけど、根拠はあるのよ。竜族の使っていた古代文字を一通り調べてみたんだけど、どれも現在使われている魔法文字に通じる形状をしているの。もちろん、魔法陣の構造はまるで違っているし、竜族の古代魔法は難解で、竜族自身にも解明しきれていないようだけどね。だからといって、この世に存在する全ての魔法を生み出したのが竜族だ、と決め付けるのは安直すぎるし、そうでないとする学者も多いわ。気持ちは、解らないでもないけど。もっと人間と竜族との交流が深まれば、魔導の根源を探る研究も進むと思うのに。解明されたら、とても面白そうだわ」

有翼の人狼の体毛に頬を当て、ジュリアは笑む。

「だから私は、魔力がないことこそ生物のあるべき姿だと思っているわ。考えてみれば、そもそも不自然なのよね。獣は本来牙や爪を持っているし、人間だって知能を持っている。それだけでも生きていけるはずなのに、その上で魔力を得ても無駄なだけな気がするのよ。余計な能力を得ているせいで、結局は持て余しているような気もするし。魔法で操っているのは奇跡でも魔性でもなんでもなくて、人間の体に備わっているある種の念動力を変換させて、炎や氷を生み出しているに過ぎないの。四大元素とされる魔法の要素だって、どれも元から人間の周囲に存在するものだし、完全な無から作り出しているわけではないわ。空間移動魔法も、次元を切り裂いて繋げているわけではなくて、元々繋がった世界の中を行き来しているだけだし。でも、魔力が高ければ高いほど優れているって風潮が広がったせいで、高威力の魔法を操れることこそが優れた人間の証である、みたいな思想が広がってしまったわ。人間ばかりではなく、生物達の優劣を同じ定規で測ろうとするのは、間違っているとしか思えないの。だから私は、ギル兄様を、素晴らしいと思うわ。生まれつき魔力がほとんどないからってだけで、責め立てられる家にいながらも卑屈になることもなく、己の才を見つけ出して、自分の道を切り開いたのだもの」

俯いたイノセンタスは、押し殺した声で呟いた。

「…そうか。力ありきは間違っていると、そう思ったのだな」

「兄様?」

ジュリアが心配げにすると、イノセンタスは目元を押さえた。手の下で、苦しげに口元が歪んでいる。

「ジュリア。お前は、今でも愚弟を愛しているか」

「ええ、愛しているわ。後でギル兄様の家に行って、この子を見せて来ようと思っているの」

ジュリアはウルバードを固く抱き締めて、なんとか笑った。ただならぬ気配が、居間に広がりつつあった。
怯えて尾を丸めるウルバードを守るように、ジュリアは背を丸めた。イノセンタスの魔力が、高まるのが解る。
イノセンタスは、静かに立ち上がった。藍色のマントに隠されていた片手を挙げ、ジュリアの目の前に出す。

「愚弟には妻がいる。そして息子、お前の甥がいる」

「ええ、知っているわ。ギル兄様からのお手紙にそう書いてあったもの」

「あいつは、お前を選ばなかったのだ。悔しくはないのか」

「いいえ。それがギル兄様のあるべき姿であり、それでこそ人間なのよ。同じ血を交えても、乱れてしまうだけ」

何かおかしい。ジュリアは気を張りながら、手袋を填めた兄の手を見据えた。

「異形が生まれてしまうし、そんなのは狂っているのよ。だから私は、お父様にもお母様にも従わないわ!」

「そうだ、お父様とお母様になど従わずとも良い。だからジュリア、お前は」

イノセンタスの指先が、ジュリアの額を押さえた。その向こうで、次兄に良く似た長兄は笑っていた。


「私に従え」


兄は、何か思い違いをしている。そう言おうと思ったが、ジュリアは力が抜けてしまい、言葉が出なかった。
薄れていく意識の中で、イノセンタスの独り言が聞こえていた。悔しげに、憎々しげに吐き出している。
なぜだ、なぜ私を認めない。なぜ、お前はいつもあちらばかり見る。本来あるべき道に、戻ろうとしないのだ。
何が違う。何がおかしい。私は、ギルディオスより優れている。私の方が、ジュリアを愛しているというのに。
違う。閉じてしまいそうな目を僅かに開き、ジュリアは思った。私は、ギル兄様を男として愛したわけじゃない。
兄として、肉親としてのギルディオスを愛しているだけだ。兄としてのイノセンタスを、愛しているのと同等に。
どうしてそう思わないのだろう。どうして思い違いをしてしまうのだろう。ジュリアは、必死に考えた。
そして、結論を出した。イノセンタスは女としてのジュリアを愛している、だから、弟も同じだと思っているのだ。
それこそ、違っている。誤解よイノ兄様、と兄に言おうとしたが、ジュリアは途端に意識が遠のき、気を失った。
ウルバードが激しく吠えていたが、その声も聞こえなくなっていった。


夢うつつの中、ジュリアはギルディオスの家にいた。
勝手に口が動いて、勝手に体が動いて、その結果が足元にあった。兄とその妻と息子が、倒れている。
精神衝撃波を放った手を下ろし、ジュリアは必死に体を止めようとした。鉱石ランプの明かりが、いやに眩しい。
イノセンタスの言葉が、意識の中で渦巻いている。お前は愚弟が憎いはずだ、ならば苦しめてくるがいい。
答えたくもないに答えてしまって、追憶を禁ずる呪いの方法まで教わった。覚えたくなくとも、覚えさせられた。
鉱石ランプを置いたテーブルの周囲は、青白く光っていた。ジュリアは白墨を取り出して、床にしゃがんだ。
イノセンタスの手が添えられているかのように、手が動いて魔法陣を描いていく。古代魔法の陣だった。
いけない。魔法陣を描き終えたジュリアは体を起こし、気を落ち着けながら、倒れている義姉と甥を見下ろした。
あの二人に掛けたものは、普通の呪いだった。だが、これからギルディオスに掛けようとしているものは古代だ。
魔力の変換が甘く、手加減をされていない呪いだ。そんなものを使ったら、次兄の記憶はどうなってしまうのだ。
ただではすまないだろう。普通の呪いであったとしても、記憶を操作するものは扱いが難しいというのに。
すると足音が家に入り、人影が現れた。ジュリアが振り向くと、そこには、先程擦れ違った男が立っていた。
左目を眼帯で隠した黒衣の男が、呆然としていた。あなたはギル兄様のお友達なのね、とジュリアは思った。
だが、ジュリアはそれを言葉には出来なかった。テーブルに倒れているギルディオスを、そっと起こした。

「愛しているわ」

 愛している。

「ギル兄様」

 ジュリア、お前を。

長兄から言われた言葉が、自分の言葉のように出て来た。ジュリアは己の意思が働かないことが悔しかった。
眼帯の男は腰から短剣を抜き、腕に鎖を巻いた。盗賊系の戦い方をする人なのね、とジュリアは思った。

「お前、何をしやがった!」

「悲しいわ。とても、悲しいわ。でも、仕方のないことなの」

 悲しい。とても悲しい。だが、仕方のないことなのだ。

記憶の中で、イノセンタスが嘆いている。ジュリアを操らねばならないことが、心苦しいようだった。
ジュリアは目の前のギルディオスと、イノセンタスを重ねていた。ギル兄様も悲しいのかしら、と思った。

「時と共に連なりし、御魂と器に沈みしものよ。強き思いを糧として、彼の者の心よ、我が言霊に従いたまえ」

 時と共に連なりし、御魂と器に沈みしものよ。強き思いを糧として、彼の者の心よ、我が言霊に従いたまえ。

ギルディオスに呪いを放ってしまう。そう思ったらジュリアは悔しさが憤りになり、涙が出てきてしまった。
お願い、眼帯の人。どうか私を止めて。兄様達を助けて。そう言おうと思っても、言葉は少しも出なかった。
その代わりに、呪詛の言葉は繋がっていく。ジュリアは、暗示に打ち勝てない自分が情けなくなってきた。

「全てを忌み戒める言霊よ、彼の者の追憶を禁ずることを、今ここに命ずる」

 全てを忌み戒める言霊よ、彼の者の追憶を禁ずることを、今ここに命ずる。

「我の記憶を封じたまえ!」

 ギルディオス・ヴァトラスに満ちし、ジュリア・ヴァトラスに関わる記憶を全て封じたまえ。

呪いが、完成してしまった。魔力を一気に消耗してしまい、ジュリアは多少ふらつきながらも立ち上がった。
眼帯の男は、ジュリアを舐めるように眺めた。一度だけギルディオスに向けてから、また目線を戻した。

「…お前。ギルの、妹か?」

「ええ」

ジュリアは、初めて自分の意思で言葉を出すことが出来た。だがこれは、条件反射のようなものでしかない。
魔力を高めて暗示に抵抗しようとしたが、力の差がありすぎた。兄妹といえど、イノセンタスには敵わなかった。
また、イノセンタスに囁かれた言葉が蘇ってきた。勝手に口が動き、言いたくもない言葉が溢れてくる。

「そうよ。これでいいのよ。ギル兄様は私を忘れて、私もギル兄様のことを忘れてしまえばいいのよ」

 そうだ。これでいい。愚弟はジュリアを忘れ、ジュリアも愚弟のことを忘れてしまえばいい。

「そうすれば、もう私は苦しくない。ギル兄様だって、もう、私のことで苦しまずに済むもの」

 そうすれば、もうお前は苦しまない。愚弟とて、ジュリアのことで苦しまずに済むだろう。

「ギルの、記憶を消したのか?」

眼帯の男は、魔物でも見るような顔でジュリアを見据えていた。ジュリアは、泣きながら笑んだ。
笑いたくもないのに笑い声が出て、それが心底恐ろしかった。自分が自分でないようで、不気味だった。

「一度に消したわけじゃないわ。私のことを思い出せば思い出すほど、記憶は泥の底に埋まっていくの」

 一度に消したわけではない。ジュリアのことを思い出せば思い出すほど、記憶は泥の底に埋まる。

「これで、私は、兄様は楽になれる。楽になれるのよ」

 これで、私は、私とジュリアは楽になれる。楽になれるのだ。

「…それで、いいのか」

間違っている、とでも言いたげに眼帯の男が呟いた。ジュリアは、その隣をするりと抜けた。

「ええ、いいのよ。邪魔をしないで。余計なことをしたら、私はあなたを」

 そうだ、いいんだ。だが、誰も邪魔をするな。余計なことをするならば、私はお前を。

「殺すのか?」

振り向いたジュリアに、眼帯の男は返した。ジュリアは首を横に振る。

「いいえ。もっとひどいことにしてあげるわ」

 いや。愚弟に関わったことを、私のジュリアに近付いたことを後悔させてやるのだ。

ジュリアは、その言葉が近いことに気付いた。直後、ジュリアの肩越しに、眼帯の男へ精神衝撃波が放たれた。
途端に眼帯の男は崩れ落ち、抵抗する間もなく倒れてしまった。じゃらり、と外套の下で鎖が動く音がした。
床に倒れた闇色の影が、動かなくなった。ジュリアはゆっくりと振り返り、四人の倒れた居間を視界に入れた。
皆、死体のように見えていた。頭では、全員が生きていると解ってはいるが、とてもそうは思えなかった。
なんてことをしたのだろう。ジュリアは震え出しそうな足を下げ、後退した。すると、背に何かが当たった。
壊れ物でも守るかのように、慎重に腕が回された。冷ややかな兄の声が、背中越しに聞こえてきた。

「そうだ、それでいい。これがお前の願いなんだ」

違う。ジュリアは首を横に振ろうとしたが、出来なかった。手袋に包まれた兄の手が、顎を押さえていた。
こんなことは願ってはいない。ただ、ギルディオスが幸せである姿を、魔物の子と共に見たかっただけだ。
涙が溢れ出し、頬を伝っていった。こんなことをしてしまった自分を、ギルディオスは許してくれるだろうか。
そして、これからどうなってしまうのだろう。そればかりが胸中を渦巻き、ジュリアは目を伏せた。
言葉が出ない代わりに、涙は流れ続けていた。


それから、ジュリアはイノセンタスの暗示を受けて動いた。眼帯の男に、追憶を禁ずる呪いを掛けた。
グレイス・ルーの城の近くでは魔法封じでも働いていたのか、辛うじて抵抗することが出来、腕を動かせた。
それでも、魔法陣を描いた手を額に向けるのが精一杯で、結果として自分自身にも呪いを掛けてしまった。
そのことで更にイノセンタスの怒りを強めてしまったことを後で知り、ジュリアは深く後悔したが遅かった。
イノセンタスが、実の弟であるギルディオスへの嫉妬と憎しみを姿を見るのは辛く、そして悲しかった。
追憶を禁ずる呪いが深まる前に王都を抜け出たジュリアは、自分に施した呪いを解き、ヴェヴェリスに戻った。
そこで我を忘れるように研究に没頭し、いつしか教授となっていた。後輩のゼファードが、助手となってくれた。
ウルバードの下の兄弟達、レオーナとスパイドも成長し、研究を深めるために東王都の外れの研究所へ移った。
だが、セイラを生み出した辺りで、唐突に研究資金が止められてしまい、研究どころではなくなってしまった。
ウルバードらを生かすためにセイラを売りに出したが、後悔してばかりだった。いつしか、ゼファードも離れた。
いつ、イノセンタスが現れるのか。そればかりが恐ろしくて、両親の葬儀に出る勇気すら起きなかった。
それでも、このままではいけないと思った。長兄の誤解を解こう、次兄に謝罪しようと思ったら次兄が戦死した。
兄達は、自分のせいで不幸になっていく。両親の願いを受け入れていれば、こうはならなかったかもしれない。
そんな思いも過ぎったが、近親婚はやはり間違っていると思い直した。そしてある日、ゼファードが戻ってきた。
聖職者、修道士の格好をした彼は、喜々として言った。教授、三本ツノをすぐに連れて帰ってきますから。
ジュリアはゼファードを追って、魔物の子達と共に研究所を出た。だが行き着いた先で、長兄と再会した。
魔物の子達を連れて王都に向かったはいいものの、途中で追い付かれた。そして、再び暗示を掛けられた。
その後の記憶は、途切れ途切れだ。グレイス・ルーと会ったことや、彼の城を襲ったことは僅かに覚えている。
一刻も早く次兄の呪いを解きたかったが、暗示は以前よりも強いものが掛けられ、抵抗すら出来なかった。
己の意思を持てずに手駒として動く自分がおぞましく、そして、いつ長兄が情交を求めてくるかが恐怖だった。
灰色の城に攫われ、グレイス・ルーの手によって暗示が解除されるまで、深淵に沈んだ闇の日々が続いていた。
つい、昨日の夜までは。




愛おしげに、ジュリアの手は赤紫の肌を撫でていた。巨体の単眼の魔物を見上げる横顔は、物悲しげだった。
ジュリアの横顔を、ギルディオスは見つめていた。綺麗になったじゃねぇか、と思ったが口には出さなかった。
彼女の話が終わると、再び雨音が聞こえてきた。湿った重たい空気が、広間を水の底のように静めていた。
ゼファードは苦々しげに、ジュリアから目を外した。以前に彼女が話してくれた過去は、これらの欠片だけだった。
そうとも知らずにイノセンタスの側に付いてしまった自分が情けなく、そして不甲斐なく思えて仕方なかった。
役に立てなかったどころか、逆に彼女を闇へと引き摺り戻してしまった。悔やんでも、悔やみきれない。
自己嫌悪に苛まれているゼファードに、ジュリアは顔を向けた。そして、優しげな笑みを浮かべた。

「ゼフィ、あまり気にしないで。あなたがこの子を助けてくれたことは、本当に感謝しているわ」

「しかし、私があちらに行ってしまったせいで教授は」

ゼファードが身を乗り出すと、ジュリアはセイラの巨大な手に手を乗せた。

「イノ兄様を追い込んでしまったのは、間違いなく私なのよ。だからゼフィ、もう気にしないで」

再度、ジュリアは笑んだ。ゼファードは表情を固めていたが、仕方なく腰を下ろして階段に座り直した。
腕に縋っているメアリーの肩を抱いてやり、ギルディオスは階段を見上げた。上の方に、少女が座っている。
フィフィリアンヌは組んでいた腕を解き、そういうことか、と呟いた。赤い瞳が下がり、ジュリアに向かう。

「私の邪推も、まんざら外れていたわけではなさそうだが、当たっていたわけでもなかったな」

いや、と途中で自分の言葉を否定した。

「しかし、イノセンタスの側から見れば間違いでもあるまい。感情的な判断は、穿った視点を生む」

「そういう…ことだったのか」

マークは、ゆっくりと肩を落とした。彼らの話を理解し切れていないのか、ジャックはきょとんとしている。
セイラの傍らに座っているジュリアに目をやった眼帯の男は、申し訳なさそうに苦笑いした。

「いや、すまん。あんたの話を聞くまで、あんたも少しは悪いと思っていた。だが、あんたは」

「いいえ、私も悪いのです。イノ兄様の心も知らずに、傷付けてしまうことばかり言ってしまった」

身を屈めてきたセイラに微笑んだが、ジュリアは表情を硬くした。

「魔導師の心得も持っていたのに、暗示になど負けてしまった。私も、充分いけないのです」

「イノセンタスの腕は相当なものだ。七年前といえば、奴が国王付き魔導師に昇格した翌年ではないか」

フィフィリアンヌはずっと握っていたカインのマントから手を放し、ウルバードから目を逸らして立ち上がった。
体重の軽い足音を立てながら、末広がりの階段を下りてきた。スカートに入った深いスリットから、白い足が覗く。
母と向き合うセイラを見上げてから、フィフィリアンヌはジュリアに向き直った。少し、目が細められる。

「国王付きは政治手腕や学歴はもとい、魔法の腕が何よりも重視される。つまり、国王の護衛騎士のようなものだ。そんな相手に、学者となった貴様が敵うはずもなかろう。言うならば、死してなお剣術が衰えぬどころか更に磨きの掛かったギルディオスに、剣も魔法も素人以下のカインが斬り掛かるようなものだ。気に病む必要はない」

「…それはちょっとひどくありませんか」

あまりの言い草に溜まらなくなり、カインは顔をしかめた。肩の上で、カトリーヌが励ますように高く鳴いた。
眠たそうなパトリシアに寄り掛かられながら、ランスはカインを見上げた。多少、意地の悪い笑みになる。

「本当のことじゃないですか」

ギルディオスとメアリーの隣を、フィフィリアンヌは通り過ぎた。真っ直ぐに、正面玄関の扉に向かう。
右側の扉の取っ手を掴むと、ぐいっと開いた。吹き込んできた雨風が、一括りにされた緑髪を乱している。
フィフィリアンヌは夜のような外をじろりと見回してから、腰に両手を当てた。風音に負けぬように、声を張る。

「グレイス、入るなら入れ。ずっと外にいられると落ち着かん」

全員の視線が、開け放たれた扉に向かった。片側だけ開かれた扉から吹き込む風雨が、床を濡らしていく。
灰色の服を着た男の影が、玄関先の屋根の下にあった。右側の柱に寄り掛かって、だらしなくしていた。
柱に背を当てていたグレイスは、仕方なさそうに背を外した。足元のカバンを取り、がちゃりと担いだ。
泥に汚れた靴底を階段に擦り付けてから、入ってきた。フィフィリアンヌと擦れ違い様、声を潜めて言った。

「知っているくせに。わっざわざ、駒を盤に揃えなくったっていいじゃねぇか」

「揃わなければ始まらんし、終わらないのだ。私を貴様らの盤にされたことは、少々癪に障るがな」

フィフィリアンヌは、グレイスにだけ聞こえるような声で返した。グレイスは、小さく肩を竦める。

「なんだ、ばれてたか。けど、そいつだけは本当に偶然なんだぜ、フィフィリアンヌ」

「ああ、そうだな。偶然という名の必然だ」

フィフィリアンヌはグレイスの傍らを通り過ぎ、扉を閉めた。どぉん、と重たい音が広間の中を反響した。
ギルディオスは、グレイスの姿に違和感を覚えた。立ち上がると、三つ編みを失った呪術師を指す。

「グレイス。てめぇ、後ろ髪と顔の傷、どうしたんだ?」

「んー、ああ。切られたっつーか切った」

グレイスは重たそうなカバンを置いてから、ざんばらに切られている後ろ髪を、ぐしゃりと掻き上げた。
灰色の瞳が、広間の隅へ向かった。身構えている人造魔物達の近くに、灰色を纏った幼女が身を縮めている。
レベッカはおずおずと目を上げて、グレイスを見上げた。グレイスは笑み、足でカバンを軽く蹴った。

「そう気にすんな、オレも気にしてねぇから。直してやるからこっちに来い」

「ですけどぉー」

ふにゃりと泣きそうになったレベッカに、グレイスは手招いた。レベッカは立ち上がり、慎重に近付いていった。
主の元へ戻る幼女を、スパイドは不安げに見ていた。レベッカは床に座り込んだ主の隣に、ぺたんと座った。
カバンを開いて探っていたグレイスは、いくつかの工具を取り出した。それを、自分の周りに並べていく。

「だから、あのクモ野郎を殺さなかったことなんて気にしてねぇって。言ったろ、考えろって。あれは、レベッカちゃんの判断でありレベッカちゃんがレベッカちゃんにした命令であるわけよ。つまり、簡単に言えば自己責任ってやつさ。ということは、オレがどうこう言う理由もないし必要もない。そういうこった」

俯いたレベッカの頬を、グレイスはぐいっと横に引っ張ってやった。

「返事は!」

「ふぁいー」

頬を引っ張られたまま、レベッカは変な表情になった。グレイスは手を放してから、いよぉし、と頷く。

「城に帰ったら、しばらく休眠させてやる。神経糸を直さないといけないからな」

「…ごめんなさい」

申し訳なさそうに項垂れたスパイドに、いいのいいの、とグレイスは手を振ってみせる。

「お前らが戦った原因はオレだからな。こういう場合は、オレがレベッカちゃんに謝るべきなんだよ」

スパイドはまだ何か言いたげだったが、レベッカに笑顔を向けられたので、言えずにまた顔を伏せてしまった。
それを、複雑そうな顔でウルバードとレオーナが見下ろしていた。弟の友人を、未だに受け入れられないようだ。
レベッカの服を脱がせて簡単な修繕をするグレイスを、伯爵は見下ろしていた。そして、視点を上に向けた。
階段の手すりに腰掛けているデイビットは、灰色の呪術師の背後を見つめていた。扉は、固く閉ざされている。
寂しげでもあり、楽しげでもあった。どちらとも付かない目をしている幽霊は、少しだけ笑っている。
ごとり、と伯爵はデイビットに向けて前進した。フラスコの中でうねりながら迫り上がり、コルク栓を押し抜いた。
細長く伸ばした先端は、外気に触れて冷えてきた。それをふらりと揺らした伯爵は、元々低い声を落とした。

「デイビットよ」

「はいなんでしょう?」

振り向いたデイビットは、伯爵を見下ろす。伯爵は、コルク栓を幽霊に差し出した。

「貴君がいかなる存在であろうと、貴君がどのような目論見を抱いていようと、我が輩は貴君の友人である」

「ありがとうございます。いやはやなんというか、嬉しいですねぇ」

本当に嬉しそうに、デイビットは満面の笑みになる。

「そんなことを言って下さったのは、後にも先にもあなただけですよぅ」

不意に、グレイスの目が上がった。灰色の呪術師の視線の先にいた幽霊は、来ましたか、と呟いた。
デイビットは手すりから浮かび上がると、するりと階段を降下していった。伯爵は、その狭い背を見送った。
レベッカを修繕する手を止めないグレイスの背後に回ったデイビットは、おや、と小さな目を丸くする。

「その子はどなたですかぁ?」

「ついでに連れてって欲しいんだとさ。いけるか?」

グレイスが素っ気なく言うと、ええなんとか、とデイビットは頷いて、グレイスの頭上を見上げた。

「そうですかぁ、あなたがねぇ。この人らしい趣味をしておりますねぇ」

「デイブ、誰と話してんだ?」

ギルディオスが、訝しげにデイビットの前を指した。デイビットは、甲冑に振り向く。

「幽霊ですよぅ。といっても、私ぐらいにしか姿は見えないでしょうけどねぇ」

幽霊は、普段と同じに見えた。だが、どこかが違っている。ギルディオスは、少し嫌なものを感じていた。
それが何なのかは解らなかったが、じわりとした不安が沸き起こっていた。半透明の貧相な男は、扉に向く。
するりと一度外へ出たが、再び戻ってきた。扉に背を向けた幽霊は、広間にいる者達を見渡した。


「さて」


幽霊の声色が、僅かに変わった。飄々とした軽い口調の中に、重みが加わったような雰囲気がある。
扉に背を向けたデイビットは、胸の前に手を置いて深々と一礼した。ゆっくりと、頭を上げる。
半透明の色のない目が、広間全体を映していた。底のない瞳が、にやりと細められた。

「皆様方、どうぞもうしばしのお付き合いを」

悪意の滲む笑みとなった幽霊は、とても楽しげだった。


「駒が、いよいよ盤に揃いますよぅ」


「予定よりちょいと早いが、まぁいいか」

レベッカの傷口に人工外皮を貼り付けてから、グレイスは立ち上がった。軽く、指を弾いた。
乾いた破裂音が響き、どぉん、と正面玄関の扉が全開になった。薄暗く濡れた森の前に、影が立っていた。
夜の色に似た藍色が、重たく体に貼り付いている。藍色の至るところに、泥と思しき土色の染みが付いていた。
ばしゃり、とその人影は水溜まりを散らして城に歩み寄った。グレイスは、かちゃりとメガネを直す。

「ようこそ。竜の城へ」

呪術師は、笑う。



「そして、我らの盤上へ」




駒は揃った。そして、機は熟した。
激しい雨は止むことはなく、竜の城を叩き続けている。
束ねられた糸は結ばれ、盤上の駒は進められ、終焉への扉が開かれた。

ようやく、全ては交わるのである。





 



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