ドラゴンは笑わない




黒い雨 後



雨は、激しさを増していた。


「ジュリアを、返してもらおうか」


夜の馴染む藍色は、鉛色の空の下では浮いていた。黒ずんだ藍色のマントが、男の体に貼り付いている。
体は芯から冷え切って鈍い頭痛がしていたが、気にはならなかった。それよりも、喜びの方が強かった。
ばちゃり、とイノセンタスは歩を進めた。城の正面玄関から見える広間では、助手と共に妹が身構えている。
四体の人造魔物を背に隠して、ゼファードの杖を握り締めている。戦うつもりでいるのか、表情が強張っている。
ジュリアは一歩ずつ近付いてくる兄を見据えていたが、少し後退った。恐怖と威圧感で、畏怖してしまった。
藍色の影は、階段を昇ってきた。泥と水の足跡を引き摺って、屋根の下に入り、開け放たれた扉の前に立った。
濡れきった兄の姿に、ギルディオスは既視感を覚えていた。十七年前の夜中を、いやでも思い出してしまう。
あの時のイノセンタスは、憤っていた。弟への嫉妬と憎しみに身を焦がして、感情的な声を荒げていた。
水を含んだ前髪がへばり付いた顔はどこか楽しげであり、口元は上向き、目元は綻んでいる。笑っていた。
イノセンタスは、笑っている。己の理想が叶うことを信じているのか、それとも気でも触れてしまったのか。
ギルディオスは背中に乗せていたバスタードソードへ手を回し、がちり、と鍔を上げて刃を抜く。
どちらにせよ、戦う必要があるかもしれない。ギルディオスは剣を構えて、ヘルムの奧から兄を睨んだ。
イノセンタスの手前、開け放たれた扉の前に立っているグレイスは腕を組んだ。その傍へ、幽霊が滑り込む。
ギルディオスは、慎重に首を動かして後方へ向いた。フィフィリアンヌと伯爵を除いた皆が、戦う気でいる。
パトリシアはまだ辛そうだったが、ランスの隣に戦う姿勢で立っていた。何が何でも、守る気でいるのだ。
全員の目が、イノセンタスを捉えていた。だがイノセンタスは、そのどれも感じてはいないようだった。
雨音が、張り詰めた空気を支配していた。その緊張を破ったのは、すっかり雰囲気の変わった幽霊だった。

「戦うのは後でもよろしいでしょう。まずは、お話をしなければいけませんから」

するりと降下したデイビットは、イノセンタスの真正面に出た。それでも、藍色の魔導師は反応しない。
顔も上げないイノセンタスを見、デイビットはつまらなさそうにむくれた。広間の中へ、振り返る。

「せっかく盤に駒が揃ったというのに、その駒が反応してくれないと始まりませんよぅ」

短剣を両手に握り締めたマークの背後から、ジャックは恐る恐る顔を出した。手前のランスに、小さく言った。

「あの、ランスさん。さっきから駒とか盤とか、何のことなのかさっぱり解らないんすけど、解るっすか?」

「ああ。あれはね、比喩っていうか、物の喩えだよ」

金の杖を構えたまま、ランスはちらりとジャックに目を向けた。

「あの人達は、僕らをチェスに喩えてるんだよ。手駒とは手中で操れる人物を指していて、盤とはその人物を乗せて動かすための舞台ってことだよ。つまり、イノ叔父さんに動かされていた、ジュリア叔母さんとゼファードさんとマークさんと君、ウルバード達がイノ叔父さんの手駒ってことになる。僕とパティも、手駒にされかかったけどね。グレイス・ルー側の手駒は把握し切れてないけど、たぶんあのレベッカって子と、デイビットさんじゃないのかな。カインさんや母さんはまるで部外者ってわけじゃないけどそんなに近い場所にいるわけでもないから、どちらの駒でもなさそうだ。そして、盤がフィフィリアンヌ・ドラグーンだ。考えてみたら、あの人を中心に物事が起きているんだ。原因は、父さんを蘇らせたからなんだろうけど。だけど、父さんの位置付けが今一つ掴めてないんだよね」

ランスは、前方を塞いでいる父親の大きな背を見上げた。

「父さんは、駒にしてはほとんど動かされていないんだ。だけど、盤じゃないんだ。だから解らないんだ」

「程良く当たってるぜ、少年。冴えてるな。ギルディオス・ヴァトラスの位置付けを、なんて言うか知っているか?」

グレイスはにやりと笑み、ギルディオスを指した。

「時に攻められ、時に守られ。そして時に己も戦う、盤の中心の駒であり主人公。それすなわち」

灰色の呪術師は、灰色の目を細める。

「王なのさ」

その言葉に、イノセンタスはようやく顔を上げた。その目線は、僅かに身動きした大柄な甲冑に向かっていた。
少し揺れた剣先を戻し、ギルディオスは姿勢を整えた。思い掛けない言葉に、多少なりとも動揺してしまった。

「オレが…王?」

「そうさ、王の駒さ。色んな意味で、あんたが主役なんだよな」

今回のことばっかりはね、とグレイスは笑った。そして、とグレイスはイノセンタスを指す。

「こっちはただの駒に過ぎん。ちょっと後ろにいて、操れる位置にいただけだ」

「そういうことです。数百年に渡る我らの呪いにて造り上げられた、穢れた遊技の駒なのですよぅ」

デイビットは笑い、両手を胸の前で組んだ。フィフィリアンヌは数歩前に進み、開け放たれた玄関に近付く。

「デイビット」

「はい?」

振り向いたデイビットは、フィフィリアンヌを見下ろした。フィフィリアンヌは、イノセンタスを指す。

「貴様が駒を詰めてしまう前に、奴と話がしたい。時間をくれるか」

「ええ、よろしいですよぅ。あなたは、私に遊技を行う機会と場所を下さった方です。その権利はあります」

ではどうぞ、とデイビットは身を引いた。フィフィリアンヌが歩き出そうとすると、カインが声を上げた。

「あっ、ちょっと待って下さい!」

「なんだ」

フィフィリアンヌは、多少鬱陶しそうに振り向いた。カインは小走りに駆け寄り、少女の背後に立つ。

「僕も、ご一緒してよろしいでしょうか」

「構わんが、なぜだ」

訝しげなフィフィリアンヌに、カインは表情を硬くした。

「あなたの言いたいことが、大体想像出来まして。きっと、僕も何か言いたくなると思うので」

「それが当たっていることを祈ろう。外れているやもしれんからな」

カインを伴い、フィフィリアンヌは玄関を出た。二人は、押し黙っているイノセンタスの前を塞ぐように立った。
ざあ、と強い風が雨と共に吹き込んできた。濡れて重たくなった藍色は動かなかったが、群青色は少し揺れた。
フィフィリアンヌは一歩前に出ると、イノセンタスを見上げた。薄暗い中、縦長の瞳孔を持つ赤い目が上がる。

「久しいな、イノセンタス。軍部の用事以来だな」

フィフィリアンヌは、幼いながらも威圧感のある声を張った。

「今までは想像の域を抜けなかったのだが、ゼファードの話でようやく確信が出来た。貴様は、ドラゴン・スレイヤーに竜の殺し方を手解きした魔導師の一人だな。魔導師協会を通じて帝国に入り、後方ながらも要員として所属しているはずだ。そうでなければ、ドラゴン・スレイヤーの紋章などそう簡単に持ち出せるわけがないからな。大した国王付き魔導師の三番目だ、反竜政策を嫌う王を言いくるめたのは魔法か、それとも口なのかは解らんが、貴様のしたことは多大なる過ちだ。竜など多少殺したところで、世界は何も変わらぬのだから」

フィフィリアンヌは、藍色の魔導師を指す。

「死ぬ前に教えろ、イノセンタス。貴様は、なぜ竜を嫌う」

「そう決め付けないでくれ。話す気が失せる」

イノセンタスは、ようやく口を開いた。一度、カインに目を向ける。

「君はストレイン家の者か。そうか、通りで。この女が入れないはずのディアード家の仮面舞踏会に、この女の名があったわけだ。ストレイン家の者を使えば、出来ないこともないからな」

「それじゃ、あなたがコルグを」

カインが呟くと、イノセンタスは笑みを崩さずに返す。

「そうか、あの白竜の名はコルグと言うのだな。あの白竜の子供は、帝国の上空に偶然現れたのさ。その白竜に、途中まで私が手を下して、とどめをシルフィーナ・ディアードに任せたんだ。あれを剥製にしてドラゴン・スレイヤーの目標と飾りにすれば、両国にドラゴン・スレイヤーが増えるかと思ったが、まさかこの女が剥製の回収に現れるとは思ってもみなかったよ。おまけにシルフィーナも殺されてしまって、参ったよ。あの女には手を焼いたのだが、それが無駄だったとはね。残念だ」

言い返したかったが、言葉が出なかった。カインは怒りとやりきれなさで、拳を更に強く握り締めた。
フィフィリアンヌはちらりと彼を見たが、すぐにイノセンタスへ戻した。再び、淡々と言った。

「そうか、それは後でエドワードとガルムにでも伝えておこう。しかし、貴様ほどの権力があれば、帝国に行かずとも人は動かせる。それをわざわざ帝国に出向き、下っ端の一人に過ぎないシルフィーナ・ディアードの手助けまでして竜を殺す理由を話せ。私はそれを聞きたいだけだ」

「なるほど。竜らしい言葉だ」

「私を竜か人かで括るな。鬱陶しい」

フィフィリアンヌが吐き捨てるように言い放つと、イノセンタスは、やれやれ、と首を振る。

「我が侭な女だ」

イノセンタスは目元を覆っていた前髪を退けてから、フィフィリアンヌを見下ろした。薄茶の目が、少女を映す。

「人が竜を恐れる理由を知っているか」

フィフィリアンヌとカインが答えずにいると藍色の魔導師は、そうか知らぬか、と残念そうに漏らした。

「ならば言おう。人が竜を忌み嫌い、畏怖する理由はただ一つ、人間を超越した存在であるからだ。肉体の大きさも魔力の容量も寿命も知識量も、そもそもの桁が違っている。人間がいくら魔導を極めようとも、いくら生きる世界を広げようとも、竜はその上をとうに通り過ぎている。手の届かない世界に棲まう、天上に似た位置にいる種族だからこそ恐れるのだ。いつの日か竜が地上に舞い降り、人を食い荒らし、世界を乱すと思い、そして」

男の手が、少女を指す。


「竜に人が淘汰されると思うから、人は竜を恐れ、そして狩るのだ」

そして、とイノセンタスは続けた。

「私は人の世界を竜の世界とされないように、我らの世界を守るために、竜を殺すのだ」


雨水と泥の染みた手袋の指先が、真っ直ぐに竜の少女を指していた。竜は、それを無表情に見つめている。
ぱたり、とイノセンタスの服から水滴が落ちた。フィフィリアンヌは一度瞬きしてから、カインへ目をやる。
カインは、苦々しげにしていた。フィフィリアンヌは彼の手を取ると、ぐいっと前に引っ張り出した。

「この辺りは貴様の分野だ。話したければ話せ」

「あ、はい」

彼女の前に出たカインは、手を放そうとした。だが、背後に身を引いたフィフィリアンヌは、手を握ったままだった。
薄暗くて表情は良く見えなかったが、細い眉は下がっているようだった。それなりに、カインが気掛かりらしい。
カインは少し笑うと、手をそのままにした。小さな手をしっかり握り締めてから、イノセンタスに向き直る。
イノセンタスを見上げ、カインは表情を固めた。ギルディオスに似ているとのことだが、そうは思えなかった。
笑ってはいるが、その笑みは温かではない。かなり冷え切ったものが感じられて、背筋がぞくりとした。
カインは押されてしまわないように気を張りながら、言いたいことをまとめた。そして、言った。

「イノセンタスさん。あなたの持論は、ずれています」

「具体的には」

イノセンタスは、にやりと口元を上向ける。カインは、精一杯声を張り上げた。

「確かに、竜族は人を超越した存在です。何千年も前から高い文明を築き上げ、人が手に入れる前に魔法を手に入れ、何百年も生きることが出来、その上巨体を持つ強大な種族です。ですがその代わり、人に比べて繁殖能力が低いんです。竜族が生み出す子供、つまりは卵ですが、その産卵を行えるのは十年周期で一度限り、その上孵化率は低いと聞いています。つまり、竜族は絶対数が一定なんです。それとは逆に、人はいくらでも生活の幅を広げて一族を広げることが出来る。竜族が一人の子供を成す間に、人間は数人は成しえることでしょう。つまり、竜族は、人を淘汰出来ないんです。いくら竜族の魔力が強かろうが知能が高かろうが、絶対数が違いすぎて人を滅ぼすことなんて物理的に不可能なんです」

カインはひやりとした彼女の手を、固く握った。

「竜族は、僕ら人間の先を行っています。ですが、行き過ぎているんです。色んな方面の資料を漁っていたら解ってきたんですが、ここ数百年で竜族の数は激減しているんです。以前は帝国側に存在していた第二竜王都は、既に廃墟だという話です。その理由は簡単です。人が力を得たがために竜を恐れて竜を殺し続け、そして竜族自身が、緩やかなる滅びの道へ向かっているからです」

カインの背中に、軽い体重が掛かった。彼女が、額を当てている。

「ですが、竜族は、滅びに抗っていません。帝国に同族を殺されたことは、さすがに怒っているようですが、それでも彼らは戦いを望みません。戦えば更に同族が失われて、滅びの速度が進んでしまうからです。もちろん、彼らの中には、それを覚悟した上で戦いを望む者もいますが。竜王が擬態の政策を進めるのも、人に馴染み人を淘汰するためではないと思うんです。竜と人が共に生きて欲しいから、そうしているんだと僕は思います。ですから僕は、竜族が好きなんです。人を越えた存在でありながら人より出過ぎずに、獣を越えた存在でありながら獣を尊び、魔物とは違う存在でありながら魔物を受け入れ、そして世界の流れに逆らおうとしない。遥か太古の昔から、あるべき場所であるべき生き方をし続けてきた、竜族が好きなんです」

カインは、フィフィリアンヌの手に指を絡めた。

「ですが人間は、そんな彼らをただ恐れるだけで解ろうともせず、魔物と同等に見てしまう。愚かなことです」

「竜を殺すのは正しくないと、人の利己主義に過ぎないと言いたいのだな」

イノセンタスが不愉快げに言うと、カインは頷いた。

「ええ。人間の、単なる恐怖と理想の押し付けに過ぎないんです」

「そうだな、確かにそうかもしれん」

カインの背に隠れたフィフィリアンヌを見下ろすように、イノセンタスは目線を下げた。

「だが、竜は必要悪なのだ。圧倒的な恐怖こそ人々の結束を生み、戦うための力を作るものなのだ」

「何が悪で何が正義なのか、その区別すら曖昧なんですけどね。結構、あなたも無茶苦茶なことを言いますね」

カインが少し変な顔をすると、そうだな、とイノセンタスは一笑する。

「多少強引でなければ、融通の利かんお偉方は動かせんからな。これで、君の話は終わりか」

「ええ、一応は。僕はあなたと会うのは初めてですし、他の皆さんと違って積もる話もありませんから」

もう少し言っておきたい気もしますけど、とカインは残念そうにした。手を緩め、少女の手を放した。
カインの背から顔を出したフィフィリアンヌに、イノセンタスは眉を曲げた。かなり、不可解そうだった。

「随分と弱ったものだな、フィフィリアンヌ・ドラグーン。お前ほどの女が、男になどほだされるとは」

「弱ったわけではない。気が緩んだだけだ」

カインの腕を取り、フィフィリアンヌはぐいっと後ろに引いた。わぁ、とカインはよろけてしまったが立ち直った。
多少やりづらそうにしながら、フィフィリアンヌはカインを広間の中に戻した。少し押しやってから、玄関に向く。
灰色の呪術師と並んだ幽霊は、にこにこしていた。ようやく出番が回ってきたので、嬉しいようだった。
カインを下がらせてから、フィフィリアンヌは軽く指を弾いた。片手を挙げると、その上にフラスコが落ちてきた。
たぽん、と中でスライムが揺れた。だが伯爵は文句を言うこともなく、ゆらゆらと動いているだけだった。
黙り込んだ伯爵に、デイビットは申し訳なさそうに笑った。だがすぐに表情を変えて、にやりとする。
イノセンタスと他の面々の間に浮かんだデイビットは、いやに礼儀正しい動作で、深々と礼をした。

「それでは駒の皆様方、この遊技を終わりへと進めさせて頂きます」

ですがその前に、とデイビットはふわりと浮かび上がり、グレイスを手で示す。

「私とグリィの関係を説明させて頂きましょう。その前提が解っていないと、少々面倒ですからねぇ」

「ぐ…グリィ?」

初めて聞いたグレイスの愛称に、ギルディオスは変な声を出した。グレイスはデイビットを指し、笑う。

「まぁ、もうそんなので呼ぶのはこいつだけだけどな」

「ですけどまぁ、フィルさんはもう気付いてらっしゃるようですけどねぇ」

デイビットはフィフィリアンヌへ目を向けた。ほとんど表情の出ていない竜の少女は、薄い唇を締めている。
その両手に持たれた大振りのフラスコは、脱力したスライムが満ちている。伯爵は、小さく気泡を吐き出した。
デイビットは静まった広間の中を見渡してから、胸に手を当てた。半透明の男の口調には、重みが加わっていた。

「私の名はデイビット・バレットと申しますが、バレットは略称のようなものでして、正式にはデイビット・バレッティラスと申します。そして結婚前の姓は、ルーと申します。まぁ、要するにですねぇ」

デイビットは片手でグレイスを示しながら、声色を低くした。


「改めて自己紹介いたします。私はデイビット・ルーと申しまして、グレイス・ルーの実兄にございます」


デイビットは、フィフィリアンヌに向く。不機嫌そうなフィフィリアンヌに、尋ねた。

「フィルさん。あなたは、どの辺りでお気付きになりましたか?」

「貴様と会った日の夜だ。あの時、貴様はグレイスの歳を知っていた。私ですら知らぬグレイスの実年齢をな」

フィフィリアンヌは腰に片手を当てて、平たい胸を張る。細い眉が吊り上がる。

「一見すれば堅気にしか見えない貴様が、なぜ真っ当でない者の代表格のグレイスの実年齢など知っているのか。余程裏側の世界に精通しているか、余程親しいか、親類縁者でもなければ知る由もなかろう。それに貴様は、この城の概要を話そうとしなかった。貴様のように饒舌な輩が、新たな住人に住居の過去を話さぬのは、不自然極まりない。グレイスは、元からあまり説明をする方ではないから気にはならなかったが、私が城を欲しいと言った傍から見つけてきたので多少引っかかってはいた。グレイスは様々なことに精通している男だが、いくらなんでも早すぎて怪しかったのだ。まぁ、その時点で何かあるとは思っていたが、割と面白そうなので乗ってみたのだ」

「ああ、そういうことですか。抜かりましたねぇ私としたことが」

そうは言いながらも、デイビットは楽しげに笑った。幽霊の目が、フラスコの中のスライムで止まる。

「その続きは、伯爵さんにお願いしましょうか。知っていますよねぇ、あなたも?」

「う…うむ」

言葉を濁しながら、伯爵はごぼごぼと泡立った。赤紫の泡が落ち着いてから、言いづらそうに言った。

「バレット、すなわちバレッティラスという名は、帝国読みなのである。そして、バレッティラスの王国読みは」

伯爵は意を決し、声を張り上げた。友人である幽霊の頭上の、スイセンの家紋に視点を据えた。



「ヴァトラスである」



外から聞こえている雨音が、うるさかった。静寂が満ちた広間に、ざあざあと水音が広がっていた。
その静寂を、デイビットは楽しんでいた。皆が皆、信じられない様子でこちらを凝視しているのが解る。
ここまで驚いてもらえると、いっそ快感であった。真相を話していくと、彼らの反応は更に面白くなることだろう。
デイビットはわくわくした気分になり、後方を窺った。イノセンタスはかなり驚いたようで、身じろぎしていた。
突き落とし甲斐がありそうだ。久々に沸き起こってくる邪心を心地良く思いながら、デイビットは喋る。

「私やグリィを始めとしたルーの血族は、長い長い年月を掛けて、あなた方ヴァトラスを呪っておりました」

幽霊の目が、大柄な甲冑に向く。

「多大なる憎しみや恨みなどの感情を糧にして、更に呪いを深め、ヴァトラスを腐らせてまいりました」

魔物の子達を守る、母に向く。

「呪いも魔法の一種ですから、持続させるにはそれ相応の手入れが必要なのです」

その背後の、異形の子達に向く。

「消えてしまわないように呪いを掛け直したり、弱まった憎しみを増長させたり、正しくない方向を示したりね」

修道士を背に隠した、彼の息子に向く。

「私は、ルーの長男としてその役目を引き継ぎました。そして、百年ほど前にそれを一度達成しました」

甲冑に身を固めた、彼の妻に向く。

「そうです。この城の前の前の持ち主、バレッティラス家に取り入り、その一族を滅ぼしたのです」

城の壁に埋め込まれた、スイセンの浮き彫りに向く。

「バレッティラス家、すなわちこちらのヴァトラス家は、どちらかというと政治に通じた一族でした。その割に友好的で平和主義な部分があったので、穏健派であった当時の王はいたく気に入り、ヴァトラス家を重役に据えながら政治を動かしておりました。そして王は、長年友好関係を築いていた帝国に働きかけ、ヴァトラス家の娘を帝国の皇族へ嫁がせ、皇太子と添わせたのです」

幽霊は、笑う。

「順調に上り詰めていくヴァトラス家は、王国と帝国の期待を一身に背負っておりました。私は、それを地下深くへと叩き落としてやったのです。そうです、ヴァトラスの娘と添った皇太子を殺してやったのです。いやぁ、簡単でしたよ。皇太子と接見した際に遅効性の毒を含ませて、更にその毒を飲んだ記憶を吹っ飛ばしてやったのです。その結果、数週間後には病死しました。無論、真相は毒殺なんですけどねぇ」

楽しげに、笑う。

「皇太子が怪しげな死因で死んでしまったことで、さあ大変なことになってしまいました。ヴァトラス家は王家の信用を失い、帝国からも疑われ、民衆からも疎まれるようになりました。まず最初に、帝国に嫁いだ娘が処刑され、そして次に当主が殺され、続いて若い息子達も殺されました。まぁ、半分程度は私がやったのですがねぇ。そんなこんなでヴァトラス家は、面白いように堕落していきました。そして、ヴァトラスの娘に皇太子を殺されたと思い込んだ帝国は王国へ侵攻し、王国も侵攻し返しました。セイヴァスの戦い、といった方が解りやすいですねぇこの場合は」

淀みなく、幽霊は過去を喋る。

「セイヴァスの戦いに出陣した生き残りのヴァトラス達は、失われた威信を取り戻すべく、必死に戦いました。ですがその結果は、当然ながら私以外は全滅ですね。ですがそこで、少しばかり手落ちがありました。切っ掛けは、ほんの些細なことでしたが、変な方向から私の正体が両軍に露見しちゃったんですよ。グリィにも色々と手を回してもらったのですが、これがなかなか手強くて、やり返す前にやり込められてしまいました。結局私は帝国軍に追いつめられ、この城の地下室で自害しました。他人になど殺されるのは癪ですからねぇ」

デイビットの笑みには、邪心が滲んでいる。

「死後、私はグリィの手を借りて色々と調べました。私のことを嗅ぎ付けたのはどこの誰か、というのをね。そして、両軍に指示を出した魔導師の名が浮かんでまいりました。そうです、あなた方側のヴァトラス家の一人です。政治に長けていたこちらのヴァトラス家とは違って魔法には長けていましたが、その筋ではまだあまり名が売れていませんでしたから、相手の手の内も解らなくて当然でしたねぇ。これは厄介だと思い、私は、あなた方側の家系も滅ぼしてやろうと思いました。が、そのために必要な体はなく、自分自身の未練のせいで、私の魂はこの城に縛り付けられてしまいました。グリィにも手助けをしてもらおうと思いましたが、その頃のグリィは両国の溝を深めることに忙しくて、こっちになど構っていられませんでした」

ちらりとグレイスを見てから、デイビットは続ける。

「そして、それから過ぎること百年ほど。ようやく手の空いた、というか、私の仕事にやっと興味を持ってくれたグリィに頼み、今のヴァトラスがどうなっているか探ってもらいました。そしたらまぁ、なんとまぁ面白いことになっていたのでしょうか。私とは別のルーが施した呪いが見事に成就していて、乱れに乱れているじゃありませんかぁ。近親婚を繰り返して血の濃い子供を連ね、魔力至上主義と権力に凝り固まった魔導師一族となっておりました。そして、現在のヴァトラスの中の一人、すなわちギルさんが殺されて、フィルさんによって蘇らされたという話じゃありませんかぁ。こんなに面白いことはないと思い、色々と引っ掻き回してやるべく、私は城ごとフィルさんの手中に収まったのです。その後は、あなた方がご存知の通りです。まさか、竜神祭まで関わってくるとは思ってはいませんでしたが、それはそれで楽しかったですねぇ」

淡々と述べられる、知らない歴史だった。ヴァトラスの一族が別れていたなど、一度も聞いたことがなかった。
ギルディオスはそれを訊こうと、一歩踏み出した。デイビットは、そうなんですよねぇ、と首を横に振る。

「貴族としてのヴァトラス、政治家としてのヴァトラスがいたことなど、あなた方魔法のヴァトラスにとっては黒歴史も同然のことです。何せ、帝国を傾け王国との戦いを生み出してしまったのですから、そりゃあ忘れたくもなりますよ。ありとあらゆる書物を燃やし、ヴァトラスという名をバレッティラスと読ませ、一族全員が滅びた後で完全に追放し、他者としてしまったのですから、あなた方は知る由もない歴史です。いえ、万が一に知ったとしても、それは嘘であり物語に過ぎない、とでも言われるのが目に見えております」

デイビットは振り返り、イノセンタスに向き直る。

「さあて、前提のお話はこれくらいにしておきましょう。これらの過去があり、今があるのですよぅ」

「それは、お前の妄想だ」

苛立ちの混じったイノセンタスの言葉に、デイビットは笑む。

「妄想であるならば、後でこの城をくまなく調べてみると良いでしょう。私が小説の本に混ぜて残しておいた、政治のヴァトラスに関する資料が、面白いくらいに出てきますから。それに、こうして、あなた方魔法のヴァトラスが長らえているのが何よりの証拠。政治のヴァトラスがあなた方を切り離してくれていたおかげで、生き延びることが出来たのですからね」

デイビットは両手を広げ、広間に声を響かせた。



「そろそろ、私達が掛けた呪いの正体をお見せいたしましょう」




 



05 7/17