グレイスは、喋り続ける幽霊の姿を眺めていた。何百年も前から連なるルーの中心に、今も昔もいる男だ。 それは同時に、戒めを受けた身でもあるということだ。ヴァトラスを呪えという呪いを帯びて、生きていた。 思い出してみれば、ヴァトラスの一族をまともに滅ぼしたのはこの男が最初だ。そして、最後だ。 生前に一度だけ会った兄は、とても楽しそうだったが悲しげでもあった。あれは、彼が妻を殺した直後だった。 この城の回廊の奧で、血溜まりに沈む女を見下ろしていたデイビットは、グレイスに振り返って笑った。 それなりに気に入っていた方ですと、殺すと寂しいものがありますねぇ、と軽い口調の奧で感情を押し込めていた。 グレイスはメガネを外して平たいレンズを拭き、また掛け直した。僅かに湧いた彼への同情を、すぐさま払拭した。 幽霊と向き合っているイノセンタスは、傍目から見ても苛立っているのが解る。早く、妹を奪いたいのだ。 ちったぁ我慢しとけよ、と内心で呟いたグレイスは、扉に寄り掛かった。雨は降り止まず、世界は暗いままだ。 デイビットは少し上昇して、イノセンタスを見下ろした。今にも魔法を放ちそうな魔導師に、笑いかけている。 「あなた方ヴァトラスの先祖である大魔導師ヴァトラと、私達の先祖である呪術師ルーロンは、昔は友でした」 グレイスは、目を伏せた。雨音が、兄の声に混じっている。 「どんな理由があったのかは知りませんが、双方はいきなり不仲になったのです。大方、互いの持論が認められなくなってしまったのでしょうけどね。そして、意見をぶつけ合うたびに溝を深めていったヴァトラとルーロンは別れ、それぞれの道へと進みました。その際に、ルーロンはやたらと深い恨みを持ってしまったのです。まぁたぶん、ヴァトラの言い分が気に食わなかっただけなんでしょうけどね」 大体そんなもんですよね、とデイビットは付け加えた。 「そしてそれから更に数十年が過ぎ、ヴァトラの子孫達は、一方は魔導師として繁栄し、一方は貴族として上り詰め長らえておりました。そこへ現れたるは、執念深くて根性の腐ったルーロン。ですが、すぐには手を下さずに、彼は自分の子孫達にこう命じたのです。ヴァトラの血を持つ者達を乱せ、ヴァトラスを堕とせ、とね」 傍迷惑ですが、とデイビットは顔をしかめた。 「ルーロンの子孫達は迷惑だしやってらんないと思いましたが、下手に逆らうとろくな目に合わないのが目に見えていたので、仕方なく従いました。ですがそのうちに、彼らの中に流れるルーロンの血がそうさせるのか、進んでヴァトラスを呪うようになってきました。そしていつしかそれが伝統となり家督の役目となり、代々ルーの長男がヴァトラスを呪うようになったのです。まぁ、それが私ですね。何代目かは忘れましたけど」 数えてませんから、とデイビットは笑う。 「さてと、ジュリアさん。ここであなたの出番です。あなたは知っていますよね、ヴァトラの本当の言葉を」 いきなり名を呼ばれ、ジュリアはびくりとした。知っていますよねぇ、と幽霊に念を押され、小さく頷いた。 「…ええ」 「では、どうぞ述べて下さい。私が言うよりもいいでしょうから」 と、デイビットはジュリアを促した。ジュリアは躊躇っていたが、慎重に呟いた。 「小さい頃、屋敷の倉庫かどこかで見つけた本があったのです。それはヴァトラの書いた本のようだったんだけど、私は一度も見たことがなかった本でした。普通であれば、ヴァトラの本は率先して読ませられるから、一度も読んだことがないなんて変だと思いました。なので余計に気になって、読んでみたんです。その一節が、こうでした」 ジュリアは、二人の兄へ目をやった。 「古より連なりし人の血は、我が血族にも流るるものである。血と魂に滾りし魔性の力は魂と肉体を繋げ、その本質をも造り上げている。生ある魂は世界と繋がる力となりて、死せる魂は魔性となりて、人を乱し、驕りをもたらす力となる。人は世界と己を一つと思い、己は世界であると思う。そして、人が世界を動かせると驕り高ぶる要因となる。だが、人は人に過ぎず、世界を動かせることはなく、世界の上にいるからこそ人は動けるのである。だから私はこう思い、愛しい我が子達はこう説いている」 次兄を見据え、ジュリアは声を張った。 「力なきこそが正しき魔導であり、力なきこそが人の生きる道である」 満足げに、デイビットは頷いている。そうそうその通り、と両手を軽く叩き合わせてもいた。 「いや、良く覚えてらっしゃいましたねぇ。さすがは教授さんですな」 「力なきこそが…? だけど、僕がずっと読んできたヴァトラの本には、その逆が書いてあって」 信じられないかのように、ランスは目を見開いた。ジュリアは、戸惑っている甥へ言う。 「それはお父様とお母様、つまりあなたのお祖父様達が持ってきた物でしょう。それは、改変してあるものです」 「改変って、なんでそんなことが解るんだ?」 ギルディオスが訝しむと、ジュリアは構えを解いた。隣に立つ、助手に目を向ける。 「私はヴェヴェリスにいた頃、魔物の歴史を探るために大学の古書館に入り浸っていた頃があったんです。そのうちに魔導師の書いた本棚にも手を出して読み漁っているうちに、数冊、知った文面の本が出てきました。ヴァトラの本のようでしたが、作者も題名も違っていました。ですが、やはり内容は、ヴァトラの本なのです。子供の頃に、疑問に思った言葉と同じ言葉も書いてあって、出版年数なども見てみました。よく調べてみると、その本は私の知っているヴァトラの本よりも前に出されたものでした。一般図書として保管されていたヴァトラの本と見比べてみたら、所々の文章が差し替えられていたんです。それで、解ったんです」 「でも、何のために、そんな面倒で金の掛かることをしたのさ?」 ランスが変な顔をすると、ジュリアはデイビットに目を向ける。 「恐らく、それがルーの呪いなのでしょう。ヴァトラスの考えを根本から変えることが、呪いなのです」 「そうですそうです、その通りです」 デイビットは頷き、するりと浮かび上がる。広間にいる者達を、見下ろしている。 「大魔導師ヴァトラが、大魔導師たる所以はそこにあります。力ありきを良しとせず、力を使わない魔導、すなわち学問としての魔導を極めた、学者なのですから。ですが我々ルーは、その考え方を変えさせたのです。数世代にも渡って子供達へ囁き続けたのです。力なき魔導師は正しいと思うのか、机の上で魔法が使えるものか、戦いの力があってこその魔導師なのではないか、とね。最初は散々抵抗されましたが、そのうちに受け入れられるようになってきた。そして、ヴァトラスは魔力のなきを恥じるようになった。以前は正統であると讃えられていた無魔力者が、逆に穢れた存在だと疎まれ始めた。ギルさんがそれですね。そして、元からあまり強くなかった魔力を強化するために、ヴァトラスは近親婚を始めるようになりました」 幽霊は、硬直しているイノセンタスに振り向く。 「ですからイノさん、あなたも少しは正しかったのです。呪われた道を進むヴァトラスとしては、真っ当だったのです。ですが、やはり近親婚は間違っているんですよねぇ。血は濃くなって魔力は高くなってきますが、世代を重ねるごとに体がいかれてくるんです。ですから、ヴァトラスは少々短命気味になっちゃったんですよねぇ。ギルさんのご両親がそうじゃありませんでしたか?」 「あ…ああ」 ギルディオスが頷くと、ほうらねぇ、とデイビットは笑う。 「ああでも、ランスさんはご心配なく。あなたは近親者でないメアリーさんのおかげで血の薄まった、本来のヴァトラスです。それに、あなたが持ち合わせている才能はあなた自身が生まれ持ったものですので、ヴァトラの方針と違う、などと気に病むことはありませんし疎む必要もありません。これからもどうぞ、誇り高い精霊魔導師でいて下さい」 どう反応して良いか解らず、ランスは表情を固めていた。幽霊越しに見える叔父は、まるで動かない。 というか、動けないのだろう。今まで己を支えてきたものが、間違っている、と言われてしまっているのだから。 ですから、とデイビットはイノセンタスに向き直った。虚空を凝視している片割れの兄へ、身を屈めた。 「イノさん。あなたは、ずうっと間違っていたんですよ。あなたは、正統なるヴァトラの継承者を殺したのです」 幽霊の声には、悪意が込められている。 「我々の呪いが造った習慣を真に受けて、事実を知らずに驕り高ぶって、挙げ句に実の弟を殺しました」 透けた手が、イノセンタスに向けられた。 「ですから、本来に死すべきはあなただったのです。ギルさんを殺してはいけなかったのです」 いけませんねぇ、と幽霊は声を落とした。 「たかが高魔力の者が、ヴァトラの継承者たる無魔力者を殺してしまっては。それこそ、間違いなのです」 「…うそだ」 ずしゃり、とイノセンタスはずり下がった。いいえ嘘ではございません、とデイビットは首を横に振る。 「あなたは愛する妹の言葉を信じないのですか? ジュリアさんは、本当のことを言っていますよぅ」 「ジュリア!」 イノセンタスは、ジュリアに向けて叫んだ。ジュリアは一瞬臆したが、すぐに兄を睨む。 「本当よ! 私とこの人達が、口裏を合わせるなんてことを出来ないのは、イノ兄様が一番知っているでしょう!」 妹に反論され、イノセンタスは口元を歪めた。その通りなのだ。ずっと、彼女に暗示を掛けていたのは自分だ。 重たく痺れるような頭痛が、思考を鈍らせていた。受け入れたくない話ばかりが、先程から話されている。 全て嘘だ。全て戯言だ。そう思おうとしたが、目の前に浮かぶ幽霊はにこにこしながら話を続けていた。 「そして、あなたは更に道を違えた。フィルさんの言っていたように、ドラゴン・スレイヤーを仕立て上げたのは間違いなのです。カインさんのお話しした通り、竜は人を淘汰出来ない。それもありますが、もう一つ理由があるのです」 「理由…だと?」 イノセンタスが力なく返すと、ええ、とデイビットは頷いた。 「昔々、ヴァトラは力なきを素晴らしいことだと謳った。その理由として、彼と竜との交流があるんですよ。そのことはルーロンの手記にも書いてあって、私もグリィも読んだことがあるものです」 「我と我が友ヴァトラ、竜の都に辿り着かん。その先で出会いし緑竜は、人ならざる巨体ながらも歩み寄ってきた」 素っ気なく、グレイスはデイビットの言葉に続けた。 「竜は笑う。我らの土地へ辿り着きし人の者達よ、どうかごゆるりと。我と友は驚愕した。竜たる存在は、人を襲いて人を喰らう魔性の生物だと思っていたからである。だが竜は、我らを同等に扱い、数日間の交流を経て別離した。その際、我が隣でヴァトラは述べた。力ありきで生きるばかりが人ではなく、竜でもなかった。ならば私はこう思う、力なきこそが人であり竜であり、力を使わずに心を通わすことが知性ある生物の証なのであると」 「我らの友となりし緑竜は、笑わぬようでいて笑っていた。それが、私にとって何よりの喜びであった、と」 最後に、ジュリアが締めた。素晴らしいですねぇジュリアさんは、とデイビットは満足げにする。 「つまり、そういうことなのです。イノさん、あなたは竜と真っ向から向き合っていれば、ヴァトラの名でも出して友好的に付き合ってさえいれば、彼らを殺さずに手柄を立てることも出来たかもしれないし、ヴァトラのように解り合うことが出来たかもしれないのです。ですがそれを見誤り、敵視し、あまつさえ悪とした。いやはや、イノさんはギルさんとは本当に真逆ですね。ギルさんはフィルさんを恐れることもなく、真っ向から信用し、親子にも似た関係となりましたし。いやあ本当に、ギルさんこそ正しきヴァトラスですよねぇ」 デイビットは、後退ったイノセンタスとの間を詰めた。 「ですから、イノさん。あなたは、何もかもが間違っているのです」 間違っているのです、と幽霊は再度言った。イノセンタスは足元から力が抜けてしまい、どしゃりと座り込んだ。 幽霊越しに見える弟は、ぼやけていた。七年前に具象魔法を掛けた鎧は、今は弟そのものとして存在していた。 沈んでいきそうな気分になっていた。足元が崩れ落ちて、そのまま泥の底へと没してしまいそうな気がしていた。 先程から、頭痛が激しくなっていた。体温低下に伴う発熱のような、力の入らない感覚が、体全体を満たしていた。 デイビットは、悪しき幽霊の男はけらけらと笑っていた。その異様な笑い声は、雨音を消してしまいそうだった。 「これで、ルーの呪いは果たされました。堕落の果ての陥落、あなた方が堕ちる姿こそ我らの望みなのです」 デイビットは笑いを堪えながら、イノセンタスに背を向ける。 「私の未練も、これでようやく果たされました。いやあ、本当に楽しませて頂きましたよ」 するりとグレイスの前に出、兄は弟を見上げる。 「グリィもありがとうございました。私の手足となって、イノさんを追いつめて下さって。良い手際でしたよぅ」 「報酬分、働いたまでさ」 グレイスはにっと笑ったが、すぐに表情を消した。小柄で貧相な幽霊の姿は、次第に薄らぎ始めていた。 以前にも増して透けてきた手を見、ありゃ、とデイビットは苦笑した。そして、広間に一礼した。 「そろそろ私も限界のようです。未練が果たされれば、幽霊とは消えてしまうものなのでしてねぇ」 空気に馴染んでいく幽霊を、伯爵は見据えていた。白かった影は弱まっていって、背景が良く見えていた。 「それではグリィ。この遊技の続きをどうするかは、あなたにお任せいたしますよぅ」 頷いたグレイスに、デイビットは頷き返した。元から色のなかった幽霊からは、白すらも失せ始めていた。 デイビットは伯爵に、邪心の消えた笑顔を向けた。伯爵はごぼりと泡立ち、フラスコの中から体を押し出した。 ぽん、と抜いたコルク栓を床に落とし、出来る限り体を持ち上げた。伯爵は、消え行く友人に叫ぶ。 「デイビットよ!」 はい、と幽霊は少し首をかしげた。伯爵は、力一杯叫んだ。 「いつの日か、あの世で会おうぞ!」 是非会いたいです、とデイビットは言ったようだったが、その声は掻き消えていった。白い影は、更に薄くなる。 風雨が、ざあっと吹き込んできた。座り込んでいるイノセンタスの上を通り抜けて、幽霊を抜けてきた。 冷ややかな空気の流れが通り過ぎると、彼の姿は失せていた。その奧に、光の固まりのような影が浮かんでいた。 グレイスの前に浮かぶ白い少女は、優しく微笑んでいた。灰色の呪術師に口付けてから、ふわりと揺らいだ。 少女と彼の手が重なった直後、白い光は消えていた。グレイスは伸ばしていた手から力を抜き、下ろした。 「…またな」 「今の娘はなんだ」 感情の籠もらぬ声で、フィフィリアンヌはグレイスに尋ねた。ああ、とグレイスは顔を上げる。 「オレの女だよ。但し、百五十年も前に死んじまってるけどな」 「そうか」 フィフィリアンヌは幽霊の消え去った場所を見、少し眉を下げた。 「奴の正体には驚きもせぬが、こうもあっけなく消え去ると、少々物悲しいものがあるな」 でろりとフラスコにへばり付いているスライムは、のろのろとした動きで昇っていった。時間を掛け、中に戻る。 たぽん、と水のようになった伯爵は、表面が平たかった。震えることもなく、泡立つこともなく、喋りもしなかった。 フィフィリアンヌは屈み、床に落ちたコルク栓を拾った。きゅっ、と蓋を固く締めてから、フラスコに触れた。 少女の手の影に、伯爵はずるりと寄った。だがすぐに脱力してしまい、球体の底へと流れ落ちてしまった。 ギルディオスは、構えていた剣を下ろした。玄関前に座り込んだ片割れは項垂れて、その表情は見えなかった。 デイビットの気配は、もうどこにもなかった。伯爵の悲しみと虚しさを察し、ギルディオスは胸が痛んだ。 息を詰めていたのか、メアリーはゆっくりと息を吐いた。剣を下ろして鞘に戻したが、複雑そうな顔をしている。 「なんていうか、やりきれないねぇ」 「ていうか、何がなんだか」 混乱しそう、とランスは杖を下ろして前髪を掻き上げた。構えを解いたパトリシアは、ふにゃりと肩を落とす。 「根が深すぎて、すぐには飲み込めない話だったけど、そういうことだったのねぇ」 「それで、てめぇはこれからどうするんだよ」 ギルディオスは、突っ立っている呪術師に向いた。短髪を掻き上げて、グレイスはやる気なく返事をした。 「んー、ああ。兄貴からの報酬もらって、ひとまず帰るわ。オレの仕事は兄貴の手伝いだが、後始末じゃねぇし」 「それでは、あなたは」 人造魔物達を手で制しながら、ゼファードはグレイスを見据えた。グレイスはメガネを上げ、目元を擦る。 「別に何もしねぇよ。どうするかって判断を渡されたから、それを考えた結果が帰ることなのさ。それにオレは、誰かに命令されるとやる気が失せちまう方でさぁ。する方は好きなんだが、されるのは好きじゃねぇんだよ」 「そう、ですか」 安堵したカインは、深く息を吐いた。肩に乗り爪を立てているカトリーヌを、落ち着けるように撫でてやった。 スパイドの横から駆け出たレベッカは、頼りない足取りで主に寄った。レベッカは、グレイスの傍を見上げた。 白い少女、ロザンナの消えた空間には何も残ってはいなかった。主の心境を思い、レベッカは切なくなっていた。 そしてレベッカは、主を見上げた。グレイスは普段通り笑ってはいたが、それでもどこか悲しそうだった。 終わったぞ、とマークは背中にしがみついているジャックの頭に手を置いた。ジャックは、頷いたようだった。 立ち上がろうともしないイノセンタスの姿に、マークは少しばかり同情した。彼は、完全に自尊心を砕かれたのだ。 当分の間、動けないだろう。そう思い、マークは短剣を腰の鞘に納めた。がちん、と鍔が鞘に当たった。 「オレもしばらくしたら帰るとするかな。雨も、止みそうな感じがするしな」 「ああ、止むぞ。外に風が出てきているし、空気の匂いが変わってきている」 顔を上げたウルバードは、外に目を向けた。その傍らで身を縮めていたスパイドは、うー、と小さく唸った。 「だけど、僕ら、そんなに凄いものだったのかなぁ」 「凄いのはお母さんのご先祖で、あたしらはそんなに凄くはないよ。だから、びくつく必要もないんだよ」 ぽん、とスパイドの頭を押さえてから、レオーナは末っ子を見上げた。セイラは、兄妹を見下ろしている。 「デモ、デイブ、消エタ。モウ、会エナイ?」 「残念ながら、もう奴はおらん。だが、完全に消えたわけではない。忘れなければ、奴はこの世から消えないのだ」 フラスコを抱いたフィフィリアンヌは、単眼の魔物を見上げる。セイラは、少し表情を緩ませた。 「ウン。セイラ、忘レ、ナイ」 「あの幽霊の方のことは、忘れようにも忘れられないと思いますけどね」 ジュリアは、弱まりつつある雨を背にした長兄に向いた。普段の張り詰めた雰囲気は消え去り、弱々しかった。 これから、兄はどうなるのだろう。ジュリアは漠然としない不安を感じていたが、同時に恐怖もあった。 信じてきた全てを否定されたイノセンタスは、何をするのか解らない。何もしないで欲しい、と思っていた。 これ以上罪を重ねて、手を汚して欲しくなかった。ジュリアはそれを言いたかったが、言えなかった。 執念深く手を回してきたイノセンタスが、再び近付いてくるのが怖くて仕方なく、足を前に進められなかった。 すると、次兄がやってきた。ギルディオスはジュリアの前に立つと、生前と同じように、ぐしゃりと頭を撫でた。 「大丈夫か、ジュリィ」 「ええ」 ジュリアが力なく返すと、ギルディオスは銀色の冷たい手で妹の頭を押さえる。 「イノは、オレがなんとかする。だから、お前はセイラ達と一緒にいろ」 「ギル兄様」 ジュリアは、背の高い甲冑を見上げた。ギルディオスは屈むと、妹と目線を合わせた。 「そう心配すんな。オレは大丈夫だ」 「イノ兄様は、これからもずっと一人なのかしら」 ジュリアは怯えてもいたが、悲しげな顔をしていた。ギルディオスは、兄を横目に見た。 「イノは、もう一人にはしねぇよ。これ以上一人にしたら、何をやらかすか解ったもんじゃねぇからな」 「あの人は、悲しい人なんですね」 ジュリアの傍らに立つゼファードは、警戒心の中に多少の哀れみが混じった目で、動かないイノセンタスを見た。 ああ、とギルディオスは呟いた。片割れを見つめる片割れの声には、様々な感情が込められていた。 「とんでもねぇ馬鹿だけどな」 ここにいろ、とジュリアに言ってから、ギルディオスは妹に背を向けた。赤いマントを乗せた背が、玄関に向かう。 吹き込んできた雨に濡れた床を歩いていたが、途中で立ち止まった。扉と玄関先の間で、幽霊は消失した。 ギルディオスは何も見えない空間を見上げ、デイビットの行く末を考えた。地獄にでも行ったかな、と思った。 色々と、彼には聞いてみたいことがある。今度こそ天上に行くことがあったら、次に会ったら、話し込んでやろう。 そう思いながら、ギルディオスは足を進めた。がちゃがちゃと重たい金属音が響き、甲冑は玄関を出た。 重たく濡れて乱れた藍色のマントが、項垂れたイノセンタスの背に乗っていた。弟は、兄を見下ろした。 まともに兄と対峙したのは、死んでからは初めてかもしれない。前に一度、夜道で擦れ違っただけだった。 似ているのか、似ていないのか。疲れ果てた兄を見つめながら、ギルディオスはそんなことを考えていた。 自分が死なずに生きていたら、兄に殺されずにいたら。やはり、外見は似ていても中身は相当に違うはずだ。 風が出てきて、上空の雲が動いていた。分厚い雲に隙間が開き、光の柱が地上に向けて差し込んでいる。 ギルディオスは、イノセンタスの真正面に立った。兄の背後に見える湖は、僅かな日光を受けて輝いている。 「イノ」 ギルディオスは、イノセンタスに銀色の手を差し出した。 「立てよ」 ゆっくりと、イノセンタスは顔を上げた。弟の姿を認めても、その顔に表情が戻ることはなかった。 銀色の甲冑は、日差しを受けて光っていた。千切れた雲の隙間から差し込む光が届き、眩しく輝かせていた。 イノセンタスは下ろしていた手を挙げ、泥と水を吸った手袋を填めた手を伸ばした。その先には、弟がいる。 ガントレットに触れかけた手を止めて、イノセンタスは後方へ目をやった。愛しい妹は、悲しげだった。 まだだ。まだ、何も終わってはいない。すぐ目の前にいる妹を手に入れてこそ、新しく物事は始まるのだ。 イノセンタスは、ギルディオスを見上げた。イノセンタスはギルディオスの手の前に、己の手を掲げた。 「誰が」 感情と共に、魔力を高めていった。体内に満ちてくる魔力を、力へと変換する。 「お前の」 イノセンタスは渾身の魔力を込めて、精神衝撃波を放った。 「命など聞くかぁっ!」 強烈な閃光と衝撃が波状に広がり、ギルディオスは揺らいだ。数歩よろけたが、なんとか立ち直った。 背中に手を回して剣を抜こうとしたとき、気付いた。背後にいた彼らは、皆、倒れ伏してしまっていた。 グレイスに至っても、多少苦しげにしている。その隣のレベッカは立っていたが、弱い電流が傷口から出ていた。 ギルディオスは素早く目線を動かして、愛しい者達を窺った。皆、生きてはいるようだが、動いてはいなかった。 魂を込めた魔導鉱石が、多少痛んでいた。先程の閃光の正体は、恐らく、魂に直接衝撃を叩き込むものなのだ。 その衝撃は、肉体にも響くはずだ。ギルディオスやレベッカが倒れずに済んだのは、人の体でないためだろう。 ギルディオスは震えの起こってきた手で柄を握り、すらりと剣を抜いた。銀色の刃が、鏡のように光を跳ねる。 「イノ、てめぇ」 「邪魔立てするな。私は、ジュリアを取り戻しに来たのだ」 立ち上がったイノセンタスは、ばさりとマントを広げた。多少引きつってはいるが、笑っている。 「あんな戯れ言、信じる方がおかしい。私は間違ってはいない、歪んでいるのはお前達の方だ!」 ぎちり、とギルディオスの関節が軋んだ。怒りが魂の底から沸き起こり、焼け付きそうな熱を生み出してきた。 ないはずの鼓動が起こり、ないはずの血が巡っていく。ギルディオスは、今一度目の前の兄を睨んだ。 兄は、変わっていない。それどころか、悪くなっている。一度は救えるかと思った、救ってやりたかった。 だが、もう兄は深淵の底にいる。ギルディオスは怒りと共に高まる戦意に任せ、猛った。 「いい加減に」 ひゅおん、と巨大な剣を振りかざし、弟は叫んだ。 「しやがれぇぇええええっ!」 05 7/17 |