ドラゴンは笑わない




黒い雨 後



外は、次第に天気雨になりつつある。あれだけ激しかった雨は弱まり始めてはいたが、まだ降り続いていた。
ギルディオスは石の床を確かめるように踏み締め、ゆっくりと兄に歩み寄った。救えないのなら、戦うまでだ。
これ以上、ジュリアを苦しませてはいけない。イノセンタスを、再びランスに近付かせてはいけない。
そして、堕ち往く兄の姿はもう見ていられなかった。過去に誇りに思っていた兄の名残は、どこにもなさそうだ。
足元から、ふわりと薄いものが立ち上っていた。ギルディオスは、それが蒸気だと気付くまで少々掛かった。
床に溜まっていた雨水が蒸発するほど、甲冑の体は熱くなっていた。周囲の空気までもが、熱されている。
魔法を放つために手を翳したままのイノセンタスは、やはり笑っている。それは余裕なのか、狂気なのか。
どちらでもありそうだ、と思いながら、ギルディオスは玄関を出た。兄へ、真っ直ぐに切っ先を向けた。

「レベッカ」

灰色の外套に身を包んだ幼女は、主を背にしながら顔を上げた。ギルディオスは、僅かに顔を向ける。

「なんかあったら、頼むわ。手加減出来そうにねぇ」

「はいー」

弱々しく笑ったレベッカは、姿勢を正した。ギルディオスは頷いてから、目の前のイノセンタスへ向き直った。
イノセンタスの手の上を、弱い風が巡っていく。足元の水を蒸発させている弟を見、嘲るように笑う。

「大層な自信だな。多少過熱した程度で、私に敵うとでも」

「あぁもう鬱陶しい!」

剣を下げたギルディオスは、がっとイノセンタスの胸倉を掴み上げた。そのまま、足が浮くほど持ち上げた。

「御託なんざどうだっていいんだよ!」

振りかぶったギルディオスは、外へ向けてイノセンタスを投げ飛ばした。弱い光と雨の下に、藍色が落ちた。
思わぬことに驚いたのか、イノセンタスは目を見開いていた。受け身を取らず、どちゃり、と地面に転げた。
ギルディオスは、力の入った足音を立てながら階段を下りてきた。どちゃっ、と水溜まりを踏み散らす。
肩を叩く雨粒が、触れた傍から蒸気となっていく。過熱する甲冑に熱されて、足の周りの泥も乾き始めていた。
全て、燃やせてしまいそうだ。ギルディオスはガントレットから熱の移った柄を、ぎちりと握り締める。
草むらから立ち上がったイノセンタスの前に、ギルディオスは立った。剣を、力一杯振り下ろした。
どん、と土が抉れて草が飛び散った。兄の前に作られた穴は大きく、太い剣先は深々と地面に埋まっていた。
荒い息を繰り返しながら、ギルディオスはイノセンタスを見据えていた。怒りは、魂の底から起きている。
ずっ、と剣を引き抜いた弟に、兄は手のひらを向けた。降り注いでくる雨が、手袋に触れた途端に氷結した。
風と共に立ち上ってくる冷気がまとわりつき、右手には氷の固まりが生まれてくる。それが、長く伸びた。
鋭い氷塊はばきばきと成長し、切っ先が出来上がった。イノセンタスは剣に酷似した氷を、振りかざす。
氷の刃が、ギルディオスに向けて伸ばされた。がちり、と銀色の首筋に剣先が叩き込まれたが、蒸気が昇った。
水となった刃が、ぼたぼたと甲冑を伝っていく。ギルディオスは兄の腕に繋がる氷塊を、片手で掴んだ。

「効かねぇって、解ってんだろ」

みしり、とガントレットが氷塊を軋ませた。イノセンタスは溶け行く氷をそのままに、笑った。

「ああ」

直後。イノセンタスの背後に、巨大な水の固まりが立ち上がった。泥混じりの湖水が、迫り上がってくる。
水滴を滴らせながら身を捩った円筒形の湖水は、内側から白くなってきた。強い冷気が、その周囲を渦巻いた。
がぁ、と鈍い叫声と共に地面を這い進み、氷塊となった湖水は、イノセンタスの頭上にやってきた。
ギルディオスは、その姿に一瞬ぎょっとした。思わず兄の腕を放し、跳ねるように身を引いた。

「うげっ」

どごん、とギルディオスのいた場所に氷塊が降ってきた。ヘビのような形相の氷は、大きく口を開いた。
がらがらと硬い腹を地面に擦らせながら、細長い舌を出した。ずるり、とうねって近寄ってくる。
ギルディオスは虚ろな氷のヘビの目を見ていたが、その隣のイノセンタスに向けた。やはり、笑っている。
氷のウロコが艶々と光り、刃に似た二本の牙が見せつけられている。開いた口から見える喉は、洞窟のようだ。
しゃあ、と氷のヘビがギルディオスを威嚇した。ギルディオスは力の抜けそうな手に、力を込める。
バスタードソードを握り締め、腰を据えた。あれは本物ではない、あれは氷であり、生身のヘビではない。
そう念じながら、ギルディオスは真正面を睨んだ。這い寄ってきた氷のヘビは、高々と鎌首を持ち上げた。
それが下ろされた瞬間、銀色の姿は翻った。僅かな蒸気の名残を残し、熱された甲冑は宙に舞っていた。

「だっ!」

顎の下からヘビの首を切り上げ、頭上に抜ける。ギルディオスは、頭を割られた氷のヘビの上に浮かんだ。
ヒトクイネズミを倒したときと同じ要領で、その背に落下した。がちゃん、と膝を付いて着地する。
ギルディオスは滑り落ちてしまいそうな体を支えるため、バスタードソードをヘビの背に突き立てた。

「こんなもんはなぁああ!」

バスタードソードの柄を握ったギルディオスは、氷のヘビの背を力一杯殴った。

「フィルに借金することに比べたら!」

拳が、周囲を溶かしていく。脆くなった氷を再度殴り付けると、ばぎゃん、と大きなヒビが出来上がった。

「少しだって!」

拳を抜いて、バスタードソードを両手で握った。ギルディオスは幅広の剣をぐいっと捻り、ヒビを広げた。
ばかん、と中程から氷のヘビは砕けた。崩壊する氷塊の上から飛び降り、どん、とギルディオスは着地した。
立ち上がり、冷気の漂う空気を切り裂いた。ギルディオスは、再び氷の剣を手にした兄へ剣先を向ける。

「怖かねぇんだよ」

「そうか。それは計算違いだな」

イノセンタスは、細身の白い剣を構えた。それは先程の氷塊とは違い、腕と一体にはなっていなかった。
兄は、騎士のような構えを取っていた。ギルディオスはその白い切っ先に、銀色の切っ先を向け合わせた。

「修練でもしたのか」

「ああ、一応はな。魔導師の嗜みにすぎんが」

「だったら気ぃ抜くんじゃねぇぞ!」

駆け出したギルディオスは、バスタードソードを横にした。イノセンタスの前を取り、真下から剣を振り上げる。
かぁん、と硬い金属音が響いた。ギルディオスの剣は、イノセンタスの柄と刃の間に叩き当てられている。
腕全体に走った重みと痺れに、イノセンタスは眉根を歪めた。ギルディオスは、剣を軽々と跳ね上げる。

「そらそらぁ!」

その勢いで、イノセンタスは一回転した。姿勢を戻した途端に、ギルディオスは側面から斬り掛かってきた。
イノセンタスは辛うじてそれを受けたが、腕には痺れが残っていた。次第に押され、かかとが泥にめり込んでくる。
ぎちぎちと氷の剣を軋ませながら、ギルディオスは踏み出した。イノセンタスとの間合いを、かなり詰めた。

「いい加減にしやがれ、馬鹿兄貴! これ以上他人をどうこうしたってな、何も変わらねぇんだよ!」

「変わるとも」

イノセンタスは、ぐっと氷の剣を捻った。顔の前にあった刃を逸らさせ、目の前のヘルムを見据える。

「私とジュリアが結ばれれば、新たなヴァトラスが生まれる! そして、正しき血統が繋がるのだ!」

「だからそれが間違ってるっつってんだろうが!」

ギルディオスは剣を押しながら、左手を柄から外した。氷の剣を、力任せに握り締める。

「ああもうお前って本当に馬鹿だな! 馬鹿に馬鹿って言われたら、お終いなんだよ!」

「自覚していたか」

氷の剣に魔力を込めながら、イノセンタスは嘲笑した。弟の熱で溶けかけた刃が、再び氷結し始めていく。
白く冷えたガントレットに、薄い氷が昇ってきた。ギルディオスは冷たくなった左手を気にせず、叫ぶ。

「そんくれぇ、いくらオレでも自覚すらぁ! 大体なぁ、イノが迫ってジュリィが一度でも喜んだか? お前に操られていたせいで、ジュリィがどれだけ苦しんでいたか知っているのか! そんなんで無理矢理孕ませて結婚したってな、誰も幸せになんてなれねぇんだよ!」

「なれるさ」

「なれねぇんだよ!」

ばきり、とギルディオスは氷の剣を握り潰した。

「いくら操ったってジュリィはイノを男とは見ねぇし、イノも幸せになんざなれねぇ!」

「くどい!」

イノセンタスは氷の剣を溶かし、すぐに形を変えた。盾にも似た氷の板を、ごっ、と弟の胸元にめり込ませた。
重たい衝撃に、ギルディオスは少しよろけた。すぐに姿勢を戻したが、イノセンタスの姿は前から失せていた。
影を感じて見上げると、藍色の魔導師は浮いていた。両手を広げていたが、それを弟に向けて突き出した。
無数の刃が現れ、雨を切り裂いて降り注いできた。草を切り泥を散らし、大量の氷が地面に突き刺さっていく。
ギルディオスはそれをいくつか切ったが、一つが当たった。がぁん、と側頭部が氷塊に叩かれ、視界が揺れた。

「がっ」

ヘルムを押さえたギルディオスの前に、イノセンタスが戻ってきた。藍色のマントは、端が少し凍っている。
マントを払って氷を落としてから、イノセンタスは片手を挙げた。ギルディオスは、痛みの残る頭を上げた。

「空、飛べんのかよ」

「滞空時間は短いがな」

「そんなもん、自慢にもなりゃしねぇよ!」

ギルディオスは体を起こし、地面を蹴り上げた。イノセンタスに殴り掛かろうとしたが、足元から土が起きた。
がぼっ、と冷えた土を銀色の拳が抉った。土を押し切ったギルディオスは、一歩、兄へと踏み込む。
草混じりの土は崩れ落ち、薄く氷の張った地面に散らばった。その氷が、甲冑から発せられる熱で溶けていた。

「ドラゴンに比べたら、どうってことねぇんだよ」

「お前も、分類上は人だろう。なぜ、そこまであの竜の女を好く」

不可解そうなイノセンタスに、ギルディオスは笑った。へっ、と低めの声が洩れる。

「理由なんざありゃしねぇよ。好きなもんは好きだし、ありゃあオレの娘なんだよ」

「意味が解らないな」

「解らなくて結構だよ」

泥にまみれた手で、ギルディオスはバスタードソードを握り直した。ぎちり、と切っ先を上げる。

「まぁもっとも、イノになんざ一生解らねぇだろうけどな!」

鼓動にも似た感覚が、胸の奥にあった。ギルディオスは慎重に動いて、イノセンタスとの距離を詰めていった。
兄は、思っていたより強かった。すぐに首を刎ねるぐらいは出来るかと思ったが、予想以上に抵抗された。
伊達に魔導師をやっているわけではなさそうだ。一応は軍人でもあったのだから、当然かもしれない。
じりじりと動いて、ギルディオスは城の正面玄関に背を向けた。後方からは、未だに物音もしていない。
誰も起き上がることがないということは、あの精神衝撃波は、相当な高出力で放ったのだろう。
もう、容赦はしないようだ。イノセンタスのジュリアに対する思いと、強い執念を感じて少しぞくりとした。
このままでは、城ごと皆が殺されてもおかしくない。レベッカも、あの状態では頼りには出来ないだろう。
何が何でも、負けるわけにはいかない。たとえ兄であろうとも、場合によっては殺さなければならないかもしれない。
ギルディオスは決意を固め、イノセンタスに向かっていった。イノセンタスは、両手を前に向けている。
巨大な剣が振り下ろされた瞬間、氷の障壁が現れた。ギルディオスが身を引く前に、剣は氷に包まれていた。

「なっ」

バスタードソードは、冷え始めていた。ギルディオスは氷の壁に刺さった剣を引いたが、まるで動かない。
なんとか引き抜こうとしたが、頭上から氷塊が降り注いできた。仕方なく柄から手を放して、数歩後退する。
どががっ、と氷の壁を削りながら落ちてきた氷塊は、先程のものよりも大きさと鋭さを増していた。
ギルディオスは舌打ちしたが、次から次へと氷は襲ってくる。避けた傍から地面が抉られ、氷だらけになった。
だが、攻めなければ勝てない。ギルディオスは前進しようとしたが、すぐ目の前に、槍の如き氷が突き刺さった。
冷気を含む風が、イノセンタスの周囲を巡っていた。イノセンタスは身動きの取れない弟へ、笑う。

「お前にいくら力があろうとも、丸腰ではどうにも出来まい」

「そいつぁどうかな」

ギルディオスは槍の氷を握り、ばきりと砕いた。じゅっ、と足元の氷塊が溶けて蒸発し、水蒸気が立ち上っていく。
イノセンタスは、手袋を外した。冷え切った手のひらを広げると、その前に氷の柱が立ち上がってくる。

「殺せるものなら、殺してみろ」

「お安い御用だ!」

ギルディオスは一気に駆け出し、イノセンタスの前に出た。兄が一言唱えると氷柱は膨らみ、分厚い氷壁となった。
身長を超える大きさの白い壁に、ギルディオスは蹴りを叩き込んだ。がん、とかかとが表面を少し削った。
ヒビは入らず、冷気は弱まらなかった。ギルディオスは更に追撃を加えようとしたが、後退すると背が当たった。
振り返ると、いつのまにか背後にも白い壁が出来上がっていた。ギルディオスは身を下げ、脱しようとした。
だが、上から降ってきた氷壁が左右を塞いだ。頭上を見上げると、天気雨の空が四角く壁に切り取られている。
誘い込まれてしまったようだ。ギルディオスがそれに気付いたとき、空さえも、厚い氷壁に塞がれてしまった。
白く、薄暗い空間が出来上がっていた。ギルディオスが様子を窺っていると、外から兄の声が聞こえてきた。

「しばらくそこにいろ」

兄の足音が、壁の向こうを通っていくのが聞こえる。

「後で殺してやろう」

「待ちやがれ!」

どん、とギルディオスは壁を殴ったが、氷の表面が僅かに歪んだだけだった。自分の声が、氷に反響する。
息を殺していると、兄が城へと近付いていくのが解った。階段を昇っているのか、石を踏む音がしている。
このままでは、いけない。ギルディオスは両の拳をぎちりと固め、真正面の氷の壁に力任せにぶつけていった。
冷気が、空っぽの体の中に染み込んでくる。狭い空間では、硬い氷を殴る衝撃音だけしか聞こえなかった。
無心に殴り続けていると、いくら甲冑でも拳が痛んでくる。人の時よりは弱くとも、痛覚は存在している。
うっすらとした光が透けている氷を殴りながら、ギルディオスは、イノセンタスのことを考えていた。
この氷は、兄に似ている。冷え切っていて、頑なで、こうして外と中を分けてしまう壁にさえなっている。
それを、打ち破ってやれなかった。あの時、どうして振り返らなかったのか。ギルディオスは強く後悔した。
十七年前の雨の夜、兄にも言えば良かった。また会いに来る、お前も外へ連れ出してやる、とさえ言っていれば。

「くそぉ!」

がごん、とギルディオスは削れてきた氷壁に拳を埋めた。全身から溢れる熱で、溶けた氷が水となっていく。
狭い空間で空気も暖まってきたのか、上を塞いでいる氷が溶けていた。いくつもの、滴が落ちてくる。
ぼたぼたと地面に流れ落ちる水が、まるで自分の涙のようだった。体があれば、間違いなく泣いている。
兄への怒りで、一族を狂わせたルーへの怒りで、そして、兄を一度も救えなかった己への怒りで。

「ちきしょう!」

がっ、と右の拳が氷壁を殴り付けたが、緩んだ。多少歪んできたガントレットが、溶けかけた氷を握った。
それはすぐに崩れて水となり、形はなくなった。兄を殺すという決意は、揺らいでしまいそうだった。
イノセンタスの姿が、脳裏を過ぎっていった。三十四になっているはずなのに、昔とあまり変わっていなかった。
誰よりも誇らしく、尊敬していた双子の兄。そして、誰よりも嫌いで、何よりも憎んでいた双子の兄。
いや、違う。ギルディオスは断片だけでしかなかった記憶を全て繋げて、兄への思いも繋ぎ、形を作った。
本当は、欠片も憎んではいない。ただ、兄に付き合う形で憎んでしまい、そのことを忘れていただけだ。
追憶は許された。そして、許されない罪を重ねる兄を一度たりとて救えなかった自分が、許せなかった。
がごっ、と拳は氷壁に深くめり込んだ。自分へのやるせなさと怒りが、弱まりそうだった熱を呼び起こした。

「砕けろ!」

深い赤のマントが翻り、がっ、と薄くなった氷壁に足が打ち込まれた。びしり、と少しヒビが走る。

「割れろ!」

赤い頭飾りを振りかざし、ギルディオスは肩をぶつけた。氷で出来た狭い空間が、その震動で揺らいだ。

「ぶっ壊れちまぇえええっ!」

銀色の拳が、氷壁を打ち破った。その周りから氷は溶け、ヒビは広がり、中の空気は彼の怒りで過熱していた。
ずっ、と四方の氷壁の一辺が動いた。結合が外れた途端、崩れた氷壁に向けてずるりと上の氷が落ちてきた。
ギルディオスが外の世界を見た直後、どぉん、と目前を氷壁が塞いだ。それを、拳で打ち倒す。

「邪魔だ」

外気は、冷たかった。夏のはずなのに肩を叩いている雨は冷たく、まるで冬の雨のように思えていた。
息を整えながら、ギルディオスは城へと向いた。妹を抱きかかえた兄が、慎重な足取りで階段を下りてきている。
手の中に残っていた氷が、全て消え去った。ギルディオスは兄へと向かって歩いていたが、足を止めた。
氷の障壁の中には、剣術の師からもらったバスタードソードが、深々と白い壁に埋まったままになっていた。
ごん、と斜めに刺さった剣の脇を殴った。焼けた鉄のように過熱した拳は、すぐに氷を溶かし、剣を解放した。
崩れた氷から、バスタードソードを抜いた。剣を担いだギルディオスは、気を失った妹を抱く兄へ向き直る。

「ジュリィには、もう構うな」

「やはり、お前もジュリアを愛しているではないか」

イノセンタスは、愛おしげに妹の髪へ頬を当てた。ギルディオスは、冷たい雨の中を進む。

「だから違うっつってんだろ。オレはイノじゃねぇ、イノとは違うんだよ。この解らず屋が」

「ならば、愛してはいないのか!」

ジュリアを抱く腕に力を込め、イノセンタスは叫んだ。ギルディオスは叫び返す。

「ああ愛しているさジュリィもイノも、オレは昔っから愛しているんだよ! だがな、家族としてなんだよ!」

階段を下りきったイノセンタスを睨み、ギルディオスは更に叫ぶ。

「ジュリィもそうなんだよ! だから、最初っからお前の勘違いなんだよ!」

「私は何も違えてはいない!」

「違えまくってるんだよ馬鹿野郎!」

駆け出したギルディオスは、イノセンタスに斬り掛かった。イノセンタスは妹を体で覆い、身を屈める。
がきん、と階段の角が砕け散った。ギルディオスは、ジュリアを階段に寝かせているイノセンタスを見下ろした。

「いいかイノ、良く聞け。ジュリィはオレが好きだったが、お前も充分好きだったんだ。けど、お前が考えているようなことじゃねぇ。ジュリィもオレも、真っ当に同じ家族として好き合ってただけなんだよ」

イノセンタスは、顔を伏せていた。苦しげな表情で眠っているジュリアの頬を、冷たい指先が少し撫でた。
くそぉ、と弟は悔しげに唸っている。イノセンタスは、幼さを残している妹を見つめていたが、立ち上がった。
ギルディオスの壊れかけた手が、イノセンタスの腕を掴んだ。焼けた鉄の感触に、イノセンタスは顔を歪める。
直後、視界が大きく回り、背中に衝撃がやってきた。鈍い痛みと土の匂いで、投げられたのだ、と解った。
視界には、古びた城と明るくなりつつある空が見えていた。西日が雲を染めていて、雲の色は炎のようだった。
そこに、ギルディオスの姿が入ってきた。立てよ馬鹿兄貴ぃ、と苦しげに声を上げながら、胸倉を掴んでいる。
無理矢理立たされたイノセンタスは、ギルディオスのヘルムを見ていた。水滴が、兜を伝った痕があった。
それは、まるで涙の筋だった。ヘルムに開いた流線形の隙間に、僅かに溜まった水が、ついっと滑り落ちた。

「イノ」

ぎちり、とギルディオスの手が服を握り締める。じゅっ、と布が焼けている。

「どうして、オレを殺しやがった。オレを殺しさえしなきゃ、まだ、戻れたはずなのによ」

「そうだな」

イノセンタスは、弟の手から伝わる熱を感じていた。その熱さは、不思議と心地良かった。

「そうかもしれん」

「かもじゃねぇ、そうなんだよ。オレを殺しさえしなきゃ」

ギルディオスの声は、震えていた。

「イノは、こっちに戻ってこられたに決まってんだろうが」

「ああ」

イノセンタスが頷くと、ギルディオスの手が緩んだ。ギルディオスは、肩からバスタードソードを下ろした。
兄を放してから、怒りと苛立ちの混じった悲しみを押さえていた。戻らないと解っていても、戻って欲しかった。
十七年前の、あの雨の日に時間が戻れば、兄へ言葉を掛けてやれるのに。ギルディオスは、やりきれなかった。
イノセンタスは、弟を見つめていた。自分が殺してしまったせいで、人ならざる姿となってしまった。
あのまま生きていたら、自分と似ていたのだろうか。いや、姿は近くとも、中身は相当違っているのだろう。
ギルディオスは一つだけ残っていた疑問を、力の抜けた声で言った。もう、兄を殺す気は失せてしまった。

「なぁ、イノ。どうして、二年も間を開けた。なんで、オレの鎧に魔法を掛けてから、二年も放っておいたんだ」

「簡単なことだ」

イノセンタスは、空を見上げていた。その光景は、弟を殺した日の空に良く似ていた。

「迷っていたからだ」

「そうか」

「ああ、そうだ。お前を殺そうかどうか、長く迷っていた。だが、やはり最後には、殺すしかないと思ったんだ」

「…そのまま、一生迷ってりゃ良かったんだよ」

ぐっとヘルムを押さえて、ギルディオスは唸るように吐き捨てた。イノセンタスは、ああ、と返した。
イノセンタスは、階段に寝かせているジュリアへ目をやった。妹へ向けて内心で、愛している、と呟いた。
彼女や彼らに対する贖罪は、出来そうにもない。少々罪を重ねすぎたか、とイノセンタスは内心で後悔した。
片手を挙げて、魔力を高めた。弱り切った体で魔法を放ち過ぎたせいで、頭痛は激しく、熱もあるようだった。
弟の右手が上がり、バスタードソードが地面と平行になった。ギルディオスは、急に振り向いた。

「おい」

イノセンタスは両手を広げると、刃を腹へ向けた。ギルディオスは手を下げようとしたが、下がらなかった。
氷が、腕を固めていた。地面から這い上がってきた冷気が足元を固めていて、腕も白くなっていた。
イノセンタスは、手を自分の方へ傾けた。ずっ、と弟の手から巨大な剣が抜けて、空中に浮かぶ格好となった。
冷たい刃には、兄弟が映っていた。鏡写しの双子は鏡のような刃に、似ても似つかぬ互いの姿を映していた。
兄は十七年振りに、弟の名を呼んだ。



「すまなかったな、ギルディオス」



手が、引かれた。イノセンタスは柄を両手で握り締め、力の入らぬ腕に渾身の力を込め、腹へと突き立てた。
生温い血が下半身を濡らし、鉄臭さが泥臭さに混じった。激痛の中、内蔵どころか骨も砕けた感触が解った。
激しく咳き込みながら、膝を折った。地面に膝を付くと同時に、がしゃり、と背後で剣先が地面を叩いた。
ギルディオスは兄の前に、力なく膝を付いた。逆流した血を口元から落としている兄を、そっと支える。
兄は、笑ってはいなかった。悲しげでもあり、苦しげでもある顔をして、片割れの剣で死に絶えていた。
赤黒い血溜まりが広がり、所々散乱している氷に馴染んでいた。その氷も溶け始めていて、水となっている。
ギルディオスは、兄の腹から剣を引き抜いた。今まで以上の血が溢れて、支えを失った体は前のめりになる。

「イノ」

ギルディオスは剣を傍らに置き、兄を抱き留めた。ほのかに残っている体温は、冷たくも温かかった。
深い傷口のある背に手を回すと、べっとりと血が付いた。それを見、ギルディオスは項垂れた。
兄の肩に頭を乗せて、声にならない声を漏らす。そして、焼け付きそうな色をした空へ、猛った。



「うぉおおああああぁぁっ!」



あれだけ激しかった雨は、止んでいた。夕暮れている空には強い風が吹き、徐々に晴れつつある。
氷のような悲しみの中、ギルディオスは思っていた。なぜ今、雨が降らない。なぜ、晴れてしまったのだ。
雨が降らなければ、涙は流せない。何もない空洞の体では、いくら悲しくともその感情を出せない。
ただ一人の兄が死んだときでさえ、泣くことが出来ない。ギルディオスは、悲しくも悔しかった。
泣けない代わりに、猛り続けた。竜のような咆哮を、炎に焼かれたような空へと、一心に放ち続けていた。
至るところに散らばっている氷の破片が、まるで、鏡の破片のように輝いていた。




死と共に、別れと共に、終焉は訪れた。
悲しき戦いを経て、悲しき別離を経て、それでも彼らは長らえる。
巨大なる世界の一部となりて、在り続けていくのである。だが、今ばかりは。

死した者達へ、思いを馳せようではないか。








05 7/18