ドラゴンは笑わない




そして、竜は笑う



フィフィリアンヌは、本を読んでいた。


古びて黄ばんだページをめくり、フィフィリアンヌは活字を追っていた。背中は、傍らのカインに預けている。
間近から感じる体温は温かく、心地良かった。秋の穏やかな日差しが窓から差し込み、研究室を染めていた。
膝の上に乗せていた本から目を上げて、窓の外を見た。枯れて色付いた木々が、周囲の森を彩っている。
因縁と陰謀の絡んだ出来事が収束してから、三ヶ月が過ぎていた。季節は巡り、夏が終わって秋が訪れた。
あの出来事に関わった者達は、それぞれの行くべき道を見定めた。故に、竜の城を訪れる人数は格段に減った。
それは少々寂しくもあったが、彼らにとっての平穏が戻ってきた証でもあるので、喜ばしいことだった。
フィフィリアンヌは、背後のカインを見上げる。紅茶を傾けていた彼は、もたれかかっている少女に振り向いた。

「どうだ」

「先日よりは、かなり良いですよ」

カインは手にしていたティーカップを下ろし、かちゃりとソーサーの上に置いた。中身は、半分残っている。

「ちゃんと紅茶の味になってますし、何より渋くありません。随分と上達したじゃないですか」

「そうか?」

あまり自信のなさそうなフィフィリアンヌに、ええ、とカインは頷いた。フィフィリアンヌは、ぱたんと本を閉じた。
研究室の隅に置かれたソファーに、二人は身を寄せていた。近頃は、こうしていることが多くなっていた。
テーブルの上には、柔らかく湯気を昇らせるティーカップとポットが、妙な形をした菓子と共に置いてあった。
それらは全て、フィフィリアンヌが作ったものだ。メアリーに教わって、挫折しながらも料理の練習を重ねていた。
月に一度、この城を訪れるようになったフィフィリアンヌの母、アンジェリーナを持て成すためだった。
別に誰にそそのかされたわけでもなく、フィフィリアンヌの意思での行動だった。なので、男達は驚いていた。
特に反応がひどかったのがギルディオスで、お前は親を殺す気か、とまで叫んだので蹴り飛ばされてしまった。
カインは、その練習台となっていた。カインとしては願ってもないことなのだが、ギルディオスには同情された。
本を膝に置いて、少女は体重を掛けてきた。カインが腕を上げると、彼女は仰向けになって膝の上に倒れてきた。
真下からカインを見上げたフィフィリアンヌは、赤い瞳に彼を映している。その目から、鋭さは失せていた。

「見たところ、世辞ではなさそうだ」

「正直に言ってくれ、と言ったのはあなたですからね」

カインは、少女の頬に手を添えた。フィフィリアンヌはカインの手に、自分の手を重ねる。

「懸命だ」

カインはもう一方の手で、フィフィリアンヌの前髪を退けた。濃緑の髪は細く、さらりと容易く滑り落ちた。
ツノの根元に指を向かわせると、僅かに眉間が歪む。それでも嫌というわけではないようで、頬が赤らんでいる。
緑髪の間から突き出ている短めのツノを撫で、カインは微笑んだ。彼女の急所が、近頃になって解ってきた。
触れ合えるようになると、どうしても弱い部分を探したくなる。女王のような彼女を、弱らせるのは楽しいのだ。
ツノを握られたまま、フィフィリアンヌは困ったように唇を曲げた。ツノを掴まれては、身動きが取れなくなる。

「だから、そこはやめろと」

「抵抗しないんですもん」

カインが笑うと、フィフィリアンヌは不愉快げにする。頬の温度が上がるのを感じながらも、動くに動けなかった。
彼と戯れるのは、悪くはない。むしろ、楽しいぐらいだった。だが、こうしてからかわれると困ってしまう。
カインは、フィフィリアンヌが照れと胸苦しさでろくに抵抗出来ないのを知っているからこそ、こんなことをする。
フィフィリアンヌもそれが解っているから、余計に抵抗する気は起きなかった。はね除けては、彼に悪いからだ。
ツノを握っていた手が外れたので、フィフィリアンヌは体を起こした。翼の生えた背を曲げて、座り直す。
その位置は、彼の膝の上だった。普通に隣り合うと目線が合わないので、フィフィリアンヌはここが好きだった。
フィフィリアンヌはテーブルに手を伸ばし、本をテーブルに置いた。そして、紅茶の載った盆を押しやった。
その下から、盆に潰されて平らになった封筒が現れた。カインは竜の紋が印された封筒を取り、眺める。

「竜王家の紋ですね」

「昨日、エドワードがやってきてな、それを渡していったのだ」

フィフィリアンヌはカインの手から封筒を取ると、便箋を出した。彼の胸に背を預け、薄灰色の紙を広げた。

「七代目竜王陛下、ドゥラルゴ七世が崩御されたし。至急竜王都へ帰還せよ、とのことだ」

「それは大変ですね」

カインはフィフィリアンヌの肩越しに、便箋を見下ろした。王国とも帝国とも違う言葉が、書き連ねてある。
フィフィリアンヌは便箋を封筒に入れてから、ぽいっとテーブルに放った。残念そうに、深く息を吐く。

「これで、金貨十万枚は消えたか」

「はい?」

カインが不思議そうにすると、フィフィリアンヌは竜王都からの手紙を睨んだ。

「前払いにしておけば良かったな」

「ですから、何がです?」

「依頼主が死んだのだから、守秘義務は消えた。ならば話しても良かろう」

「依頼主と言うと、竜王のことですか」

カインが言うと、そうだ、とフィフィリアンヌは頷いた。

「以前に一度話したと思うが、ギルディオスはある仕事の実験台として蘇らせた。そして、その本番が竜王なのだ。何年前だったか忘れたが、竜王の使者がやってきてな。竜王が死した暁にはその魂を捕らえ、新たなる体を与えて永久なる命を差し上げてくれ、と依頼されたのだ。報酬は金貨十五万枚と、竜王都での地位だ。私はあまり興味がなかったのだが、どうしてもと言うし前金として金貨五万枚をもらっていたから、せめて実験ぐらいは行おうと思ってギルディオスの馬鹿の魂を捕らえ、甲冑の体を与えたのだ。知っての通り、ニワトリ頭は成功した。だが、その後に色々と調べて計算をしてみたら、魔導鉱石に魂を癒着させる魔法が適応出来るのは、人間だけなのだ。竜族の魂は人間に比べて大きさがある上に性質が違っていて、魔導鉱石に入れたとしても、双方が弾かれ合うだけなのだ。つまり、竜王の願いを果たすことは出来ないのだ」

「永遠の命、というやつですね」

少女の腰に腕を回し、カインは軽く抱き寄せた。フィフィリアンヌは、小さく声を漏らしたが堪える。

「簡単に言えばそうだ。だが、竜王は二千年以上生きた竜だ。それ以上長らえても、何になるというのだ」

「永遠への憧れは、人も竜も同じってことですか」

カインはフィフィリアンヌを支えながら、窓へ向いた。外では、セイラの澄んだ歌声が響いている。

「ですけど僕は、あまり頂けませんね。死があるからこそ、有限であるからこそ生きている意味があると思うんです」

「私もそう言ったのだが、竜王は聞き入れなくてな。やはりあれは、耄碌していたのだ」

フィフィリアンヌはカインの二の腕に、顔を寄せた。頭の後ろから、彼の鼓動の音と震動が感じられていた。
どちらともなく黙ったので、研究室は静まり返った。閉ざされた窓越しに、異形の歌が僅かに流れ込んでくる。
体を寄せていると、やはり気恥ずかしくなってきていた。フィフィリアンヌは固く目を閉じ、それを押し込めていた。
せっかくまともに示せるようになった彼への好意を、以前のように、照れと意地で打ち消してしまいたくはなかった。
フィフィリアンヌはカインの腕に、慎重に触れた。下手でも剣の鍛錬をしているからか、それなりに固かった。
カインはティーカップを取り、飲みかけの紅茶を呷った。空になったティーカップを置き、彼女を腕の中に納める。

「そんなに遠慮しなくても」

「してはいない」

フィフィリアンヌが言いづらそうに返すと、そうですか、とカインは笑む。

「でしたらいいんですけど。これから僕も少しは忙しくなりますから、遠慮して頂かない方が嬉しいんですけどね」

「議院の解体に付き合わされるのか?」

フィフィリアンヌが呟くと、カインは身を屈める。少女の緑髪とツノに、頬を当てた。

「ええ。兄様達だけでは手が足りないようで、仕方なく。ですけど、これも急な話でしたね」

「イノセンタスの置き土産のおかげだな」

フィフィリアンヌは多少戸惑いながらも、出来るだけ口調を平静にした。気を抜くと、上擦ってしまいそうだった。
イノセンタスの死後、彼が調査した両国の腐敗が明るみになった。それは全て、グレイスの仕業だった。
グレイスが、魔導師協会の息が掛かっていない議員達に、イノセンタスの告発文書をばらまいたのだ。
その結果、事実を知った帝国と王国の議院は大荒れとなり、議員達の裏にいた魔導師協会も揺れに揺れた。
冒険心を政治の道具にされていたドラゴン・スレイヤー達もいきり立ち、帝国では内紛が起きたほどだった。
王国は内紛は起きなかったが、暗殺が相次いだ。宮廷魔導師に操られていた状態だった王子達が、殺された。
軍部の魔導師部隊も解散させられ、上位軍人達も幾人か辞職に追い込まれてしまうほどの事態となった。
どちらの国も自国の議院を立て直すことに手一杯で、戦争の兆しも半ば自然消滅する形で消え失せてしまった。
両国の魔導師協会も、処刑される者は処刑された。そして先月、まともな議員達によって完全に解体された。
それに困ったのは魔導師達だったが、彼らは逞しかった。ヴェヴェリスを拠点に、新たな魔導師協会を作った。
魔法と学問の都市であるヴェヴェリスの魔導師達は、あまり政治に関心を持っていなかったので癒着はなかった。
そして、真っ当な魔導師達の大半はヴェヴェリスに移った。大人数だったので、王都は少々閑散としてしまった。
王国は、以前から民衆に気を掛けていた第一王女が王位を継ぎ、議院の解体と行政の再生を行っている最中だ。
帝国も、割とまともな皇族が皇帝に仕立て上げられ、王国に遅れながらも議院の立て直しを行い始めている。
フィフィリアンヌは、イノセンタスを思い出していた。性格はまるで合わなかったが、彼は有能な男だった。
生きていれば、王国の改革はもっと進んだことだろう。彼の最大の不幸は、ヴァトラスに生まれたことだった。
ヴァトラスでさえなければ、魔導師としての才も伸ばせ、家と血筋に縛られてしまうこともなかったはずだ。
惜しい男が死んだ、とフィフィリアンヌは内心で呟いた。違う形でイノセンタスに会ってみたかった、とも思っていた。
カインは、フィフィリアンヌを見下ろしていた。整った顔から表情が消えているときは、考え事をしているときだ。
彼女が何を考えているか、いつも気になっていた。時折聞いてみるが、あまり明確な答えは返ってこなかった。
恐らく今は、イノセンタスのことだろう。カインはそれがあまり面白くなく、正直なところ、少し妬けていた。
すると、フィフィリアンヌが見上げてきた。カインが複雑そうな顔をしているのを見て、細い眉を曲げる。

「なんだ」

「いえ、別に」

カインが素っ気なく返すと、フィフィリアンヌは彼の膝から下りた。すとん、と隣に腰掛けて前を向いた。
フィフィリアンヌは、彼が機嫌を損ねてしまったのだと察した。その理由は見当が付くが、下らないと思った。
愛想のない横顔を横目に見、カインはからかってやりたくなった。軽い嫉妬を、紛らわせたくもあった。
カインはフィフィリアンヌの両肩に手を当て、向き直らせた。彼女はきょとんとして、吊り上がった目を丸める。

「何をする」

「たまには、あなたの方からして頂ければ嬉しいのですが?」

カインは、首をかしげてみせた。言葉の意味を察したフィフィリアンヌは、赤面しながら目を見開いていった。
身を下げようとしたが、両肩を掴まれているので動けなかった。目の前の男を、忌々しげに睨み付ける。

「下らんことで妬いたのは貴様だろうが!」

「解っているなら、尚更だと思いますが」

意地悪く、カインは笑った。フィフィリアンヌは俯いてしまい、すっかり熱くなってしまった顔を手で押さえた。
緊張と腹立たしさと、照れくささで胸が痛かった。フィフィリアンヌは、肩に当てられた手と彼の顔を交互に見た。
普段の物腰は弱いのに、どうしてこういうときだけは強気なのだろうか。いつも、それが不思議だった。
柔らかな茶色の髪の下にある青い目を、見上げてみた。穏やかだが、すんなりと解放してくれる気配はなかった。
身を捩ってみても、肩を掴んだ両手は緩まなかった。フィフィリアンヌは困り果て、うぅ、と力なく唸った。
弱ったフィフィリアンヌの姿に、カインは半分ほど満足していた。好意故に照れる彼女は、本当に可愛らしい。
しばらくすると、フィフィリアンヌは意を決したようだった。ぎゅっと唇を締め、緊張で表情を固まっている。
カインが肩から手を放すと、フィフィリアンヌは膝立ちになった。こうしないと、目線を合わせることが出来ない。

「許して、くれんのか?」

「ダメです」

カインが即答すると、フィフィリアンヌは再度唸った。徐々に首を動かしてカインに向いたが、その顔は困っていた。
出来ることなら逃げ出してしまいたかったが、逃げられなかった。カインの手が、しっかりと手首を握っていた。
フィフィリアンヌは高ぶった鼓動で胸が痛かったが、ぐっと堪えた。逃げたら、今以上にからかってくるだろう。
カインに握られた手首をそのままに、空いている方の手を伸ばした。割と幅のある、彼の肩に手を乗せた。
その肩に乗っている群青色のマントをしっかりと掴み、フィフィリアンヌは一度目を逸らしたが、彼へと戻した。
手順は解っているのだが、体が動かなかった。関節が硬直してしまって、少し動かすにも気力が必要だった。
カインに向けて身を乗り出し、背筋を伸ばした。意地の悪さが薄らいだ笑みと、真正面から向き合った。
フィフィリアンヌはすっかり乾いてしまった唇を軽く舐めてから、浅い呼吸を整えた。胸を叩く鼓動が、うるさい。
視線を彼へと据えて、顔を近付けた。フィフィリアンヌはかなりぎこちない動作で、カインと唇を合わせた。
軽く押していたが、すぐに離れた。フィフィリアンヌは勢い良くずり下がって距離を開け、口元を押さえる。

「もうやらんぞ、やらんからな!」

「充分です」

カインが満足げに笑うと、フィフィリアンヌは潤んだ目を伏せた。照れくさくて、どうにかなりそうだった。
くぅ、と悔しげな声を漏らして額を押さえた彼女を、カインは眺めていた。長く尖った耳元まで、赤らんでいる。
それが、とても愛おしかった。日に日に増えてくるフィフィリアンヌの感情を、近くから見られることが嬉しかった。
城から帰ろうとすると、悲しげにする目。僅かばかり、楽しげになる声。決して浮かれないが、嬉しそうな姿。
そのどれも、見逃したくはなかった。そのうち絵にでも描いてやりたいな、とカインは思っていた。
竜の姿に戻った彼女と、人の姿に擬した彼女を並べた構図の大きな絵を、この城のどこかに飾ってやりたい。
絵画にしてしまえば、愛しき彼女は平面の上では永遠となる。彼女は一見すれば不変だが、決して永遠ではない。
寿命の長い竜ではあるが、半分は人間だ。いつか成長する日も来るだろうし、老いて死ぬ日も来るだろう。
そうなってしまう前に、彼女の時間を切り取っておきたかった。形にして、残しておくべきだとすら思った。
カインの視線の先には、照れが納まって表情の失せてきたフィフィリアンヌがいた。弱い日光で、輪郭が淡い。
頬の染まった横顔は、愛らしくも凛としていた。


セイラは、歌を止めた。
乾いた冷たさを含んできた風は、湖面を通ってくると一層冷えていた。秋は、じきに訪れる冬の兆しなのだ。
夏の色鮮やかさは消え、木々は枯れてきていた。セイラはそれが寂しかったが、仕方ないと思っていた。
どんなものも、いずれ朽ちる。金色の単眼を動かして、イノセンタスが死した場所、正面玄関の階段へと向けた。
あれだけ恐ろしかった男も、死んでしまえばただの骸だった。セイラは、それが無性に悲しくて仕方なかった。
ギルディオスの兄と、母の兄と、一度でも言葉を交わしてみたかった。聡明な彼の、本当の言葉を聞きたかった。
どんな歌が好きだったのか、何をしていたのか、知りたかった。そして、ジュリアを愛した理由も知りたかった。
セイラは階段から目線を外し、湖面へと向いた。近頃は冷え込んできたので、水遊びをする時間も減ってきた。
人造魔物の兄妹達が、ジュリアとゼファードと共に王都を出て久しい。彼らがいなくなって、二ヶ月半は過ぎた。
周囲からは慌ただしさは消えたが、少し寂しいと思っていた。また、皆にこの城を訪ねてきて欲しかった。
セイラは湖畔に腰を下ろし、枯れかけた草の上に座った。ばさり、とカトリーヌが下りてきたので手を出した。
巨大で骨張った四本指の手に、暗青の肌色をしたワイバーンが滑り込んできた。手のひらに、軽い重みが降りた。
大分成長したカトリーヌは、尾も翼も伸びてきていた。セイラの指の、第一関節ほどは身長があるだろう。
尾に結ばれた赤いリボンは、小さいように見えた。カトリーヌはそれを振ってみせ、ぎぃ、と高い声で鳴いた。

 セイラ。あなたのお兄さん達、元気かしら。

「手紙、来タ」

セイラは、カトリーヌを乗せた手を持ち上げた。くるんと長い尾を丸め、ワイバーンは鳴く。

 どんなことが書いてあったの?

「色々」

セイラは手紙の内容を、なるべく簡潔にまとめて表現した。数日前に、ジュリアから手紙が届いていたのだ。
その内容は、最初にセイラへの謝罪だった。あなただけ置き去りにしてごめんなさい、と書いてあった。
だがセイラは、謝られる謂われはないと思った。フィフィリアンヌの元にいるのは、自分自身の意思なのだ。
それに、たとえ離れていようとも、兄達とは魂で繋がっているとも思っていた。だから、寂しくはなかった。
手紙の一枚目はジュリアのもので、セイラへの謝罪とフィフィリアンヌへの感謝が綺麗な文字で綴ってあった。
二枚目はゼファードのもので、これからもジュリアを支える、とやたらと情熱の籠もった文章で書いてあった。
三枚目はウルバードで、乱雑な字ながらもきっちりとした文章で、東王都の研究所の片付けに苦労したとあった。
四枚目はレオーナで、多少は女性らしい文字で、皆は元気でいるから心配しないでね、と書いてあった。
五枚目はスパイドだったが、大半はレベッカへの思いだった。次兄は、石の幼女に恋い焦がれているらしかった。
セイラはその全てを説明しようとしたが、詰まった。適切な言葉が浮かばずに、口の中で唸ってしまった。
カトリーヌは、ぱたぱたと羽ばたいた。薄黄の目で巨体の単眼の魔物を見上げながら、低い声で鳴く。

 そんなに長いお手紙だったの?

「ウン。五枚、全部、違ウ。ダカラ、簡単、説明、出来ナイ」

困ったように、セイラは厚い瞼を伏せた。カトリーヌはセイラの太い指に縋り、毒針の付いた尾を軽く振る。

 無理しなくていいわ。後で、フィフィリアンヌお姉様に読んで頂ければいいんだもの。

「ソレガ、イイ」

セイラが頷くと、ぎゅるう、とカトリーヌも頷いた。その様子に、セイラは大きな金色の単眼を細めた。
カトリーヌは、幼生から成長期へと変わりつつある。ウロコの艶も滑らかになり、尾の毒針も鋭さを増していた。
数年経てば、立派なワイバーンになることだろう。セイラはその姿を想像し、さぞ美しいのだろうな、と思った。
緑竜の姿に戻ったフィフィリアンヌは、力強く猛々しく美しかった。だから、カトリーヌもそうなるに違いない。
根拠はなくとも、そんな確信をしていた。セイラは、今は手の中に納まっているカトリーヌを眺めていた。
セイラにじっと眺められ、カトリーヌはきょとんとしながら首をかしげた。曇りのない金色の目は、笑っている。
その光景を、伯爵は正面玄関の階段から傍観していた。フラスコを伝わって、石床の冷たさが染み入ってくる。
視点を後ろに向ければ、分厚く背の高い扉がある。その向こうは、友人の幽霊が消え失せた場所だった。
空虚な感覚は、未だにあった。それは生涯消えないのだろう、と伯爵は小さく気泡を吐き出しながら思っていた。
眠りに落ちれば、夢に見る。記憶を辿れば、すぐに出てくる。それほどまでに、デイビットの存在は大きかった。
地べたを這う魔物に過ぎない自分が、初めて得た友らしい友だった。ごぼり、と伯爵は気泡を出して破裂させた。
彼と地下に籠もった一週間は、とても楽しかった。際限なく喋り続けていると、時間はすぐに通り過ぎていった。
また会いたいと思っても、彼と会うことは叶わない。幽霊が消えてしまえば、二度と戻らないことは知っている。
伯爵は、何度も思い返した記憶を辿っていた。このままではいけない、と思いながらも、記憶の底に沈んでいた。
不意に、フラスコの上に影がやってきた。いきなり掴まれたかと思うと持ち上げられ、空中を移動していった。
あっという間に玄関が遠ざかり、下には草の枯れた地面が見えた。上下に動きながら、セイラへと向かっている。
フラスコの中で揺れ動いた伯爵は、でろりと形を崩した。フラスコの細長い部分を掴んでいるカトリーヌへ、叫ぶ。

「これ、いきなり何をするのかね!」

 一人でいるよりも、いいかと思ったの。

ぎゅる、とカトリーヌは喉を鳴らした。伯爵は言い返そうかと思ったが、文句が出ずにぶるぶると震えた。
少し飛んで、伯爵はセイラの元に運ばれた。ごとん、と転げ落ちた場所はセイラの目の前の草むらだった。
倒れてしまったフラスコの中で身をずらし、器用にフラスコを立てた。伯爵はガラス越しに、巨体の魔物に尋ねた。

「して、何の用事であるのかね?」

「別ニ」

セイラが言うと、伯爵はべちべちとフラスコの内側を殴った。追憶を乱されたことが、少し腹立たしかった。

「用事がないのであれば運ぶでない、我が輩とて忙しいのだ! 驚いてしまったではないか!」

「デモ、ゲリィ、何モ、シテナイ」

セイラに指され、伯爵はぐにゃりと脱力した。確かにその通りだったからだ。セイラは続ける。

「デイブ、消エテ、ズット、何モ、シナイ。フィリィ、トモ、アンマリ、喋ラ、ナイ」

「それは、あの女がカインと共にいるからであって」

「言イ訳。フィリィ、ゲリィ、一緒、長ク、イル。デモ、喋ラ、ナイ」

「だから何が言いたいのだね、セイラよ。我が輩とて、饒舌でない日もあるというものであるぞ!」

「ソレガ、ズット」

金色の単眼が、瞬きした。セイラの濁りのない目に見下ろされ、伯爵はその目から逃れるように軟体を捩った。
塞ぎ込む日々は、続いている。デイビットがいなくなった喪失感は、あの二人と関わっていても埋まらなかった。
どれだけフィフィリアンヌに馬鹿にされようと、ギルディオスに茶化されようと、浮上することが出来なかった。
セイラは伯爵のフラスコを、指先で押さえた。鋭く太い爪の先でコルク栓を挟み、すぽん、と引き抜いてしまった。

「ゲリィ。歌、何、聞ク?」

「歌、であるか?」

「ソウ、歌。何カ、好キナノ、アル?」

にんまりとしたセイラに、伯爵は口籠もった。今まで、一度もセイラに歌の注文をしたことなどなかった。
いつも、フィフィリアンヌやカトリーヌが頼むのを端から聞いていただけだ。それだけで、充分だったからだ。
何を聞きたい、と思うような歌は思い当たらなかった。伯爵はセイラとカトリーヌを交互に見つつ、思考した。
だが、何も浮かんでこなかった。思考することがデイビットのことばかりだったから、思考が鈍っていた。
伯爵は泡立ちながら考えに考えて、ようやくある歌を思い出した。なぜか、この歌が一番最初に思い当たった。

「セイラ。ならば、鎮魂歌を歌ってはくれぬかね?」

「解ッタ」

セイラは頷き、深く息を吸った。姿勢を伸ばして喉を広げ、腰から生えている赤い翼をばさりと広げた。
異形の魔物は薄い青の空を見つめていたが、高く声を伸ばした。徐々に音程を低くさせて、唸り声となった。
喉を音に慣れさせてから、セイラは歌詞を節に乗せた。東方の言葉に訳した歌を、天に向けて放った。


深き夢に、ゆるりと沈まん。猛る魂を涙で癒し、熱き滾りを大地に流し、戦いの士はここに休む。

戦女神の微笑みに、安らかなる眠りを得よ。忠誠を解き、剣を横たえ、母の如き戦女神の膝で、眠り続けたまえ。

空の果てへと、去り行く友よ。我らが戦い疲れる日が来たならば、どうか天上で待ち受けていてくれ。


この歌が、デイビットに相応しいかどうかは解らなかった。だが、これしかない、と伯爵は思っていた。
何百年にも渡る先祖の情念を受け継いで、それを果たすためだけに生きて、それを果たして消えてしまった。
魂どころか、気の休まるときもなかったことだろう。死してからも、先祖の意思を受け継いでいたのだから。
今は、きっと楽になっているはずだ。何からも解放されて天上に召され、生まれ変わる時を待っているのだろう。
伯爵はセイラの歌声を聞きながら、友へ思いを馳せていた。こんな状態の自分を見たら、彼はなんと言うだろう。
へらへらとだらしなく笑って、デイビットはこう言うはずだ。そんなにあなたが静かですと、いっそ不気味ですよぅ。
そうだろう、と伯爵は思った。喋るしか能のないスライムが、黙りこくっていては何の意味があるというのだ。
ただ一人の友人との記憶に浸るのも悪くないし、そうしておけば彼は消え失せないだろうが、自分が消えてしまう。
前に進むことなく、ずるずると過去に縋るのがいいはずがない。そんなことでは、腐ってカビが生えてしまう。
伯爵は、視点を上に向けた。喉を振るわせて魂を鎮める歌を紡ぐ異形の魔物は、実に楽しそうだった。
それに合わせて、カトリーヌも歌っていた。ぎゅるぎゅると威嚇のような唸り声を上げて、歌っているらしい。
幼いワイバーンの歌声が、微笑ましくも滑稽に思え、伯爵は可笑しくなった。久しく忘れていた、笑い声を上げた。

「はっはっはっはっはっは!」

すると、セイラは歌を中断した。伯爵を見下ろし、首をかしげながら覗き込んでくる。

「ゲリィ、笑ッタ」

「うむ、そうであるぞ。我が輩は笑うのである、嘲笑と高笑いと饒舌を好む高貴なるスライムなのであるぞ!」

一度笑ってしまえば、踏ん切りが付いた。伯爵は塞いでいた気分を、一掃するかのように、高笑いを続けた。
ぶるぶると表面を震わせながら笑い続けるスライムに、セイラは安心した。こうでなくては、落ち着かない。
セイラは、カトリーヌと顔を見合わせた。カトリーヌはきゅうきゅうと高い声を出し、嬉しそうに尾を振り回す。
伯爵の笑い声が一段落した頃、セイラは鎮魂歌の続きを歌い始めた。二番の歌詞を、滑らかに歌い上げていく。
カトリーヌも、それに付き合った。意味は解らなくとも、音にならなくとも、セイラに続いて歌い続けた。
二人の不協和音を聞きながら、伯爵は高揚した気分を落ち着けていた。そして、二人に感謝していた。
柔らかいはずのスライムが被っていた殻を、いとも簡単に崩してくれた幼子達が、次第に愛おしくなってきた。
伯爵はその好意を言葉にはせず、歌にした。決して上手いとは言い難い低音の歌声が、重なった。
魔物達の鎮魂歌は、ひとしきり続いていた。








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