ドラゴンは笑わない




そして、竜は笑う



灰色の城から、白っぽい煙が立ち上っていた。
居館の前の地面に、紙の山があった。それを朱色の火がめらめらと舐めており、紙を黒い灰へと変えていた。
大量の紙で出来た焚き火の前に、灰色の男が座り込んでいた。ぼんやりと、惚けたように炎を見つめている。
煙と熱気で巻き上げられた灰が、空へ向けて飛んで行く。丸メガネ越しに、灰の行方を目で追っていった。
彼の背後で、扉が開いた。居館の中から駆け出てきたメイド姿の幼女は、男の肩越しに焚き火を見下ろした。

「御主人様ー。それって、あれじゃないですかー」

「うん。兄貴の原稿」

グレイスは枯れ枝を手にし、がさりと焚き火を突いた。大量の原稿用紙がずれると、更に炎は燃え広がっていく。
綺麗な文字の並ぶ紙は、どんどん灰になっていった。古びた紙は黒くなったかと思うと、縮れて焼け尽きた。
レベッカは炎と煙を見比べていたが、あー、と残念そうな声を出した。スカートを押さえ、主の隣にしゃがんだ。

「みーんな燃やしちゃってー、いいんですかー?」

「いいんだよ。全部製本したし、保存しといても邪魔なだけだろ」

グレイスは枯れ枝を放ってから、傍らの幼女へ向いた。ですけどぉ、とレベッカは眉を下げる。

「せっかく御主人様のお兄さんが書いたものなのにー、灰にしちゃうのはもったいないですー」

「下手に原稿なんか残してて、デイブの兄貴に未練が残っていたら困るだろ」

グレイスは丸めていた背を伸ばし、足を投げ出した。脱力したように座り込み、秋の空を仰いだ。

「これで一段落、ってとこかねぇ」

「そうですねー。王族も皇族も大体が死にましたしー、魔導師協会も解体されましたしー」

グレイスの隣に、レベッカはぺたんと座り込んだ。グレイスは、灰色の城の中心である居館を見上げた。
イノセンタスの雷撃で破られた窓は、既に修復されていた。真新しい窓には、薄い青空と雲が映っていた。
グレイスは少し目を細め、笑った。輪廻転生など信じてはいないが、ロザンナには生まれ変わって欲しいと思った。
物事の善悪を知らぬが故に残酷な少女と、再び生きたかった。次は白化してなきゃいいな、と内心で願った。
帝国と王国の内乱は、そろそろ収束しそうだった。イノセンタスの死後から始まった騒動も、落ち着いてきた。
グレイスにとって、それはあまり面白くなかった。丁度良い暇潰しと金づるが、なくなってしまうからだ。
権力を失ってもすがろうとする議院や魔導師達を揺さぶって、散々金を落とさせ、そして堕落させてきた。
そういった芯のない輩は、大体は堕としてしまったので、手の上で弄べるような人間はもう残っていなかった。
政治家達や軍人達から請け負った呪術の依頼も、全てこなしてしまったので、今は仕事がない状態だった。
居館の中や地下には山のような金貨があるのだが、それを使う当てもなく、グレイスは暇を持て余していた。
元来が自堕落なのでこの状態は好きなのだが、長く続くと飽きてくる。グレイスは、あー、と声を漏らした。

「暇だなぁ」

「暇ですねぇー。どっかーんと戦争が起きるかと思ったら、起きませんでしたしー」

レベッカは小さな唇に指を当て、不満げにむくれた。戦争でもない限り、得意な大量殲滅の仕事は来ない。
グレイスは、あまり長さのない三つ編みを握った。焚き火を睨みながら、しなやかな毛先を軽く振る。

「竜王が死んだっつーからそっちを引っ掻き回そうにも、髪がこれじゃあ魔力が安定しないしなぁ」

「竜族とまともにやりあうのはー、さすがにきっついですもんねー」

「きっついんだよなぁ」

アンジェリーナもいるし、とグレイスは口元をひん曲げた。手強い相手と、真っ向から戦う気はさらさらない。
それに、戦争を起こすのは一人では出来ない。欲望に駆られた権力者が居なければ、まず無理だ。
両国がこの状態では戦争になどなりそうにないし、かといって、今から周辺諸国に掛け合うのも面倒だった。
帝国の広大な領土を狙う近隣の国はありそうだったが、帝国に残った力が、それをはね除けてしまうだろう。
腐り果てているとはいえ、大国には違いない。辛うじて残っている自尊心で、完全な崩壊は免れるはずだ。
破壊に次ぐ破壊は、平穏に似た静寂をもたらす。一連の騒動が落ち着いたら、両国は遠からず手を組むだろう。
敵対していたのはここ数十年のことであり、それ以前は友好関係にあった間柄だ。修復は、可能であるはずだ。
そうなってしまえば、戦争は当分起きなくなってしまうだろう。グレイスは、かなり悔しげに舌打ちした。

「こんなことになるんだったら、魔導師協会も引っ掻き回しておくんだったな」

「そうですねー。そうしておいた方がー、長引いたかもしれませんねー」

レベッカは、半分以上が灰と化してきた紙の山を見つめた。原稿用紙の間には、イノセンタスの書類もあった。
といっても、それは原書ではない。グレイスが両国の議員を揺さぶるに使った、小道具の余り物だ。
イノセンタスの告発文書の写しを大量に刷ったのだが、多少余った。それを、隠滅のために燃やしている。
中にはドラゴン・スレイヤーの名簿や、魔導師協会の名簿などもあったが、それらは全て写しだった。
原書は、グレイスが城の中に隠している。今後、何かの役に立つかもしれない、と思って保存しておいたのだ。
レベッカは半分ほど燃えたドラゴン・スレイヤーの名簿を見ていたが、気の抜けた顔のグレイスへ振り向いた。

「御主人様ー」

「んあ?」

「剣士さんの賞金首の件ー、どうなりましたっけー?」

レベッカが首をかしげると、バネのように巻かれた濃い桃色の髪が揺れた。グレイスは、焼けた名簿に目をやる。

「ああ、あれか。グランディア家とペルシャ家の財産が、帝国のごたごたのせいで略奪されてな。賞金を支払う資金がなくなったから、手配を解くってよ」

「それー、御主人様じゃないですかー。お屋敷からどっさり盗むのを、わたしも手伝いましたもんー」

レベッカは変な顔をすると、グレイスはへにゃりと表情を崩した。

「だあってさぁー。ギルディオス・ヴァトラスがオレ以外の男に追い回されるのかって思うと、癪なんだもん」

「本当にー、御主人様は剣士さんが好きなんですねー」

レベッカがにこにこ笑うと、愛してるんだよぅ、とグレイスはますます力の抜けた笑みになって頬を染めている。
照れくさそうな主の姿に、レベッカは楽しくなっていた。主の恋が実ればいいな、と思いながら笑っていた。
しばらくグレイスは照れていたが、なんとか表情を戻した。焚き火は、もうすぐ燃え尽きてしまいそうだった。
グレイスは目を上げて、灰色の城壁を仰いだ。その向こうには、王都の城壁と王宮の先端が僅かに見えている。

「帝国と王国が落ち着いたとしても、竜族は変わるのかねぇ」

「変わりせんよねぇー。竜王が崩御したって言ってもー、体制は変わってないみたいですもんねー」

レベッカが返すと、グレイスは腕を組んだ。かちゃり、と胸元で金のペンダントが揺れる。

「長いこと同じ王が居座ってたから、周りの官僚も固まってるんだよ。誰が死んだって、何も変わらねぇんだよ」

「結局ー、竜王軍も帝国とやり合わないみたいですしー、なんだか拍子抜けしますー」

「だよなぁ。ド派手で下らねぇ空中戦でもやらないかなーとか期待してたんだけどなぁ、一応」

やたらと残念そうに、グレイスは首を左右に振った。ですよねー、とレベッカは頷く。

「ずうっと同じ位置にいるのもいいんですけどー、たまには変わるのも面白いと思うんですけどねー」

「それが出来ないから竜族なんだよな。何事に対しても受け身で、自分から攻めることなんてまるでねぇ。前にカインが言っていたように、世界に逆らわないつもりだって言えば聞こえは良いが、つまりは変化を嫌っているんだよな。いくら種族が繁栄しても国を造らないせいで滅亡しかけてるし、どれだけ人間に攻められてもまともに攻め返さねぇもんだから、殺されてばっかりだ。こんなんじゃ、竜の笑う時代なんて永久に来ないかもしれねぇなぁ」

「竜が笑う時代ですかー?」

「要するに、竜が繁栄する時代ってことさ。そうなったら、世の中がどれだけ面白くなるか解ったもんじゃねぇのに、肝心の竜族がこの調子じゃなぁ」

はあ、とグレイスは大きく息を吐いて肩を落とした。

「人が竜を恐れている限り、竜が人を恐れている限り、ドラゴンは笑えねぇんだよな」

「笑わないー、じゃないんですかー?」

「笑いたくとも笑えないから、笑わないんだろ」

グレイスは体重を後方に傾けて、地面に倒れた。乾いた土の匂いと同時に、背中に冷たさが伝わってきた。
空へ向かって、細く煙が昇っていった。それを目で追いかけていると、レベッカも同じように寝転がった。
グレイスは組んでいた腕を解き、頭の後ろで手を組んだ。城壁を越えて滑り込んできた風が、煙を散らしていく。

「なぁレベッカ。あと五百年ぐらい、この世で生きてみようか」

「あー、いいですねー。その間にー、ロザンナちゃんも生まれ変わってきそうですもんねー」

レベッカは小さな両手を合わせると、隣の主へ顔を向けた。グレイスは、楽しげににっと笑った。

「ああ。待っていてやらねぇと可哀想だしな。それに、竜が笑う時代になるかも気になるしよ」

「笑いますかねー?」

「冷血無感動のフィフィリアンヌが男に惚れちまうなんてことがあるんだから、いつか竜が笑う日も来るはずさ」

「そうですねー、そう思うと有り得そうですもんねー」

「だろう? 何がどうなるか解らないから、世界ってもんは面白可笑しいんだよ」

グレイスは、足元へと視線を向けた。燃やす物が尽きてしまったのか、立ち上る煙にも勢いがなくなっていた。
盤も駒も、世界には元より存在していない。盤と駒があったとしても、それらは全て一つに繋がっている。
いくら先祖と己を切り離そうと、結局は従ってしまったように。途切れることのない輪が、世界を巡っている。
だが、兄はその輪から逃れた。現世からの離別という手段を使って、世界と血の連鎖からようやく解放された。
グレイスはデイビットが少し羨ましくもなっていたが、まだその手段を使う気には、到底ならなかった。
死は解放でもあるが、逸脱でもある。せっかく自分の存在してきた位置付けを、簡単に放り出したくはない。
寂しさを埋める手立ても見つけ出してはいないし、その空虚感を持ったまま果ててしまうのは、空しいだけだ。
それに、まだ自分の血を連ねていない。ロザンナが生まれ変わり、彼女が子を孕むまで死ぬ気にはなれなかった。
脈々と続いてきた呪われた血を、少しでも薄めてから死んでしまいたい。グレイスは、そう思っていた。
どうせ生きるなら、未練は一片も残したくはなかった。




ヴァトラス家の居間で、ギルディオスは唸っていた。
テーブルに広げた数枚の手紙を睨み、悔しげに声を漏らしている。甲冑の丸まった背を、その妻は眺めていた。
台所から出てきたメアリーは、エプロンで両手を拭いた。椅子を引いて、ギルディオスの向かい側に座った。
テーブルに並ぶ手紙は、数日前に届いたランスのものとジュリアのものと、昨日届いたマークからのものだった。
それを一枚取ったメアリーに、ああ、とギルディオスは情けない声を出した。すぐさま、妻の手から便箋を奪う。

「手ぇ出すなよ」

「あたしが読んでやろうか? そんなに読めないんだったら」

メアリーが呆れたように笑うとギルディオスは、うるせぇやい、とそっぽを向いた。

「読めるところまでは読んだんだ!」

「じゃ、どんなのが書いてあるか解る?」

メアリーが茶化すと、ギルディオスは詰まった。親友からの手紙をそっとテーブルに戻し、項垂れる。

「…全然」

「今度、セイラから字の読み方を教えてもらいな。あんたよりもずっと、あの子の方が賢いよ」

笑いながら、メアリーは便箋を掻き集めた。一番上にランスの手紙を出してから、とんとん、と端を揃えた。
かもしれねぇな、とギルディオスは自虐して笑った。メアリーは、便箋に並ぶ息子の文字に目元を綻ばせた。
情けなさそうに身を縮めている甲冑を横目に見つつ、メアリーは彼らの手紙を順番に読み上げ始めた。
ランスの手紙には、ヴェヴェリスでの勉学の楽しさと、パトリシアの暴走を止める日々の話が書いてあった。
魔導師協会の内乱にも負けず、ヴェヴェリスで勉学に励んでいるようだった。文章の端々は、明るかった。
パトリシアは、ヴェヴェリスの修道院での研修という、半ば強引な名目でランスにくっついていったのだ。
修道院の奉仕活動そっちのけで、魔法学校にいるランスに会いに来るパトリシアに、ランスは辟易しているらしい。
それでも嬉しいらしく、照れくさそうな惚気らしき文章があった。年上の幼馴染みとの関係は、良好なようだ。
マークからの手紙は、王国からでも帝国からでもなかった。彼とその息子は、東方諸国へと出ていったのだ。
旅団の用心棒や賞金稼ぎをしながら、目新しいものに驚いてばかりのジャックを引き連れて、旅をしているようだ。
山奧で出会った青竜族の若い女と、思い掛けずフィフィリアンヌのことで話が弾んだ、とも書いてあった。
気が済むまで外の世界を回ったら、必ずまたギルディオスに会いに来る、とあまり上手くない字で締めてあった。
ジュリアの手紙には、魔物の研究に明け暮れる日々がようやく戻ってきた、と嬉しそうな文面で始まっていた。
そのすぐ下には、イノセンタスへの複雑な思いとギルディオスらへの謝罪も、丁寧に綴ってあった。
今はまだ戻れないが、王都に戻れる日が来たら長兄の墓を参る、とも。さすがに、傷は癒えていないようだった。
ゼファードと共に東王都近くの研究所へ戻ったウルバード、レオーナ、スパイドも元気にしているという。
スパイドがしきりにレベッカと会いたがるので、もし王都に行ってしまったらその時は頼む、ともあった。
その部分を聞いた途端、ギルディオスは吹き出した。メアリーに向き直ると、可笑しげな声で言う。

「なんでぇスパイドの野郎、あんなのが好きなのか。石人形だぜ、レベッカは」

「あの子も趣味が悪いねぇ」

メアリーも可笑しいのか、少し肩を震わせていた。手紙を丁寧に折り畳んで、それぞれの封筒に納めた。
ギルディオスは、レベッカの姿とスパイドの姿を思い出した。まともに上手く行くとは、とても思えなかった。
どちらも人造の存在であるという共通点はあるが、位置付けがまるで逆だ。なにより、レベッカは魔導兵器だ。
グレイスに完全服従しているレベッカが、見た目は仰々しくとも幼子のスパイドに心を動かされるとは思えない。
三通の手紙をテーブルの中央に置いてから、メアリーは夫を見上げた。どこか楽しそうに、笑う。

「まぁでも、何がどうなるか解ったもんじゃないからねぇ。どうにかなったりしたりして」

「するかもなぁ」

フィルがああなっちゃたんだし、とギルディオスは頷いた。メアリーは立ち上がると、森の方向を指した。

「そろそろ、そのフィルのところに行く時間だよ」

「今日は何を教えるんだ?」

立ち上がったギルディオスは、壁に立て掛けておいたバスタードソードを取った。ベルトを、胸の前で締める。
背中に担いだ巨大な剣を少し抜き、がちん、と鞘に戻した。台所に行ったメアリーは、荷物を持って戻ってきた。
バスケットをギルディオスに渡してから、メアリーは自身のバスタードソードを取り、がしゃりと背負った。
エプロンドレスに似合わない巨大な剣を軽々と担いだメアリーは、夫から重みのあるバスケットを受け取る。

「パンの作り方でも教えようと思ってさ。いい加減に、料理にも慣れてきたみたいだしね」

「そいつぁいいや。カインも、もっとまともな物が喰えるようになるな」

ギルディオスは笑い、扉を開けてやった。メアリーは夫より先に廊下に出ると、玄関に向かって歩いていった。
妻の足音が遠ざかってから、ギルディオスは棚へと向いた。瓶や皿の並ぶ棚の一番上に、小さな鏡が光っている。
中央から二つに割れた鏡を張り合わせ、丸い枠に納めたものだった。割れた鏡面に、甲冑が映り込んでいる。
鏡の真ん中の繋ぎ目には細かい破片がなく、いくつか隙間が空いていた。ギルディオスは、その鏡に触れた。

「じゃあな、兄貴。留守番頼むぜ」

鏡に背を向けたギルディオスは、手を振りながら居間を出た。玄関先では、メアリーが夫を待ちかねている。
外に出て扉を閉めてから、ギルディオスは妻と並んで歩いていった。裏通りは、以前よりも人通りが減っていた。
不意に、左腕を引っ張られた。見ると、メアリーが気恥ずかしげにしながらも、腕を組んできていた。
ギルディオスはメアリーの腕をそのままに、一度後方へ振り向いた。自宅の向こうには、王宮が見えていた。
王宮の手前にあるヴァトラスの屋敷へ向けて、手を振った。また戻ってくる、とギルディオスは内心で兄に言った。
死した片割れの魂が、そこに在ることを願いながら。




城のベランダから、カインは森の出口を見下ろしていた。
肩にしがみついているカトリーヌを撫でる手を止めて、部屋に振り向いた。彼女は、大きな机に座っている。
翼の生えた後ろ姿を見ていたが、カインは再び森へ目をやった。大柄な甲冑と共に、長身の女性がやってくる。
ギルディオスはカインに気付いたようで、腕を振り回している。湖畔にいるセイラが、彼らを出迎えていた。
彼らの声に気付いたフィフィリアンヌは椅子から下り、ベランダにやってきた。カインの隣から、外を見下ろす。
カインの肩に乗るワイバーンを撫でながら、フィフィリアンヌは甲冑とその妻を見下ろし、素っ気なく言った。

「カイン。期待はするな」

「していませんよ」

カインはフィフィリアンヌの横顔に向け、笑った。メアリーとの料理の結果を、最初から諦めているようだ。
ギルディオスらは玄関に入ったのか、姿が見えなくなった。すると唐突に、高らかな低音の笑い声が響いてきた。
その声に、フィフィリアンヌは思わず目を丸くする。それは、久しく聞いていなかった伯爵の笑い声だった。

「伯爵だな」

「なんか、落ち着きますね。あの人が笑っていると」

「そうだな」

カインに返し、フィフィリアンヌはベランダの柵に背を預けた。弱い風が石柱の隙間から入り、髪を揺らした。
あの豪雨の日から止まっていた伯爵の時間が、ようやく動き出した。そのことが、とても嬉しく思えていた。
何を言っても言い返してこなかったスライムは、これからは言い返してくるだろう。罵倒と嘲笑の日々が戻ってくる。
ギルディオスも、以前より言動に痛々しさはなくなっている。兄が死んだばかりの頃は、彼は無理をしていた。
一度は、そのまま壊れてしまうかと思っていた。あの雨の日に出来てしまった裂け目が、広がるとすら感じていた。
だが、戻ってきている。それぞれの心が時間と共に修復されつつあるのが、目に見えて解るほどになっている。
フィフィリアンヌは、傍らのカインを見上げた。こういうときにどんな顔をすればいいのか、教えて欲しかった。
カインはベランダから室内に戻り、扉へ向かっていった。途中で振り返り、フィフィリアンヌを手招く。

「ギルディオスさん達を待たせていては悪いですよ」

「ああ」

フィフィリアンヌは生返事をしてから、ベランダの外を見下ろした。鏡のような湖面が、空を映し込んでいる。
胸の奥からじわりと沸き起こる、安心感にも似た穏やかな感覚。それを、なんというのか必死に考えていた。
そして、その感情を表すためにはどうすればいいのか。様々な語彙を引っ張り出したが、当て嵌まらなかった。
フィフィリアンヌは困りながらも、この感情を心地良く思っていた。カインの腕の中と、似ている感覚だった。
答えは後で考えよう、と思い、フィフィリアンヌはベランダの窓に手を掛けた。そして、手を止めた。
窓の映る自分の顔は、見たことのない顔をしていた。穏やかでありながら楽しげな、柔らかい表情だった。

笑っていた。

フィフィリアンヌはぎょっとして、反射的に身を下げた。すると、カインが不思議そうな顔をして戻ってきた。
ベランダの窓を開け放ってから、少女を見下ろす。フィフィリアンヌは、両手で顔を押さえている。

「どうかしましたか?」

「あ、いや」

フィフィリアンヌはやりづらくなり、笑みの残る顔を伏せた。カインは、その指の隙間から口元を覗き見た。
薄い唇の端が持ち上がり、頬は上がり、細く形の良い眉は吊り上がってはいない。そして、目は優しい。
カインはフィフィリアンヌの両手を取り、顔から外させた。フィフィリアンヌは困っているのか、眉を下げている。
屈んで目線を合わせてから、カインはまじまじと彼女を眺めた。僅かに見えていた笑みらしき表情は、失せていた。
フィフィリアンヌは目線を彷徨わせていたが、カインに合わせた。緩んでしまった口元を締め、顔を固めた。

「見たか?」

「少しは。ですけど、またどうして」

不思議そうなカインに、フィフィリアンヌはかなり狼狽しながら俯いた。

「何か、やたらと嬉しくて。気付いたら、勝手に」

「嬉しいときは、笑うものですよ」

カインはフィフィリアンヌの両手を、握ってやった。フィフィリアンヌは、おずおずと目を上げる。

「そうなのか?」

「そうです」

カインは強調して言い、深く頷いた。その肩の上でカトリーヌは、ぎゅるう、と唸るような鳴き声を上げた。
フィフィリアンヌは迷ったが、他に感情を表す手立てはないと思った。嬉しさは、未だに落ち着いてはいない。
意識しなくとも、自然と顔は綻んだ。今まで使っていなかった部分が動き、勝手に表情を作ってしまう。
顔を上げ、フィフィリアンヌはカインを見上げた。多少のぎこちなさはあったが、それでも笑顔になっていた。

「そうだな」

微笑んだフィフィリアンヌは、今まで見た中で一番美しく可愛らしかった。カインは、彼女の両手を放した。
たまらなく愛おしくなって、抱き竦めた。ぎぃ、とカトリーヌは羽ばたいて二人から離れ、ベランダの手すりに乗る。
カインの腕の力を感じながら、フィフィリアンヌは顔を寄せた。後頭部を押さえる手に、少し力が込められている。
温かな体温を受けていると、嬉しさは増してきた。フィフィリアンヌは、カインの耳元へ口を寄せて言った。

「嬉しいのか?」

「ええ、とても」

僅かに震えたカインの声は、嬉しそうだった。フィフィリアンヌは、彼の肩に顔を埋める。

「カイン」

「口外なんて、絶対にしませんよ」

折れてしまいそうな小さな体を抱き締めながら、カインは笑んでいた。

「他の誰にも、見せたくはありません」

「懸命だ」

そう囁いてから、フィフィリアンヌはカインを押した。彼の腕から逃れると、手すりにいるカトリーヌを手招いた。
ばさり、と羽ばたいたワイバーンを引き連れて、竜の少女はスイセンの家紋が施された扉へ向かっていった。
その背を見送っていたカインは立ち上がり、今し方の光景を思い返していた。まだ、現実とは思えなかった。
重たい扉に手を掛けて開いたフィフィリアンヌは、カインへ振り向いた。早くしろ、と愛想のない声で急かす。
カインは返事をしてから、ベランダから出て窓を閉めた。フィフィリアンヌとカトリーヌは、先に廊下へ出ている。
彼が追い付いてから、カトリーヌを引き連れたフィフィリアンヌは歩き出した。カインは扉を閉め、彼女らに続く。
階段に向かう途中で、フィフィリアンヌはカインを見上げた。照れくさそうに眉を下げて、口元を曲げている。

「また、貴様に弱みを握られたな。責任を取れ」

「と、言いますと」

カインがきょとんとすると、フィフィリアンヌはカインに向き直って指した。

「あと七年待て。七年したら、私は子を孕める体になる。その時に、貴様の伴侶となろう」

「はい?」

「鈍い男だな。私は貴様の子を宿すと言ったのだ、二度は言わんぞ!」

フィフィリアンヌの言葉に、カインは呆然としていた。しばらくしてから、彼女の言葉を飲み込んだ。

「えと、つまり、それは…。ですけど、本当にいいんですか?」

「良くなければ言わんだろうが」

「まぁ、そうですけど」

今一つ事態を理解し切れていないカインに、フィフィリアンヌは背を向けた。足早に、階段を下りていく。
ああ待って下さいよ、迷いますよ、とカインの声が背後から聞こえていた。だがそれを無視し、足を早めていった。
冷たい石の階段を歩く足音が、壁に反響している。正面玄関に繋がる廊下に向かいながら、フィフィリアンヌは。
無意識に、満面に笑みを浮かべていた。




様々な出来事を孕みながら、色々な情念を含みながら、世界は今日も回り続ける。
竜の少女は感情を得、偏屈なスライムは饒舌を取り戻し、死した重剣士は死した兄と共にある。
だが、それらの変化は微々たる事に過ぎない。巨大なる世界にとっては、変化ですらない出来事だ。
しかし、彼らにとっては多大なる変化であり、彼らの世界、彼らの日常の中では変革ですらある。

彼らの世界とは、日常とは、そういうものなのである。


そして、今日も。

それなりに、この世界は平和である。





THE END.....






05 7/25


あとがき