手の中の戦争




第十話 スカイ・フライ・ハイ



その後。飛行試験は、滞りなく進んだ。
北斗と南斗は、短時間ながらも懸命に訓練をしたおかげでまともに飛べるようになり、顔面ダイブはしなくなった。
それでも、やっぱりぎこちないところがあるようで、浮かび上がったかと思ったらバランスを崩してばかりいた。
事前に渡された資料では、反重力状態で狙撃訓練も行うつもりだったらしいのだけど、時間が足りなくなった。
思っていた以上に北斗と南斗が手間取っていたこともあるのだが、データ取りが追い付かないというのも理由だ。
私にとってはオーバーテクノロジーの代物である、反重力装置から得られるデータが、とにかく膨大なのだそうた。
実験段階や設計段階では解らなかったことが一杯出てきたのだそうで、白衣姿の皆さんはかなり忙しそうだった。
重力と反重力エネルギーの関係がどうとか、物体の比重と惑星の自転がどうとか、難しい話が飛び交っていた。
当然ながら、私はその話の欠片も理解出来ず、やることがないのも変わらなかったので、ぼんやりとしていた。
コンピューターがぎっしりと詰まったテントの下にいる鈴音さんは、遠目に見ても解るほど、楽しそうだった。
他の技術者達も、忙しそうだがどことなく嬉しそうに見える。私には、何が楽しいのかは全くもって解らないが。
試験は朝早くから始めたのだが、いつのまにか日が傾き始めていた。私は袖を捲って、腕時計を出して見た。

「もうすぐ、一五○○ですか」

「やることがないと、時間が過ぎるのは遅いもんだな」

朱鷺田隊長は暇すぎて仕方ないのか、少々苛立っている。神田隊員はと思って左隣を窺うと、上の空だった。
午前中にすばる隊員と会ってからというもの、物思いに耽っているというか、悩んでいるという感じなのだ。
眼差しを遠くに投げて、唇を固く締めている神田隊員の横顔は凛々しいが、彼の胸中はさぞ複雑なのだろう。
私の知らないところで、神田隊員は恋をしているのだ。それも、私なんかでは想像も付かない、切ない恋を。
そして、すばる隊員も恋をしている。好きだけど、好きだからこそ、近付くことを躊躇ってしまうような恋を。
二人とも好きなら好きって言い合えばいいのに、と思うけど、そう上手く行ったら誰も恋愛に悩んだりしない。
私は、神田隊員の横顔を見ていたが、無意識に頬を押さえた。未だに、北斗に触られた感触が、残っている。

「鈴木。歯でも痛いのか?」

朱鷺田隊長は、横目に私を見てきた。私は、すぐに頬から手を離した。

「違います」

「神田。お前もどうした」

朱鷺田隊長に声を掛けられて、神田隊員は意識を戻してこちらに向いた。

「いえ、別に」

「眠いんなら、適当なところで寝てこい。どうせやることがないんだ、それぐらいしか出来ることはない」

朱鷺田隊長がやる気なく言うと、神田隊員はちょっと呆れた。

「隊長、寝てきたんですか?」

「当たり前だ。休める時に休んでおくのも、軍人の仕事だからな」

朱鷺田隊長は、もっともらしく言い張った。私は、その言い分に納得しつつも、やはり呆れていた。

「そりゃそうですけどね。それ、管理職としてはダメなんじゃないですか?」

「いちいち突っ込むな。やりづらいじゃないか」

ポケットからセブンスターを取り出した朱鷺田隊長は、一本出して銜えて火を点けた。朝からずっと吸いっ放しだ。
きっと、いつか肺ガンになる。朱鷺田隊長の場合、戦死してしまうよりも先に、病死してしまうのではないだろうか。
そして、朱鷺田隊長の出す副流煙をばっちり吸い込んでいる私も、何かしらの影響を受けたりしたら、凄く嫌だ。
あまり考えないようにしよう、と思い、私は朱鷺田隊長から目を外し、次第に薄暗くなってきた試験場を見渡した。
北斗と南斗は、コンピューターまみれのテントの傍にいた。二人とも側頭部を開いて、ケーブルを繋いでいる。
データをダウンロードしているのか、それともインストールしているのか。外から見ただけでは、区別が付かない。
ぎちっ、ぎちっ、という重たい金属の軋みが聞こえてきた。来賓席の前にいるグラント・Gが、船を漕いでいる。
ロボットでも、暇だと眠たくなるらしい。グラント・Gは両腕をだらりと下ろして、本当に眠っているようだった。
休眠状態のスタンバイモードとは違って、ライトブルーのゴーグルが薄く光っているので、起きてはいるのだろう。
だが、彼女は、身動きしない。まるで、野生動物が行う浅い眠りだ。事実、似たようなものなのかもしれない。
戦闘ロボットである彼らは、戦闘中であればフル稼働していなくてはならないが、そうでない時は機能を落とす。
整備用のトレーラーが傍にある時は良いのだが、最前線に出ている場合は、何日も充電出来ない可能性がある。
だから、休める時は機能を落とし、エネルギーを節約しておく必要がある。きっと、その機能が発動しているのだ。
グラント・Gは、マスクフェイスなので表情は解らないが、気持ちよさそうに眠っている。夢も、見るんだろうか。
私はパイプ椅子から立ち上がって長机に手を付くと、身を乗り出し、眠っているグラント・Gに顔を近付けた。
すると、グラント・Gは急に顔を上げた。いきなりのことに、私がぎょっとしてしまうと、彼女は声を上げる。

「Hey,brothers!」

グラント・Gが手を振ると、コンピューターのあるテントから離れた北斗と南斗が、こちらに向かって来ていた。
二人は途中までは歩いていたが、重力を弱めて浮き上がると、地面を蹴り、ジェットポッドから火を噴いた。
一直線にこちらに向かってくる二人に、私は反射的に下がった。北斗と南斗の影が止まると、風が抜けた。

「やあ、礼子君!」

一メートルほど浮かび上がったまま制止し、北斗は手を挙げた。その背後の南斗は、もう少し上に浮いている。

「なあなあ礼ちゃん、今暇? マジ暇なんじゃね?」

「そりゃあね」

暇すぎて、どうしようもないくらいだ。私が答えると、北斗は私に手を差し出してきた。

「ならば、自分達の更なる試験に付き合ってくれたまえ!」

「何をするつもりなの?」

私は目の前の北斗の手を見つつ、浮遊感を感じていた。恐らく、二人の周囲の重力が弱まっているからだろう。
体重が軽くなった気がして、試しにつま先で地面を小突いてみた。すると、私のつま先が、土から離れた。

「えっ、あっ」

軽く押しただけなのに、その反動で簡単に浮かんでいく。つま先どころかかかとも離れ、地面との空間が出来た。

「やっ」

このまま行ったら、テントの屋根付近まで浮かび上がってしまう。それは嫌だ、冗談じゃない、そんなこと。
だが、長机に手を伸ばしても上手く掴めず、逆に押してしまったために更に浮き、地面との距離が開く。
水の中を漂っているような、ぷかぷかした感覚がある。だけど、決定的に違うのは、息苦しくないことだ。
体に力を入れようと思っても、全身に掛かっていた重みがないために、どうやって力を入れたらいいか解らない。
足で地面を蹴ろうとしても遠ざかっているし、何かを掴もうと思っても、長机もパイプ椅子も遠のいている。
だが、どうにかしないと危ない。長机の真上に浮かんでいるままでは、落下した時に腹を強打してしまう。
仕方なく、私は目の前にある北斗の手を取った。足元がおぼつかない不安からか、ぎゅっと強く握り締めた。

「離さないでよ」

私は、自分でもよく解るほどに情けない声を出した。北斗は私の腕を軽く引き、長机の上から脱させた。

「無論だっ!」

「んじゃ、礼ちゃんと試験の続きしてくるっす」

南斗は朱鷺田隊長に敬礼すると、背を向けた。背面に付いたジェットポッドの炎を強め、すぐさま飛んでいった。
私は南斗の背が遠のくのを見ていたが、足元を見下ろした。先程よりも浮いていて、三四十センチはあるだろう。
それを実感した途端、不安がより強くなった。地面がちょっと遠いだけなのに、なんでこんなに怖いんだろう。
大丈夫だ、これぐらいなんてことない、と思おうとしても、怖いものは怖いので、私は北斗の腕に縋った。

「と、飛んでいくの?」

恐る恐る、私は北斗に尋ねた。北斗は、満面の笑みで頷いた。

「無論だとも! 訓練の成果を、礼子君に見せないはずがなかろうが!」

「いいよ、いいってば、見せなくって! 下ろしてよ、もう!」

私は怖くて仕方なく、喚いてしまった。北斗は私の肩を引き寄せて抱えると、南斗の向かった先に向いた。

「そう言うでない、礼子君。飛ぶのは面白いのだぞ!」

「私は面白くないー!」

私は精一杯抗議したが、北斗は聞き入れてくれなかった。直後、軽くなった体が、北斗の体に押し付けられた。
同時に強い風が吹き付けてきて、頭に載せている帽子がずれそうになったので押さえ、必死に目を閉じていた。
軍用ヘリに乗っている時のような、三半規管が揺さぶられる感覚があり、気分が悪くなってしまいそうだった。
風が収まったので、そっと目を開くと、目の前には南斗がいた。その背後には、大きなコンピューターがある。
乗り物酔いのそれに酷似した気分の悪さに苛まれながら、私は北斗の胸を押して、太い腕の中から脱した。

「もう、いいよ」

北斗との距離を空け、地面につま先を下ろした。パンプスのヒールが土に埋まり、浮遊感も消えた。

「それで、何の試験なの?」

「比重の違いを調べたいんだってさ。要は、オレらよりも体重の軽い礼ちゃんがどうなるかってことー」

南斗はジェットポッドを止めていたが、浮いたままだった。北斗も、ジェットポッドを停止させる。

「それでは南斗、アンチグラビトンレベルを5.0まで引き上げようではないか!」

「おうー」

南斗のやる気のない掛け声の後、また浮遊感が起きた。だがそれは、先程のものとは比べものにならなかった。
何もしなくても体が浮かんでいき、地面がどんどん離れていく。帽子が独りでに頭を抜けて、頭上を漂う。
両腕を抱えてみるも、どうにもならない。なんとかして下りたいと思うけど、どうすればいいのか全く解らない。
私が身を固くしていると、研究員達が周囲に計器を置いた。カメラであったり、レーダーのようなものであったり。
何かを計測しているのであろう、甲高い電子音が様々な場所から聞こえてきて、私はとてもやりづらかった。
実験台にするならすると、先に言ってくれ。言ってくれるのと言ってくれないのでは、相当心境が違うのに。
北斗と南斗は、推進力を切っているためか、次第に下降していく。私は、それとは逆に、勝手に上昇していく。
いつのまにか、私は二人を見下ろす位置まで浮かび上がっていた。下を見ると、恐ろしいことになっていた。
目測で、二メートル以上の空間が出来ている。この位置から落ちたら死ぬ、絶対に死ぬ、死ななくても負傷する。
落ちるときに受け身を取れたらいいけど、心臓がばくばくうるさくて、とてもじゃないけど冷静さは保てない。
ああどうしようどうしよう、と私が本気で慌てていると、私のすぐ下にいた北斗が、じっとこちらを見ていた。

「…何?」

私が北斗を見下ろすと、北斗は私を指してきた。

「ピンクのストライプであるな」

「は?」

唐突に、何を言い出すんだ。私は訳が解らなかった。こいつは何を見ているのだ、と思い、北斗を睨んだ。
北斗のダークブルーのゴーグルに映っているのは、身を縮めているせいでずり上がった私のスカートだった。
おまけに、浮かんでいるものだから裾がひらひらしていて、普段であれば絶対に見えない中が見えている。
北斗のゴーグルをよく見ると、私のパンツが映り込んでいた。ストッキング越しでも、柄がしっかり解る。

「あっ、あんたねぇ!」

私は動転して声を上げたが、後ろからスカートをめくり上げられてしまい、私は硬直した。

「あー、マジだー」

振り返らずとも、声で解った。南斗が私のタイトスカートを両脇から引っ張り上げていて、中身を晒している。
恐る恐る研究員達を窺うと、皆が皆、目を丸くしている。お願いだから、そんなに見ないでくれないか。
あまりのことに、私は泣くべきか困るべきか嘆くべきかキレるべきか一瞬迷ったが、普通に怒ることにした。

「こんの馬鹿ぁっ!」

南斗を押し退けてパンプスを両方共脱ぐと、その片方を北斗に、もう片方を南斗に、力一杯叩き付けた。
ぱかん、ぱこん、とやけに間抜けな音が辺りに響き、南斗は顔面に、北斗は胸に、私のパンプスを喰らった。
私の体は、パンプスを投げた反作用で更に浮く。比重が軽くなっているため、二人は、実に呆気なく倒れる。
スカートを元に戻してから、私は地面に仰向けに倒れている二人を睨んだ。馬鹿だ、こいつら本気で馬鹿だ。

「だ、だってぇ…」

パンプスのかかとを思い切り顔に喰らった南斗は、のそりと起き上がった。

「超マジ気になっちまったんだもん。礼ちゃんのスカートん中が」

「うむ。自分達にとっては、未開の境地だったのだ。ただ、中に何があるかを確認しただけではないか」

胸に当たったパンプスを退けて、北斗も起き上がる。私は二人の言い草に、余計に腹が立ってしまった。

「確認するな! めくるな! ついでに晒すな! 結果を考えて行動しろ!」

「何もそこまで怒ることはないではないか」

北斗が、怪訝そうに首をかしげた。私は二人からパンプスを奪い取ると、両足に履き直した。

「あれで怒らない方がどうかしてる!」

二人は、なぜ私が怒っているのか全く理解出来ないのか、揃ってきょとんとしている。ええい、この鈍感兄弟め。
ちょっとだけだけど、本当に本当にちょっとだけだけど、北斗のことを男らしいとか思ったなんて馬鹿みたいだ。
手が大きいからってなんだって言うんだ。それぐらいのことで、あんなに戸惑ってしまった私がアホらしい。
北斗と南斗にもっと言ってやりたかったけど、文句が出てこなかった。今度は、恥ずかしさが押し寄せてきた。
スカートめくりなんてされたの、初めてだ。幼稚園の頃にも小学生の頃にも、一度だってされなかったのに。
小さい頃だったら、まだ平気だったかもしれない。だが、いい歳になってからやられると、こんなに辛いことはない。
腹立たしさと恥ずかしさと、不用意にめくられてしまった情けなさに苛まれ、私は何も言えなくなってしまった。
何事かとやってきた鈴音さんが、北斗と南斗を叱り始めた。それは凄い勢いで、二人とも圧倒されてしまっていた。
すばる隊員もやってきてくれて、私を優しく慰めてくれたけど、あんなことをされて簡単に立ち直れるはずもない。
男って、一体何を考えているんだ。




スカートめくりのショックが抜けないので、私は一人でぼんやりしていた。
人気のない、トレーラーがずらりと並んでいる場所の奧に、突っ立っていた。無意識に、スカートを押さえた。
すっかり日も暮れて、辺りは薄暗くなり、空も藍色になりつつある。吹き付けてくる風も、冷たくなっていた。
久々に心底怒ったので、くたびれてしまった。私は深くため息を吐いてから、歩き出そうとして、足を止めた。
前方のトレーラーの影から、北斗が現れて立ちはだかった。両足を大きく開いていて、いつもの偉そうな態度だ。
今だけは、何も話したくない。口を開いたら文句ばかり言ってしまいそうなので、私は北斗に背を向けた。
嫌いたくないんだ。嫌われたくもないんだ。だけど、嫌だったんだ。私が唇を噛むと、北斗は小さく呟いた。

「すまん」

「それで済むと思うの?」

私は何も言うまいと思っていたけど、言ってしまった。案の定、刺々しい文句しか、出てきてくれなかった。

「いや、思ってはおらん」

北斗は、いやに淡々としていた。私は、背後に振り返った。

「今度は、チョコじゃ許さないから」

「承知している」

「絶対に、絶対に、許さないから」

これ以上、言いたくない。だけど、怒りに任せて言ってしまう。このままでは、嫌い、と言ってしまいそうになる。
それだけは言いたくない。そんなことを言えば、どれだけ北斗が傷付くか想像が付くし、何より私も嫌なのだ。
過剰なくらいに好意を示して、身を挺して守ってくれて、馬鹿だけど一途で、いてほしい時にいてくれるから。
そんなにいい奴のことを、たとえ怒りのせいであっても、嫌いだなんて言いたくない。嫌いじゃ、ないのだから。
いや、むしろ。私の考えがそこから先に至ろうとした時、北斗は不意に顔を上げると、私を手招く仕草をした。
こんな時に何なんだ、と言おうとしたが、北斗は私を押さえ込んでトレーラーの背後に引っ張り込んでしまった。

「カンダタだ」

私を抱え込んでいる北斗が、頭の上で呟いた。私は北斗を見上げ、変な顔をした。

「じゃ、なんで隠れたの」

「…つい、条件反射で」

と、北斗は情けなさそうに、ヘルメットを掻いた。私は北斗に呆れそうになったが、背中の感触に気付いた。
礼服のジャケットを隔てているとはいえ、北斗の胸と背が接している。そういえば、上、何も着ていないんだ。
逞しい腕が体の前を押さえ込んでいて、大きな手が肩を掴んでいる。たったそれだけだ、それだけのはずなのに。
すると、北斗が私が先程まで立っていた場所の先を指した。私は北斗の腕から脱すると、慎重に様子を窺った。
神田隊員が来るなら、私まで隠れることはないじゃないか、とは思ったが、今更出ていくのもおかしいだろう。
トレーラーの間を、神田隊員が歩いてくる。ぴんと背筋が伸びていて、軍帽に陰った口元が引き締められている。
何か、雰囲気が違う。戦闘に赴く時のような、いや、それとはまた別の緊張感が、神田隊員には漲っている。
北斗も、私に倣って様子を見ていた。神田隊員は辺りを見回しているが、こちらには気付いていないようだ。

「なんやのー、神田はーん」

遠くから、間延びしたすばる隊員の声が聞こえてきた。体重の軽い足音が、土を蹴りながら近付いてきた。
白衣の裾を広げて駆けてきたすばる隊員は、神田隊員の元に駆け寄った。薄暗いので、その表情は見えない。
神田隊員は、すばる隊員の姿を認めると口元を柔らげた。だがすぐに硬くして、すばる隊員と向き直った。

「すばるさん。ちょっと、いいですか」

神田隊員は軍帽を脱ぐと、それをすばる隊員に被せた。鍔をぐいっと押し下げて、彼女の視界を奪った。

「なっ、なんやの?」

すばる隊員はいきなりのことに、慌てている。神田隊員は両手を伸ばすと、すばる隊員の両肩を引き寄せた。
すいません、とほんの小さな謝罪の言葉が聞こえた。すばる隊員が身を捩るよりも早く、彼は、間を詰めた。
二人の立っている場所からは離れているので、様子だけしか解らない。だけど、それだけでも充分だった。
んっ、とすばる隊員の鼻に掛かった声が漏れた。神田隊員は背を曲げて、背の低いすばる隊員に合わせている。
二人の影は、重なっている。顔の下半分、唇の部分を接させている。しばらくの間、その状態が続いていた。
虚空を握り締めていたすばる隊員の手が下がり、神田隊員の胸を押すと、彼女は後退って肩を上下させた。

「アカンよ!」

すばる隊員は、腹立たしげに叫んだ。だけど、苦しそうでもあった。

「神田はん、好きな人おるんやろ!? ほなら、うちなんかに手ぇ出さんといてくれへん!?」

すばる隊員の肩は、細かく震えている。

「た、確かにな、確かに、うちは神田はんのことが好きやよ? こんなん生まれて初めてやって思うくらいに、大好きやよ? そやけど、神田はんは、うちのこと好きでもなんでもあらへんねやろ? ただの同僚やろ? そこらにいる女と同じもんなんやろ? 優しゅうしてくれはるのも、神田はんが誰にでも優しゅう人やからやってことぐらい、うちでも解っとるわ!」

彼女の声は、動揺で上擦っていた。

「せっ、せやから、あんまり、変なことせんでくれへん? そ、その気になってしまいそうやんか!」

すばる隊員は軍帽を外すと、神田隊員に渡してから、背を向けた。

「うち、そんなに都合のええ女になりとうない」

神田隊員は、押し黙っていた。すばる隊員は、涙で声を詰まらせている。

「もう、もう、どないせぇっちゅうねん。絶対に叶わへんから、諦めたろう思うとったばかりやのに、もう…」

「すいません」

神田隊員の弱々しい言葉が、広がって消えた。すばる隊員は俯いていたが、急いで駆け出して去っていった。
彼女の足音が遠のいてから、神田隊員も歩き出した。しきりに口元を気にしていて、手で押さえている。
その姿が見えなくなってから、私は深く息を吐き出した。目の前で繰り広げられた光景が、衝撃的すぎた。
他人事だというのに、頬が火照って鼓動が痛い。私ってなんて子供なんだろう、と少し情けなくなった。
北斗はといえば、こちらも驚いているようで、口を半開きにしていた。北斗にも、予想外だったのだろう。
すばる隊員の吐き出した胸中は、ひりつくほど切なかった。あんなに好きなのに、自分を殺しているのだ。
それは全て、神田隊員を思うが故だ。好きな人には幸せになってほしいから、自分は敢えて身を引いている。
神田隊員もまた、苦しいのだろう。すばる隊員への思いと、過去の恋への思いの間で揺れた末の行動なのだ。
好きだから、好きなのに、好きだからこそ、器用に出来ない。それが恋であると、尚のこと上手く出来ない。
擦れ違わなくても良いところで、擦れ違っている。私は、北斗への怒りなんて、どこかへ吹っ飛んでしまった。
その代わり、無性に照れくさくなっていた。誰かがキスをするところなんて見たのは、初めてだったからだ。
目の前に北斗がいることや、まだ頬にある手の感触や、嫌いたくない、などの気持ちとぐちゃぐちゃに混ざる。

「礼子君。大丈夫か?」

北斗は、私を見下ろしてくる。私は北斗をちらりと見たが、とてもじゃないが正視出来ず、目を逸らした。

「なんでもない」

そう、なんでもないことなんだ。私が心中を落ち着けようとしていると、北斗は身を屈めてくる。

「礼子君がそう言う時は、決まってそうでない場合が多い。今も、そうではないのか?」

「本当に、なんでもないったら!」

私は北斗の胸を押して、距離を開けた。表情を見せたくなくて、急いで駆け出したけど、足がもつれてしまう。
パンプスなので走りづらかったが、精一杯走った。トレーラーから大分離れてから、一度、振り返ってみた。
だけど、北斗は追ってきていなかった。私は、そのことが嬉しいような安堵するような、寂しいような気になった。
なんだ、追ってこないのか。私は北斗のいた位置に背を向けて、歩き出そうとした時、頭上を影が通り過ぎた。
見上げると、北斗の影だった。細長い方向指示翼を左右に伸ばし、ジェットポッドから火を噴き、空を飛んでいた。
私のいるところから、ずっとずっと上だった。彼はこちらを見たが、すぐに顔を逸らし、試験場に向かっていった。
高いところは、嫌いだ。足元が落ち着かなくて、揺れて、好きではない。だけど、今ばかりは飛びたくなった。
空を飛べば、気持ちが晴れるような気がしたから。




それから、しばらくの間。私達は、ぎこちなかった。
北斗と南斗と私だけでなく、神田隊員とすばる隊員も距離を開けていて、互いの様子を窺ってばかりいた。
幸い、任務は下されなかったけど、訓練ではタイミングがずれてしまったり集中力が欠けたり、散々だった。
朱鷺田隊長や教官からきつく怒られたけど、どうにもならなかった。気持ちの整理が、付けられなかった。
私を一瞥して過ぎ去った北斗の顔は、見たことのないものだった。泣き出しそうなほど、苦しそうだった。
それを思い出すたびに罪悪感が湧いて、だけどあの時に感じた照れくささも蘇って、北斗に何も言えなかった。
何でもいいから言うべきだと思うけど、言うべきことがまとまらなくて、結局言えず終いになってしまった。
日が経つに連れて、北斗は私への態度を元に戻して今まで通りにしてきたので、私も北斗と同じようにした。
でも、それでは良くないような気がした。だけど、そうした方がいいような、違うような、とにかく複雑だった。

自分のことなのに、自分がよく解らない。





 


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