手の中の戦争




第十一話 恋の行方



私は、恋はしない。


今までがそうだったのだから、これからもそうなるはずだった。そうなのだとばかり、ずっと思っていた。
けれど、そうではなかった。目を逸らせば逸らすほど、感じないようにすればするほど、胸の奧は痛んでくる。
彼は、ずっとこんな思いをしていたのだろうか。苦しくて、やるせなくて、息さえ詰まりそうなほどになる。
だけど、決して、悪いものじゃない。苦しいけど、それと同じくらいに、満ち足りた気持ちにもなるのだ。
だから。恋をするのも、いいかもしれないと思った。




雨。曇り空。そして、鉄の焼ける匂い。
砕けたアスファルトに、真っ赤な何かが埋まっている。砲台から変形した太い腕が、無惨に折れ曲がっている。
不格好な、巨大な赤い物体が燃えている。胴体と思しき部分を貫いていた腕が引き抜かれ、黒い滴が落ちた。
赤い物体と同じ色をした、両肩に大きな弾倉を付けた巨体が立ち塞がっている。その背には、001の文字。
その巨体の片手には、車体後部に、すずきれいこ、とサインペンで名前が書いてある三輪車が掴まれていた。
巨体は、私に振り返る。オレンジ色のゴーグルに映る私は、怯え切っていて、寒さでがちがちと歯を鳴らしている。

 悪ぃ。

巨体から発せられた低い声は、ひどく悲しげだった。

 怖ぇ思い、させちまってよ。

彼は、私に向き直った。私は水溜まりの中でずり下がろうとするが、腰が抜けているせいで、動けなかった。
来るな、来るな、怖い、怖い、怖い。私もあの戦車みたいにされてしまう、壊されて潰されて、燃やされる。
目を閉じて顔を背けると、頭に冷たい感触が訪れた。がしゃり、と音がしたので目を開くと、三輪車が置かれた。
三輪車のハンドルを握っていた、黒い機械の手が離れていく。それと一緒に、頭に置かれていた手も離れた。

 あばよ、レイコちゃん。

彼は、後ろ手に手を振っていた。私は、頭に置かれた手の優しさに戸惑いながらも、巨体の彼を見つめていた。
つい先程まで、空を飛んでいた巨大な赤い戦車。それは、拳や蹴りで打ち砕かれて撃墜され、破壊されている。
私を睨んでいた砲もねじ曲げられていて、あらぬ方向を向いている。歪んだ装甲の隙間から、中が覗いている。
ようやく、そこで理解した。赤い人は、彼は私を助けてくれたんだ、あの戦車から私を守ってくれたんだ、と。
ずぶ濡れの全身と違って乾き切った唇を舐めて、彼に声を掛けようとした時、赤い巨体は頭上を通り過ぎた。
鉛色の空に、赤い姿が消えていった。




ごっとん、と車体が揺れ、私は目を覚ました。
今し方まで見ていた夢の余韻が吹っ飛んでしまい、前後に揺さぶられた頭を押さえながら、瞬きを繰り返した。
なんでまた、今になってこの夢を見るんだろう。十年前、五歳の頃に巻き込まれた、あの事件の時の記憶だった。
だけど、こんな記憶なんて今まではなかった。戦車に襲われて、気を失ってしまっただけだとばかり思っていた。
赤いロボットに助けられたなんて、知らなかった。というか、あの赤いロボットは、どこかで見たことがある。
両肩の巨大なリボルバー、太い二本の銃身、逞しい体付き、背中の白い001の文字。そうだ、彼の名は。

「レッドフレイムリボルバー、だ」

どうして、今の今まで思い出さなかったんだろう。忘れていた、というより、覚えていることすら認識していなかった。
無意識のうちに、封じ込めていたのかもしれない。あの日の記憶があるままだと、自分に良くなかったのだろう。
だから、心が自己防衛のために、記憶に蓋をしていたに違いない。でもなぜ、今、急に思い出したのだろう。
頭上を飛び去るロボットの姿。その姿は、最近も見た記憶がある。だがそれは、真っ赤な巨体ではないものだ。
そうだ、北斗だ。この間の、高宮重工の飛行試験の後に、北斗が私のすぐ上を飛び去っていた。それと、同じだ。
状況も相手も違うが、構図は同じだ。だからきっと、私は思い出したんだ。十年前の、あの事件の出来事を。
私が考え込んでいると、車は止まった。ブレーキを掛けた反動でつんのめって、シートベルトが肩に食い込む。

「起きた、礼子ちゃん?」

運転席に座る神田隊員は、横目にこちらを見てきた。私はまだ眠気の残る目を擦り、神田隊員に向く。

「あ、はい」

「高宮の家までもう少しだから、眠いのなら眠っていていいよ」

神田隊員はハンドルを止め、黒のジープラングラーが停車している交差点の信号を見上げた。赤になっている。
日曜日なので、道路の車通りは多かった。家族連れが乗っているであろう、ワゴンやファミリーカーが多い。
隣に停車している車の中から、子供がこちらを見ていた。ジープラングラーが珍しいのか、じっと見ている。
私は、信号の下に付いている地名の看板を見上げた。小さい頃によく見ていたものなので、懐かしい気がした。
目的の場所に近付いていくに連れて、見覚えのある景色も増えてきて、通っていた幼稚園の傍も通り過ぎた。
このままここにいれば、通うはずだった小学校や、神田隊員が通っていたという私立高校の傍も過ぎていった。
私には、この街の記憶が少ない。生まれた頃から五歳までという、短い時間だったし、何より幼かったからだ。
行動範囲と言えば、自分の家と児童公園とお母さんと一緒に行くスーパーと幼稚園と、とそれぐらいだった。
神田隊員や鈴音さん、これから会いに行く美空由佳さんともご近所だったらしいが、会ったことはなかった。
いや、擦れ違ったことぐらいはあったかもしれないけど、高校生と五歳児では年齢差がありすぎて接点はない。
それでなくても、小さい子供にとっては高校生は随分と大人だから、怖く感じてしまって近付くことはない。
私は、ドアの内側にあるポケットに入れた缶コーヒーを取ると、少し飲んだ。すっかり、温くなっていた。
今日は、任務ではない。鈴音さんが、例の美空由佳さんに会わせてくれると言ってくれ、招いてくれたのだ。
だけど、私は鈴音さんの実家がどこにあるのか知らないので、神田隊員の車で連れて行ってもらうことにした。
黒のジープラングラーは信号から出ると、土手沿いの道路を走っていく。土手の草は少し枯れ、秋めいていた。

「さっき、リボルバーの名前を言っていたけど」

神田隊員はハンドルを操りながら、私に目を向けてきた。

「何か、夢でも見ていたのかい?」

「夢、っていうか、昔のことを思い出した、っていうかです」

私は缶コーヒーをドアの内側のポケットに入れてから、先程の夢の内容を思い返した。

「今までは全然思い出さなかった、っていうか、覚えてなかったと思っていたことを思い出したんです。その、十年前のあの事件に巻き込まれた時の。あの時、私は赤くて巨大な戦車に襲われたんです。それが夢なのか、本当のことなのかは、今一つ確証はないんですけどね。さっき夢で見て思い出したことが本当なら、私はその時に助けられたみたいなんです。レッドフレイムリボルバーに。人型兵器研究所にあった写真と同じ姿だったし、同じ色でしたから、間違いないと思います」

右目を覆うオレンジのゴーグル。巨大な両肩の弾倉。二本の銃身。目の覚めるような、鮮烈な真紅のロボット。
彼の発した、申し訳なさそうでいて悲しげな声が頭の中に残っている。戦って勝ったのに、嬉しそうではなかった。
あの戦車は、敵ではないのか。東京はおろか日本中を危機に陥れたロボットなのに、倒して嬉しくないのだろうか。
彼は、レッドフレイムリボルバーは私を助けてくれた。それが本当のことならば、彼は正義の味方、ということだ。
テレビの中にいるヒーローと同じことをしたのだから、きっと、間違いない。私は、神田隊員の横顔に目を向けた。

「神田さんは、十年前の事件のこと、知っているんですよね?」

「ああ。よく知っている。忘れもしないよ、あの時のことは」

神田隊員は昔を懐かしむように、遠い目をした。私は、神田隊員に顔を向ける。

「だったら、リボルバーってロボットのことも、知っているんじゃないですか?」

「うん。知っているよ。彼は、オレ達の仲間だからね」

神田隊員は、少しだけ笑った。私はシートベルトを伸ばしながら、身を乗り出した。

「神田さんも、戦ったって本当なんですか?」

「本当だ。もっとも、オレはそんなに役に立てなかったけどね」

「じゃあ、教えて下さい。神田さん」

私は、自分の鼓動が速まっていることを感じていた。今まで、知りたくても寸止めされていたことを知れるのだ。
レッドフレイムリボルバー。名前と記憶が一致したことで、彼に対して感じていた感情が、一気に高まった。
恐らく、北斗と南斗の元となったロボット。高宮重工に圧倒的な機械技術をもたらした、いわばプロメテウス。
十年前のあの事件で戦っていた、赤き鋼の戦士。神田隊員の仲間。そして、私を助けてくれた、ヒーローだ。
一体、どんなロボットなのだろう。会えるものなら会いたいけど、今日会いに行くのは美空由佳さんなのだ。
リボルバーとは、会えない可能性の方が高い。だから、今のうちにでも、知っておけることは知っておきたい。

「教えてあげるさ、何もかも。だけど、もう少し待っていてくれないかな」

神田隊員は、私を宥めるように笑んだ。

「後少しで、高宮の家に着くから。そこで、全部話してあげるよ」

ね、と強調され、私は神田隊員に従った。気持ちは逸ったままだったが、そう言われては引き下がるしかない。
しかし、私らしくもない。なんでそんなに焦ってしまったのだろう、と思ったが、その原因は簡単に思い当たった。
皆が十年前のあの事件のことを知っているのに、私ばかりが何も知らなくて、多少の疎外感を覚えていたのだ。
南斗が、いずれ話してやる、とは言ってくれたが、知らないものは知らないので、一人だけ蚊帳の外の気分だった。
だけど、レッドフレイムリボルバーなるロボットと接したことがあると解り、十年前のあの事件との関連が出来た。
繋がりがあると解れば、疎外感は失せる。それが嬉しいのと、過去を知りたいのとで、焦ってしまったのだろう。
ガキ臭い、と私は自嘲した。そんなことで疎外感を感じた自分と、それが失せたのを喜んだ自分が馬鹿らしい。
なんとなく、神田隊員と目を合わせたくなくて、私は窓の外に目線を投げた。すると、見覚えのある光景が現れた。

「あ」

「どうした?」

神田隊員が訊いてきたので、私は今し方通り過ぎた児童公園を指した。

「さっきの公園です。私が襲われたのと、助けられたのは」

「じゃ、一旦下りようか」

神田隊員はスピードを緩めると、ブレーキを掛けた。近くの路地に入ってUターンし、児童公園に戻っていく。

「え、いいですよ」

私が戸惑うと、神田隊員はダッシュボードに投げてある自分の携帯電話を取り、ポケットに押し込んだ。

「ちょっとぐらい遅れたって、高宮も美空も気にしないさ。連絡しておけばいい」

「ですけど」

私が文句を言う前に、神田隊員は児童公園の脇に黒のジープラングラーを停車させ、サイドブレーキも引いた。
イグニッションキーを回してエンジンを止めてからキーを抜き、早々に運転席から出た彼は、私を手招いた。

「下りてきなよ」

「あ、はい」

仕方なしに、私はシートベルトを外して黒のジープラングラーから下りた。背後で、がっ、と小さく音が聞こえた。
どうやら、神田隊員が遠隔操作で車にロックを掛けたようだ。最近の車には、大抵、そういう機能が付いている。
日曜日なので、児童公園には小さな子供と母親達がいた。ブランコやシーソー、砂場では子供達が遊んでいる。
母親達は一塊になり、お喋りに興じていた。私と神田隊員が通り過ぎると、不審げな目を向けたがすぐに外した。
こんな真っ昼間に、黒くてでかい車で乗り付けた男に連れられている女子なんて、あからさまに怪しいだろう。
だが、気にするほどのことでもない。私は母親達に背を向け、公園の隅のベンチに向かう神田隊員を追った。
神田隊員はそこに座ったので、私はその隣に座った。神田隊員は携帯電話を開くと、手早くメールを打った。
それを送信してから、あまり間を置かずに返信があった。神田隊員はその中身を読んでから、私を見下ろした。

「少しぐらいなら、遅れてもいいってさ」

「ですけど、鈴音さんって忙しい人ですよね。よく、都合が付けられましたね」

私は、鈴音さんに悪いような気がしてきた。神田隊員は、携帯電話を閉じる。

「高宮は、大分遅れた夏休みの最中なんだよ。あと三四日は休みだそうだから、平気だよ」

「それじゃ、由佳さんって人はどうなんですか?」

「美空も美空で、忙しいさ。でも、都合を付けてくれてね。この間の試験の時に会った、弟の涼平君も一緒だよ」

「でも、本当にいいんですか?」

私は、少しだけ躊躇いが生じた。神田隊員は、きょとんとする。

「どうしたのさ。知りたいんじゃなかったのか、十年前のことをさ」

「そりゃ、知りたいです。ですけど、私はそこまで深入りするべきなのかなって、思っちゃいまして」

私は、神田隊員を見やる。些細だけど、不安になってしまった。

「私は、自衛隊と高宮重工には関わっていますけど、それだけなんです。だから、いいのかなって」

「悪いことなんて、あるもんか」

マイルドセブンとライターを取り出した神田隊員は、タバコを口に銜えると、ライターで火を点けた。

「本当は、誰も悪くないんだ。高宮重工も、シュヴァルツ工業も、オレ達も、あいつらも、悪いことなんてしていない。皆が皆、正しいことをしようとしているだけなんだ」

私は、神田隊員の言葉にまた驚いていた。高宮重工と私達は解るが、シュヴァルツ工業が悪くない、なんて。
シュヴァルツ工業は、悪いことをしている。少なくとも、私の中ではそういう認識で、悪役の位置付けにいる。
だって、そうじゃないか。グラント・Gを追い詰めたり、配下の工作員をクラスメイトとして送り込んできたり。
他にも、色々な武器を造っていたり、高宮重工の技術を盗んだり、すばる隊員のようなスパイまで使っていた。
そんなことをしている企業が、悪くないとでも言うのだろうか。神田隊員らしからぬ言葉に、私は狼狽えていた。
神田隊員は携帯灰皿を取り出し、その中に灰を落とした。タバコを持っている手で、児童公園の中を示した。

「それで、礼子ちゃんが襲撃されたのって、どの辺りなんだ?」

「えー、と」

急に話を振られたので、私は間を置いてから答えた。児童公園の前にある、あまり広くない道路を指した。

「あの道路の辺りです。公園に忘れちゃった三輪車を取って、戻ってきたら、空から赤い戦車が」

「そこでリボルバーがやってきた、と」

「はい、そうです。戦車が人型の巨大ロボットに変形して、その砲口で狙われたと思ったら、戦車ロボットがいきなり吹っ飛ばされたんです。アスファルトとか電柱とか、その辺のものを壊しながら吹っ飛ばされてました。それで、その砂埃とかが消えると、戦車ロボットが起き上がってきたんです。でも、それ以上は動きませんでした。腕を拳で貫かれていたし、胸の辺りにもでっかい穴が開けられていて、足も砕かれていたと思います。それで、戦車ロボットの腕を貫いていた腕が抜かれて、戦車ロボットが倒れると、ようやくレッドフレイムリボルバーの姿が見えたんです。戦車ロボットと同系色だから、色が馴染んでいたせいでよく見えなかったみたいなんです。それで、私が立てないままでいると、彼はこっちにやってきて、私の前に三輪車を置いて、すぐに飛び去って行っちゃいました」

夢の中では音はなかったが、きっと現実では物凄い音がしていたはずだ。私は、夢と記憶を必死に思い出した。
そこで、ふと、違和感を感じた。レッドフレイムリボルバーは両肩に弾倉と銃身があるのに、撃っていない。
赤い戦車の装甲には、貫通痕などなかったし、銃声も砲撃音も聞こえなかった。彼は、拳で戦っていたのだ。
彼は、なんで撃たなかったんだ。北斗と南斗だって撃つのに。私が言葉を止めていると、神田隊員は呟いた。

「ひどい戦いだったよ。本当に、誰も死ななかったのが不思議なくらいだ」

神田隊員は、マイルドセブンの灰を手の中に収めた携帯灰皿に落とした。私は、神田隊員の手元を見ていた。
上着を着ているから解りづらいが、その脇にはガバメントが差し込んである。足にも、ナイフが装備されている。
神田隊員はタバコを口元に戻し、ゆっくりと煙を吸い込んだ。彼の表情は複雑で、私には読み取れなかった。
過去を懐かしんでいるようでいて、苦しげなようでいて、それでいて、口元には僅かな笑みが形作られている。
唐突に、私は神田隊員とすばる隊員の、あのことを思い出してしまった。あれ、間違いなく、キスだよなぁ。
なんでこんな時に、とは思ったが、どうにもならなかった。勝手に照れが生じてきて、やりづらくなってくる。
神田隊員は、俯いている私に目を向けた。半分ほど燃え尽きたタバコを携帯灰皿に押し当てて、火を消した。

「今度はどうしたんだ?」

「え、いえ、あの、別に」

私はしどろもどろになり、勝手に紅潮してしまう頬を押さえた。他人事なのに、なんでこうなっちゃうんだよ。
ああ、私ってうぶだ。恋なんてしたことないし、他人の恋も目の当たりにしたことなかったから、耐性が一切ない。
なんて情けない。私が自己嫌悪に苛まれていると、神田隊員は二本目のタバコを抜こうとしたが、中に戻した。

「礼子ちゃん。この間のあれ、見ていたんだろう?」

「あ、あれって、あの」

私がどう答えようか迷っていると、神田隊員は自嘲気味に口元を引きつらせた。

「オレがトレーラーから離れた後で、北斗の機影と君の姿を見たから。いたんなら、しなきゃ良かったかな。だけど、そんなことにも気付けなくなるぐらい、すばるさんにあんな思いをさせていたなんて想像も出来なかったぐらい、勘が鈍っちまってた。オレも、充分に馬鹿だよ。人のことは言えないな」

「神田さん…」

私は、神田隊員を覗き込んだ。神田隊員の眼差しからは、いつもの優しさは消えていた。

「こればかりは、全部オレが悪いんだ。いつまでたっても、高校時代のまま前に進めなかったオレが悪いんだよ」

「あ、あの」

私は聞こうか聞くまいか迷ったが、一応聞いてみることにした。

「どうして、その、すばるさんに、あんなことしたんですか?」

神田隊員は、目を伏せた。後悔が、強く滲んでいる。

「オレにも、よく解らない。あんなことをしたら、すばるさんを傷付けるって解っていたはずなのにな。好きだったら、余計にあんなことはするべきじゃないんだ。でも、すばるさんが本当に悲しそうな顔をしていて、その原因が全てオレにあるんだって思って、どうにかしないといけないって思ったんだ。だけど、オレはまだ、美空を忘れられてないし、そんな状態で言うのはまずいとか、もういい加減に言ってしまうべきだとか、散々迷ったんだ。だけどやっぱり、このままじゃいけないと思って、すばるさんを呼び出したんだけど」

だけど、と神田隊員は声を沈めた。

「すばるさんが、泣きそうなのに無理して笑ってくれたのを見た途端に、そういうのが、全部吹っ飛んじまったんだ。オレはなんて馬鹿なんだ、って。そしたら、体が動いちまってたってわけさ」

マイルドセブンのケースは、神田隊員に握り締められて歪んでいる。

「すばるさんがオレを見ていてくれたことには、最初から気付いていたんだ。それと同じくらい、オレもあの人を見ていたからね。シュヴァルツ工業から高宮重工に寝返った人間だって知っていたから、そのことが気掛かりだったから彼女を見ていたんだ。あちらを裏切ったようにこちらを裏切るかもしれない、って思ってね。高宮重工も、すばるさんにシュヴァルツ工業の手が及ばせないために特殊機動部隊に配属したようなものだし、オレも彼女を監視する任務も受けていたから、ということもある。でも、ずっと見ていると解ってきたんだ。すばるさんは、オレ達に信用されようと必死になっていたんだ。シュヴァルツ工業を裏切った負い目があったからかもしれないけど、必要以上に働いてくれて、なんとかオレ達の役に立とうとしてくれていた。自衛隊に入れられたばかりで、不完全な状態の北斗と南斗を現場で調整してくれたり、やらなくてもいい書類整理もやってくれたり、オレと隊長がいない時には特殊機動部隊の営舎にずっといてくれたり。それでも、オレは彼女を信用しなかった。一年ぐらい、その状態が続いていたんだけど、ある日出勤すると、すばるさんの顔色が真っ青になっていたんだ。どうしたのかって聞いても、どうもしていない、としか言わなくて、でも、手が凄く冷たくてね」

神田隊員は、一度言葉を切ってから、続けた。

「何度聞いても、どうもしていない、としか言わないからつい怒ったら、すばるさんはぼろぼろ泣き出して。裏切り者は所詮裏切り者なんだから何もしないで、って言って。そう言われて、オレがどれだけ彼女にひどいことをしていたのかようやく思い知ったんだ。すばるさんは、過労と心労で倒れる寸前だった。それで、なんとか償おうと思って、色々とやっているうちに、気付いたら」

好きになっていたんだ、と神田隊員は声を沈めた。

「でも、オレは美空が忘れられなかった。初めて好きになった人だったから。高校の時も可愛かったんだけど、大人になって、どんどん綺麗になっていって、オレが付け入る隙なんてどこにもないのに、まだ機会はあるんじゃないか、なんてことを少しだけ考えたりしてさ。でも、やっぱり、オレは美空が好きな奴には絶対に敵わないんだ。そのことにはずっと前から気付いていたけど、それでも美空のことが好きだった。だけど、すばるさんのことも、どんどん好きになっていったんだ。それこそ、守りたいぐらいに」

神田隊員は、目元を押さえた。手の下に隠れた口元が、苦しげに歪んでいる。

「オレは、本当に馬鹿だ。今更、迷うことなんて一つもないはずなのにな」

背を丸めている神田隊員は、いつになく弱く見えた。私の知らなかった彼が、神田葵という男が、そこにいた。
私の知る彼の顔は、自衛官である時か優しいお兄さんである時だけだ。だから、こんな葛藤は知らなかった。
恋は、こんなにも人を苦しめる。本の中にある恋愛も、素敵なものもあるが、泥臭くて苦い恋も多く存在する。
私は、何も言えなかった。神田隊員の吐露した言葉は、どれも重たくて、自責と自虐ばかりが込められていた。
神田隊員は、マイルドセブンを握り締めていた手を緩めた。深く息を吐いてから、顔を上げ、私に振り向いた。

「礼子ちゃん。誰かを好きになったら、迷わない方がいい。オレの経験からすると、そういう答えが出る」

神田隊員はマイルドセブンをポケットに戻し、立ち上がった。

「迷ってばかりいて何もしないままでいると、後で必ず後悔するからね。そろそろ行こうか、高宮の家に」

私は頷いて、立ち上がった。少し前を歩く神田隊員の背は大きかったが、どことなく悲哀が滲んでいる気がした。
好きな人、か。私には、そんな人はいない。でも、気になって気になって仕方なくて、どうしようもないのはいる。
いつもいつも守ってくれて、馬鹿で子供でやかましくて、やることがずれていて、だけど、私を好きでいてくれる。
けれど、私はあいつを好きになるはずがない。友達で仲間だけどロボットだし、なにより、私は人間でしかない。
私がロボットだったら、躊躇わずに受け入れていただろう。あいつがロボットでなかったら、まだ良かっただろう。
神田隊員に続いて、黒のジープラングラーに乗り込んだ私はシートベルトを締めた。ポケットから、金属音がした。
スカートのポケットに手を入れ、その中に突っ込んである、以前に二人から渡された偽物のドッグタッグに触れた。
その片方を、痛いくらいに握り締めた。





 


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