私は、戦い続ける。 死んでしまう、その日まで。 卒業証書をもらったのは、自分の部屋でだった。 お母さんが私に渡してくれたそれは、丸められていたクセが付いていて、広げなければ中が見られなかった。 こういうものは、大勢の前でもらうからこそ感慨深いわけで、自分の部屋でもらうと感慨もへったくれもない。 でも、ありがたくもらっておいた。お母さんは泣き出しそうな顔をしていて、目尻には既に涙が溜まっていた。 「礼子」 「当分、帰ってこられないと思う」 私は丸めた卒業証書を、円筒のケースに入れて蓋を閉めた。きゅっ、と厚紙が擦れ合う。 「そういう話だから」 「どうして、こんなことになっちゃったんだろうねぇ…」 お母さんは肩を震わせて、目元を押さえている。私は目を伏せていたが、卒業証書のケースをきつく握り締めた。 私だって、解らない。私の知らないうちに、色々な出来事が絡み合って、捻り合って、この状況が生まれたのだ。 私は、その中の歯車の一つとなっていた。自分でも解らないうちに、よく解らないものを、背負うことになった。 それは高宮重工の機密であったり、自衛隊の対面であったり、色々だ。その結果、私は家を離れることになった。 シュヴァルツ工業の動きは、収まっていない。だから、その手が私の家族へと伸びてこないとも限らないのだ。 その危険を回避するために、私は家を出ることにしたのだ。私の本意ではなく、政府と自衛隊からの命令だった。 「私ねぇ、大したことないけど、夢があったのよ」 お母さんは私の肩に手を添えると、涙を落としながら笑ってみせた。 「礼子をちゃんとした大人にして、結婚するまで育ててあげようって、その日が来たら気分良く送り出してやろうって、ずっと思っていたの。でも、それはもう、無理みたいね。礼子が行くのは、そういう、いいところじゃないものね」 「うん」 私も、そうなるものだと思っていた。学校を出て、就職して、恋をして、結婚して、子供を作って終わるのだと。 「帰ってこられる時が来たら、いつでも帰ってきてね。待ってるから」 お母さんは身を屈めて私と目線を合わせ、髪を撫で付けてきた。 「私には、それぐらいしか出来ることがないから」 「それでいいよ。それだけで」 お母さんの声があまりにも悲しそうで、私も悲しくなってきてしまった。うん、とお母さんは頷く。 「私もね、礼子が元気でいてくれれば、それだけでいいの。どこにいて、何をしていようともね」 私はお母さんに言葉を返そうとしたが、詰まってしまった。何を言ったらいいのか解らず、頷くしか出来なかった。 ごめんなさい、とか、ありがとう、とか、その辺の言葉が浮かぶのだけど、そのどちらでもない気分だったのだ。 普通の人生から外れてしまった申し訳なさと、それを受け入れてくれた嬉しさが入り混じって、胸中は複雑だ。 お母さんも、色々と悩んだことだろう。お母さんの笑顔は温かいけど、表情のそこかしこに、疲れが滲んでいる。 私は、とても悪いことをしている気がした。いや、間違いなく、悪い。こんなに、親不孝なことなんてない。 せっかくここまで育てた子供を、理不尽とも思える理由で家から出されて、挙げ句に危険な目に遭うのだから。 何がなんでも、生きて帰ろう。いつになるか解らないけど、絶対に家に帰ってこよう、と私は強く決心した。 「健吾は?」 今日は、朝から弟の顔を見ていない。私が訝しむと、お母さんは健吾の部屋の方に向いた。 「あの子もあの子で、複雑なのよ。急に、こんなことになっちゃったから、状況に付いていけてないの」 「…そっか」 私には、健吾の気持ちも解る。今まで表沙汰になっていなかった私達が表に出たので、現実味を感じたのだろう。 この前までは後ろに引っ込んでいたし、目立った活躍はしていなかったから、弟にとっては現実ではなかった。 だが、中学校がテロリストに襲撃されて、私が頬に目立つ傷を作って、北斗と南斗が飛龍 テレビの中のヒーローのように、後腐れのない戦いではなく、勧善懲悪ではない、正義も悪もいない戦いだ。 傷付いた人達も多いし、失ったものも多い。得るものなんてなく、生まれたのは大量の瓦礫と様々な傷だけだ。 私も、自衛隊側にいなければ、事態が飲み込めずに戸惑っていたはずだ。だから、責めることは出来ない。 お父さんも、いきなり立場が飛躍してしまった私にどう接して良いのか解らないらしく、複雑な表情をしていた。 戦いの後からは、ろくに話していない。今朝も、お父さんが出勤する前に、挨拶程度の言葉を交わしたきりだ。 私が帰ってこられるようになったら落ち着いて話せるかな、と思いながら、卒業証書の入った筒を抱き締めた。 でも、やっぱり、高校には行きたかったな。 私は、家を出た。 荷物は既に駐屯地に送ってあるので、持っていくものと言えば自分の拳銃と携帯電話、卒業証書ぐらいだ。 それらと数冊の文庫本をショルダーバッグに入れて肩から提げ、街を歩いてみたが、昼間なので静かだった。 あの戦いの直後は殺到していた報道陣やヘリは一段落しているが、今でも時折、思い出したようにやってくる。 街に住む人々は過剰に取材されることを避けるために家に引っ込んでいて、人通りは前に比べたら大分減った。 その代わり、警察官と自衛官をよく見掛けるようになった。テロリストの関係者が現れないか、待っているのだ。 だが、現れることはないだろう。相手はあのシュヴァルツ工業だ、滅多なことでは尻尾を出さない厄介な敵だ。 これからの戦いが激しくなれば、シュヴァルツ工業の奥深さや恐ろしさを、これまで以上に知ることだろう。 けれど、怯んではいけないのだ。敵が何を企んでいようと、私達はそれを全力で阻止し、皆の平和を守るのだ。 そんなことを考えていると、私は正義のヒーローのような気分になったが、そんなものじゃない、と思い直した。 自衛官は自衛官だ。それ以上でもそれ以下でもない。私はぼんやりとしながら、通学路を辿って歩いていた。 住宅に囲まれた細い道、その向こうに見える車通りの多い道、駅前に繋がる真っ直ぐな道。これとも、お別れだ。 中学校が、近付いてきた。飛龍の蹴りや尾の一撃で砕かれた、巨大なコンクリート片は、未だに残されていた。 周辺は片付けてあるのだが、校舎自体の損傷が激しすぎるため、解体するのには相当な手間が掛かるらしい。 警察と自衛隊の現場検証は、とっくに終わっている。テロリストグループの死体も、きっちり片付けられてある。 中学校の傍までやってきたが、校門には、黄色地に赤文字で、KEEP OUT と書かれたテープが張られていた。 日が経ったので血と硝煙の匂いはかなり薄れたはずだが、ほんの少し、感じられた。気のせいかもしれないが。 そのうち、この学校は更地にされてしまうだろう。だが、この土地にまた学校が建てられることは、ないと思う。 テロリストに襲われた上に大量に人が死んだ場所なんて、縁起が悪いし、その上にいるのは少し気持ち悪い。 適当な公園にでもされそうだな、と、私は予想した。そろそろ行こうかな、と歩き出そうとして、足を止めた。 体重の軽い足音が、止まった。三月の鋭い寒さを含んだ風が吹き付け、私のコートと彼女のコートを揺らす。 私が歩いてきた道からやってきた彼女が、私の後ろに立っていた。私は、彼女にまた会えて、嬉しくなった。 白いマフラーで首を覆い、可愛らしいパウダーピンクのハーフコートを着た、ミニスカート姿の少女がいた。 彼女は私の姿を見て、ただでさえ大きな目を目一杯見開いた。リップグロスを塗った唇を、半開きにしている。 「礼ちゃん…」 「久し振り。なっちん」 私は、嬉しさに任せて表情を綻ばせた。奈々は、私に駆け寄ってきた。 「もう、もう、会えないんじゃないかと思ってた!」 「うん、私も」 私は奈々に手を掴まれ、その指先の冷たさにちょっと驚いた。奈々は、私のバッグから出た筒に気付いた。 「それ、卒業証書だよね?」 「三日遅れでもらった。そっちはどうだった?」 私以外の皆は、市営のホールで行ったらしい。奈々は私の手を離すと、ぎこちなく笑った。 「別に、大したことない。皆、沢口君がいたことも礼ちゃんがいたことも、忘れようとしている感じがした。先生もそうだけど、クラスの誰も礼ちゃんのことも沢口君のことも話さなくて、そのくせ普通にしてて、マジで変だった。いつもは皆、別の学校で授業を受けているから、久々に会えて嬉しいとかなんとか、皆が揃って言っていたけど、私はそうは思わない。だって、礼ちゃんがいなかったから」 「ありがとう、なっちん」 「だって、私、礼ちゃんが好きなんだもん。忘れるなんてこと、しないよ」 奈々の表情からは、以前の弾けるような明るさは失われていた。私は、それが気に掛かった。 「なっちん、どうかしたの?」 「どうもしないよ。ただ、ちょっと、苦しいだけだから」 大丈夫、と私が不安になると、奈々は綺麗に磨かれた爪を手のひらに食い込ませた。 「悔しくて、たまんないだけだから」 奈々は俯き、唇を噛んで肩を震わせている。私は彼女の腕を取り、中学校近くの児童公園を指した。 「あっち、行こう。その方が、落ち着いて話せると思うから」 「…うん」 私に従い、奈々はのろのろと歩いた。今年の流行りのデザインのロングブーツのかかとを、擦るようにして進んだ。 児童公園までやってきたが、肌寒いせいと事件現場が近いために子供の姿はなく、ひっそりと静まり返っていた。 出来るだけ奧のベンチまでやってくると、奈々を座らせてから、私はその隣に座った。底冷えしてしまいそうだ。 奈々はタイツを履いた膝の上に手を載せて、きつく握り締めていた。しばらく沈黙が続いたが、彼女は呟いた。 「礼ちゃん。私、馬鹿だ」 私は敢えて何も言わずに、奈々の次の言葉を待った。奈々は、苦しげに漏らした。 「礼ちゃんのことが本当に好きなのに、一番大事だって思えるのに、礼ちゃんがいなくなるって聞いて、ちょっとだけ安心しちゃった自分が、すっごく嫌なんだ。あの日のこと、怖くないって思おうとしても、やっぱり凄く怖かったんだ」 ごめんね、本当にごめんね、と繰り返し、奈々は肩を縮めた。 「それ、でね。礼ちゃんがいたからあんなことが起きたんだ、って言う人ばっかりで、でも、言い返したりしたらもっと礼ちゃんのことを悪く言われちゃいそうな気がして、何も言えないの。ごめんね」 「いいよ」 私は、首を横に振った。奈々も人間だ、戦いを怖いと思うのは仕方ないことだ。奈々は、涙で声を詰まらせる。 「良くないよぉ! だって、礼ちゃんは何も悪いことなんてしてないもん! 誰も殺してないもん!」 「ありがとう、本当に」 私は奈々の肩に手を回して、引き寄せた。奈々は、私に縋る。 「礼ちゃんは戦ってくれたのに、私達を守るためにあんなことしてたのに、誰もそれを認めてくれないの!」 「うん」 「悪いところばっかり言って、いいことなんて全然言わないの!」 「うん」 「礼ちゃんとかあのロボット達に助けてもらってなきゃ、死んでいたかもしれないのに、責めてばっかりなんだ!」 「うん」 「テレビだって雑誌だって新聞だって、全部全部そうなの! おかしいよ、そんなの絶対におかしいよ!」 奈々の手が、私のコートの背を握り締めた。私の胸に顔を埋めている奈々は、唸るように言葉を出す。 「おかしいよぉ…」 「世間なんて、そんなもんだよ」 私は、しゃくりあげている奈々の背をぽんぽんと軽く叩いた。奈々は、うぅ、と呻く。 「だけどぉ…」 「そりゃ、私も悔しいよ、色々と。でも、それはそれで、私達は私達でやっていくしかないんだよ」 私は腕に力を込めて、奈々を抱き竦めた。なんだか、弱々しかった。 「隊長が言っていたんだけどね。戦うからには、迷っちゃダメなんだって。自分の判断を信じて戦わなきゃいけない、正義なんてないんだからせめて自分の判断だけは正しいと信じてやれ、ってさ。だから、私もそうするの。なっちんとか、うちの家族とかを守るために戦おうって思ったんだ。何かあった時に守れるように、何か起こさないために、強くならなきゃってさ」 「わたし」 私の胸から顔を上げた奈々は、鼻を啜った。涙で赤らんだ目元を擦ってから、私を見上げてくる。 「超情けない。礼ちゃん、どんどん強くなるのに、私ばっかり、そのまんまだ…」 「なっちんも充分強いよ。私が保証する」 私はハンカチを取り出し、奈々に手渡した。奈々は私のタオルハンカチで目元を拭うと、それを顔に押し当てる。 「…そお?」 「そうだよ。なっちんが沢口君に、あ、いや、李太陽 私はその時の嬉しさを思い出し、笑んだ。奈々は私を見つめていたが、一度、目を瞬きさせた。 「マジ?」 「激マジ」 南斗のような言い回しで、私は奈々に返した。奈々は、嬉しそうに目を細めた。 「夢中だったから、何を言ったのかよく覚えてないや。でも、礼ちゃんが嬉しいなら、いいや。これ、ありがと」 奈々は涙の染みたハンカチを、私に差し出してきた。私は、ハンカチを握っている奈々の手を押し戻した。 「いいよ、あげる。なっちん、一度泣き出すと結構泣いちゃうから、まだ必要でしょ?」 「あ、ひっどー」 奈々はちょっとむくれたが、すぐに笑った。そして、私の顔を見ていたが、右頬の傷痕に目を留めた。 「それ、消えないの?」 「あ、まだ見えるのかぁ」 私は自分の右頬を撫でて、傷を確かめた。何度も触っていると、かすかだけどへこみが出来ているのが解る。 痛みはないし、傷口が開くことはない。それでも、たまに気になる。顔なんて、一番目立つ場所にあるし。 私の頬を掠めたコンクリート片は、皮を切り裂くだけでなく、肉もほんの少しだけだが持っていったらしい。 だから傷口が塞がっても完全には元に戻らないのだと、医者が言っていた。だけど、あの時は気付かなかった。 戦闘で神経が高ぶっていたのと、限界まで緊張していたためか、頬の傷に対して意識を向けられなかった。 それ以外にも細かい擦り傷や切り傷も出来ていたけど、それが痛いと感じたのは、戦いの翌日からだった。 頬どころか、全身が痛かったっけ。私がそんなことを思い出していると、けたたましいバイクの音が近付いてきた。 タイヤがアスファルトを噛む軋みが響き、どるん、とエンジンが唸りを上げる。鼻を突く排気が、漂ってくる。 見ると、児童公園の前に、ミリタリーグリーンのバイクが止まっている。オイルタンクには、Kokuoh、とある。 黒王号に跨っているライダーは、上から下まで真っ黒で、これまた黒いフルフェイスのヘルメットを被っている。 そのヘルメットのバイザー部分は、マジックミラーのような加工がされているのか、公園の景色が映っていた。 バイクの後部に、見慣れないものがあった。ミリタリーグリーンの箱、トランクボックスを後部に付けている。 これが誰なのか、考えなくても解った。でかい体をした真っ黒なライダーは、バイクから降りずに私に向いた。 「礼子君。ここであったか」 「何、その恰好。ていうか、それ乗り回しても良いの?」 私が黒王号を指すと、黒衣のライダー、北斗は快活に笑った。 「はははははははは、心配無用だ! 外出許可も単独行動許可も運転許可も全て得ておるぞ!」 「ねえ礼ちゃん、あれって、あれ?」 奈々は驚いたような困ったような顔をして、北斗を指した。私は、奈々に目をやる。 「うん。この間まで国家機密だったやつ」 「じゃ、もう、お別れなんだ」 奈々は、とても切なげな眼差しを私に向けた。唇を締めていたが、手を握り締め、なんとか笑ってみせた。 「またね、礼ちゃん」 「またね、なっちん」 私はベンチから立ち上がると、奈々から離れた。奈々は立ち上がると、私を追おうとして立ち止まった。 「あのね!」 一呼吸置いてから、奈々は叫んだ。 「礼ちゃんが男だったら、私、告ってたかもしれない!」 いきなり、何を言うんだ。予想外の言葉に私はぎょっとしてしまったが、北斗を見ると、北斗は仰け反っていた。 あれはきっと、動転しているのだ。どうリアクションして良いのか解らないのはこっちも同じだ、と私も思った。 でも、奈々は真剣そのものだった。私は奈々と北斗を見比べていたが、照れを堪えながら、北斗を指した。 「ダメ。あれがいるから」 「そうなの?」 奈々が目を丸くすると、北斗は仰け反っていた姿勢を戻し、大きく頷く。 「そうだ、そうなのだ! よくぞ申してくれた、礼子君!」 今度は、奈々がぎょっとする番だった。あう、と変な声を漏らし、私と北斗を見比べる。 「でっでも、それって、えー!? マジなの、礼ちゃん? 有り得なくない?」 「有り得ているから、マジだよ」 「うえー!」 素っ頓狂な声を上げた奈々は、両手で頬を押さえた。私は、奈々に背を向けた。 「じゃ、そろそろ行くから」 「あ、うん」 奈々はまだ戸惑いが残っているようだったが、頷いた。私は北斗から渡されたヘルメットを受け取り、被った。 北斗のものと同じく黒のフルフェイスで、バイザー部分もマジックミラーのようになっている。顔を隠すためだ。 私はショルダーバッグを体の前に押しやってから、北斗の手を借りて黒王号に跨ると、奈々に顔を向けた。 奈々は、私に向けて手を大きく振ってきた。私も奈々に手を振ってから、北斗の大きくて厚い胸に背を預けた。 何度かエンジンを噴かしてから、黒王号は発進した。奈々の姿はサイドミラーに映っていたが、見えなくなる。 またね、ともう一度口の中で言ってから、私は前を見据えた。街並みが通り過ぎていき、私の家も遠くなった。 ヘルメットのバイザー越しの景色は薄暗かったが、冬空はどこまでも高く、光の強い日差しだけが温かかった。 これから私は、戦場に向かうんだ。 06 8/15 |