手の中の戦争




第一話 人質ごっこも楽じゃない



駐屯地の中にある営舎の一室で、私は一息吐いていた。
簡素なベッドに腰を下ろし、生乾きの髪を拭う。汗も埃も、お風呂で徹底的に洗い落としたので、気分は良い。
向かい側のベッドでは、すばる隊員が長い髪を梳かしている。化粧を落としているけど、充分に美人だ。
彼女は、間宮すばるという。特殊機動部隊のオペレーターで、今回とは逆の立場で戦う時には、お世話になる。
的確で素早いオペレートのおかげで、撃たれずに済んだことは何度もある。だけど、彼女は自衛隊の人ではない。
本来は、北斗達を開発した企業の高宮重工の社員で、人型兵器開発部の研究員なのだけど、移動してきたのだ。
北斗達のデータ収集と今後の開発の参考のために来ていて、現在も高宮重工の社員であり、自衛官ではない。
でも、特殊演習の時はいつも一緒にいるので、ついつい混同してしまいがちになる。最近は解ってきたけど。
背中の中程まである髪を梳かし終わったすばる隊員は、髪をまとめ、手首に引っ掛けていたヘアゴムで縛った。

「今日もまた勝ってしもうたなぁ、礼子ちゃん」

「勝っちゃいました」

私は、彼女に笑って返した。すばる隊員は関西方面の出身なので、イントネーションも言い回しも違っている。

「そやけど、こないに何度もテロリストにやられてまう自衛隊って、どないもなりまへんわなぁ」

しょーもないなぁ、とすばる隊員は困ったように笑った。

「うちの子達が強ぅなるんはええけど、もう少し自衛隊を勝たせてやらんとならないんちゃう?」

「だけど、わざと負けるのもなーって思いますよね」

私はベッドサイドからペットボトルのポカリスエットを取り、飲んだ。すばる隊員は、こくんと頷く。

「そやなぁ。北斗も南斗もえらい負けず嫌いやし、わざと負けろゆうても、絶対に聞かへんやろなぁ」

「ですよねぇ」

私も、たまには負けてやって自衛隊の顔を立ててやるべきだと思うけど、あの二人にはまず無理な話だ。
二人とも子供染みているから、勝負となれば何が何でも勝とうとするし、実際かなり強引に勝ち続けている。
人間を凌駕している感覚や腕力を持っているせいで、奢っていることもあって、無茶苦茶な作戦が多い。
訓練の最中はそれで勝てているから良いけれど、実戦ではそう上手く行かないはずだし、行くわけがない。
今日のことだって、そうだ。私を囮にする辺りからして、まず、基本的な部分から物凄く間違っていると思う。
いつか、二人とも鼻っ柱をへし折ってやらなきゃならない。下手にプライドが高い奴って、扱いづらいんだよね。
一番簡単な方法は訓練で負けてしまうことだけど、今の北斗と南斗は、現時点では自衛隊の中では最強なのだ。
私という弱点を作られていても、鍛え抜かれた部隊に何度も勝っているし、レンジャーだって目じゃなかった。
このままじゃ、実戦に出た時に訓練との落差に戸惑ってしまう。その間に、やられてしまう可能性は大いにある。
何十億と税金を投じて造ったロボットが、肝心の実戦で負けてしまっては、自衛隊は国民に滅ぼされると思う。
私がごちゃごちゃと悩んでいると、すばる隊員はコーラを飲んでいた。ぷはぁ、と気持ちよさそうに息を吐く。

「実戦は訓練みたいに楽やないゆうことを、あの子らに教えてやらなアカンなぁ」

「でも、今のところ、あの二人は日本最強なんですよね」

下手な漫画みたいなセリフだったが、事実なのだ。私の言葉に、そやねぇ、とすばる隊員は眉を下げる。

「北斗と南斗よりもごっつぅ強うロボットはおるんやけど、あの人らは、もう戦わへんって決めはってるからなぁ」

「そうなんですか」

私はペットボトルを傾け、飲み干した。随分前に、北斗からこんな話を本当に少しだけ聞かされたことがある。
なんでも、北斗と南斗は高宮重工が所有するロボットを元にして造られたとのことで、実質的に親なのだそうだ。
だけど、私はそれ以上のことは何一つ知らない。そのロボットがどんな形でどんな名前のロボットか、なんて。
だから、その、北斗と南斗の元になったロボットがなぜ戦わないのか、などという理由など知る由もないのだ。
全く興味がないわけではないけど、過度な詮索は身を滅ぼす。私は、あくまでも最前線にいる人質役なのだ。
うっかりでもなんでも、高宮重工の秘密なんかを知り得てしまったら、それこそどうなってしまうのか解らない。

「あ、ああ、アカンアカン。こないなこと、ゆうちゃならんことやったわ。礼子ちゃん、忘れたってや」

しぃーな、とすばる隊員はちょっと怖い顔をして唇の前に人差し指を立てた。でも、仕草が可愛くて怖くない。
どうやら、すばる隊員がうっかり言い漏らしかけたことは、高宮重工か自衛隊にとっての機密情報なのだろう。
そんなことをポロッと口にしないで欲しい、と思いながらも、私はとりあえず頷いた。機密なら黙っていよう。

「解りました」

「ホンマ、ホンマよ。誰にもゆうたらアカンねんで、礼子ちゃん」

もう一度、ホンマよ、と繰り返したすばる隊員は身を乗り出した。すると、廊下から足音が近付いてきた。
扉が叩かれたので、私は生返事をした。開けるよ、と声を掛けてから扉が開くと、神田隊員が顔を覗かせた。

「あ、すばるさんもこっちにいましたか」

「神田はん。うちのこっちでの仕事は終わったから、汗ぇ流しとこ思て」

柔らかく笑んだすばる隊員に、神田隊員は向いた。

「それじゃ、高宮重工に戻ったらまだあるんですね。いつもご苦労様です、すばるさん」

「そないなこと、いつものことやよ。あの子らのメンテナンスは、トレーラーの設備だけやと無理やから」

コーラの缶を手の間で転がしながら、すばる隊員は目を伏せた。神田隊員は部屋に入ると、扉を閉めた。

「あの二人の構造は、ただでさえ複雑ですからね」

私は、照れているすばる隊員を眺めていた。困ったように眉を下げているけど頬は赤くて、なんとも可愛らしい。
言動がおっとりしているので、二十五歳には見えない。彼女は、神田隊員を見上げたがすぐに目を逸らした。
神田隊員はそれを気にすることもなく、私に向いた。あからさまに意識されているのに、気付いてないのだろうか。

「礼子ちゃん。北斗のお呼びだ」

「今回も三番トレーラーですか」

私は髪が乾き掛けているのを確かめてから、ジャージの上を羽織った。神田隊員は、窓の外に目をやる。

「三番トレーラーだ。メンテナンスが終わり次第呼び出せってうるさくってさぁ」

「それで、南斗は?」

ベッドから下りてスニーカーを履き、私は神田隊員を見上げた。神田隊員はすぐに答えた。

「精密検査をしてみたら左肩の関節が予想以上に損傷していて、他にも、金属疲労を起こしている部分がいくつかあったんだ。だから、念のために、オーバーホールしようってことになって高宮重工の研究所に向かったよ。南斗は、北斗に比べて関節の性能が高い分、どうしてもデリケートになってしまうからね」

「デリケート、ねぇ」

とてもじゃないが、あいつらには似合わない言葉だ。私は変な顔をしながら、神田隊員に続いて部屋を出ていった。
就寝前だからざわついている廊下を歩きながら、振り返った。すばる隊員は半分扉を開けて、顔を出していた。
私に気付くと、手を振ってきた。私は手を振り返していたが、その目線が私を通り越しているのは知っていた。
すばる隊員は、神田隊員の背を見つめていた。なのに神田隊員は振り返ることはなく、さっさと歩いていく。
いつの頃からかは知らないが、すばる隊員は神田隊員が好きらしい。だけど、神田隊員は気付いていない。
すばる隊員があからさまなことをしないせいもあるのだろうけど、それにしたって、朴念仁すぎやしないか。
もう一度振り返ると、すばる隊員は引っ込んでしまった後だった。いい大人なのに、なんて奥手なんだろう。
私はお風呂上がりの心地良さで眠気が起きていたけど、欠伸を噛み殺しながら、神田隊員の背を見上げていた。
厚みがあって広い背は見るからに頼りがいがあって、私も、神田隊員には多少なりとも男の魅力を感じてしまう。
なかなかのいい男なんだけど、朴念仁だ。というより、恋愛そのものに興味がない、といったふうにも見える。
私だったら、すばる隊員みたいな可愛い女の人から意識されているって解ったら、袖になんかしない。
神田隊員は、結構罪な男かもしれない。




広大な自衛隊駐屯地の片隅に、特殊機動部隊のトレーラーが並んでいた。
眠たくなったところで長々と歩いたので、私は一層眠たくなっていたけど、気合いと根性で意識を保っていた。
営舎や格納庫は遥か遠くに見え、訓練用のグラウンドも大分遠かった。奧の奧まで、歩いてきたようだった。
神田隊員の持つ懐中電灯の明かりだけが頼りで、私は少しばかり不安になりながら、無言で彼の後に続いた。
十二時間の特殊演習を行った森の傍だけが、昼間のように煌々と明るくなっていて、トレーラーの影があった。
神田隊員が手で示したので、私は頷いた。神田隊員は私に懐中電灯を渡すと、それじゃ、と手を振ってみせる。

「オレは他に仕事があるから、ここで失礼させてもらうよ」

「北斗から何か言われたんですか。邪魔をするなー、とか」

私がぽつりと呟くと、神田隊員はトレーラーが並んでいる方へ向く。

「まぁね。でも、あそこには整備班がまだ残っているから、北斗と二人きりになっちゃうことはないよ」

「なら、いいんですけど」

北斗と二人だけになるのは、訓練の最中だけで充分だ。私は安堵しながら、神田隊員に敬礼した。

「おやすみなさい、神田さん」

「おやすみ、礼子ちゃん。就寝時間は守るんだぞ、でないと連帯責任だ」

にっと笑った神田隊員は、駆け出していった。暗闇の中を迷わずに駆けていき、あっという間に見えなくなった。
私は振っていた手を下ろすと、暗い中で強烈に目立っている光源、特殊機動部隊のトレーラーの方向に向いた。
正直、あんまり行く気はしない。でも、行かないと後で北斗がうるさいだろうから、行かなくてはならないのだ。
グラウンドを走ってきた夜風が、生乾きの髪を冷やしていく。その冷たさに湯冷めしそうになり、ぶるっとした。
やっぱり、ドライヤーは掛けておくべきだった、風邪引いたら嫌だな、などと思いながら、私は歩いていった。
トレーラーの傍までやってくると、背の高いスタンドに付けてあるライトの光の強烈さに、目が痛くなった。
さっきまで真っ暗だったから、余計にきつい。目を細めながら、青白い光に照らされた一帯に入り、進んだ。
全部で五台あるトレーラーの周囲では、自衛隊の人間と高宮重工の人間が、ごた混ぜになって忙しくしていた。
私は彼らに、ご苦労様です、と声を掛けてから三番トレーラーを探した。三番のものは、機体輸送用の車両だ。
アーミーグリーンのコンテナに書かれている番号を確かめながら、人の間を縫い、三番トレーラーを見つけた。
側面に、陸上自衛隊、とでっかく書いてあるそれは、後部の搬入口を開いてあり、タラップも下ろされていた。
そのタラップの一番上に、北斗が座っていた。大きく股を開いて腕を組み、怖い顔をして私を見下ろしている。

「遅いではないか。カンダタに呼び付けるように言ってから十五分も過ぎているぞ」

「私の携帯、鳴らせば良かったのに」

私が北斗を見上げると、北斗はがしゃんとタラップを殴った。

「鳴らしても鳴らしても出なかったではないか! 礼子君、電源切りっぱなしにしていたのを忘れていたな!」

「あ」

そう言われて、思い出した。そういえば、訓練を始める前、というか拉致された時に切ってそのままだった。
苛立っているのか、北斗は殴り付けた拳を緩めていない。これ以上怒らせてはいけないと思い、平謝りした。

「ごめん」

「解れば良いのだ」

北斗は拳を緩めると、座り直した。私は幅の広いタラップを一番上まで昇り、北斗の隣に腰を下ろした。
鉄板の冷たさにちょっと驚いたけど、きちんと座った。右隣を見上げると、北斗はあらぬ方向を睨んでいた。
今はさすがに戦闘服は着ていないけど、黒のタンクトップとアーミーグリーンの軍用ズボンを着ている。
足元は例によってジャングルブーツだけど、メンテナンスのついでに履き替えたのか、汚れていなかった。
隣に座ると、いつも以上に北斗をでかく感じる。人間に似せて作られた、銀色の上腕二頭筋はかなり逞しい。
タンクトップの下の胸筋と腹筋も見事に割れていて、首だって立派なものだけど、その全ては銀色だ。
左の二の腕には、七号機、とゴーグルと同じような色のダークブルーの塗料で、ペイントがされてある。
そして、いつも疑問に思うのだけど、頭にはヘルメットを被ったままだ。外しているところは見たことがない。
何か理由があるのかもしれないしないかもしれないけど、別にどうでも良いので、私は北斗から目を外した。
北斗は伸ばしていた背筋を曲げ、背を丸めた。前傾姿勢気味になると顔を横に向け、私を覗き込んできた。

「礼子君。話の前に、まず報告がある」

「律義にやったわけね、腕立て伏せ百回を」

「当然だとも」

頷いた北斗を、私はやる気なく横目に見た。

「で、なんだっての。こんな時間にさぁ。就寝時間が近いんだから、早くしてよね」

「解っているとも。では、本題から入ろうではないか」

北斗は曲げていた背筋を戻し、姿勢を正した。メンテナンス直後だからか、装甲の艶がいい。

「礼子君は、なぜ自分の出迎えに来なかったのだ。まず、その理由を教えてくれないか」

「だーから、部活の練習試合があったの。あんたが帰ってきたの、土曜日だったでしょ。その日はね、近くの中学とやり合うって前から決まってたんだよ。で、その試合は○九三○から始まって、一四○○で終わりだったの。まぁ、結果は大したもんじゃなかったけど、上出来ってところ。で、あんたが帰ってくる時間は一五○○でしょ。そりゃ、ヘリを飛ばせば、私の中学からあんたの帰ってきた空港までは、四十分ぐらいで行けるかもしれないけど、そのヘリを動かすための金はどこから出てると思ってんのよ。そんな、どこぞの馬鹿な議員じゃないんだから、たかが出迎えにじゃかすか税金使って許されると思う? 許されるはずがないでしょうが」

私が一息に言い放つと、北斗は不思議そうにした。

「自分からの命令だ、と言えばいいだけのことではないか。例え礼子君の独断であったとしても、そう言えば大抵のことはまかり通るようになっていると知らんのか」

「知ってるよ。知ってるから、余計に嫌なの」

私は足を伸ばすと、はあ、とため息を吐いた。やはり、世間一般の人間とは価値観が根本から違っている。

「それにね、私みたいな十五のガキに振り回されるなんて、自衛隊の人達がいい気するはずないでしょうが。それでなくても私がこんな場所にいるのは、当たり前の話だけど気に食わないみたいだし、そういう神経逆撫でした挙げ句に足蹴にして高笑いするような真似はしたくないの」

「自分は別に気にはならんぞ」

ますます不思議がっている北斗に、私は嫌になってきた。ああもう、この箱入りロボットめ。

「北斗は大事に育てられた国家機密だから、金持ちみたいな待遇に疑問は持たないだろうけど、不自然だし不愉快なんだよ、そういうのって。そんな無茶苦茶な我が侭が通ること自体、まず間違ってるんだよ」

「間違っているのか?」

「当たり前でしょうが」

言い返すのも腹立たしくなってきたけど、せっかくだから言い返すことにした。

「大体、そうやってあんたの我が侭が自衛隊に通ること自体がおかしいの。そりゃ、国家機密かもしれないけどさ、だからってベッタベタに甘ったるい待遇されてる辺り、根本的な部分から間違えてるんだよねぇ。私がこうしてここにいるのだって、あんたの我が侭なわけでしょ? 違う?」

そう尋ねると、北斗はこっくりと首を縦に振った。

「相違ない」

「ほらね。それがまずおかしいの」

私は、出来るだけ尖った口調にした。

「あんたは私に会いたかったかもしれないけど、私は別にあんたに会いたかったわけじゃない。そりゃ、一度ぐらいだったらまだいいけど、二度三度四度と会わされた挙げ句に、人質稼業なんて始めさせられちゃって、ぶっちゃけ、マジでうんざりしてるんだよね。毎回毎回あんたと一緒にろくでもない役をやらされて、銃で狙われて、地雷踏んで、罠に引っ掛かって、自爆させられて、射殺されて。一日ならまだしも二日三日とそんなことをやらされて、走り込みも格闘訓練も射撃訓練もやらされて、勉強する時間なんてありゃしない。そのおかげで、中二の頃はまともだった成績がガタ落ちしたよ。無駄に筋肉が付いちゃった上に日焼けしちゃったせいで、可愛い感じの服なんて、ヤバいくらい似合わなくなっちゃったしさぁ」

言いながら、だんだん悲しくなってきた。

「あんたの我が侭のせいで、私がどれだけやな思いしてるか知らないでしょ」

今日だって、変な目で見られるし嫌な顔をされちゃうし。慣れてはいるけど、やっぱり、嫌なものは嫌なんだ。
私は、姫なんかじゃない。自衛隊にとっては単なる異物でしかない、訳の解らない位置付けのガキに過ぎない。
早く帰りたいなぁ、と思うと、急に切なくなってきた。うっかり泣いてしまいそうになったけど、なんとか我慢した。
北斗は、神妙な顔をして私を見つめていたが、三十秒ぐらい間を置いてから、やけに力の抜けた声を出した。

「そうなのか、礼子君」

「そうなの」

私は北斗から顔を逸らした。こんな奴、見ていたくもない。

「本当に私が好きなんだったら、こんな王子様ごっこはやめてくれない?」

北斗は、黙っていた。私が感情のままに吐き出した愚痴は予想外だったようで、かなり困惑している様子だった。
私は独りでに滲んできた涙を、拭っていた。長いこと溜まっていたことを言うだけ言ったので、気が抜けたのだ。
本当に、物凄く迷惑している。好きでこんなことをやっているんじゃない。逃げられるんだったら、逃げたい。
だけど、逃げられないんだ。特殊演習をやり続けていると、嫌でも自衛隊の持つ力の強大さを知ってしまう。
逃げたところですぐ捕まるだろうし、下手をしたら、政府に何かされるかもしれない。それが、とても怖いんだ。
自分が逃げてしまったせいで、家族や友達に何か起きるかもしれないと思うと、本気で怖くて仕方ないのだ。
志願してこの場にいるならまだいいけど、私は志願なんてしていないし、演習に付き合うと言った覚えもない。
だから、もう、嫌なんだ。私が奥歯を噛み締めていると、いつになく穏やかな北斗の声が背に掛けられた。

「そんなに、礼子君は自分が嫌いか」

「あんただけじゃなくって、全部が嫌なの! テロリストになるのも人質になるのも人生狂わされるのも!」

私が力一杯叫ぶと、北斗は項垂れたようだった。キュイン、とモーターが小さく鳴った。

「礼子君…」

そんなにしおらしい声で名前を呼ばれても、振り向く気なんて起きなかった。私は、涙で視界がぼやけていた。
なんで、こんなことになっちゃったんだろう。もう嫌だ、もう帰りたい。なのに、ここがどこだかも解らない。
その怖さが、あんたみたいなロボットに解るもんか。私は目元から零れてしまいそうな涙を、力任せに拭った。
項垂れている私の肩に、大きくて冷たいロボットの手が触れてくる。横顔だけ向けると、北斗が肩を支えていた。

「自分は、礼子君が好きだ」

「あんたが好きでも、私は嫌いなの」

私が上擦った声で呟くと、北斗は手を下ろした。

「ならば、次からは礼子君の都合を考慮した日程にするように進言しておこう。それならば、まだ良いか」

「…何が何でも、私を引っ張り出す気なんだ」

私は、タラップの下に生い茂っている雑草に目線を落とした。北斗は声色を沈める。

「実のところを言うとだな、礼子君。礼子君を引っ張り出しているのは、こちらにも目的があるのだ」

「どうせろくでもないことでしょ」

「いや、これが結構有益でな。礼子君は気付いていないだろうが、礼子君の周囲には自分や南斗の情報を狙う他国の産業スパイがごろごろしていてな、礼子君を連れ出すと、その際に面白いくらいに見つかるのだ。陸上自衛隊はそれを次から次へと確保していて、礼子君の存在がなければ捕まらなかったような輩も多いのだ」

「また囮かよ」

もう、ため息を吐くのも嫌になった。私の肩を、北斗の手が叩いてくる。

「まぁそう嘆くな、礼子君。いいことを教えてやろうではないか」

「もういい」

「そのことで、陸上自衛隊と政府から、礼子君に感謝と激励の意を込めた給金と特殊演習の手当が出たのだ」

「手当?」

私は顔を上げ、北斗に振り向いた。北斗はズボンのポケットから封筒を取り出すと、私に差し出してきた。

「喜べ、礼子君! 諸々の税金は差っ引かれているが、総額で八十二万三千百四円の給料だ!」

「…は?」

なんだその中途半端な金額は。私が目を丸くしていると、北斗は封筒の中から通帳を取り出して広げてみせた。
真新しい郵便貯金通帳の一ページ目の一段目には、給与と書かれていて、隣には先程の半端な金額があった。
私は北斗の手からその通帳を奪い取ると、名前と実印を確かめた。確かに、これは、私の名前と実印だ。
いつのまに、とは思ったが、人質稼業は家族には周知の事実なので、恐らく母さんが勝手に貸したのだろう。
823,104。文字にするとたったこれだけだけど、これだけもらうと、なんだか、いきなり報われた気がした。
地獄の沙汰も金次第とはよく言ったものだ。かなり現金だけど、もらうものをもらったら、気分が直ってきた。
これだけあれば文庫本だけじゃなくてハードカバーの本もごっそり買えるな、と考えると、嬉しくなってきた。
通帳を見下ろしている私が余程嬉しそうだったのか、北斗は私を見下ろしながら、満足げににやにやしている。

「礼子君。これから特殊演習を行うたびに手当は出るそうだから、楽しみにしておくがよいぞ」

「これも、あんたの我が侭?」

「我が侭というか、礼子君の日頃の努力を未成年というだけで認めようとしない上層に、進言を繰り返したのだ」

北斗は黒いタンクトップに覆われた厚い胸を張り、威張った。

「部下の努力を認めるのも、また上官の役目なのだ!」

「でも、私達の中で一番偉いのは隊長だから、一番頑張ったのも隊長じゃないの?」

すると北斗は、う、と声を詰まらせた。

「…それを、言うでない」

だったらなんで威張るんだよ、と思ったが私は口には出さず、また通帳に目を戻した。これ、マジで嬉しいかも。
お金の稼ぎ方としては真っ当じゃないかもしれないけど、でも、考えてみればこれは初任給ってことになる。
それならまず、家族に奉仕しなくては。変な時にいきなりいなくなるせいで、多少なりとも迷惑してるだろうから。
すると、北斗が不意に立ち上がった。何事かと思っていると、電子機器の詰まったトレーラーの中に入っていった。
モニターの光で明るい室内を探っていたが、平べったい箱を持って戻ってくると、それを私に差し出してきた。

「こいつを一刻も早く渡したかったのだが、訓練が始まってしまった上に礼子君が怒っていたからな」

北斗の手には、ビニールに包まれた茶色くて薄べったい箱があった。ありがちな、外国のチョコレートの箱だ。
ナッツとチョコレートの絵が蓋に描かれていて、大方、空港辺りで買ったのだろう。捻りのないことだ。
私はその箱を手にすると、北斗を見上げた。北斗は私の隣に座り、得意満面、といった顔で私を見下ろした。

「どうだ、嬉しいか礼子君!」

「まぁ、うん。チョコならなんでもいいから」

私は箱を包んでいるビニールを引っ剥がし、蓋を開けた。波打った紙をめくると、チョコレートが出てきた。
形も大して目新しいものではなく、よくある海外土産という名の免税店のお土産だった。なんてベタなお土産だ。
とりあえず、一つ食べてみた。甘ったるくて硬い食べづらいものだけど、疲れているから二個三個と食べた。
横を向くと、北斗がにたにたしていた。私は食べづらくなったので北斗に背を向けると、北斗は言った。

「少しは自分を見直したか、礼子君?」

私は五個目のチョコレートを口に押し込み、敢えて答えないことにした。あんまり調子に乗らせたくない。
本当に少しだけど、見直した。だけど、この状況で答えちゃ、お金とチョコレートに釣られたも同然じゃないか。
まぁ、そういう節も全くないわけじゃないけど、私が北斗を見直したのは、上層部に進言してくれたってことだ。
私はこの状況を完全には把握出来ていないから、そこに付け込まれて、相当理不尽な扱いをされていたのだろう。
努力を認めさせた結果が給料だけというのは、あまり納得出来ないけど、でも、嬉しいものは嬉しかった。
北斗が私を好きだと言っているのは、上辺だけではなかったらしい。といっても、一途と馬鹿の紙一重だけど。
チョコレートの甘さと苦みを味わいながら、やかましいくらい海外派遣の話をする北斗の声を聞き流していた。
北斗の話は、それほど中身のある話ではないからだ。




そんなこんなで、私の十回目の人質稼業は終わった。
自衛隊からもらった初任給の大半は、家族への日頃の感謝と奉仕の意味も込めて、生活費にしてもらった。
そして、特殊演習を終えて、日常に戻って数日後。北斗から、馬鹿みたいな量のチョコレートが届いた。
中には南斗からの分も混じっていたけど、それは仮面ライダーの食玩で、フィギュアはきっちり抜かれていた。
チョコレートはありがたく頂いたけど、どうしてこう、北斗のやることはいつもいつも極端なんだろうか。
やっぱり、見直すのはやめた。開発に何億と掛かっていようが、国家機密だろうが、やっぱりこいつらは。

ただの馬鹿ロボットだ。





 


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