手の中の戦争




第三話 待機の一日



一旦事務室に戻って昼食と小休止を終えた私は、今度は玄関前のロビーにやってきていた。
さすがに、あのままガレージでやり続けているのはどうかと思ったからだ。下手をしたら、何が壊れるか解らない。
それに、外はうっすらと寒かったのだ。雨が降っていると、それだけで気温が下がるので、空気が冷たかった。
私は、北斗と南斗を目の前に並べ、先程自動販売機で買った缶コーヒーを飲んでいた。これが、結構甘ったるい。
熱いコーヒーを半分ほど飲んでから、缶を口から外した。自動販売機に寄り掛かり、中身の残った缶を振る。

「さぁて、どうしようかなぁ」

「頼むぜー礼ちゃん、今度こそまともなのにしてくれよ」

南斗は先程の仮面ライダーごっこが堪えたのか、心なしかぐったりしていた。北斗は輝くような笑顔で、頷いた。

「うむ! ケンシロウに相応しいのは自分しかおらんのだ!」

「んー…」

私は缶コーヒーをゆっくりと飲みながら、二人を見比べた。仮面ライダーの時は、敢えて配役を逆にしてみた。
その結果、とんでもないことになった。北斗が、特撮にあそこまで疎くてずれているとは思ってもみなかった。
南斗が見ているのを後ろから見ているはずなのだが、興味がないせいで、まともに覚えていなかったのだろう。
だけど、仮面ライダーの変身ポーズでかめはめ波をやらかす奴は初めて見た。ああ、思い出し笑いをしそう。
我慢出来なくなって、声を殺して笑った。私が俯いて肩を震わせていると、北斗は私の前に顔を寄せてきた。

「して、どの話にするのかね」

「あ、ちょっと待って」

私は半笑いになりながら返し、北斗を制した。缶コーヒーを飲み干してから、空き缶をゴミ箱に放った。

「そうだなぁ…」

私は、自分が覚えている限りの北斗の拳のストーリーを思い出した。あの漫画は、どの話も凄まじくて良い。
核戦争後の世紀末、という舞台設定を大いに生かしまくり、とんでもないことや人物を次々に出している。
北斗神拳や南斗聖拳の設定もさることながら、絶対に人間とは思えないような悪役がごろごろ出てくる。
私は、そんな悪役の中でも、特にアミバが好きだ。あの器の小ささと卑劣さが、なんともいえないのだ。
トキに殴られたぐらいで逆恨みして、自分の才能を過信して、最後には残悔積歩拳でやられてしまった。
北斗と南斗がやたらと好きな、ジャギと同じくらいにダメな悪役なので、そこがまた妙に好きなのである。
だが、だからこそ、アミバの話はやめておこう。あんなに強烈なキャラを、一体誰が演じられるものか。
しばらく考えて、ふと思い出した。北斗の拳の話の中で、ケンシロウが一番恰好悪いであろう、あの話を。

「あれにしようっと」

「あれとはどれのことなのだね、礼子君」

北斗が尋ねてきたので、私はにやりとしながら返した。

「北斗。あんたはケンシロウだからね。で、南斗がユリア」

「おっ、オレがユリアー!?」

ぎょっとした南斗が、自分を指差した。私は、敢えてそれを強調した。

「うん。ユリア。ユリアったらユリア」

「おいちょっと待ってくれよ、マジ有り得ねぇよそんなの、超やばいよー、激やば過ぎだよー」

戸惑っている南斗に、北斗は上機嫌に笑った。

「はははははははは! まぁ良いではないか、ユリアもユリアで良い拳法の使い手なのだから!」

「んでー、礼ちゃんは何やんの? レイ、トキ、ラオウ様? もしかしたらジャギ? 意表を突いてバット?」

南斗は身を屈めて、私を見下ろしてきた。私はにやりとしたまま、言い放った。

「シン」

「シンー!?」

北斗と南斗は揃って仰け反った。キャラ名を出しただけなのに、そんな、大袈裟な。

「それはダメだ礼子君、シンを、KINGをやるに当たってはメンバーが足りないではないか!」

北斗が私に詰め寄ってくると、南斗も間を詰めてくる。

「そうそうそうそう! スペードもダイヤもクラブもハート様もいねぇしさぁ!」

「誰もサザンクロス編の全部をやるとは言ってないんだけど」

私は自動販売機から背を外すと、事務室に向かって歩き出した。

「ちょっと待ってて。必要なものがあるから」

「し、しかし、礼子君、サザンクロス編であるのであれば、尚のこと礼子君がユリアをやるべきでは…」

追い縋ってきた北斗に、私は横顔だけ向けた。

「私、ユリアよりもマミヤさんの方が好きなんだよね。それだけ」

さあて、どうしてやろうかな。私は、これから起きるであろう光景を思い浮かべながら、事務室の扉を開けた。
事務室の奥では、ソファーに寝そべったすばる隊員がイルカのぬいぐるみを抱き締めて、眠りこけていた。
途中で誰かに邪魔をされたら困るので、携帯電話を自分の机の上に置いてから、私は必要なものを手にした。
我ながら、馬鹿なことを考えたと思う。だけど、やらずにはいられないのだ。だって、楽しいんだから。
今度は、北斗の拳ごっこの始まりだ。


ロビーにある応接セットの長椅子に、変なものが座っていた。
白いシーツを体に巻き付けた南斗が、おしとやかに足を揃えて膝の上で手もちゃんと重ね、粛々としている。
シーツは、ドレスのつもりで着せた。そして、足を揃えて手を重ねるのは、南斗なりの精一杯の女らしさだ。
本当は、このシーンのユリアはドレスは着ていないのだけど、この方が解りやすいと思ったからである。
北斗は、その向かい側で突っ立っている。いつも通りの妙に偉そうな態度で、腕を組み、胸を張っている。
私はと言えば、今度も恰好は変えていない。というか、このシーンでのシンの恰好は、至って普通だからだ。

「礼子君」

北斗ケンシロウは、私に向いた。

「あのシーンをやると言うことは、シンに破壊されるべきリュウケンの墓も必要なのではなかろうか?」

「そこまで準備出来なかったの。やれるものならやりたいけど」

私は、それが本当に残念だった。リュウケンの墓にするに相応しい、適当な段ボール箱がなかったのだ。

「…なんでもいいけど、早く始めてくんない?」

激マジハズい、と南斗ユリアは項垂れた。北斗ケンシロウは、南斗ユリアに手を差し伸べる。

「ならばまず、リュウケンの墓を参るところから始めようではないか、ユリア」

「うん、そうね、ケンシロウ」

多少上擦り気味の女言葉で返した南斗ユリアは立ち上がると、北斗ケンシロウに連れられるままに進んだ。
その先にあったのは、先程私が寄り掛かっていた自動販売機だった。そんなものを、墓に見立てるなよ。
北斗ケンシロウと南斗ユリアは、低く唸り声を上げている自動販売機の前で膝を付くと、真顔になった。

「親父、ゆっくり眠ってくれ」

北斗ケンシロウは、自動販売機に、やたらと真剣に語り掛けている。

「オレのことは心配いらない、オレには北斗神拳が」

北斗ケンシロウはちらりと南斗ユリアを見てから、再び自動販売機に語り掛けた。

「そして何よりもユリアがいる」

なんで自動販売機なんだ。なんでそこから始めるんだ。そんな、丁寧にシーン冒頭からやらなくたっても。
私が必死に笑いを噛み殺していると、北斗ケンシロウは心外そうな顔をしていたが、また続きを始めた。

「オレ達は今日旅立つ」

北斗ケンシロウが立ち上がると、南斗ユリアも立ち上がった。

「こんな時代だ…」

北斗ケンシロウは、漫画のセリフにあったようにしっかりと間を開けてから、言葉を続けた。

「こんな時代だからこそ、二人で力を合わせて生きていこう!」

北斗ケンシロウに真顔で迫られた南斗ユリアは、ユリアがするように、こくんと可愛らしい仕草で頷いた。
漫画では、この次のシーンではユリアがケンシロウにお姫様抱っこをされるのだが、そこまではしないだろう。
北斗ケンシロウは腰を下ろし、南斗ユリアの肩と膝の裏に手を回して、漫画の通りにお姫様抱っこをした。

「行こう、安住の地を求めて!」

北斗ケンシロウの宣言が、ロビーに響く。本当にやるとは思っていなかった私は、北斗に突っ込んだ。

「普通、そこまでする?」

「しろと言ったのは礼子君ではないか」

南斗ユリアを抱えたまま、北斗ケンシロウは私に向いた。お願い、こっちを見ないで、笑えてくるから。

「私がやろうって言ったのは、ケンシロウがシンに七つの傷を付けられるシーンだけだよ? でも、だからって、何も最初からやる必要なんてないじゃんか。北斗、あんた、変なところだけ真面目すぎるよ」

「お願い下ろして…」

恥ずかしいのか、南斗ユリアは顔を押さえた。顔色には変化はないが、人間であれば赤面していることだろう。
北斗ケンシロウは、羞恥で身を縮めてふるふると震えている南斗ユリアを見下ろしたが、首を横に振った。

「そうはいかん。シンが登場しなければ、ユリアは下ろせないのだ!」

「礼ちゃん、さっさと登場してぇ! このままじゃオレ、ハズくてマジ死ねる!」

お願いぃ、とヒロインばりに懇願してきた南斗ユリアがさすがに可哀想になったので、私は従うことにした。

「まぁ、そうだね。そのままじゃやりづらいしね。笑えるけど」

私はまだ笑いが残っていたけど、なんとかシンらしいであろう表情を作ってから、二人の前に踏み出した。
北斗ケンシロウが、南斗ユリアを下ろした。南斗ユリアはほっとしたのか、安堵のため息を零している。

「シン!?」

これもまた、真顔で言われた。私はシンの役に徹するべきだと思ったが、やっぱり、可笑しくて仕方ない。
なんとか笑いを押さえ込むと、このシーンでシンが言っていたセリフを一通り思い出してから、言った。

「力こそが正義、いい時代になったものだ」

シンのセリフを逐一覚えている私もどうかと思うけど、覚えているものは仕方ない。

「強者は心置きなく、好きなものを自分のものに出来る」

「それはどういうことだ!?」

北斗ケンシロウは、南斗ユリアを庇うように身構えた。私は、南斗聖拳のつもりで手を振り翳した。

「どけ!」

「うっ!」

北斗ケンシロウは、当たってもいない南斗聖拳が当たったリアクションをしてみせた。いちいち丁寧だ。

「な…何をする」

私は、自分がこれから言わなければならないセリフを思い出し、自分の役をシンにしたことをちょっと後悔した。
だが、言わなければならない。大体、言い出したのは自分なのだから、やることはきっちりやらなくては。

「オレは昔からユリアが好きだった」

シンの私が言うと、南斗ユリアは女らしい仕草で身を引いた。だけど、ガタイが良いので不気味だ。

「な…何を! 私は、あなたにそう想われていると知っただけで死にたくなります!」

そう言ってから、南斗ユリアは慌てて手を横に振った。

「あ、ああ、違うからね、オレの本心とマジ違うからね礼ちゃん! ユリアのセリフだから!」

「解ってるよ、それぐらい」

私はそう返したが、はっきり言われると結構来る。ユリアって、実はかなりきついことを言っていた女だったなぁ。
北斗の拳世界で、ああいう状況で、相手がシンならそう思ってしまうだろうけど、死にたくなる、はないだろう。
現実に、男に告白された後にそんなにきつい返事をしたら、このご時世では刺されてしまうかもしれない。
私は咳払いをしてから、シンの続きを始めた。とりあえず、続きをやらないことには、終わらないのだから。

「ますます好きになる。オレはそういう強くて美しいものが好きなんだ!」

シーツのドレスを着た戦闘服のロボット、南斗ユリアに対して、美しい、などという表現は使いたくはなかった。
でも、これもまた仕方ない。シンのセリフなんだから。ふと北斗ケンシロウを見ると、苦々しげにしていた。

「シンのセリフなんだから、いちいち気にしないでくれる?」

「解っている、解っているのだが…」

ぐぅ、と唸った北斗ケンシロウは、拳を固めている。どうやら、南斗を好きだと言ったのが気に食わないらしい。
これは演技だから、別に本心ではないというのに。本当に、どこまで子供なんだろう、この馬鹿ロボットは。
北斗ケンシロウは南斗ユリアを忌々しげに睨んでいたが、今度はさすがに殴ることもなく、私に向いた。

「よせ! 争ってはならぬという父上の教えを忘れたか!」

「北斗神拳と南斗聖拳は表裏一体! 争ってはならぬ、お互い力を合わせそれぞれの拳法を伝承するのじゃ!」

回想シーンの代わりに、南斗ユリアが言った。その恰好でそんな言葉遣いをされると、ますます萎えてしまう。

「そんな老いぼれの戯言など、とうに忘れたわ!」

シンの私は、リュウケンの墓を踏み潰す代わりに、自動販売機をつま先で軽く蹴った。物を壊したらいけない。

「あっ!」

北斗ケンシロウは、派手なリアクションで振り向いた。

「シン、正気か!」

そう言われて、私は我に返った。絶対に正気じゃない。こんな徹底したごっこ遊び、正気の沙汰じゃない。
でも、やらなければ終わらない。私は変な義務感と、羞恥心と、情けなさに苛まれ、顔を引きつらせた。

「ごめん、北斗、シーン省いていい? 特に、南斗獄屠拳を出すところは」

「うむ、それもそうだな。南斗が相手であれば別だが、礼子君では、南斗獄屠拳を出すことは出来ん」

あれは空中キックだからな、と北斗ケンシロウが頷いた。私は、片手を挙げてぐるぐる回した。

「ちょっと巻こう。時間も押してきたし」

「あー、ホントだ。いつのまにか一時半になってら。遊んでると時間が過ぎるの早ぇよな、マジで」

南斗ユリアは、壁にある掛け時計を見上げた。短針は一時と二時の間を指し、長針は六時を指している。

「だから、ちゃっちゃと終わらせちゃおう。神田さんはもとい、隊長に見つかったら事だから」

見つかってしまったら、腕立て伏せが待っている。私はそう思い、北斗ケンシロウの胸倉を掴んだ。

「ユリア、オレを愛していると言ってみろ」

「あ、そこから始めるのね。了解了解ー」

南斗ユリアは、そのセリフの次をすぐに言った。胸に手を当てて、わざわざ身振りまで付けて。

「だ…誰が! ケンを殺せば私も死にます!」

「ほう、それほど言いたくないのか」

私は戦闘服のポケットを探ると、そこから油性の黒のサインペンを取り出し、ぽん、とキャップを抜いた。

「礼子君。それを使って、自分に北斗七星を書いてくれるのかね?」

北斗ケンシロウは、うきうきした様子で身を乗り出してきた。私は、北斗の袖を引っ張る。

「うん、そう。水性のがなかったし。とりあえず、上、脱いで。脱いでもらわないと書けないから」

「ならば脱ごう、全てを脱いでやるとも!」

意気揚々としながら、北斗ケンシロウは戦闘服の前を止めているボタンを外して、やたらと勢い良く脱いだ。
脱ぎ捨てた戦闘服の上を放り投げ、黒のタンクトップ一枚になると、それもまた破りそうな勢いで脱いだ。
普段は隠されている、金属で出来た体が露わになる。見事なまでに筋骨隆々で、胸も腹も割れている。
腕もかなり太くて逞しく、流れるようなラインの筋肉が美しい。いかにも、軍人、といった感じの体形だ。
厚い胸の左側には、007、数字が刻まれていて、その下には、陸上自衛隊・特殊機動部隊、と刻まれている。
銀色に輝く立派な上半身を晒した北斗ケンシロウは、両腕を大きく広げながら、私ににじり寄ってきた。

「さあ書け、書いてくれ!」

「書いてやるから、そこに座って。あんたが立ってちゃ書けないよ」

私は手を下げ、座るように指示した。すると北斗は何を思ったか、床に背中から寝転がって大の字になった。

「さあ、礼子君! 自分に北斗七星を書いてくれたまえ!」

「…やりづらい」

これじゃ、私が北斗の上に跨ることになるじゃないか。いくら北斗がロボットと言えど、男は男なのだ。
意識する相手ではないと思っても、つい意識してしまった。気恥ずかしさを堪えつつ、南斗ユリアを窺った。
南斗ユリアは、わくわくしていた。だらしない姿を晒している弟を諫めるどころか、私を急かしてくる。

「早くやれよぅ、礼ちゃん!」

「えーと、何本目に死ぬかなー、と」

私は躊躇しながらも、北斗ケンシロウに跨った。腰を下ろさないようにしようかと思ったが、無理だった。
北斗の胴回りは思っていた以上にあって、私が精一杯足を広げても無理で、結局、腹の上に座ってしまった。
尻の下にある金属製の腹筋が、硬くて冷たかった。前のめりになって、分厚い胸筋の装甲に書いていく。
ケンシロウの胸にある北斗七星はどういう配置だったか思い出しながら、きゅ、きゅ、とサインペンを動かす。
七つめの星を書いたところで、ふと、風を感じた。窓は開いてなかったはずだけど、と思いながら、振り返った。
南斗ユリアは、ばつが悪そうな顔をしている。私も似たような顔をして、彼の見ている方向を見つめた。
上半身を起こした北斗ケンシロウは、ぎくりと肩を震わせた。私達の視線の先には、朱鷺田隊長が立っていた。
ドアを開け放った朱鷺田隊長は、唖然呆然、とした目で私達を見下ろしていたが、呆れたように呟いた。

「お前達、何をしているんだ」

「隊長…いつお帰りに。というか、連絡は…」

私がかなり困惑しながら尋ねると、朱鷺田隊長は自分の胸ポケットを叩いた。

「神田より先に戻ってこられることになったから、それを伝えようと鈴木の電話に何度か掛けたんだが、お前は一度も出なかったじゃないか。事務室の内線にも誰も出ないし、何があったのかと思って来てみたら、この有様だ。少し目を離すとすぐこれだ、お前らという連中は本当にどうしようもないな」

朱鷺田隊長は私達三人を見回してから、もう一度問うた。今度は、威圧感のある上官らしい態度で。

「それで、お前ら三人は一体何をやらかしていたんだ! 答えろ、隊長命令だ!」

「ほ…北斗の拳ごっこであります」

朱鷺田隊長から目線を逸らしながら、南斗は弱々しく敬礼した。朱鷺田隊長は、深くため息を吐いた。

「北斗、南斗。お前達のことは常々馬鹿だ馬鹿だ馬鹿だ馬鹿だと思っていたが、鈴木まで馬鹿だったとはな」

「すいません、釣られました」

私は途端に情けなくなって、恥ずかしくなって、顔を伏せた。北斗は、南斗よりもしっかりと敬礼をした。

「自分達は、どのような処分でも受ける所存であります!」

「北斗、南斗、鈴木!」

朱鷺田隊長が声を張り上げたので、私は北斗の上から下りて立ち上がり、北斗も立ち上がって、整列した。
この次に何を言われるかは、解っている。朱鷺田隊長は笑いたいのと呆れたのを混ぜたような顔で、叫んだ。

「腕立て伏せ用意!」

「アイサー!」

三人で一斉に、半ば条件反射で返事をした。始めぇっ、と朱鷺田隊長の掛け声と同時に、俯せになった。
腕に力を入れて、体を持ち上げては下げる。一見すれば簡単そうな動作だが、これがまた、腕と腰に来る。
私は、三回やっただけでへこたれそうになったが、ここで根を上げたら、連帯責任で回数が増えるだけだ。
全て、自分が悪いのだ。北斗と南斗に釣られて調子に乗って、とことん馬鹿をやってしまったのだから。
結局、私も馬鹿の一人だということだ。


数十分後。私は、ロビーの長椅子の上で死んでいた。
腕が痛い。腰が痛い。足が痛い。ついでに胸の辺りも痛い。腕立て伏せなんて、五十回もやるものではない。
顔から出た汗が、首筋にだらだら流れ落ちる。シャワーを浴びたいけど、気力が回復してからでないと無理だ。
私の隣では、ちゃんと戦闘服を着た北斗が座っている。その向かい側には、先程帰ってきた神田隊員がいる。
神田隊員は、北斗から今回の事の顛末を聞いて、というか、聞かされていたが、終始半笑いになっていた。
ロビーの隅では、南斗がまだ腕立て伏せをしていた。勝手に軍用バイクに触ったせいで、回数が一番多いのだ。
それぞれの回数は、私が五十回で、北斗が百五十回で、南斗が三百回。でも、北斗と私はほぼ同時に終わった。
私は肉体的な疲労で薄らいでいた意識を戻し、神田隊員に目をやった。神田隊員は、可笑しげにしている。

「でも、まさか礼子ちゃんまで付き合っちゃうとはなぁ。信じられないよ」

「だが、事実なのだ。礼子君は、仮面ライダーごっこでは大佐を、北斗の拳ごっこではシンになってくれたのだ!」

そして、と北斗は戦闘服の前を開けて、黒のタンクトップをずりあげ、私が書いた北斗七星を晒した。

「さあ、カンダタ! 自分の名を言ってみろー!」

「やると思ったよ、ジャギごっこ。だが、オレは絶対に言わないからな。後でシンナーをやるから、自分で消せ。全く、何もそこまでやらなくてもなぁ…」

神田隊員は顔をしかめていたが、徐々に表情を崩し、そして体を曲げて笑い出した。

「だけど、南斗がユリアって、そりゃないよ礼子ちゃん!」

「そうだよ礼ちゃん! 仮面ライダーごっこの時は怪人にするし、そんなにオレが嫌いなのかよ!」

腕立て伏せの姿勢のまま、南斗は両腕を突っ張って体を起こした。私は南斗に向き、苦笑する。

「そうじゃないけどさぁ。なんか、こう、思い付いちゃったんだよね。その方が面白いんじゃないかなーと」

「…最高」

神田隊員は口元を押さえて笑いを堪えながら、もう一方の手を掲げた。私は、なんとなく嬉しくなった。
でも、ここで喜んでは南斗に悪いと思い、にやにやしておくだけにした。他人をいじるのって、本当に楽しい。
北斗は、北斗七星を晒したまま笑っている。余程、北斗七星を書いてもらったことが嬉しいようだった。

「うむ、さすがは礼子君だ、実に素晴らしい思い付きであったぞ!」

「服、ちゃんと着ろ。でもって、さっさと北斗七星を消せ。お前は北斗神拳の伝承者じゃないんだから」

神田隊員は北斗に投げやりに言い、ソファーに身を沈めた。手元に灰皿にあった、吸いかけのタバコを取る。
マイルドセブンの煙を吸い込んでから、緩く吐き出した神田隊員は、半分ほど燃えたタバコを灰皿に押し付ける。

「だけど、こういうことは、たまにはした方がいいよな」

「ごっこ遊びを、ですか?」

私は神田隊員にそう言ってから、飲みかけのペットボトルを取り、その中身のスポーツドリンクを流し込んだ。

「違うよ」

神田隊員は苦笑してから、多少歪んだソフトケースから二本目のタバコを出し、銜えて火を点けた。

「知っての通り、北斗も南斗もまだまだ子供だ。エモーショナルにプログラミングされている年齢設定は二十代前半にしてあるはずなんだが、色々な経験が足りなさすぎて思考パターンが恐ろしく単純な状態、つまり、子供の思考と程近いんだ。だから、それだけ作戦を曲解せずに実行出来たり、命令に忠実に従うという利点もあるんだが、今回のようにやりたいことをやりたいだけやってしまったり、理性の欠片もない行動をしたりするという弊害もある」

神田隊員はタバコを吹かしていたが、口元から外し、灰皿に灰を落とした。

「そしてその分だけ、エモーショナルリミッターに掛かる負荷、人間で言うところのストレスも、大きくなってしまう場合がある。北斗と南斗は、特殊演習や作戦時に、エモーショナルリミッターのレベルを最大値に引き上げている時が多い。無論、そういう事例ばかりじゃないけど、今までのデータの集計結果では、七割方でそうなっているんだ」

「この二人に限って、ストレスなんてありますか?」

「オレもそうは思えないんだが、ちゃんとあるらしいんだよ、ストレスが。そのストレスは、エモーショナルリミッターを強化したところで消えるものじゃないし、下手にリミッターのレベルを上げすぎれば、逆に、過負荷で自壊してしまう可能性もある。だから、頃合いを見計らって、エモーショナルリミッターに負荷が掛からないような行動をさせて、ストレスから解放してやらなければ、北斗と南斗のボディもコアブロックも保たなくなってしまうんだ」

「人間と一緒なんですね」

私は、ちょっと意外に思いながら返した。神田隊員は、頷いた。

「そうさ。こいつらは体こそマシンだけど、中身は人間なんだよ。その辺りが、ただの作業機械との違いだよ」

「南斗。お前は、己のエモーショナルリミッターにストレスが掛かっていることを、自覚していたか?」

北斗が腕立て伏せを続けている南斗に問うと、南斗は一度体を伏せてから起こした。

「別にぃ。まぁ、たまーにリミッターの辺りがぎしぎし軋むかなーとか思ってたぐらい。そっか、あれ、ストレスって言うんだ。オレ、そんなこと知らなかったぜ」

「自分もだ」

北斗は戦闘服を着直してから、腕を組んだ。

「ならばカンダタ、その頃合いというのはどのくらいの間隔なのだ?」

「時と場合によるけど、まぁ、基本的には三週間周期かな。肘関節のジョイントの摩耗と同じくらいだ」

と、神田隊員は指を三本立ててみせた。北斗は跳ねるように立ち上がると、満面の笑みで私に迫った。

「それでは礼子君! 三週間と言わず一週間ごとにでも、北斗の拳ごっこをやろうではないか!」

「嫌」

私が顔を逸らすと、北斗は私の視線の先に回り込んできた。

「なぜだ礼子君、今日はあれほど乗り気で付き合ってくれたというのに!」

「あんたらに引き摺られちゃっただけだよ。あんなことをしちゃった自分に、回し蹴りでもかましてやりたい」

私は、シンのセリフを言いながら自動販売機を蹴ってしまった自分を思い出し、強烈な自己嫌悪に苛まれた。
なんて馬鹿で、子供っぽいことをしてしまったのだろう。あの場に神田隊員がいなくて、本当に良かった。
もしも見られていたらと思うと、悶絶する。私は、自己嫌悪と羞恥に顔を歪め、あらぬ方向に目をやった。
周りでは、まだ北斗が騒いでいる。次はジャギを、もしくはユダを、或いはサウザーを、と並べ立てている。
私はその全てを無視し、黙った。南斗も何か言ってきたようだが、聞こえないふりをして、俯いていた。
今日のことで、私も充分に馬鹿だと自覚した。馬鹿が馬鹿に付き合うと、二乗三乗になってしまうことも。
だから、付き合えない。北斗と南斗のストレス解消のためと言われても、こればかりは、勘弁して欲しい。
だって、これ以上、馬鹿になるのが怖いんだ。




後日。私がいつものように自衛隊に拉致され、特殊機動部隊に出勤すると。
朱鷺田隊長が、自分の机に新装板北斗の拳を積み上げて読み漁っている場面に遭遇してしまい、困った。
どういうリアクションを取るべきか悩みに悩んだ挙げ句、普通に挨拶をすると、隊長も至って普通に返してきた。
そして、ラオウが死ぬ辺りの話を読み終えた朱鷺田隊長は、私に言ってきた。お前は誰が好きなんだ、と。
北斗と南斗には当たり障りのないレイだと答えたが、上官相手なので素直に、アミバが好きです、と答えた。
すると隊長は、ウイグル獄長だ、と答えた。私以上にマニアックなので、やっぱりリアクション出来なかった。
でも、不思議と嬉しかった。特殊機動部隊に入ってから、初めて朱鷺田隊長と任務以外の話をしたからだ。
もっともその内容が、北斗の拳だけだというのはどうかと思うけど、それでも嬉しいものは嬉しかった。

次の待機任務の時は、隊長とも、じっくり話をしてみたいものだ。





 


06 6/19