手の中の戦争




シューティング・スター



すばるは、虚空を見上げていた。
腕時計を見られないので、どれほどの時間が経過したかは解らない。だが、午後を過ぎたのは確かだろう。
明るかった日差しが傾き、湖面に映る太陽の色も赤みを帯びている。吹き付ける風も、少し冷たくなった。
名も知らない男は、途切れることなくタバコを吸っている。吸い終えた傍から、新しいものを銜えている。
テグスで縛られた親指が鬱血し、痺れていた。すばるは男を見やったが、男はすばるを見ようともしない。

「なぁ」

「なんだ」

問い掛けられた朱鷺田は、火を点けたばかりのタバコを口元から放した。すばるは、朱鷺田を見上げる。

「あんた、なんで所長はんの言うこと、聞いてはるん?」

「答える義務はない。高宮の機密に関わることだからな」

朱鷺田はタバコを銜え直し、煙を吸った。すばるは、もっともだと苦笑した。

「まぁ、そやな…」

あほなこと言ってしもたわ、とすばるは唇を尖らせる。朱鷺田は、高校生と言っても通用しそうな彼女を眺めた。
事前の資料と、本人の印象が噛み合わない。鈴音から渡された資料から考えれば、間宮すばるは人形の女だ。
シュヴァルツ工業の重役である父親が、日本人の女性に孕ませた子供で、その後、父親は十六年も離れていた。
それが、十六歳の頃に唐突に現れ、シュヴァルツ工業が内密に始めた人型戦闘兵器掃討作戦に参加させた。
マシンソルジャーは人が殺せないことを利用するために、機体を守るための盾とされて、命を軽く扱われた。
なのに、未だに彼女は父親の手の中にいる。言われるがままにスパイとなり、高宮重工の情報を盗んでいる。
なぜ、すばるは父親に逆らわないのだ。確かに、シュヴァルツ工業本社の重役ならば、脅威と言える存在だ。
表向きの権力だけでなく、裏側の世界に通じているから、逆らえばどんな目に遭うか解ったものではないだろう。
だが、一度も逆らわないというのは異様だ。人間である以上、無理難題を押し付けられれば反発心を持つ。
しかし、すばるは父親に服従している。一度も逆らうことはなく、ただ、従順に指示に従い続けている。
高宮重工とシュヴァルツ工業の間という、最も危険なフロントラインに立たされていても、文句も言わない。
それこそ、人形だ。朱鷺田は、少し疲れているような表情のすばるに、至極当然の疑問をぶつけてみた。

「お前、どうしてそこまで父親に服従するんだ」

「何って、そら、決まっとるがな」

いきなり何を言い出すんだ、とすばるは少々戸惑いながらも返した。

「お父はんやけど、それ以前に上司やから、従わん方がおかしいわ。お父はんは、お母はんの治療費も出してくれはったし、うちにもお金をくれはったんや。せやから、うちはお父はんのために働かなアカンねん。ごっつい額のお金もろたんやから、ちゃあんと仕事せな」

「俺だったら、速攻で蹴る」

朱鷺田が呟くと、すばるは腰を浮かせて身を乗り出した。

「なんでや! お父はんはうちを大事にしてくれはったんや、せやからお父はんに返さなアカンねや!」

「新兵だって、もう少し扱いはいいと思うが」

朱鷺田はタバコを蒸かしながら、眉を吊り上げているすばるを見据えた。

「あの所長からお前に関する資料を見せられたが、ひどいもんだな。お前の母親もそうだが、お前自身もあの男にいいように遊ばれているだけじゃないか。本当に大事にしているんだったら、自分の娘を、戦闘ロボットの盾や産業スパイに仕立て上げたりするか?」

「うちに一番大事な仕事を任せてくれはったってことは、うちに立派になって欲しい思てはるんやよ!」

「お前を使って、マシンソルジャー共と高宮重工に探りを入れているのさ。どこまで深入りすれば死ぬのか、どこまでだったら大丈夫なのか、どれほどの情報なら引き出せるのか、とかを調べているんだろう」

「そんなん、ただのハッタリや!」

朱鷺田の言葉を遮りたくて、すばるは喚いた。しかし、朱鷺田は動じない。

「まぁ、あくまでも俺の想像に過ぎんから信憑性はない。だが、俺には、お前が人形にしか見えない」

「人形やて?」

「だってそうだろう。お前の意思なんて、どこにもないじゃないか」

朱鷺田の眼差しには、鋭利な光が含まれている。

「ただ、従い続けているだけだ。戦場の兵士だって、お前よりは賢いぞ。死にそうになったら逃げるし、死にたくないから銃を撃つ。だが、お前は動かされているだけだ。なぜ、そこまでして従う?」

「それはさっき言うたやろ! うちは、お父はんに返さなアカンねん!」

「何をだ。あの男がお前に与えたのは、金と母親の死だけだろう。それ以外には、ないんじゃないのか?」

「なんでお母はんが死んだことも、お父はんのせいにされるん!」

「お前、馬鹿か。あの男がお前の母親を手放したから、お前の母親は追い詰められて死んだんじゃないか」

「それは、お母はんが無理ばっかりしてしもうたからで!」

「その無理の原因を作ったのはあの男だろう。お前は、そう思ったことはないのか?」

朱鷺田の強い視線に射竦められ、すばるは言葉に詰まった。父親に恨みを抱いたことは、ある。ないわけがない。
父親が傍にいない寂しさから、働き詰めの母親が哀れだったから、姿を現さない父親を憎んだことは何度もある。
だが、十六歳の頃に、母親が死ぬ前に会いに来てくれたから、金を渡してくれたから、憎まないようになった。
というより、憎めなくなった。病床の母親に優しい言葉を掛ける父親の姿を見ていると、恨む気が弱まったのだ。
母親があんなにも喜んでいるのだから、娘の自分も嬉しくないはずがない。やっと父親に会えたのだから、と。
そう思った。思い込んだ。それまでの生活がとても苦しくて、辛くて、現実から逃げ出したくなるほどだったから。
だから、父親に従うことの方が余程楽だった。あの生活に戻るくらいなら、と自分に言い訳をして、従っていた。
すばるの目線が彷徨う様を見ていた朱鷺田は、タバコのフィルターを軽く噛んだ。やはり、彼女も人間なのだ。

「お前は、なぜそこまでするんだ」

「だって、お母はんが可哀想やったから…」

目線を足元に落としたすばるは、口調が弱まっていた。

「お父はんに会った時のお母はん、めっちゃ嬉しそうやったから。せやから、うちも嬉しゅうと思うて」

そうだ。そのはずだ。

「お母はんがあんなに嬉しそうにするの、初めてで」

だから、自分も嬉しかったはずだ。いや、嬉しいと思わなければならなかった。

「やっとお父はんがうちに会いに来てくれたって思うて、だから」

でも。

「お金をごっつもろうて、仕事までくれはったから、文句なんて言えへんなぁって思うて」

だから。

「せやから、うち、お父はんの言うことはちゃんと聞かなきゃアカンて、お母はんもそうせぇ言うて」

だけど。

「うち、ホンマは、高校に行きたかったんやけど、お母はんがそうせぇって…」

母親は微笑み、言った。お父はんは立派な人や、せやから、お母はんもすばるも言うことを聞かなアカン。
あの人はええ人なんやよ、せやから付いていったら間違うことなんてあらへん。だって、あの人は正しいんや。
学校はな、もう行かんでええんやよ。お父はんがそうしはったから。だから、すばる、その制服は捨てぇや。
入学した高校の制服は、一ヶ月も着られなかった。友達は出来なかったけど、学校は楽しくて好きだった。
運動部に入りたかった。恋だってしてみたかった。友達だって欲しかった。卒業して、大学にも進学したかった。
なのに、それらは全て父親の一存で奪われて、気付いたらシュヴァルツ工業に入社させられ、訓練を受けていた。
制服が残っていると悲しくなるから、河原で燃やした。通学カバンも、教科書も、ノートも、携帯電話も、全て。
病状が悪化するに連れて、母親はすばるを見なくなった。天井を見つめて、お父はん、と繰り返すばかりだった。
そのうちに、母親は死んだ。父親は、葬儀に来なかった。親戚も来なかった。すばる一人だけで、片付けた。
マシンソルジャーの存在は脅威だと感じたが、それだけだった。ロボットと戦いたいなんて、思うわけがない。
確かに、人類の脅威となるマシンソルジャーを退けるのは正しいと思うが、その役目が自分でなくてもいいはずだ。
盾になりたい人間なんて、いるものか。父親から命じられれば従うしかなく、逆らえるわけがなかったからだ。
逆らったら、明日から生活が出来なくなるのが目に見えている。そうなるくらいなら、と思ってしまったのだ。

「うち…」

すばるの目の端から、数滴、雫がこぼれ落ちた。

「何、やっとるんやろう…」

父親のやっていることはおかしい。シュヴァルツ工業の方針は間違っていないが、父親のやり方は間違っている。
頭の片隅では、いつも疑問を感じていた。だが、それを押し殺していた。疑問を持ってしまったら終わりだ、と。
マシンソルジャーは脅威だ。しかし、その傍にいる人間達はごく普通の、同年代の少年少女達でしかなかった。
彼らを攻撃するのは、変だ。勝てるはずのない戦いを仕掛けるのも、相手の弱みに付け込む戦略も、妙だと思う。
だけど、言わなかった、言えなかった。父親から言葉を掛けられると、そう思ってはいけないのだと感じたからだ。

「お前がこれから何をどうしようが、俺には関係ない」

朱鷺田は、タバコの吸い殻を携帯灰皿にねじ込んだ。

「手は貸さん」

「あんたに手伝ってもろても、嬉しゅうないわ」

すばるは、力なく言い返した。だろうな、と朱鷺田は答えた。新しいタバコを出そうとしたが、その手を止めた。
薄暗い道を歩く、人影が見えた。朱鷺田はオイルライターの蓋を閉めて身を屈め、テーブルの影に隠れた。
距離は大分あり、相手はこちらに気付いている様子はなかった。人影は一人で、しきりに辺りを見回している。
足取りは普通に見えるが、腰つきが違っている。恐らく、朱鷺田と同じように、武装をしているのだろう。
大方、あれがすばるの運んできた情報を受け取る相手だ。朱鷺田はテーブルから半身を出し、すばるに言う。

「待ち合わせの相手が来たようだぞ」

「あ…」

すばるが人影に気付くと、朱鷺田はすばるの背後に回り、親指をきつく縛り付けていたテグスを断ち切った。
投げ捨てていたヘルメットを拾って被り、顎でベルトを締め、コルト・キングコブラを脇のホルスターに戻す。

「俺は中座させてもらう。邪魔だろうからな」

すばるが戸惑うよりも先に、朱鷺田は足音を消して展望台から降り、展望台の土台の影に入り込んでしまった。
どうしようかと思っていると、人影は次第に近付いてくる。すばるは朱鷺田が気になったが、今は相手が優先だ。
親指に痛みは残っていたが、気にしないことにした。細い歩道をやってきた人物が、展望台の前で立ち止まる。

「間宮。そんなところにいたのか」

段数の少ない階段を昇り、男が近寄ってきた。すばるは、態度を取り繕った。

「ああ、まぁ。ここはあんまり人が来ぇへんし、丁度ええと思うて」

「それで、あれは」

「ああ、うん」

男に促され、すばるはトートバッグの中を探った。ディスクの入ったケースを、男に差し出す。

「コアブロックの構造データはまだ無理やね。あの辺のデータは、所長はんの持っとるカードキーでしか開けん金庫の中にあるさかいに。でも、人工知能二型の思考パターンは取ってこられたんやよ」

ディスクを受け取った男は、それをジャケットの内ポケットに収めると、代わりのものを取り出した。

「次の仕事だ」

すばるの目の前に差し出されたのは、オートマチックの拳銃、トカレフだった。

「弾は九発入っている。高宮鈴音を殺せ」

「所長はんを?」

すばるが目を丸めると、男は頷く。

「高宮鈴音が隠蔽している情報を奪うには、これが最も有効な手段だ。あの女が消えれば、やりやすくなる」

受け取れ、と男はすばるにトカレフを突き出した。すばるは手を伸ばし、冷たく重たい鉄の塊を受け取った。

「必ず成功させろ」

男はそれだけ言い、すばるに背を向けた。男が階段を下りようとしたその時、台座の影から朱鷺田が現れた。
朱鷺田は高く跳ね上がると、男の視界を遮る位置に躍り出た。勢いを使って落下し、男の肩に膝を入れる。
朱鷺田の体重をもろに受け、男は背中から倒れ込んでしまう。すばるの隣で、朱鷺田は男の顎を押さえた。

「っと、殺しちゃいけないんだったな」

顎を締め上げていた手を下げ、朱鷺田は立ち上がった。咳き込んでいる男の膝を、力一杯、踏み付ける。
鈍い音がし、骨が砕かれた。薄暗い中でも解るほど、男の形相は引きつり、激しい悲鳴が上がった。

「だが、足は殺しておかないとな」

朱鷺田は、トカレフのグリップを握り締めているすばるに向き直った。

「それで、お前はどうする。それで俺を殺してから、あのお嬢さんも殺しに行く気か?」

この距離なら、この男を殺せるだろう。すばるはぞっとするほど冷え切った拳銃と、朱鷺田の姿を見比べた。
これ以上、父親には従いたくない。出来ることなら、その手の中から逃げ出してしまいたいと、強く思った。
遂に、自分に付いていた嘘を認めてしまった。だが、認めてしまうと、気が楽になったような気がした。
だったら、もっと楽になってもいいのではないだろうか。手の中の凶器を睨んでいたが、顔を上げた。

「うちは」

すばるは、トカレフを放り投げた。

「お父はんみたいには、なりとうない」

鈍い落下音が響き、黒光りする銃身がコンクリートに横たわった。朱鷺田は、ヘルメットの中で一笑する。

「上等だ」

緊張と畏怖で、心臓が高鳴っていた。そうしてはいけないのではないか、と躊躇しそうになるが、思い直した。
あのまま、人形扱いされるのはごめんだ。母親のため、などと言い訳をして、父親に怯えていただけではないか。
意思を押し殺して、言われるがままに従い続けていたら、いつかは母親のように心が壊れてしまうかもしれない。
すばるは首から提げていたチェーンを外し、母親の指輪ごと高々と放り投げた。放物線を描き、飛んで行く。
その様を、見つめていた。薄闇の中で僅かに光っていたチェーンと指輪は、広い湖面に吸い込まれていった。
とぽん、と小さく水音が聞こえて弱い波紋が起きたが、さざ波に掻き消された。重たい水の中に、消え失せた。
空は、青紫から深い藍色へと変化していた。弱々しかった星々が光を増し、夜の闇の中で存在を誇っている。
一筋の光が、夜空を横切った。





 


06 10/1