眠れるわけがない。 鋼太郎は自室の薄暗い天井をぼんやりと見上げて、マスクを手で覆っていたが、眠気は全く起きなかった。 あの後、百合子の家から自宅へ戻ってきたのはいいものの、百合子の変わりようと告白を引き摺っていた。 だが、一番衝撃だったのは、当然ながら最後のキスだ。まさか、いきなりあんなことをするとは思わなかった。 当の百合子は平然としていて銀次郎や亜留美にも明るく振る舞っていたが、鋼太郎はそうもいかなかった。 いちいち百合子を意識してしまって、態度がぎこちなくなってしまい、ケンカでもしたのかと疑われたほどだ。 なんとか乗り切って夜を迎えたのはいいが、ちっとも眠くならない。隣で、百合子が眠っているからだ。 年頃の男女を同じ部屋に寝かせる両親の無神経さに驚いたが、承諾する百合子の神経の太さにも呆れた。 息子がフルサイボーグだから、幼馴染み同士だから、と安心しているのだろうがいくらなんでも不用心だ。 視界の隅に表示されている時刻は、そろそろ日付が変わることを示している。既に家族は、全員寝入っている。 鋼太郎はやりづらくなりながら、百合子を見やった。すると、先に眠っていたはずの百合子が目を開いている。 「ゆっこ、起きたのか?」 「ううん。寝てないだけ」 百合子は布団の下で体を丸める。それに合わせて、布団の下から伸びた彼女の充電用ケーブルも動いた。 「鋼ちゃんは?」 「寝られるわけがねぇだろ」 お前のせいで、と鋼太郎は気恥ずかしさを堪えた。百合子は、照れ笑いする。 「ごめん」 「せめて一言言ってからやれ。つうか、死ぬほど恥ずかしいぞ」 「私も。だって、したことなかったんだもん」 小声で呟き、百合子は体をずらして鋼太郎の傍に寄った。鋼太郎は少し身動いだが、逃げずに踏み止まった。 あれで生身だったら、と想像するともっと恥ずかしくなる。マスク越しであっても、かなり恥ずかしいのだから。 鋼太郎は、オレンジ色の弱い光を放つ豆電球を見つめていたが百合子に視線を向けた。目は合わなかった。 百合子も、同じように天井を見上げていた。その横顔は低い声を発した時と同じく、少女ではなくなっていた。 「あーあ」 百合子は、ひどく残念そうにため息を零した。 「せっかく一緒に寝てるってのに、なんにも出来ないや。さっきので、気力が尽きちゃった」 「…何をだよ」 鋼太郎は、恐る恐る尋ねた。百合子は、寝乱れた髪に指を絡める。その仕草には、妙な色気がある。 「色々と勉強したけど、サイボーグ相手のやり方までは覚えられなかったんだよなぁ。生身の人間が相手だったら、やれないこともないんだけどさ」 「おい、まさかとは思うが、ゆっこ、お前」 鋼太郎は半分体を起こし、百合子を見下ろした。百合子は、意地悪くにやついた。 「チャンスがあったら上手いことやって、鋼ちゃんに乗っかってやろうかなーとか思ってただけだよ」 「ばっ」 馬鹿かお前は、と怒鳴りそうになったが深夜だと言うことを思い出し、鋼太郎は叫びを無理矢理押し込めた。 「大丈夫だよお。痛いのは慣れてるし、一生に一度ぐらいやったってバチは当たらないと思うんだ」 百合子は、悪気の欠片もない。鋼太郎はまた寝転がると、額を押さえるつもりで頭を押さえた。 「そうか…。だからお前、変に耐性があったのか」 「うん、そうだよ。鋼ちゃんに色んなことを出来るように、鋼ちゃんから何されても平気なように、えっちいことを一杯覚えたの。まぁ、雑誌のばっかりだから、実戦で役に立つかは解らないけどね」 「何やってんだよ」 鋼太郎は頭から手を外し、百合子に目を向けた。百合子は疲れて眠そうではあったが、元に戻っている。 それでも、いつものような子供っぽいものではない。鋼太郎は、百合子がどういう人間なのか解らなくなった。 正弘の言っていたことは本当だったのだ、と実感している傍ら、百合子の内に潜む百合子が、上手く掴めない。 百合子の性格は把握していると思っていた。百合子が考えていることなど簡単に解る、と思い上がっていた。 だが、そうではない。百合子は鋼太郎の知らない顔を持っている。疎遠になっていた数年の間に、増えたのだ。 ゲームの腕前にしてもそうだ。小学生の頃、百合子はゲームはほとんどやらなかった。当然、かなり下手だった。 しかし、今は違う。大量のゲームをやり込んだ結果、強くなった。きっと、寂しさを紛らわすためだったのだ。 あのセーブデータも、寂しさの裏返しだと思うと鋼太郎は切なくなった。どんな思いで、プレイしていたのだろう。 「ゆっこ」 鋼太郎が声を掛けると、百合子はにこにこした。 「なあに?」 「お前がオレを好きな理由は一応解ったが、本当にそうなのか? 別に、あんなの、どうってことねぇじゃねぇか」 「どうってことないから、いいんだってば。それで、鋼ちゃんはどうなの?」 「何がだよ」 「だから、透君のことだってば。鋼ちゃんは、透君のどういうところがいいわけ?」 あまりにも平然と言われたので、鋼太郎はぎくりとした。百合子は体をずらし、鋼太郎に顔を近付ける。 「ね、どうなの? 透君のどの辺が好きなの?」 「どうって、そりゃ、まぁ、うん」 鋼太郎は言葉を濁していたが照れくささと恥ずかしさが頂点に達してしまい、枕に顔を埋めた。 「言えるかってんだよ!」 「えー、言ってくれないのお?」 不満げな百合子に、鋼太郎は枕から顔を上げてちらりと目線をやった。 「それに」 「それに?」 「透は、オレを見ないんだとさ。ムラマサ先輩が、そう言っていたんだ」 「え?」 百合子は、素っ頓狂な声を上げた。鋼太郎は、また枕に顔を伏せる。 「そうらしいんだよ。詳しいことは知らねぇけど、透には好きな奴がいるらしいんだ」 「ふうん」 百合子は、透に好きな相手がいることが意外なようだった。鋼太郎は、仰向けになる。 「透は、誰が好きなんだろうな」 「想像が付かないでもないけど。でも、そういうのってアリなのかなぁ…」 やけに深刻そうに百合子が眉を曲げたので、鋼太郎は訝った。 「なんだ、心当たりでもあるのか?」 「言わない。外れてたら、透君に悪いから」 そろそろ寝ちゃおう、と百合子は瞼を閉じた。鋼太郎は釈然としなかったが、時間も遅いので眠ることにした。 数分もしないうちに、隣からは小さな寝息が聞こえてきた。鋼太郎も意識を落とそうと思ったが、出来なかった。 大量の薬。大量のゲーム。私に同情なんてしたら、許さないから。百合子の意地は、悲しいほど切ないものだ。 だが、不思議と同情する気持ちだけは起きなかった。辛そうだとか、苦しいだろうなどとは思うがそれだけだ。 正弘は、百合子の境遇と百合子の気持ちをごっちゃにして考えているのではないのだろうか。だから、同情する。 ムラマサ先輩の性格ならそうなるだろう、と鋼太郎は思った。百合子の言うように、正弘は人が良すぎるのだ。 透とはまた違った意味で、謙虚すぎる嫌いがある。良いと言えば良いかもしれないが、良くない部分もある。 透に好きな相手がいる。その真偽ははっきりしていないが、もしそうならば透のことは振り切るべきだ。 だが、そう都合良くはいかない。そうした方が楽だ、と思っても透への恋心を消すことなど出来なかった。 むしろ、それでもいい、とすら思ってしまう。たとえ、透が誰を思っていても鋼太郎には関係がないのだから。 透は鋼太郎を見ないかもしれない。だが、鋼太郎は透を見ている。その構図のままでも、いいのではないのか。 百合子からあれほど強く気持ちを示されても、未だにこんなことを思ってしまう。随分と、傲慢になったものだ。 また、マスクに触れていた。明るいだけだと思っていた百合子。関係がずっとこのままだと思い込んでいた自分。 だが、いつのまにか何も見えなくなっている。いつもと変わらない場所にいつもの人はいるが、先が見えない。 薄い闇の中にいるかのように、肝心な部分が捉えられない。鋼太郎はやるせなくなったが、眠気に引き摺られた。 朧な夢を見た気がしたが、忘れてしまった。 翌朝。鋼太郎は、気疲れが取れないまま目が覚めた。 充電は完了しているが、精神力は回復していない。それでも、午前六時も近いので起きなければならない。 体を起こして頭を振ってから布団から出て、コンセントに差し込んであるケーブルを抜き、腹部の中に戻した。 百合子を見ると、気持ちよさそうに熟睡している。その寝顔があまりにも平和なので、鋼太郎は少し苛立った。 所詮、百合子は百合子なのだ。それなのに、なぜあれほど振り回されてしまったのだろう、と思ってしまった。 程なくして、枕元の目覚まし時計が鳴り響いた。百合子はその音に目元をしかめていたが、渋々目を開いた。 「うー」 「さっさと起きろ。布団畳むぞ」 鋼太郎が急かすと、百合子は怠慢な動きで体を起こし、目を擦った。 「眠いよう」 「それはオレも同じだ。ていうか、お前のせいなんだからな」 「えー。鋼ちゃんが寝付けなかったのは、鋼ちゃんがうぶすぎたせいじゃんかー」 「うるっせぇ!」 昨日の照れくささが蘇り、鋼太郎は言い返した。百合子はパジャマのボタンに手を掛け、上から外していった。 「全くねぇ。あれだけのことで眠れなくなるなんて、鋼ちゃんって実はヘタレだったんだねー」 「脱ぐんなら、オレが出てから脱げ!」 鋼太郎は、急いで百合子に背を向けた。百合子はボタンを全て外し、前を開けた。 「見ても、いいよ」 「けどよ…」 いいわけねぇだろうが、と鋼太郎が身を固くしていると、百合子の声色は変わった。 「ううん、違うな。見てほしいんだ」 鋼ちゃん、と穏やかに呼ばれ、鋼太郎は百合子と向き直った。百合子は前を合わせていた手を、外した。 合わせ目が広がり、その下の素肌が覗く。肋骨の浮いた肉のない胸の中心に、ケーブルが刺さっている。 百合子はケーブルを軽く引き、抜いた。手が外れると、鳩尾の位置に埋め込まれている異様なものが見えた。 硬貨ほどの大きさの、銀色の穴。薄い皮膚を無理矢理広げて押し込めてあり、穴の周囲の肉はへこんでいた。 百合子の小さな体と、肋骨の形が見て取れる体形に不釣り合いな、機械の部分だった。初めて、目にした。 知っていることなのに、鋼太郎は多少なりとも動揺してしまった。大量の薬を見た時よりも強く、痛感した。 百合子の体は普通ではない。鋼太郎が言葉を失っていると、百合子は胸元の穴に指先を添えてなぞった。 「だって、不公平じゃんか。鋼ちゃんはその体を見せてるのに、私が見せないなんてさ」 頬に掛かった長い髪を、掻き上げる。 「こんなの見せて、同情するなーなんていうのはおかしいけどさ、でも、同情なんてしないでね。鋼ちゃんとは、友達でいたいから。これからもずうっと」 「ゆっこ」 鋼太郎が呟くと、百合子はパジャマの前を掻き合わせる。 「透君とは、上手くやってね。きっと、大丈夫だよ。鋼ちゃん、ぶきっちょだけどさ」 百合子は立ち上がると、鋼太郎をぐいっと押しやった。 「ほら、これから着替えるんだから! ちょっと出ててよ!」 「あっ、おい!」 順番が逆だろう、と鋼太郎が反論する前に追い出され、ふすまを閉められた。自分の部屋のはずなのに。 薄ら寒い廊下に、鋼太郎は所在なく突っ立った。だが、五分待っても十分待っても、百合子は出てこなかった。 中からはドライヤーの音と、衣擦れの音がする。それから更に五分過ぎ、合計で十五分以上経過してしまった。 そして、ようやく百合子が出てきた。髪からは寝癖が取れていて、ヘアバンドを付けており、制服に着替えている。 「もういいよー」 「遅ぇんだよ」 擦れ違い様、ごめーん、と百合子は平謝りして階段を下りた。階下からは、元気の良い挨拶が聞こえてくる。 とにかく、自分も着替えなければ。鋼太郎は部屋に入ってふすまを閉めると、生温さのある甘い匂いを感じた。 それは、百合子の部屋と同じ匂いだった。今になって、同じ部屋で一夜を過ごしたという事実を強烈に実感した。 相手が百合子であっても、意識してしまった。鋼太郎は居たたまれなくなってきて、気を紛らわそうと窓を開けた。 けれど、一度でも意識してしまうと止まらない。もしも自分が生身だったら、百合子がその気だったら、と考える。 途端に、朝に相応しくない妄想が頭の中を駆け巡った。自制しようとしてもブレーキは掛からず、むしろ加速する。 昨日のファーストキスや、百合子の年相応でない口調や態度、先程見せられた穴の開いた胸、などが溢れ出す。 「そうなんだよな」 甘い匂い。可愛らしい服。ヘアアクセサリーの山。 「そうなんだよ」 血色の薄い唇。艶やかな唇。柔らかな唇。百合子はもう、子供でも少女でもない。 「今、気付くこともねぇだろ…」 余計に、百合子と顔を合わせづらくなってしまった。そうだと気付いてしまうと、薄闇の濃さも一層深まった。 もう、正弘の言葉を疑う余地はない。昨日今日と、百合子自身から変化を見せ付けられてしまったのだから。 ゆっこはあんな顔をするのか、と鋼太郎は新鮮味すら感じていたが、それと同時に物寂しいような気分になった。 取り残されていくような、錯覚を覚える。いや、実際取り残されている。自分だけがまるで進歩していない。 子供だとばかり思っていたのに。自分よりも幼いはずなのに。いつのまにか、百合子は変わってしまった。 百合子が見えているはずなのに、見ているはずなのに、見えていない。いや、彼女を見ようとしていないのだ。 鋼太郎は窓枠にもたれ、肩を落とした。空には鉛色の雲が重たく垂れ込めていて、雨が降り出してしまいそうだ。 暗い、朝だった。 06 12/24 |