非武装田園地帯




第二十話 寄り道



 進むべき、方向は。


 すぐ前を行く百合子の足取りは、早かった。
 透は、いつもよりも歩調を早めて彼女の背を追いかけた。ここしばらく、百合子の態度は少しおかしかった。
サイボーグ同好会の集合場所である校舎裏に行く前に、二人は食堂手前の階段で落ち合ってから一緒に向かう。
 以前は、百合子は透と肩を並べて歩いてくれた。他愛もない話をして、透の手を引っ張って急かすこともあった。
だが、急に百合子はそうしなくなってしまった。透を正視せずに、行くよ、とだけ言ってさっさと歩き出してしまう。
その理由を尋ねてみても、別に、と笑顔で誤魔化された。透は百合子を追い掛け、昇降口までやってきた。

「あの」

 透が短く声を掛けると、百合子は上履きからローファーに履き替え、つま先をとんとんと地面に当てた。

「なあに?」

「私、何か、いけないことでも」

 透がおずおずと尋ねると、百合子は朗らかに笑った。

「べっつにぃ」

 早く行こう、と百合子は出口に向かった。透は自分の下駄箱からローファーを出し、上履きと履き替えた。

「あ、はい」

 昇降口から外へ出ると、秋の冷たい空気が流れてきた。震えるほどではないが、思わず首を縮めてしまった。
職員の駐車場と駐輪場の中を、百合子が歩いていく。まるで、透を振り切るかのように早足で進んでいる。
 透の不安は、ますます膨らんでいく。怒らせることでもしたのだろうか、だとしたら百合子に謝らなければ。
小走りに駆けて、透は百合子に追い付いた。透は百合子に並んだが、彼女はこちらを見ようともしなかった。

「あの、ゆっこさん」

「だーから、なんでもないんだってば」

 百合子は足を止めると、透を見上げた。屈託のない笑顔には一片の陰りもないが、どこか不自然さがあった。
透がもう一度問い掛けようとすると、それよりも先に百合子が口を開いた。笑顔は、少しも崩れなかった。

「透君。鋼ちゃんとは仲良くやってる?」

「え…」

 透が口籠もると、百合子は透の隣を過ぎた。

「鋼ちゃんのことでよく解らないことがあったら、教えてあげるね。私が知っている範囲だけだけどさ」

「え、えっと…」

「透君」

 百合子は、真剣な眼差しを透に向ける。

「鋼ちゃんも、真剣なんだからね。だから、ちゃんと鋼ちゃんの相手をしてあげてね」

「あ、あの」

 百合子の強い態度に透がまごつくと、百合子は声を低め、大人のような口調で言い放った。

「透君。鋼ちゃんの気持ちを、無駄にしないであげて」

 先に行くから、と百合子は言い残して行ってしまった。透は百合子の背に手を伸ばしかけたが、下ろした。
まだ、透は何も言っていない。鋼太郎との仲がどうなったか、ということすらも口にしてはいなかったのに。
鋼太郎との関係は、何も変わっていない。呼び方も、鋼ちゃんと呼ぶのが許された今でも、黒鉄君のままだ。
鋼ちゃんと呼びたい気持ちはまだ残っていたが、今し方の百合子の態度を見てしまうと出来そうになかった。
 明らかに、百合子は無理をしている。正弘と同じだ。好きな相手のために、自分自身の気持ちを封じ込めている。
透は、鋼太郎に対して何もしていない。正弘から、鋼太郎は透のことが好きだということを教えられただけだ。
鋼ちゃんと呼んでもいいと言われても、そのことに対して返事をする機会を失ってしまい、保留したままだ。
 どこかで、気持ちの行き違いが起きている。噛み合うべき部分がずれているせいで、皆が皆、苦しんでいる。

「私の、せい?」

 透は、項垂れた。自分がはっきりしないから、鋼太郎の好意を受け取れないと示していないから、曖昧だから。
もしもそうだとしたら、とてもひどいことをしている。透は泣きたくなるほど胸苦しくなり、顔を覆ってしまった。
ごめんなさい。口の中で呟き、透は校舎裏に背を向けた。今は、とてもじゃないが、三人と顔を合わせられない。
どうにかしたい。だが、どうすればいい。透は三人との距離を空けたくて、必死に走って体育館裏に駆け込んだ。
 校舎裏と同じく薄暗い場所だったが、誰もいなかった。透はその場にしゃがみ込むと、勝手に出てくる涙を拭った。
どうにかしなければ。修復が効くうちに噛み合わせを直さなければ、いつかこの心地良い関係が崩壊してしまう。
体育館裏にあるイチョウの木から、黄色く色付いた葉がさらさらと落ちてくる。透は右手で、左腕を握り締めた。
 その日、透は校舎裏に行かなかった。




 放課後。透は、昇降口の脇に立っていた。
 授業を終えた上級生が通り過ぎ、不思議そうに透の姿を見ていく。その視線から逃げたくなったが、我慢した。
透は昇降口の出口を見つめながら、目当ての人物が出てくるのを待っていた。だが、もうしばらく先のようだ。
三年生達は、受験のための進路指導を受けたのか、口々に進学したい高校の話をしながら校門へ向かっていく。
 すると、昇降口から一目でそれと解る彼が出てきた。透が声を掛ける前に、鋼太郎はこちらを見、立ち止まった。

「透。どうしたんだ?」

「いえ、あの、黒鉄君に、少し、お話しが。それで、えっと、あの、ゆっこさんは?」

 透は鋼太郎に近付き、見上げた。鋼太郎は、肩を竦める。

「五時間目で早退したよ。もうちょっとってところで、踏ん張りが効かなくなっちまったんだ」

 鋼太郎は、透と向き直る。

「で、透も今日はどうしたんだ。校舎裏、来なかったじゃねぇか」

「ちょっと…」

 透は目線を落としたが、鋼太郎に戻した。

「あの、黒鉄君。えっと、途中まで、でいいんですけど、その、一緒に、帰り…ませんか」

 気恥ずかしさに負け、透は身を縮めてしまった。鋼太郎は驚きと緊張で、若干声を上擦らせる。

「まぁ、うん、別にいいぜ。本当に、途中までだけどよ」

 透は気恥ずかしさで、ほんのりと頬を染めている。鋼太郎の背後を通る生徒達が、興味深げな視線を向けてくる。
鋼太郎は口元に手を添えて視線を彷徨わせる透に、なんともいえない嬉しさと同時に、照れくささに苛まれた。
 まさか、透の方から誘われるとは思ってもいなかった。自分からそういうことを持ち掛けるのは、躊躇いがある。
だから、嬉しかった。自分で言い出しておきながら照れている透は、困ったような顔をしていて可愛らしい。
内心で気が緩むのを感じながら、鋼太郎は歩き出した。透は鋼太郎よりも半歩ほど遅れて、後ろを付いてきた。
何がなんでも隣に並びたがる百合子とは違い、距離を空けている。それが、なんだかいじらしいと思った。
 途中、透が、土手に行こうと進言した。鋼太郎は逆らう気もなかったので、それに従って土手に向かうことにした。
その間、鋼太郎はろくに話せなかった。透がすぐ傍にいることを意識してしまったせいで、思考が鈍ったからだ。
 透もまた、口数が少なかった。




 土手に到着してすぐ、透はどこかに行ってしまった。
 ちょっと待っていて下さい、と言い残して通学カバンを放り投げ、セーラーとスカートを翻して走っていった。
どこに行くのか聞きそびれてしまい、鋼太郎は透の通学カバンの傍に自分の通学カバンを置き、地面に座った。
 五分ほどして、透が戻ってきた。今度は走らずに歩いていて、両手には缶ジュースと思しき缶を持っている。
どうやら、土手の近くにぽつんと設置されている自動販売機で買ってきたらしい。透は、息を軽く弾ませている。
 鋼太郎の傍に腰を下ろした透は、スカートを直してから座り直すと、鋼太郎に買ってきた缶ジュースを渡した。

「あの、これ、良かったら、どうぞ」

「悪ぃな」

 鋼太郎は透から缶を受け取ったが、そのラベルを見て首をかしげた。てっきり、コーヒーだと思っていたからだ。

「…なんでお汁粉なんだ?」

「え、あ、嫌い、ですか?」

透は両手で包むように缶を持つと、薄い唇を尖らせた。

「私は、好きなんですけど」

「いや、普通は、こういう場合は缶コーヒーとかじゃねぇの? もしくは炭酸とかさ」

「お汁粉、おいしいじゃないですか」

 透は機嫌を損ねたのか、膨れた。鋼太郎は慌てて取り繕いながら、缶を開ける。

「まぁ、うん、オレもそんなに嫌いってわけじゃねぇけどさ」

 マスクを開いて飲用チューブを伸ばし、お汁粉を吸い上げる。透を窺うと、幸せそうに表情を緩めている。
百合子も、甘ったるい菓子を食べる時にあんな顔をしている。確かに甘いものは良いが、それほどとは思えない。
鋼太郎が飲み終わると、程なくして透も飲み終えた。名残惜しげに缶を持っていたが、通学カバンの傍に置いた。
 十月も半ばを過ぎ、日が落ちるのがすっかり早くなっていた。まだ五時前とはいえ、日は既に暮れかけている。

「そういえば」

 鋼太郎は、西日で眩しく輝く鮎野川の水面を見つめた。

「文化祭も近いな」

「ですね」

「大したもんじゃねぇけど、そんなにつまんないもんじゃねぇよ」

「でも、私、合唱とか、苦手です」

「オレもだ。なんつーか、慣れねぇんだよなー、ああいうのって」

「元々、歌うの、苦手だから。それに、人前、だし…」

 透は、徐々に俯いていく。鋼太郎は、お汁粉の空き缶を手の中で転がす。

「んでさ。なんか、用でもあるのか? オレを待ってたってことは、話かなんかがあるってことなんだろ?」

「え、あ、はい」

 透は顔を上げ、頷いた。鋼太郎を待っていたのは、彼と話すためだ。ちゃんと、自分の気持ちを示さなければ。
そうしなければ、事態は堂々巡りを続ける。どこかで、行き違いの連鎖を断ち切らなければいけないのだ。
正弘はそうしようとした。百合子もまた、鋼太郎への気持ちを殺そうとしたが、未だに連鎖は続いている。
そして結局、また行き違ってしまった。その結果、自分の本心に嘘を吐いて苦しみながらも友達でいようとする。
 四人で仲良くありたいという気持ちは、透には痛いほど解る。正弘も、百合子も、それぞれに痛みを抱えている。
透自身が三人に頼っているように、二人もまた、傷痕を埋めてくれる友人関係を維持しようと踏ん張っている。
だが、そのために自分自身の心を死なせては何の意味もない。偽りの笑顔で成された関係など、苦しいだけだ。
二人の考え方も、解らないわけではない。何かを生み出すためには、同等の何かを費やす必要があるからだ。

「あ、あの」

 意を決し、透は鋼太郎に向き直った。

「えっと、その、本当、なんですか、その、黒鉄君が、私のことを」

 緊張しているせいで言葉は途切れ、文法も怪しかったが、透の言いたいことはなんとなく掴むことが出来た。
鋼太郎は、答えようかどうしようか迷ってしまった。透のことは好きだ。はっきりと、彼女に好意を抱いている。
目にすると嬉しくなる。言葉を交わすと高揚する。笑顔を向けられると、切なくなってしまうほど舞い上がってしまう。
だが、そのことを口にするのは、なぜか憚られた。表に出してしまったら、呆気なく崩れ落ちてしまう気がしたのだ。
 なぜかは解らない。透に恋をしていることは鋼太郎自身が認めているし、百合子と正弘からも指摘されている。
だから、透に向かってそれを認めることは当たり前のことで、透に真意を伝えてしまわなければ意味はないのだ。
なのに、躊躇ってしまう。鋼太郎がなかなか返答出来ずにいると、透は鋼太郎から目を逸らさずに口調を強めた。

「あの、もし、本当に、そうだとしたら」

 一呼吸置いてから、続ける。

「本当に、本当に、黒鉄君が、私のことを、えっと、好いて、くれて、いるんでしたら」

 浅く吸い込んだ息が、力の込められた語気に変わる。



「お断り、させてもらってもいいですか」



 透の視線には、鋼太郎のゴーグルを射抜くような鋭さがあった。





 


06 12/26