ガラスのような彼女。 その名の通り、透き通った印象のある彼女。左腕だけが、偽物の彼女。繊細で、脆弱で、儚くて、可憐で。 いつも、誰かの陰に隠れている。そうでなければ、目線を彷徨わせて、おどおどして、はっきりと喋らない。 ちょっとのことで泣きそうになって、整った細い眉は下がっていることが多くて、でも、笑う時はとても素敵で。 ガラスと称するに相応しい彼女。普段はあまり目に付かないけど、目に留まればきらきらと眩しくて、美しい。 だが、今の透はガラスの印象から逸脱していた。あの頼りない表情を、必死さすらあるほど強張らせている。 表情を崩せば決意まで崩れてしまうのだろう、と鋼太郎は察した。透は膝の上で両手を握り締め、拳を固める。 「ですけど、どうして、私なんかを」 「そんなこと…」 言えるか、と言おうと思ったが、鋼太郎はそれを飲み込んだ。透の決意を蔑ろにしてしまってはいけない。 「なんつーか、なんだろうな。なんでもねぇことのはずなのに、それが、なんでもなくてさ」 鋼ちゃん。あの時の、透の照れくさそうな顔が蘇る。 「鋼ちゃん、なんてゆっこ以外からまともに呼ばれたのは初めてで、なんか、うん」 戸惑った。混乱した。焦った。気恥ずかしかった。照れくさかった。情けなかった。そして、無性に。 「嬉しかった、っつーか、なんていうか、どうしたらいいのか解らなくなっちまったんだ」 ヤマシタトオル。山下透。透。 「で、なんか、そのせいかもしれねぇけど、透のことが気になっちまって」 下級生。転校生。一年生。セミサイボーグ。 「気が付いたら、透のことを探しちまってた」 そして、鋼太郎にだけ向けられた、鋼太郎しか見ることの出来ない、鋼太郎ただ一人が知ることの出来る笑顔。 「そしたら、透が、笑ってくれただろ?」 「…はい」 透は、いやに申し訳なさそうに頷いた。鋼太郎は、照れ隠しに笑ってしまった。 「オレが見るたびに笑ってくれるもんだから、オレ、嬉しくなってきちまってよ」 笑顔。笑顔。笑顔。 「だから、なんか、そのうち、特別になっちまったんだ。オレの中で、透のことが」 自分に笑いかけてくれる。鋼ちゃんと呼んでくれる。だから鋼太郎は、山下透は異質な存在なのだと意識した。 「だから」 鋼太郎は、それから先を続けられなかった。並べてみると、既視感がある。相手が違うだけで、内容は同じだ。 同じことをしてくれる人間を知っている。透と同様に、いや、それ以上のことを返してくれる彼女が近くにいる。 今まで、彼女のそれを特別だと思ったことがあっただろうか。日常の一部と化していたから、感覚が鈍っていた。 突然、笑い声が口から出てきた。自虐的な乾いた笑みを零しながら鋼太郎は項垂れると、大きな肩を震わせる。 「ばっかじゃねぇの」 そんなこと、何も特別ではない。ただ、相手が彼女でなかっただけで。 「馬鹿じゃねぇかよ」 「わたし、も」 かすかな呟きが、透の唇から零れた。固めていた表情が、ほんの少し崩れる。 「馬鹿、なん、です」 「違う。馬鹿なのはオレだ。透もゆっこも、ムラマサ先輩も悪くなんてねぇんだ。馬鹿なのは、オレだけだ」 鋼太郎はマスクを鷲掴み、嘆息する。 「ゆっこ。悪ぃ…」 「私も、本当に、馬鹿なんです」 透は、震える唇を歪める。 「く、黒鉄君が、なんとなく、似てるから、だから、つい、見て、しまって」 「誰に」 鋼太郎はその答えを知っている気がしたが、尋ねずにはいられなかった。透は、右手で顔を覆う。 「お、お兄ちゃんに…。お兄ちゃんも、野球、好きだし、黒鉄君も、長男、だし、だから、なんだか、うちのお兄ちゃんみたいだなって。鋼ちゃん、って呼んじゃったのも、なんとなく、響きが、近いから、だから」 透の声は、次第に細くなる。 「お兄ちゃんが黒鉄君の位置にいたら、なんて、馬鹿なことを考えちゃって、そうだったらいいな、そうだったらどんなに楽かって、思っちゃって、だから、たまに、黒鉄君がお兄ちゃんだったらって思って、見て…それで…。本当はそうじゃないって解っているんだけど、黒鉄君がお兄ちゃんじゃないって解っているけど、もしもそうだったら良かったのになって思って…」 儚げな微笑みが向けられていたのは、最初から鋼太郎ではなかったのだ。鋼太郎に重ねた別人に向けていた。 笑顔が美しかったのは、恋心から生まれ出たものだったからだ。ただ一人への、愛を込めていたからこそだ。 透の仕草に女らしさがあったのは、透の表情に得も言われぬ魅力があったのは、彼女が恋をしていたからだ。 誰にも言えない、秘密の恋を。鋼太郎は、自分自身の愚かさに打ちのめされそうになりながらも、言葉を出した。 「透。お前が、好きな人ってのは」 それを遮るように、透は喚いた。 「ごめんなさい、ごめんなさい! いけないのは解ってるの、ダメなのは解ってるの! でも、どうしようもなくて!」 「マジかよ…」 透の言葉が信じがたく、鋼太郎は呆気に取られた。そんなことは、テレビドラマか漫画の中だけだと思っていた。 自身に兄弟がいるからこそ、そういうことは有り得ないと思っていた。身内にそれ以上の感情は抱けない、と。 だが、透の言葉を信じるならばそういうことになる。人として踏み入れてはいけない領域に、踏み込んでいる。 「透が、好きなのは」 鋼太郎は、透の否定を求めるために言った。否定など、返ってこないと解っているはずなのに。 「亘さん、なんだな?」 はい、と掠れた声で肯定された。透は、口元を押さえて背を丸める。 「ち、血は、繋がって、ない、の。お兄ちゃん、は、お父さんの、連れ子、だから。私は、お母さんの、連れ子で」 顔の似ていない兄妹だとは思っていた。雰囲気も違っていた。だが、鋼太郎はそこまで深読みはしていなかった。 だがそれでも、兄と妹は兄と妹でしかない。血縁がなくても戸籍上は兄弟である以上、男と女にはなれない。 「そういうのはいけないことだって、頭では解るんだけど、でも、どうしようもなくて。だから、本当に、ごめんなさい。私は、黒鉄君を、好きには、なりません。好きだけど、友達、としての、好き、なんです」 ごめんなさい、と透はしきりに謝っている。鋼太郎は透の告白の衝撃が大きすぎて絶句し、硬直していた。 嘘だろう、と透を問い詰めたかったが透は謝り続けている。鋼太郎ではない、他の誰かに必死に謝っている。 そんなに謝らなくてもいいと思ったが、それを言えるほどの余裕がなかった。事実の重さに、圧倒されてしまった。 血の繋がらない兄と妹。連れ子同士。兄への恋心。透の過去には何かあるとは思っていたが、それほどとは。 「透。家まで、送ろうか」 考えあぐねた挙げ句、鋼太郎が口にしたのは当たり障りのない語句だった。日は落ち、辺りは薄暗くなっている。 もっと気の利いたことを言えないのかと自責したが、たかだか十四歳のボキャブラリーはそこまで豊富ではない。 「いえ、大丈夫、です。一人で、帰ります。黒鉄君が、変に思われるかも、しれない、から」 それは、ダメだから、と透は目元に滲んだ涙を拭った。鋼太郎は、複雑な心境で透を見やる。 「オレ、頭悪ぃから、透に何を言ったらいいのか解らねぇんだ。でも、オレは、透にフラれたってことだよな?」 「ごめんなさい…。そういう、ことに、なります」 透は、潤んだ瞳を伏せた。解ってはいたことだが、こうしてはっきり言われると多少なりとも滅入ってしまう。 鋼太郎は無理に心を奮い立たせ、勢いを付けて立ち上がった。通学カバンを背負い、お汁粉の空き缶を持った。 「気にすんな。馬鹿なのはオレだったんだから」 「そんな…」 透は、目線を逸らした。鋼太郎は、透に彼女の通学カバンを渡してから背を向けた。 「じゃあな、透。明日はちゃんと校舎裏に来いよ」 「あ、はい。また、明日」 透は立ち上がると、小さく頭を下げた。鋼太郎は手を振ってから土手を降りて通学路に戻り、薄暗い道を歩いた。 途中で振り返り、透がちゃんと帰っていくかを確かめた。彼女の影は、橋を渡って町の東側に向かっていった。 しばらくそれを見送っていたが、正面に向き直った。視界の隅の時刻を見ると、既に午後五時半を経過していた。 早く帰らなければ、六時を過ぎてしまう。鋼太郎は捨てそびれてしまったお汁粉の空き缶を下げ、帰路を辿った。 口中に残った味は甘かったが、ほろ苦くもあった。 集落に戻った鋼太郎は、百合子の家の前で足を止めた。 暗がりに沈む白い壁の家の窓は、二階だけ明かりが点いていた。どうやら、撫子はまだ帰宅していないらしい。 その、二階の部屋の窓が開いていた。レースカーテンを開けてこちらを見下ろしていた少女は、窓を閉めた。 軽い足音が家の中を下ってくると、玄関の扉を開けて出てきた。百合子は、裾の長いワンピースを着ている。 「お帰り、鋼ちゃん」 「おう、ただいま。ゆっこ、具合はどうだ?」 鋼太郎が玄関に繋がる階段に近寄ると、百合子はサンダルを突っかけて階段を下りてきた。 「一時間ぐらい眠ったら治ったから、もう平気。鋼ちゃん、やけに遅かったけど、寄り道でもしてきたの?」 「まぁな」 百合子は鋼太郎の持っているお汁粉の空き缶に気付き、訝しげに眉を曲げる。 「なあに、お汁粉なんて飲んだの? 鋼ちゃん、餡子とかそんなに好きじゃないのに。なんで?」 「透に奢ってもらった」 「へぇ。透君って、お汁粉が好きだったんだ」 鋼太郎は、空き缶を百合子に渡す。 「好きなんだってよ。まぁ、なんか透らしくてしっくりくるけどさ。で、フラれた」 鋼太郎がなんでもないことのように言ったので、百合子は聞き逃してしまいそうになったが目を丸めた。 「え? 何それ? ていうか鋼ちゃん、透君に告ったの?」 「そういうわけじゃねぇけど、とにかく、終わったものは終わったんだよ」 「鋼ちゃん、それでいいの? 透君に未練とかないの?」 百合子が矢継ぎ早に問い掛けてきたので、鋼太郎はちょっと身を引いた。 「未練ってお前、別にオレと透はどうこうしたわけじゃねぇんだから、そんなもんあるわけねぇだろ」 「でもさ、でも、鋼ちゃんはそれでいいの?」 やけに戸惑っている百合子に、鋼太郎は彼女の髪を手荒く乱した。 「るせぇな。大体、初恋は破れるって相場は決まってんだよ」 んぅ、と手の下で百合子が変な声を出した。手のひらに感触が伝わってこなくとも、その髪が滑らかなのは解る。 思い掛けないことだったので、百合子は抵抗しなかった。それをいいことに、鋼太郎はしばらく彼女を撫でた。 百合子の方から触れてくることはあったが鋼太郎の方から触れることは久しくなかったので、感触を味わった。 「それ、舐めるんじゃねぇぞ。オレの口の構造上、口付けて飲まねぇから舐めたって間接にはならねぇからな」 鋼太郎は百合子の頭から手を外し、彼女の手の中にあるお汁粉の空き缶を指した。百合子はぎょっとする。 「ばっ、馬鹿なことを言うんじゃないよお、鋼ちゃん! すっ、するわけないじゃんか!」 「じゃ、返せよ」 鋼太郎は百合子の手からお汁粉の空き缶を取り返すと、にやついた。 「つーか、ゆっこ。お前、自分からオレにあんなことしたくせに、それぐらいのことでキョドるのかよ?」 「うるさいなぁ、もう! あれとこれとは別なんだってば!」 百合子は、途端に赤くなった。照れ隠しに大股に階段を昇っていったが、途中で足を止めて振り返った。 「じゃあね、鋼ちゃん! また明日!」 「おう。また明日」 鋼太郎は百合子が玄関に戻ったのを見送ってから、自宅に向かった。鋼太郎は、不思議な気分だった。 透からきっぱりとフラれたのだから、多少なりとも気落ちしているはずなのだが、むしろ気が楽になっていた。 街灯の下を通りながら、途中何度も百合子の家に振り返った。何も用事はないのだが、そうしたかった。 いやに、遠回りをしたような気がした。真っ直ぐに向かえば良かったことを、わざわざ別の道を辿っていた。 それが、ようやくあるべき方向へ戻ってきた。きっと、透への淡い恋心は寄り道のようなものだったのだ。 進むべき方向をきちんと見定めていなかったために、気が逸れてしまってふらふらと揺れ動いてしまった。 鋼太郎は、手のひらに残る体温を感じつつ百合子の家に背を向けた。名残惜しかったが、今は家に帰ろう。 また、明日になれば会えるのだから。 06 12/26 |