非武装田園地帯




第二十一話 私闘



 勝ち得たい、ものがある。


 絵筆を滑らせ、色を載せる。
 淡々とした作業の繰り返しながらも、満ち足りる。紙の上に、思うがままの世界を描き出すことが出来るからだ。
何のことはない風景の絵だ。通学時にいつも目にしている、鮎野川に掛かる二本の橋が重なった構図だった。
十一月にある文化祭で飾るために、一年生全員が描かされている。最近の美術の授業は、絵に費やされている。
 透は、パレットに絞り出した絵の具を絵筆の先端で掬い取って三色を混ぜたが、思うような色にならなかった。
青が足りない、と絵筆を洗ってからコバルトブルーをほんの少しだけ取り、深みのある緑色に馴染ませていく。
この絵を描くためにデッサンを行った時は、まだ葉の色が鮮やかで、僅かながら夏の名残を残していたのだ。
今となっては、葉は落ちて空は薄らぎ秋から冬へと移り変わりつつあるが、そんな色を作っても面白くない。
美術を担当している女性教師が、生徒達の間を通りながら絵の出来具合を眺めていたが、透に視線を留めた。
透はそれに気付いたが、顔を伏せてしまった。美術教師とはそれなりに言葉を交わすが、まだ照れてしまう。
美術教師は机の間を抜けて透の元へ来ると、歩調を緩めて透の手元を覗き込み、感心した様子で息を漏らした。
そして、柔らかな手付きで透の右肩を軽く叩き、擦れ違った。他の生徒達の視線が向いたが、すぐに逸れた。
 透は視線が逸れたことにほっとしつつも、美術教師の体温が残る右肩に意識が向いてしまい、集中力が削げた。
嬉しいのだが、困ってしまう。透は呼吸を整えて唇を締めると、半分以上塗り終わった水彩画をじっと見つめた。
 出来ることなら、ずっと絵の世界に没頭していたかった。




 逃れられないのだ、と確信した。
 透は携帯電話を取り出し、ため息を吐いた。正直、持ち歩きたくないが、サイボーグである以上仕方ない。
セミサイボーグはフルサイボーグと違って救難信号を発進出来ないので、連絡手段がないと生死に関わる。
だから、携帯電話は何がなんでも持ち歩かなければならない。透は苦々しく思いながら、画面を睨み付けた。
着信名:     。あの人間を指す単語を登録しているのも嫌になってしまって、ついには空白にしてしまった。
電話番号を指定して、この番号だけは着信音ではなくバイブレーションにするようにしても、無視しきれない。
 最初のうちは、嫌悪感と拒絶感で着信が来るたびに錯乱しそうになったが、最近では殺すことが出来ていた。
だが、その状態がいつまでも持つとは思えない。透は左手を固く握り、ヒビの走っている携帯電話を閉じた。

「またなの?」

 百合子が、心配そうに透を見上げてくる。透は、目線を足元に落とす。

「はい」

「透。大丈夫か?」

 正弘は背を曲げて、透と目の高さを合わせた。透は体の前で、温かな右手と冷たい左手を組む。

「私が、出ない代わりに、お兄ちゃんとお父さんと話していますから、大丈夫です」

「なんか、よく解らねぇな」

 鋼太郎は、透を取り巻く家庭の事情と透の母親という女性の行動を指して言った。外からでは、窺い知れない。
透自身が喋ろうとしないから、というのもあるが、それなりに平穏な家庭で生きてきた者では理解しようがない。
鋼太郎にとっては、両親とはたまに仲が悪いこともあるが大抵は折り合っているものだ、という概念がある。
兄弟も血が繋がっていることが当然であって、血が繋がっていない兄弟というものが今一つしっくり来なかった。
情報として透の家庭の事情が複雑であると知っていても、感覚として受け止め切れていないのが歯痒かった。

「いいんです、別に」

 鋼太郎の呟きに、透は顔を上げる。

「解らなくても、いいんです。私にも、全部のことは、解っていませんから」

「あ、いや、そういう意味じゃなくって」

 鋼太郎が取り繕うと、百合子は鋼太郎を小突いた。

「透君にも色々あるんだからさ、余計なことは言っちゃダメだよ、鋼ちゃん」

「そうだな。透がオレ達を求めるならばその要求に応えるべきだが、求められもしないうちは動かないべきだ」

 正弘は、透を見据えた。

「だが、求められた場合には、全力を尽くすつもりだけどな」

「そんな…」

 透は遠慮がちに、だが嬉しそうに微笑んだ。百合子はぴょんと跳ね、透と向き合う。

「じゃ、私も! 私に出来ることなんてタカがしれてるけどね!」

「何もしない方がいいんじゃねぇの? 却って迷惑になるかもしれねぇだろ?」

 百合子を茶化しながら、鋼太郎は百合子の後頭部を押さえ付けた。百合子は、ちょっと前につんのめる。

「そんなことないよお!」

 どうだかな、と笑う鋼太郎に言い返している百合子はむくれてはいるが、決して不機嫌というわけではない。
むしろ、照れ隠しに不機嫌な顔を作っている。正弘は百合子の愛嬌のある表情を見つめながら、そう思った。
鋼太郎もまた、言うことは以前と変わらなかったが、態度からは棘が抜けていて心なしか柔らかくなっている。
何も事情を知らなければどうということのない光景だが、事情を知っている正弘と透には変化が感じられた。
 透は鋼太郎と百合子のやり取りを微笑ましく思いながら眺めていたが、ふと、グラウンド側に目をやった。
昼休みを利用して遊びに興じる男子生徒達の向こうに、グラウンドを囲むネットの先に車が一台止まっていた。
 黒の、セダン。




 黒のセダン。
 亘は教室の窓から校門前を見下ろしながら、その姿を探していた。ここ数日、気付いたら止まっているのだ。
今日は止まっていないようだったが、こうも頻繁に目に付くとその車の正体が気になって仕方なかった。
二年生の教室は三階なので校門は遠く、車のナンバーは見えない。なので、どこの車なのかは解らなかった。
車体にもこれといった特徴はなく、どこにでもあるタイプだ。最初は、近所の人間の車なのか、と思っていた。
だが、そうだとしても理由が解らない。生徒を待っているのであれば、下校時間に止まっているはずだ。
 教師達も不審そうにしているが、黒のセダンは一時間もしないで校門前を去ってしまうので注意はしていない。
怪しいとは解っているが、特に害はないという判断を下しているのだ。それではいけない、と亘は感じている。
現時点では害がないかもしれないが、あの車の正体を確かめもしないで無害であると判断するのは早急すぎる。
何かあってからでは、遅すぎるというのに。東京の学校であれば、最初の時点で対応を行っているはずだ。
退去を促すなり、事情を聞き出すなり、ドライバーの運転免許証を改めるなり、警察に相談を持ち掛けるなり。
 しかし、何もしていない。一ヶ谷市はそれなりに開けている街だが、こういう部分はまるで垢抜けていない。
地方都市独特の緩やかな雰囲気、と言えば聞こえはいいが、周囲と親密すぎて警戒心が抜け落ちているのだ。
亘は握り締めていた箸を持ち直し、妹の作ってくれた弁当の続きを食べた。カボチャの煮付けを、口に入れる。

「山下」

 向かい側で弁当を食べていた男子生徒が、亘の視線の先を辿った。

「お前さ、最近変な方向ばっかり見てるけど、一体何見てんだよ」

「別になんでもない」

 亘は弁当の残りを口の中に押し込むと、蓋を閉じて箸を箸箱に入れた。そうだ、気にしすぎるのもあまり良くない。
黒のセダンに引っ掛かりを感じているからと言って、いつもそれにばかり気を向けていては気疲れしてしまう。
弁当箱をカバンの中に戻した亘が立ち上がると、近くに座っていた他の男子生徒が立ち上がって歩み寄ってきた。

「山下、あのさ、またいいか?」

「ノートなら勝手に写していいぞ。但し、それ以外には触るなよ」

 亘はその男子生徒の肩を擦れ違い様に叩き、教室を出た。背後から感謝の言葉が聞こえたので、手を振った。
転校してきたばかりの頃は、亘の態度が硬かったこともあって敬遠されていたが、最近では打ち解けている。
亘は自分の成績がそれほど良いとは思っていないのだが、こまめに予習復習を繰り返しているので安定している。
そのせいもあり、友人達からは頼られることが多い。報酬は購買のパンであったり、ジュースであったりする。
決して、悪い気はしない。亘は甲高い声で喋りながら歩く女子生徒を横目に見つつ、階段を下り、外へ向かった。
 昇降口で上履きをスニーカーに履き替えて、人気のない中庭に入ると、校舎の窓から見えない位置に立った。
正直、あまり気は進まなかった。だが、亘が受けなければ透に向かうことになる。それだけは阻止したい。
亘は制服のポケットから携帯電話を取り出すと、フリップを開いた。着信履歴には、あの女の名前が並んでいる。
眉根を歪めてから、亘はアドレス帳を開いて通話ボタンを押した。数回のコール音の後、気怠げな声がした。

『何よ、あんたなの?』

「そうですけど」

 亘が返すと、電話口の向こうで盛大なため息が吐かれた。

『ねえ、あんたから透に言い聞かせてくれない? 私はあの子と話がしたいのよ』

「透はあなたと話したくないんですよ」

『そんなのどうでもいいの。私が、あの子と話したいの』

 神経質に苛立った声色の彼女は、私が、を特に強調させた。亘は舌打ちしそうになったが、堪えた。

「それで、今更何の用なんですか」

『あんたには関係ないわよ、亘。これはあくまでも、私と透の問題なんだから』

「透はオレの妹です。無関係じゃありません」

『何よ、偉そうに。あの子を産んだのは私なのよ、あんたに偉ぶられる権利なんてないわよ』

「あなたと父さんは離婚して、親権も父さんに譲渡したはずですが」

『気が変わったのよ。やっぱり、私も母親だから、あの子を手元に置いておきたいの』

「それだけじゃないと思いますが」

『くどいわね』

「…それはあなたの方でしょう」

 亘は携帯電話を強く握り、空いている左手を固めた。電話の向こうの女、橋本香苗への怒りは増すばかりだ。
香苗は、透を産んだ女だがそれ以上でもそれ以下でもない。香苗は、透を自分の子供として扱おうとしない。
他人がいる時だけ母親らしく振る舞うが、それ以外では非常に冷淡だ。愛情など、一欠片も持ち合わせていない。
 亘の父親、拓郎と結婚した理由も透を手放すためだったのだ。だから、結婚して間もなく他の男に向かった。
家事をしたのも結婚した当初だけで、一ヶ月もしないうちに何もやらなくなり、その代わりに透がやるようになった。
亘と拓郎も手伝ったが、透はそれを突っぱねて自分だけでやった。私はお母さんの子供だから、と頑なだった。
いつものことだから。お母さんはお友達が多いから。私は役に立たないから。そう、透は呪文のように繰り返した。
 透は、誰に対しても従順な子供だった。相手を怒らせないように、迷惑を掛けないように、自分の意見を殺した。
高い熱が出ても、具合が悪くても、学校に行こうとした。家事をやろうとした。それしか出来ないのだ、と言って。
亘は、透がなぜそこまでするのか尋ねてみた。すると透は、無表情に言った。だって、私はいらない子だから。
オロしそこねたんだって。殺し損ねたんだって。産まれちゃったんだって。だから、私はお母さんにはいらないの。
いらない子は、なんでも出来るようにならなきゃいけないから。言うことを聞かないと、余所へ捨てられるから。
淡々とおぞましい言葉を並べる透は、表情がなかった。いつものおどおどした少女の姿は、どこにもなかった。
亘は、透の表情のなさが恐ろしかった。きっと、何も感じないようにするために自分を押し殺していたのだろう。
 だが、あの交通事故で左腕を失ってからは透は変わった。左腕と共に、母親に対する遠慮も失ったようだった。
今まで堪えていたものが切れてしまったのか、香苗に関わることを激しく拒絶し、怯えるようになってしまった。
怖い、怖い、と繰り返して取り乱す透の姿は、痛ましくてたまらなかった。亘がまだ知らない、深い傷があるのだ。
香苗はセミサイボーグとなった透を一層嫌うようになり、死ねば良かったのに、と言い残して姿を消してしまった。
 それで、全てが終わったのだと思っていた。だが、八月の終わり頃から香苗は唐突に透に連絡を取ってきた。
何か、意図があるのは間違いない。しかし、それが解らない。どれだけ亘が問い詰めても、話そうとしないのだ。
なんとか、自分が障壁となって透への接触を防がなければならない。そうしなければ、今度こそ妹が壊れる。

『まぁ、いいわ。直接会って話すから』

「透がどこにいるか、知っているのか!?」

 香苗の言葉に、亘は怒りと驚きの混じった声を上げた。香苗は一笑する。

『簡単に解るわよ、これぐらい。あんた達がこんなド田舎に越してきてくれて、助かったわ』

「まさか、中学校に」

『ええ。今、見ているわよ。あの子も趣味が悪いわね、サイボーグなんかと付き合うなんて。それも、二人も』

 電話越しに、香苗の哄笑が響いてきた。挑発的な笑い声を耳から遠ざけて、亘は地面を踏みにじって唸った。
それは恐らく、鋼太郎と正弘のことだろう。亘は寸前で押さえ込んでいた怒りが溢れ出し、叫んでしまった。

「これ以上、透に近付くな!」

『今は近付かないわよ、今は。でも、近いうちに会いに行くからね。私の子供に』

 そして、香苗は電話を切った。亘は携帯電話を投げ捨てたい衝動に駆られたが、スラックスのポケットに入れた。
荒げてしまいそうな呼吸を整え、校舎に寄り掛かる。歯痒くて、情けなくて、腹立たしくて、どうしようもなかった。
 透を守りたい。もう二度と、辛い思いをさせたくない。たった一人の大事な妹を助けたい。だが、力になれない。
香苗は、元から亘を相手にしていない。拓郎に透を押し付けるのが目当てだったのだから、そもそも眼中にない。
子供扱いはおろか、その存在すら忘れられていたこともあった。その時の悔しさと憤りまで、思い出されてくる。
せめて、力があれば。自分が高校生などではなく、成人していたら。もう少し、どうにか出来たかもしれないのに。
 戦いたい。透のために、妹の未来のために、自分自身のために。亘は、やるせなさで涙が出てしまいそうだった。
 また、何も出来ないのか。





 


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