非武装田園地帯




第二十一話 私闘



 面白くない。
 香苗は携帯電話をダッシュボードに放り投げ、ハンドルに寄り掛かった。中学校のグラウンドが、良く見える。
専門棟の校舎裏では、四人が談笑している。遠いので顔の判別は付かないが、体格で透の判別は付けられた。
透は三人から一歩引いた場所に立っていて、あまり喋っていない。一番喋っているのは、体の小さな女子だった。
彼女の高い声は乾いた空気に良く響き、車内にも伝わってくる。時折放たれる快活な笑い声が、耳障りだった。
 香苗は革製のケースを開いてタバコを取り出すと、銜えて火を点けた。フィルターを噛みながら、四人を睨んだ。
学ランを着ている二人の男子は、どちらもフルサイボーグだ。大きな体格と銀色の肌で、すぐにそれだと解る。
よくも、あんな気持ち悪いものの傍にいられるものだ。脳髄入りのロボットに近付くなんて、考えただけで嫌だ。
透の左腕にしても、そうだ。大きさの違う腕をくっつけたところで、失ったものを補填したことにはならない。
左腕を失った時点で、死んでしまえばよかったのに。いや、それ以前にあんな娘など産まなければよかった。
 香苗は、子供など欲しくなかった。透の父親の男とは別の男と付き合っていた時に、避妊に失敗してしまった。
だが、都合は良かった。戸籍上は透の父親である最初の結婚相手、若林始を引き留めるための道具になった。
始は香苗以外の女と結婚するつもりでいたのだが、香苗は妊娠したことを武器にし、責任を取れと迫って結婚した。
その頃は、本当に良かった。始は資産家の息子だったので、いくらでも贅沢をさせてくれた。夢のようだった。
結婚生活は、香苗が抱いていた理想の暮らしだった。ただ一つ、日に日に膨らみ、迫り出してくる腹を除けば。
妊娠初期にでも、流産した、と言って堕胎するつもりでいたのだが遊び暮らしているうちにチャンスを逃した。
 そして、産まれてしまった。だが、産まれてすぐに、透の血液型が違うことがばれてしまい離婚させられた。
香苗がAで始はABだったのだが、透はOだった。相手の男がAかBであったなら、そうならなかったのに。
透も、そして相手の男も恨んだが、始との連絡は付かなくなってしまった。それからの日々は、地獄だった。
ぎゃあぎゃあと泣き喚いて世話をしろと叫ぶ赤子が邪魔で、男遊びも出来なくて、ストレスばかりが溜まった。
だが、人殺しをするほどの度胸もなかったので、育てるしかなかった。いつか捨ててやる、といつも思っていた。
 透、という名前も気に食わない。始の両親から絶対に男だと言われて押し切られ、女だったのに透にさせられた。
名前ぐらいは思い通りにさせてほしかった。だが、何一つ思い通りにならない。透も、香苗の邪魔ばかりする。
憂さ晴らしをしようと男を連れ込んでいる時に限って帰ってくるし、挙げ句の果てに傷物になってしまった。
片腕のない女など、どうしようもない。フルサイボーグになっていたなら、自衛隊にでも押し付けていたのに。
役にも立たない。金にもならない。ただ、邪魔なだけだ。だからこそ、一つぐらい、思い通りにさせてもらおう。
 香苗はタバコを灰皿に押し付けて火を消すと、助手席に置いていた封筒を取り、その中から書類を数枚出した。

「これぐらいもらうのが当然なのよ、私は」

 それは、サイボーグ用の生命保険の資料だった。香苗は、ぱらぱらと紙をめくった。

「大体、割に合わないのよ、この人生って」

 若林始を見つけた時は、やっと幸運が巡ってきたのだと思った。それ以前は、ろくなことがない人生だった。
家は貧乏で両親とも共働きで、兄弟だけが多かった。誰も彼も仲が悪くて、ケンカが絶えない家族だった。
世間には物や金が氾濫しているのに自分達へは回ってこない不満と苛立ちが、澱のように溜まり、淀んでいた。
欲しい物を買ってもらえている同級生が羨ましくて、妬ましかった。小学校、中学校、高校と友達もいなかった。
どこかで人生を違えたのだ、本当はもっと満ち足りた日々を送っているはずだ、と思えば思うほど悲しくなった。
必死になって働いても欲しい物はろくに買えず、大学にも通えず、ぎらぎらした欲望ばかりが腹の中に溜まった。
 そんな中で、若林始に出会えたのは本当に素晴らしい偶然だった。彼に取り入ってやろうと、ひたすら努力した。
軽薄で遊ぶことしか考えていない男だったが、金だけは持っていた。顔も悪くなかった。だから、欲しかった。
なのに、透が産まれたことで全てが台無しにされた。何年も掛けて積み上げたものが、一度に崩壊してしまった。
それなりに大きな額だと思っていた養育費と慰謝料も、育児に費やすうちに消えた。子供に、食い潰された。
 それを取り返すためにも、透には死んでもらう。生命保険を掛けてから、義腕の故障を装って殺してしまうのだ。
そうすれば、保険金だけでなく、サイボーグを造っている医療器具メーカーからも多額の賠償金を取れるはずだ。
故障を起こさせる方法は、簡単だ。バッテリーの制御プログラムを消去してから充電を行えば、過電流が流れる。
サイボーグの構造上、左腕の内部からは脳神経と繋がる人工神経があるので、それも焼き切ってしまえばいい。
人工神経を伝わって流れた過電流で、脳も死ぬはずだ。心臓を動かす電流も乱れるので、心臓も止まるだろう。
 それが終わった後に、車道にでも放り出して交通事故を装い、左腕を完全に破壊してしまえば証拠は消える。
サイボーグボディの情報を逐一保存しているメモリーチップも砕いてしまえば、プログラム消去の痕跡もなくなる。
そのついでに、忌々しい透自身も潰されてしまえばいい。あんなもの、最初からなかったことにしてしまうのだ。

「死ねばいいのよ」

 笑い混じりに、香苗は吐き捨てた。校舎裏にいる四人は、まだ喋っている。会話は解らないが楽しそうだ。
あの小さな女子生徒が透にちょっかいを出しているが、透は嫌ではないらしく、笑っているように見えた。
それが、異様に憎らしくなった。香苗にどれほど苦労を掛けたのかも知らないくせに、笑っているなんて。
透が交通事故に遭ったせいで、付き合っていた男から捨てられた。その男との間に出来た子供も、堕胎した。
あの男は、若林始ほどの利用価値はなかったが性格は悪くなかった。だが、左腕を失った透を見て怯えていた。
拓郎と離婚してすぐに香苗は結婚を迫ったが、その男は難癖を付けて逃げ、挙げ句の果てに他の女と結婚した。
 上手く行かない。何もかも、思い通りに進まない。ぐつぐつと煮え滾った苛立ちだけが、腹の内に溜まる。
全て、透が悪いのだ。透さえいなければ、あのまま若林始との関係が続き、こんな人生ではなかったはずだ。
 だから、これからやり直すのだ。




 その日の夜。透は、自室に籠もっていた。
 中学校から持って帰ってきた、製作途中の水彩画を完成させるためだ。納得が行くまで、考えるつもりでいた。
絵筆用のバケツに水を入れて運び入れ、絵の具を取り出して、テーブルに画板を置いて彩色の準備を整えた。
パレットに絵の具を絞り出していると、扉が叩かれた。透が生返事をすると、亘が扉を開け、中を覗いてきた。

「透」

「あ、お兄ちゃん」

 透は絵の具のチューブの蓋を締め、振り返った。亘は部屋に入ると、扉を閉めた。

「あのさ」

「なあに?」

 不思議そうな透に、亘は罪悪感すら感じた。なぜ、透の日常を香苗などに壊されなくてはならないのだろう。
亘が香苗とのことを話すことで、また透の精神は乱れてしまう。だが、話さなければ香苗は透に近付いてくる。
亘は葛藤していたが、透の前に座った。透は亘と向き合うように座り直してから、亘の顔を覗き込んできた。

「どうしたの?」

 話したくない。だが、話さなければならない。亘は、透の両腕を掴んだ。

「透。昼休みに、変な車とか見なかったか?」

「車?」

「そうだ」

 亘が頷く。透は、昼休みの記憶を思い起こした。グラウンドの傍に妙な車が止まっていたような気がする。

「見た、かも、しれないけど」

「どんな色だった?」

「黒い車。形は、セダンだったかもしれない。ナンバーまでは見えなかったけど」

 それがどうかしたのか、と透が聞き返そうとすると、亘は項垂れた。高校の校門前にいた車と同じ車だろう。
確証はないが、そうだとしか思えない。香苗の執念の強さを感じると同時に、その意図が掴めないのが恐ろしい。
透を、守ってやらなければ。亘は顔を上げて透を見つめ、香苗のことを口に出そうとしたが、飲み込んでしまった。
やはり、透には何も言わない方がいい。文化祭も近いのだから、製作している絵に集中させてやるべきだろう。
 画板の上に広げられている水彩画はいつも以上に色が多く、透が手を掛けて仕上げているのが目に見えて解る。
濃淡の付いた山の木々、重なった二本の橋、周囲の風景を水面に映した鮎野川。夏頃の色鮮やかな風景だ。
亘には到底出せない複雑な色合いで、それでいて澄んだ色彩で描かれている。透の心が、潤っている証拠だ。
交通事故で左腕を失ったばかりの頃や、香苗から愛されなかった記憶に苦しんでいる時は、どんな絵も暗かった。
黒ばかりが多く、たとえ晴れの日を描いたものであったとしても、花々であったとしても、影がかなり濃かった。
だが、最近の絵は違う。色の種類が豊富で景色を照らし出す光の量が増え、透が楽しんでいることが解る。
清々しく晴れ渡った世界が、透の内に広がっているのだ。亘は塗り途中の水彩画から目を外し、透に戻した。

「別に、なんでもない」

 亘は、透の両腕から手を離した。

「悪かったな、邪魔をして」

「ううん、気にしてないから」

 透は亘の視線が向いていた先を辿り、塗り途中の絵を見ると、ほんのりと頬を染めた。

「でも…まだ、完成、してないから」

「出来上がったら、ちゃんと見ていいんだな?」

「うん。だって、まだ、恥ずかしいから」

 透は体をずらすと、画板を背中で隠してしまった。亘は、ちょっと可笑しくなった。

「どこがどう、恥ずかしいんだよ」

「だって」

 透は身を縮め、俯いてしまった。亘は顔を綻ばせていたが、透の首筋の細さに気付き、表情を動かせなくなった。
ショートカットの襟足が掛かり、白い肌にうっすらと影を落としている。薄い皮膚の下に、静脈が透けて見える。
 亘は動揺を隠すために立ち上がると、頑張れよ、と言い残して足早に透の部屋を出た。自室に戻り、深呼吸した。
まだ、透の肌の白さが瞼の裏に残っている。消そうと思ってもなかなか消えてくれず、亘は動揺を持て余した。
右手には、透の腕を掴んだ感触もありありと残っている。二の腕は細かったが柔らかく、確かな手応えがあった。
相手は妹だ、と何度も自分に言い聞かせながら机に向かった。平常心を取り戻そうと思い、教科書を広げた。
 透は、部屋を出ていった亘のことが気になっていたが、亘に強く掴まれた右腕に意識を向けてしまっていた。
兄の手の熱さと力強さが、心地良かった。絵の具を絞り出したのに、これでは水彩画に集中出来そうにない。
こんな状態では、上手く色を載せられない。透は軽く火照った頬を押さえながら、ため息を零し、正座を崩した。
どんどん、亘のことが気になっていく。鋼太郎に亘への思いを吐露してからというもの、強まる一方だった。
透は亘の部屋の方を窺っていたが、またため息を吐いた。扉一枚、壁一枚、隔てているだけなのに近付けない。
 近付いてしまったら、いけないのだ。この状態からその先に踏み込んでしまっては、後戻りが出来なくなる。
亘との距離を狭めてしまったら、実行出来なくなる。透は机の上に投げ出してある携帯電話を、じっと見据えた。
あの女は、確実にこちらに近付いてきている。いつか来るのではないかと思っていたが、予想以上に早かった。
八月の終盤に電話をされた時は、あまりのことに取り乱してしまった。おぞましくて、怖くて、怯えてしまった。
だが、いつまでもそうしているわけにはいかない。早く、香苗をなんとかしなければもっとひどいことになる。
百合子の幸せを願うがために自身の恋心を殺した正弘には到底及ばないが、透も頑張らなくてはいけない。
サイボーグ同好会を続けていくためにも、そして、これからも亘と拓郎と一緒に家族として生きていくためにも。

「死ねば、いいんだ」

 あの女が、死にさえすればいい。本当に殺すとまではいかなくても、痛め付けて苦しめて、思い知らせてやる。
透の苦しみも、亘の苦しみも、あの女は知る義務がある。透はペン立てから、金属製のシャーペンを抜いた。
左手を隠している手袋を外し、銀色の手のひらの上にシャーペンを載せた。指を曲げて握り締め、へし折った。
みしみしと軋みながら折れ曲がっていく細い金属の円筒は、くの字になり、それを更に曲げて小さくしていく。
 あの女には力はない。だが、透にはある。フルサイボーグには劣るが、それでも常人以上のパワーが出せる。
このままでは、いつかやられる。あの女にいいように弄ばれて、また日常を乱される。それだけは許せない。
 ぺきっ、と透の手の中でシャーペンが割れた。呆気なく変形したそれは、最早原型など止めていなかった。
いびつな金属塊と化したシャーペンをゴミ箱に押し込んでから、透は携帯電話を手に取り、メールを打ち始めた。
宛先は、   。内容は、鮎野中学校の文化祭の日時を書いただけの短いものだ。送信して、電源を切った。
透は携帯電話を充電器に差し込んでから、込み上げてくる笑みが押さえられなかった。こうすれば、いいはずだ。

「死んでしまえ」

 あの女の腹から産まれさえしなければ、あの女が母親でさえなければ、そうでさえなければどれほど良かったか。
人生の修正は効かない。だが、変更は出来る。今からでも間に合う。いや、今やらなければダメになってしまう。
 せっかく手に入れた幸せな居場所を、あんな下らない人間に壊されたくない。守るために戦わなければならない。
これ以上、あの女に振り回されたくない。これからは、自分の意思で生きるんだ。そのためにも、あの女が邪魔だ。
 だから、死んでしまえ。





 


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