きち、きち、きち、きち。 カッターナイフの刃と本体を繋げているギアが回り、軽い軋みを立てる。平たく鋭利な凶器が、徐々に伸びていく。 折り目が四つほど出たところで、指を止めた。普段は段ボールを解体するために使っている、大振りなカッターだ。 だが、それほど使用頻度は高くないので、切れ味は衰えていない。手元のブロックメモに突き立て、切り裂いた。 呆気なく、刃が飲み込まれていく。ブロックメモの底の厚紙に触れたので、手前に引くと、一気に紙が切れた。 これなら問題ない。透はカッターナイフの刃を引き戻してからネジを締め、固定してから、ポケットに入れた。 スカートのポケットはあまり深くないが、急いで走ったりしなければ、落ちないだろう。透は、うっすらと笑った。 透は通学カバンを背負うと、部屋から出て玄関に向かった。亘はリビングから顔を出し、靴を履く妹の背に言った。 「いってらっしゃい、透」 「いってきます、お兄ちゃん」 振り返った透は、快活に笑った。とんとんとつま先を整えてから、玄関から出ていった。 「透、今日はいやに機嫌が良いな」 亘の後ろに、拓郎が立った。亘は、父親に振り向く。 「今日は文化祭だから、楽しみにしてたんじゃないのかな」 「亘、お前は行くんだろう?」 「父さんは?」 「家にいた方がいいかもしれない。いつ、彼女が来るか解らないからな」 拓郎は、眉根をひそめた。亘は、小さく頷いた。ここ二三日、香苗からの連絡はないがそれが不気味でもあった。 あれほど透に執着していたのに、急に途絶えるのは妙だ。興味が失せたのならそれはそれで、とも思っていた。 だが、相手は香苗だ。何を考えているか解らない。亘は不安だったが、出かける準備をするために二階に昇った。 自室に入る前に、透の部屋の前で足を止めた。透にしては珍しく、元気の良い笑顔だったことが気になっていた。 そんなにいいことがあったのか、と思う反面、今までになかったことだったので違和感を感じずにはいられない。 考えすぎだろうと思おうとしたが、引っ掛かりが抜けない。亘は嫌なものを感じ、透の部屋の扉に手を掛けた。 扉を開けて、最初に目に入ってきたのは正面にある机だった。整然と物が並ぶ中、一つ、異様なものがあった。 教科別に揃えられた教科書、参考書、辞書の手前に置いてあるブロック状の形状のメモが深く切り裂かれていた。 何十枚も重なった紙の断面が見え、切り込みの線は少々曲がっている。亘の胸中に、冷たいものが落ちた。 透は、直前までこの部屋の中で何をしていたのだ。亘の知らない間に、透は一体何を考えていたというのだ。 亘は息を詰めながら、足を前に進めた。すると、つま先が何かを踏んだ。見下ろすと、細かな紙片が落ちている。 それは、写真だった。細切れにされているので最初は何の写真かは解らなかったが、よく見ると判別が付いた。 長い髪、色白というより青白い顔色、赤いランドセル、短いスカート、笑顔になり切れていないはにかんだ表情。 小学生の頃の透の写真だった。その背後に映っている母親、香苗は、特に細かく徹底的に切り刻んである。 亘は屈み込み、写真の紙片を拾った。透がこの写真を刻んでいる様を想像した途端、背筋が一気に逆立った。 「透…」 あの笑顔の意味を、考えることすら怖かった。亘が呆然としていると、突然ポケットの中で携帯電話が震えた。 フリップを開くと、メールが受信されていた。亘は急いで操作してメールを開き、その文面に目を剥いた。 件名:ごめんなさい あの女を、文化祭に誘き寄せました。ごめんなさい。 でも、お兄ちゃんにも、お父さんにも、絶対に迷惑は掛けません。 私一人でなんとかします。 透からのメールだった。亘は、何度も目を動かして文面を読み直した。簡潔だからこそ、余計に末恐ろしくなる。 妹は、何をするつもりだ。亘は透の部屋から出て階段を駆け下りて台所に入り、棚の引き出しを開けていった。 三つ目の引き出しを開けて、中に入っているハサミやサインペンを掻き回して探ってみたが、あれだけがない。 念のために他の引き出しも開けたが、なかった。尋常ではない亘の様子に、拓郎は不安げな顔で近付いてきた。 「どうしたんだ」 「父さん、カッターは?」 亘は、緊張で乾いた唇を舐めた。いや、と拓郎が首を横に振る。亘は、引き出しをそっと押し込んだ。 「透が、持っていったんだ」 「…透が?」 訝しげな拓郎に、亘は携帯電話を開いて透からのメールを見せた。 「透を、止めないと。何をしようとしているのかなんて、考えたくもないけど」 携帯電話を持った手を下ろし、亘は悔しくなってきた。透が全てを背負う必要など、どこにもないはずなのに。 今度こそ守ってやると決めたのに、逆に透が守ろうとしている。それも、絶対にやってはいけない手段を使って。 なんとしても止めなければ。亘は透の携帯電話を何度となく呼び出したが、電話もメールも通じなかった。 電源を切っている。亘は携帯電話をポケットに押し込むと、玄関に向かった。どうしようもなく、嫌な予感がする。 重たい不安が、大きくなってくる。 教室の中には、展示物が並べられている。 美術で製作した粘土細工や技術家庭で製作した見栄えの悪い機械が、四角に並べた机の上に置かれている。 どこの教室も、そんな感じだった。露店のような派手なことはなく、イベントの類は三時間目以降に集中している。 そのイベントも吹奏楽部や学年ごとの演奏でしかなく、大したことはない。それでも、生徒達は浮かれている。 今日一日授業がないことによる開放感で、明るく言葉を交わしている。三人は、その様子を遠巻きに眺めていた。 二階の教室棟と専門棟を繋ぐ渡り廊下に、立っていた。演奏が始まるまで、特にやることもないからだった。 正弘、鋼太郎、百合子は誰一人として文化祭の実行委員会のメンバーではないから、ということもある。 だから、暇を持て余していた。正弘はスラックスのポケットに両手を突っ込み、窓際の壁にもたれていた。 「透はどうした?」 「朝は見たんすけど、それからはさっぱり。どこにいるか、よく解らないんすよ」 正弘の隣に立っている鋼太郎は、肩を竦めた。百合子は、二人を見上げる。 「透君、探しに行く?」 「いや、探すほどのことでもないだろう。演奏会の時に会えるさ」 正弘が言うと、鋼太郎は頭の後ろで手を組んだ。 「そうっすよね。どうせ、全員が体育館に集まるんすから」 「だね」 百合子は頷いた。ちょっと背伸びをして、窓からグラウンドと校舎前に駐車されている保護者の車を見下ろした。 セダンやワゴンといったファミリーカーが多かったが、土地柄、軽トラックもある。なんとなく、それらを見ていた。 その中に、黒のセダンがあることに気付いた。つい最近、同じものを見たような気がするが、思い出せなかった。 「何か面白いものでもあるのかよ?」 鋼太郎は百合子の後頭部を押さえ、百合子に倣ってグラウンドに向いた。百合子は、上目に彼を見上げる。 「んー、別に」 鋼太郎は手のひらに伝わってくる百合子の体温を感じ、少し戸惑っていた。自分からしたことなのに、照れる。 かといって、急に手を離すのもわざとらしいのでそのままにした。百合子は、鋼太郎から目を逸らしてしまう。 嬉しいのだが、急に触れられると反応に困る。何か言おうと思ったが、タイミングを逃して口籠もってしまった。 正弘は複雑な気持ちで二人の背を見ていたが、気を紛らわすためにグラウンドに目線を落とし、ふと気付いた。 「あの車…」 「やっぱり、なんかあるんすか?」 鋼太郎が正弘に聞き返すと、正弘は鋼太郎の肩越しにグラウンドに駐車している黒のセダンを指した。 「あの黒い車、見覚えがないか?」 「確か、あれと同じ車種のやつがグラウンドの傍に止まってたっすね。木曜日と金曜日に」 それがどうかしたんすか、と鋼太郎は正弘に向いた。正弘は、窓枠に寄り掛かる。 「透が見ていたよな」 「うん。見てた。もしかしたら、透君の知り合いの人の車なのかな」 百合子は鋼太郎の手の下から、二人を見やる。正弘は仮説を口に出そうとしたが、人影を見つけて止めた。 鮎野中学校文化祭、と書かれた看板が掛けられている校門に、かなり急いだ様子で自転車が突っ込んできた。 ブレーキを鳴らしながら停車し、降りたのは亘だった。亘はグラウンドの駐車場を見ていたが、動きを止めた。 表情は窺えないが、様子がおかしいように思えた。亘は携帯電話を取り出すと、慌てながら操作している。 三人が顔を見合わせていると、百合子の携帯電話が鳴った。着信メロディーは、近頃流行っている曲だった。 「はい」 百合子が電話を受けると、息が上がった亘の声が聞こえてきた。 『白金さん、あの、透は?』 「透君はいませんよ。鋼ちゃんとムラマサ先輩はいますけど。ちなみに、私達は渡り廊下のところにいますよ」 百合子が言うと、亘は振り返って片手を挙げた。鋼太郎と正弘は軽く頭を下げて、それに返す。 『悪いんだが、透を探してくれないか?』 「透君が、どうかしたんですか?」 百合子が尋ねると、亘は言葉に詰まった。 『なんでもない。でも、なるべく早い方がいいんだ』 それじゃ、と荒っぽく電話は切られた。亘は校舎に向かって急いで駆け出すと、昇降口に入っていった。 百合子はぱちんとフリップを閉じ、ポケットに戻した。正弘はポケットから両手を出すと、二人を見下ろす。 「透に、何かあったのは間違いなさそうだ。オレ達も透を捜した方が良さそうだな」 「でも、捜すって言ったって、学校の中も結構広いですよお」 百合子が眉を下げると、正弘は指先でアンテナを小突いた。 「任せておけ。オレには対サイボーグセンサーが搭載されているんだ、すぐに見つけられる」 「ああ。だから、ムラマサ先輩は、オレ達よりも先に透を見つけたんすか。四月の時の話っすけど」 と、鋼太郎は納得した。正弘は、側頭部を軽く叩く。 「まぁ、そういうことだ。オレは将来自衛官に、サイボーグ部隊の戦闘員になることが決定されているから、センサーの扱いにも慣れておく必要があるんだ。だから、センサーを二三種類搭載することが義務付けられていて、対サイボーグセンサーもそのうちの一つなんだ。といっても、民間用のセンサーだから出力が弱い上に、サイボーグのシリアルナンバーまでは教えられていないから、センサーで発見してもそれが誰なのかまでは解らない。だが、学校の中にいるサイボーグは限られているから、消去法で考えればそれが誰だか判別は付けられる」 正弘は左手首の装甲を開いて、その中から細めのケーブルを引っ張り出すと、鋼太郎に差し出した。 「鋼。こいつを、お前のインターフェースに繋いでくれ。そっちにも映像を流し込んでやる」 「あ、すんません」 鋼太郎は正弘のケーブルを受け取ると、袖を捲り上げて左手首を出した。外装を開かせ、ジャックを出した。 正弘の外部接続用ケーブルを差し込み、補助AI同士をリンクさせて感覚を繋げる。数秒間、ラグがあった。 双方の補助AIが通信作業に支障がないことを、確かめていたからだ。その作業が終わると、データが訪れた。 正弘のボディに内蔵されている対サイボーグセンサーが感じ取った映像が、鋼太郎の視覚一杯に広がった。 黒い画面にグリーンのラインの円が描かれ、罫線が引かれている。受信範囲は、半径一キロに設定されている。 正弘を中心にしているので、中心点の傍には光の点が二つ点滅している。恐らく、これが鋼太郎と百合子だ。 それから多少離れた位置で、もう一つの光が点滅していた。距離はそれほど遠くではなく、校舎内のようだ。 これが、透なのだろう。鋼太郎はレーダー画面の見方はあまり解らなかったが、その性能に素直に感心した。 「便利っすねー、これ」 「本来の使用目的は、戦闘時に敵と味方の区別を付けるためと、災害現場での救助活動を迅速に行うためのものらしい。守備範囲は意外と狭くて、半径五キロが限界なんだ。だけど、他のセンサーに比べれば操作方法が簡単だから、使い勝手がいいんだ」 視界をレーダー画面に切り替えているので、正弘はあらぬ方向を見ている。百合子は、二人に問う。 「それで、透君がどこにいるか解ったんでしょ?」 「一応な。この距離と高低差から考えると、たぶん、専門棟の三階にいる」 正弘が言うと、鋼太郎が続けた。 「だから、理科室か技術室か音楽室、ってところだな」 「じゃ、行こう!」 百合子の声に、正弘はセンサーを切って視覚を元に戻した。鋼太郎も視覚が元に戻ったので、顔を上げた。 一足先に三階に向かう百合子を、鋼太郎が追う。正弘は二人から一歩遅れて歩きながら、透のことを考えていた。 一年生の教室に飾ってあった透の水彩画は、飛び抜けて色合いが美しかった。光も多く、木々の葉が輝いていた。 前に見せてもらったデッサンも良かったが、色が載ると更に良くなる。透の画力が、羨ましいとすら思っていた。 専門棟の三階にやってくると、しんと静まっていた。下の階の騒がしさからは遠ざかり、薄気味悪くもあった。 正弘は、九月の中旬頃に見た透の冷え切った眼差しを思い出した。彼女も、ああいった攻撃的な顔をする。 悪いことはいつまでも続かない。終わる。その代わりにとてもいいことがある。そうでないと割に合わない。 そう言った時、透はどこかを睨んでいた。誰かへの明確な敵意を宿した瞳の色は、いつになく暗く深かった。 そのことと、今回のことには何か関連があるのだろうか。正弘は考えようと思ったが、中断し、周囲を見回した。 下手に考えるよりも、透を見つける方が効率が良い。先を行く二人は、音楽室と理科室を覗き、首を横に振った。 ならば、残るは技術室だ。正弘が二人よりも先に行こうとすると、突き当たりにある技術室の中から音がした。 軽く笑みを含んだ、声もした。 07 1/6 |