非武装田園地帯




第二十一話 私闘



 きちきちきちきちきち。
 カッターナイフの刃が、薄明かりを撥ねる。透は技術室の奧に追い詰めた人間を見据えて、一歩踏み出した。
虚勢を張っているが、怯えは隠せない。久々に会った母親、香苗は以前にも増して、化粧が濃くなっていた。
年齢と共に弛んでくる皮膚の衰えを隠すために、色のきついものばかりを塗っているが、全く隠れていなかった。
服装も四十代にしては華やかだったが、似合っていない。それどころか、服装とのギャップで年齢が更に目立つ。
いつまでも若いつもりでいるようだが、現実は違っている。それを知ろうともしない女が、とても哀れに思えた。

「捨てなさい、そんなもの!」

 香苗の引きつった叫びは、透の耳を上滑りした。

「うるさい。黙れ。死んでしまえ」

 誘き出すのは、とても簡単だった。保護者に紛れて校舎に入ってきた香苗に従い、言われるがままに動いた。
香苗も透に対して腹積もりがあるようだったが、どうでも良かった。この女さえ死ねば、関係ないのだから。
お母さんは私に話があるんでしょう、と言うと香苗は胸の悪くなるような笑みを浮かべ、にやつきながら頷いた。
丁度良い場所を知っている、と透は香苗を技術室に連れてきた。透が、何も考えていないと思っていたのだろう。
 いつもそうだ。香苗は透を物扱いする。透には意思がないかのように振る舞って、下らない命令ばかりした。
本来は香苗がやるべき家事を透に押し付けて、連れてきた男の相手も透にさせて、挙げ句に手込めにされた。
香苗の体調が悪い時や機嫌が悪い時は、透はおもちゃにされた。そういう日は、決まってスカートを着せられた。
最終的には、着ていたものを全部脱がされていた。男の脂ぎった笑みと香苗の冷たい目が、忘れられなかった。
 それ以外にも、ろくでもないことばかりをされた。目の前に刃物を投げ捨てられて、死になさいよ、と言われた。
狭いアパートのベランダに放置されたこともあった。描き上げたばかりの絵を目の前で破られたこともあった。
仲良くしてくれたクラスメイトに、訳の解らない悪口を吹き込んだ。遠足や運動会の弁当は、自分で作った。
給食費を払ってくれなかった。アサガオの鉢植えを捨てられた。ランドセルを蹴られた。メガネを割られた。
 全て、この女さえいなければなかったことだ。この女さえ存在しなければ、そんな目には遭わなかったのだ。

「死んでしまえ」

 この女が滅びるのかと思うと、気分が高揚する。透は、自分が笑っていることに気付かなかった。

「なんなのよ、あんた…」

 香苗は、声が震えていた。透は表情こそ笑っているものの目には一切の感情がなく、かなり異様だった。
上手く行くと思っていた。考えた通りに、今度こそ思い通りに出来ると思っていたのに、なぜこうなるのだ。
サイボーグ用の生命保険は、全て揃っていた。後は透に命令してサインをさせ、診断書をもらうだけだった。
 一年半ぶりに会った透は、変わっていなかった。おどおどしていて、意思が弱くて、表情も頼りなかった。
香苗の姿を見つけた時には怯えたように顔を引きつらせたが、笑ってきた。お母さん、と細い声で言った。
透が香苗のご機嫌取りをする時にする、あの笑みだ。幼い頃と変わらず、加虐心を煽り立てるほど頼りない。
 弱々しくて曖昧で、我のない表情。香苗にあまり懐いてくれなかった亘とは違い、透は香苗に従い続けていた。
それが子供なのだと、親の命令には従うものだと躾けてきた。そうしなくては、こんな娘は役に立たないからだ。
利用価値を見出したのだから、透はそれに従うべきなのだ。自分の腹から産まれた存在は、自分のものなのだ。
生かすも殺すも、香苗の自由になるはずだ。だが、目の前の透は仁王立ちし、カッターナイフを掲げている。

「あんたなんか、生きているべきじゃない」

 透の態度は硬く、毅然としてすらいた。

「だから、死ね」

「あんたこそ死になさいよ、あんたなんかいなきゃ良かったのよ!」

 香苗が喚いても、透は動じない。

「黙れ」

「死に損ないのくせに」

「邪魔をするな」

「邪魔なのはあんたの方よ、透。そんなもの持ったぐらいで、いい気になるんじゃないわよ」

 透の表情が、僅かに変わる。香苗は透との距離を開いたが、壁に阻まれてそれ以上後退出来なかった。

「サイボーグなんかと連んでるみたいだけど、死に損ないのあんたには丁度良いわ。機械のくせして人間みたいな顔してる連中なんて、気持ち悪いだけよ」

 透は、カッターナイフを左手に持ち替える。

「お前みたいなクズに、皆のことを言ってほしくない」

「クズって言うのはね、あんたみたいな役立たずのことを言うのよ」

 香苗は、精一杯の虚勢を張った。透はすうっと目を上げると、香苗との間を詰めて、左腕を振り上げた。

「死ね!」

 どぅん、と壁が揺れた。左手に握られていたカッターナイフが、香苗の背後の掲示板に深く刺さり、折れた。
間近に迫る透の顔は、血の気が失せている。香苗の面影は薄く、どちらかと言えば、相手の男に似た顔立ちだ。
カッターナイフを持った左手を下げ、透は折れた分だけ刃を出した。耳元で、きちきちきち、とギアが鳴る。
 唐突に、技術室の扉が開け放たれた。反射的に香苗がその方向を見ると、透と一緒にいた三人が入ってきた。

「透…」

 一番最初に入ってきた正弘が、透の手にしているものを見て絶句した。続いて、鋼太郎と百合子が入ってきた。

「あっ、危ないよそれ!」

 百合子が慌てながら叫ぶ。鋼太郎は、透の血の気の失せた無表情な顔を見た途端、寒気を感じた。

「何、しようとしてたんだよ…」

 透は体を動かさずに、三人を見やった。その体の下では、派手な格好をした中年の女が真っ青になっている。

「邪魔をしないで下さい」

 透は、薄く笑う。

「いらないものを片付けるだけです。それだけだから」

 再度左腕を振り上げた透に、百合子が駆け寄った。細い腰にしがみ付いて、女との距離を離そうとする。

「ダメだってば、透君! 刃物はいけないよ、刃物だけは!」

「だって、いらないんだもの」

「でも、ダメだよ、そういうことだけは!」

「いけなくても、しなきゃならないんです」

 透はカッターナイフを握り締め、顔を歪める。

「せっかく幸せになったのに、普通の暮らしが出来るようになったのに、友達だって出来たのに、それなのにお前はまた私の邪魔をする! 死ねばいいのは私じゃなくてお前だ! なんで私は、お前の腹から産まれてきたんだ! そうでさえなければ、こんなことにはならなくて済んだんだ! 全部全部、お前のせいだ!」 

 透の荒々しい激昂が、技術室に響き渡る。その言葉に、百合子は透と向き合っている中年の女を見やった。

「それじゃ、この人が、透君の」

「透!」

 女と透の間に割り込んだ鋼太郎は、透の左腕を押し上げた。固く握られた指を広げ、カッターナイフを奪う。

「お前、自分が何しようとしてたか解ってんだろうな!?」

「当たり前だ! 今、この女をどうにかしなきゃダメなんだ!」

 透は鋼太郎の手を振り解こうとするが、出来なかった。鋼太郎は、奪ったカッターナイフを床に投げ捨てる。

「殺したって、どうにかなるはずねぇだろうが! 余計、悪くなっちまうに決まってんだろ!」

「それでもいい!」

 透は、上擦った怒声を鋼太郎に浴びせる。

「お兄ちゃんとお父さんに、これ以上迷惑を掛けたくないんだ! だから離して!」

「悪いが、離してやれねぇな。今、手を離しちまったら、透は犯罪者になっちまう」

 鋼太郎は、焦燥感を漲らせた目で睨んでくる透を見下ろした。百合子は、透の薄い背に縋り付く。

「透君。すっごく、辛かったんだね」

「それに」

 正弘は携帯電話を閉じてポケットに入れながら、透に近付いてきた。どこかに、電話を掛けていたようだった。

「最近の少年法は厳しいぞ。未遂で終わるにしても、最低でも十五年は鉄格子の中だ。オレも、それは嫌だ」

「透君。ごめんね、私達、あんまり役に立てなくて。こんなになるまで、気付いてあげられなくて」

 ごめんね、と繰り返しながら百合子は透の背に顔を埋めた。鋼太郎は、透の左手を下げさせる。

「そりゃ、オレらは頼りがいなんてねぇかもしれねぇけどさ。それでも、話ぐらいは聞いてやれるぜ?」

「こんなところで人生を棒に振るのは馬鹿げてると思わないか、透」

 正弘は、穏やかに言った。透は、震える唇を噛み締めた。急いだ足音が、技術室に近付いてくるのが聞こえた。
さっき電話したんだ、と正弘は開け放した扉に向いた。駆け込んできた亘は、透と香苗の姿を認めて目を見開く。

「透…」

「亘! あんた、こいつを早く連れていってよ! こいつ、私を殺そうとしたのよ!」

 香苗は金切り声を上げ、透を指す。だが、亘は香苗の存在を無視して三人に囲まれた透に近付いていった。
透は亘を見、身動いだ。亘は右手を挙げ、振り下ろす。ぱぁん、と乾いた音が鳴り、透の顔が逸らされる。
 張り飛ばされた頬が、次第に赤らんでくる。透は、鋼太郎に掴まれていない右手で、恐る恐る頬に触れた。
熱い痺れが頬全体に広がり、重たくなる。頭が殴られた事実をちゃんと受け止めるまで、少し間があった。
亘に殴られたのだ、と自覚するとじわじわと痛みが起きた。独りでに目元に涙が滲み、視界がぼやけてきた。

「帰るぞ、透」

 悪かったな、と亘は鋼太郎の手から透の左手を外させて百合子を引き剥がし、透の肩を抱いて歩かせた。
亘から殴られたことで透は呆然としているらしく、抵抗らしい抵抗もしないまま、技術室から出ていった。
 張り詰めていた空気が、ほんの少し緩んだ。正弘は床に落ちている、透の得物であるカッターナイフを拾った。
透の左手の形に合わせて、柄のプラスチック部分が完全に変形している。余程、強く握り締めていたのだろう。

「…子供のくせに」

 香苗が、憎らしげに呻いた。

「大人に逆らうんじゃないわよ」

「くっだらない」

 百合子が、さも嫌そうに顔をしかめる。

「自分のことだけなんだ。超最低」

「ゆっこ、さっさと行くぞ。相手にしたって、どうしようもねぇ」

 鋼太郎は香苗に背を向けて、百合子を急かした。百合子は、鋼太郎と連れ立って廊下に向かう。

「そうだね。あんまりのんびりしてると、演奏会に遅れちゃうもんね」

正弘は、壁の前に座り込んだままの香苗を見下ろした。まだ足腰が立たないらしく、立ち上がるそぶりも見せない。
額に脂汗が滲み、化粧が崩れている。正弘が歩き出そうとすると、香苗の覇気のない文句が投げかけられた。

「この死に損ない! あのクソガキにはあんた達みたいな木偶の坊が丁度良いわ。友情ごっこなんて笑えてくるわ。傷物同士、せいぜい傷の舐め合いをしてりゃいいのよ」

「だから、どうした」

 正弘は、静かに振り返る。

「それ以外に、言うことはないのか」

 まだ何か言われた気がしたが、無視して技術室を出た。正弘は、階段付近で待っていた二人と合流した。
亘に連れられた透は、先に降りていったようだった。鋼太郎と百合子は何も言わずに、正弘と共に階段を下りた。
二階の踊り場で、百合子が立ち止まった。鋼太郎と正弘が立ち止まると、百合子は涙を拭って顔を上げる。

「あれで、良かったのかな」

「さあな。けど、オレらにはあれくらいのことしか出来ねぇよ」

 鋼太郎は悔しげだった。正弘もまた、鋼太郎と同じ心境だった。

「オレ達は、透の辛さを全部解ってやれない。透が隠している以上、理解しようがない。やるせないけどな」

「明日さ、代休だよね?」

 百合子は、明るく笑う。

「せっかくだから、透君ちに遊びに行こうか!」

「そうだな。それぐらいしか、出来ないんだ。それに、こいつも返してこないとな」

 正弘は、スラックスの布越しにカッターナイフを軽く叩いた。鋼太郎は頷く。

「そうっすね」

 力になりたい。だが、どうやれば助力になるのかが解らない。だから、普通に接することぐらいしか出来ない。
透は大事な友達だと、掛け替えのない仲間だと示してやることぐらいだ。それ以外に、思い浮かばない。
何も犠牲にする必要などない。失っていいものなどどこにもない。鋼太郎は、透の左腕の感触を思い出した。
 透が手を汚す前に見つけられて、本当に良かった。鋼太郎を撥ねた運転手の妹、寺原楓の表情が脳裏に蘇る。
一瞬の過ちで、傷付けた側も傷付けられる側も深い傷を負う。その相手が、どれほど憎い相手であろうとも。
正気に戻った後、最も苦しむのは誰でもない透だ。たとえ負わせた傷が小さくとも、透にとっては大きい。
 鋼太郎は、透を躊躇いもなく殴った亘に羨望を抱いた。愛しているからこそ、ああいうことが出来るのだ。
あれでこそ兄だ。透が亘に惚れてしまうのも、無理のない話だ。以前であれば、亘に嫉妬心を抱いただろう。
だが、今はもうそんな気持ちにはならない。透に対する恋心は完全に消えたのだと、鋼太郎は改めて自覚した。
正弘から透の真意を知らされた時から、そして、透自身から断られた時から、徐々に恋心が薄らいでいった。
透は鋼太郎ではなく、鋼太郎に重ねた亘を見ていた。それを知ってしまうと、彼女の笑顔に動揺しなくなった。
鋼ちゃんと呼ばれても、意識しないだろう。透が特別な存在であることは変わりないが、それは友人としてだ。
 いや、最初からそうだったのだ。鋼太郎が変に舞い上がってしまったせいで、思い違いをして淡い恋をした。
その思い違いに気付いて、本当に見ている方向にも気付いたから、気持ちの向く先もあるべき方向に戻った。
 だがそれが、少しだけ寂しい気もした。





 


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