手袋を外した左手を、見つめていた。 左頬が火照り、鈍い痛みがあった。心身共に疲労を感じていたが、神経が高ぶっているので眠くならなかった。 まだ、部屋の中には父親の言葉が残響している。声を荒げることはなく、だが、感情的に透を叱ってきた。 透はそれを、他人事のように聞いていた。自分があんな行動を取ったことが信じられず、実感がなかった。 後から考えれば、カッターナイフを持ち出して切り掛かることは、いけないことであり恐ろしいことだと認識出来る。 だが、あの時はそうではなかった。そうするべきだと確信していて、迷うことなくカッターナイフを握った。 魔が差した、と言ってしまうのは簡単だ。長年の憎しみの表れだと、復讐だったのだと言ってしまえば解りやすい。 けれど、そうではない。透はぼんやりとしながら、腫れを冷やすために湿布を貼り付けた左頬にそっと触れた。 目覚まし時計の秒針が細かく動く音だけが、部屋を満たしていた。すると、廊下から足音と気配が近付いてきた。 扉が叩かれ、開かれた。申し訳なさそうな顔をした亘が顔を覗かせたので、透は目だけを動かして兄を見上げた。 「お兄ちゃん」 「透。いいか?」 「うん」 透が生返事をすると、亘は部屋に入ってきた。畳に座り込んでいる透の前に、座る。 「ごめんな」 亘は手を伸ばし、妹の白い湿布を貼り付けてある頬に触れた。透は何も言えずに、目を伏せた。兄は悪くない。 悪いのは、自分自身なのだ。理由はどうあれ、人として越えてはいけない一線を越えてしまおうとしたのだから。 それを引き留めてくれた、鋼太郎と正弘と百合子、そして亘が謝る理由はない。だが、何も言えなかった。 冷静になると、後悔の念が押し寄せてくる。カッターナイフを振り上げたという事実が、心を躙り潰してくる。 そして、別の意味での後悔も生まれる。黒く濁った感情が、切り裂いてしまえば良かったんだと囁いてくる。 目を逸らしてしまいたい。しかし、全て自分なのだ。左手には、カッターナイフを振り上げた感触が残っている。 「迷惑を掛けたくない、って言ってたんだな」 正弘から聞いたんだ、と亘は付け加えた。透の瞳からは光が失せていて、魂が抜けたような顔をしている。 ぎち、と透の左手の指先が僅かに軋んだ。亘は、微動だにしない妹を見つめながら泣き出したくなっていた。 今度もまた、ダメだ。透のために何かしてやりたいと思っていたのに、行動に移す前に透は限界を迎えた。 どうして、上手く行かないのだろう。血は一切繋がっていないが、亘にとっては透は世界一大切な妹だ。 左腕を失って泣き腫らす透を、守ってやらなければならないと誓った。左腕を失わせた責任を取りたかった。 あの日、亘が一緒に帰ろうなどと言わなければ、透はこうはならなかった。贖罪らしい贖罪は、出来ていない。 だから、罪を償うためにも透に尽くしてやりたかった。心の支えになれたら、と思い傍にいることを心掛けた。 いつのまにか、驕っていたのかもしれない。透の笑顔が戻ってきたから、もう大丈夫だと心のどこかで慢心した。 その結果、透の異変にも香苗の影にも気付けなかった。胸に鉛が詰め込まれたかのような、重みが生じてくる。 鬼気迫る形相で、香苗に向けてカッターナイフを振り翳す透を止めるために手を上げたことも、後悔していた。 殴った瞬間は、覚えていない。ただ、どうにかしなければ、と気持ちばかりが急いていて体が勝手に動いたのだ。 動揺していたから本気ではなかったが、それでも透には痛かったはずだ。亘は、透の冷たい左手に手を重ねた。 「透」 兄の手の感触は伝わってこないが、温かいことは解る。透は顔を上げられず、兄の手の甲をじっと見ていた。 どうして怒らないのだろう。透を、馬鹿だと責めることすらしない。いつもいつも、亘は透に優しすぎる。 透を壊れ物のように扱って、笑顔を向けて、左手に触れてくる。その優しさが厚く、温かく、時に息苦しい。 こういう時ぐらい、罵倒したっていい。お前には幻滅した、あんな馬鹿をやるなんて、と言われても構わない。 むしろ、今度ばかりはそうなるだろうと覚悟していた。なのに、兄は何も言わない。だから、やるせなかった。 ますます、後悔が深くなる。こんなに優しい人を、お兄ちゃんを守りきれなかった。あの女を殺せなかった。 香苗さえ存在しなければ、兄の優しさに息苦しさは感じないのに。香苗がいるせいで、透は妹になり切れない。 いつか必ず、香苗は透を迎えに来る。金をせびりにやってくる。難癖を付けて、利用しようと企んでくるはずだ。 そして、遠からず透は香苗の元に連れ戻されるだろう。いらないと言いつつも、香苗は透に執着心を持っている。 亘の妹でいられる日々には、終わりがある。そう思うからこそ、妹という存在になることに躊躇いを感じてしまう。 いつか終わってしまうのだから、必ず潰えてしまう日々だから、完全な家族になれないと最初から解っているから。 亘と拓郎から愛情を示され、家族の一員として振る舞っていても、ごくたまに違和感や疎外感を覚えてしまう。 今回のようなことがあると、それは一層強まってくる。香苗さえ切り捨ててしまえば、躊躇ったりはしないのに。 これから先も、必ず香苗は現れる。そのたびに山下親子に迷惑を掛ける。それを阻止しなければならない。 亘と拓郎のためにも、排除する必要がある。なのに、出来なかった。香苗の胸倉に、刃を振り下ろせなかった。 挙げ句の果てに、亘と拓郎だけでなくサイボーグ同好会の三人にも迷惑を掛けた。本当に、どうしようもない。 「お兄ちゃん」 透は兄を見ることもなく、呟いた。 「中学校を出たら、この家を出るね。私がいなくなれば、お兄ちゃんにもお父さんにも、迷惑は掛からないから」 「馬鹿っ!」 亘は反射的に、声を荒げた。透の両肩を掴んで、向き直らせる。 「透、お前が出ていく必要なんてない!」 「だけど」 透は、兄の眼差しから顔を逸らした。亘は透の右頬を掴み、強引に向き合わせる。 「自分一人で、なんとかしようとするな! あの人のことは、オレと父さんにとっても問題なんだ! なんでいつまでも遠慮するんだよ、透が妹になってもう六年も経つんだぞ、家族じゃないかよ!」 「違う!」 透は亘を睨み、叫んだ。燻っていた感情が、迸る。 「私は家族なんかじゃない! 家族になんかなっちゃいけないんだ! 私がいる限り、あの女が現れるんだ! 私がいるからこうなるんだ! 誰にとっても、いらないんだ! 私がいると悪いことしか起きないんだ! 私はお兄ちゃんにもお父さんにも何も出来ない、どれだけ優しくしてもらっても一つも返せない! だから、あの女を始末するぐらいしか出来ないんだ!」 「馬鹿なことばっかり言うんじゃねぇよ!」 亘は力任せに透を引き寄せ、細い体を抱いた。この体の中に、どれほどのことを溜め込んでいたのだろう。 それを考えただけで、無力感に苛まれる。亘は、遂に堪え切れなくなって滲んできた涙を手の甲で拭った。 「透は必要なんだ、少なくともオレにとってはな!」 妹が出来た日。初めて兄となった日。自分の手より遥かに小さく柔らかい手が、頼るように掴んできた時。 素直に受け止めてしまえないほど、嬉しかった。揃って小学校から帰れるというだけで、無性に誇らしかった。 母親から見放された心細さから泣く妹が、とても哀れだった。ちょっとしたことで笑ってくれる妹が、愛おしかった。 機械の腕を持つようになっても、カッターナイフを振り上げても、妹は妹だ。この世でただ一人の、山下透だ。 「何も返さなくていい。もらっておけばいい。今まで、もらおうとしなかったじゃないか。だから、いいんだ」 亘は透の短い髪を、懸命に撫でた。 「だけど、あの女が、あの女が」 亘の肩に顔を押し当てた透が、うわごとのように繰り返した。亘は、透を抱く腕に力を込める。 「オレも、一緒に闘ってやる」 透、と優しい声で囁かれ、透は震える顎を食い縛った。だが、少しも堪えられず、だくだくと涙が頬を伝い落ちる。 気付いたら、声を上げて泣いていた。兄の体に縋って背中に爪を立て、訳が解らなくなるくらいにひたすら泣いた。 泣いている間は、香苗のことなど忘れていた。涙と一緒に黒く濁った感情も流れ出し、いつしか薄らいでいた。 亘の腕は緩まない。透を支え、守るかのように力強い。ずっとこのままでいたいと思ってしまうほど、温かい。 ずっと、求めていた。だが、求められなかった。けれど、もう求めても良いのだ。透は泣きながら、兄を求めた。 兄の温度と、そして、兄の愛情を。 翌日。透の部屋には、三人が訪れていた。 部屋の真ん中に置かれたテーブルの上には、パネル部分にカッターナイフを突き立てられた携帯電話があった。 液晶画面にも深い傷が付けられていて、内部の基盤が覗いている。バッテリーも壊したようで、液も漏れている。 凶器は昨日と同じもので、持ち手にはくっきりと手形が残っている。それを見下ろす透は、にこにこしていた。 三人は、恐る恐る顔を見合わせた。カッターナイフを持ってきた正弘は、居たたまれなくなって身を縮めた。 今日は月曜日で、文化祭の代休である。百合子の提案で三人で揃って山下家を訪ね、透の部屋に通された。 正弘が、昨日透が振り回していたカッターナイフを返したところ、透はおもむろに自分の携帯電話を破壊した。 右手よりも力の出る左腕で、何の躊躇いもなくざくざくと突き刺した。その様子は、なんだか楽しげだった。 破壊活動の間、三人は何も言えなかった。透らしからぬ過激な行動に、昨日の出来事を思い出したからだ。 話題に出さないようにしようと思っても、あれほど強烈な出来事は忘れられない。だが、彼女を刺激したくない。 だから、黙っていた。破壊活動を終えた透は清々しげな笑顔を浮かべているが、それがまた空恐ろしかった。 十分ほど沈黙した状態が続いていたが、その均衡を破ったのは正弘だった。静かに視線を上げて、透を窺う。 「透。何か、気に障ることでもしたか…?」 「いえ、そうじゃ、ないんです」 透は、つい先程までカッターナイフを扱っていた左手を横に振る。 「考えてみれば、こうするのが、一番なんですよね。電話番号も、メールアドレスも、変えちゃえば、良かったんですよね。最初から、そうすれば、面倒なことは起きなかったんですよ。気付くのが、遅すぎましたね。近いうちに、お兄ちゃんとお父さんの番号と、家の電話番号も、変えますから。だから、アドレスの変更を、お願いしますね」 「まぁ…そうすりゃ、ちったぁ良くなるだろうしな。悪いことじゃねぇよ、うん。たぶんだけど」 鋼太郎は、マスクを引っ掻いた。 「でも、番号を変えるだけだったら、携帯まで壊す必要なんてないんじゃないの?」 百合子が首をかしげると、透は気恥ずかしげに頬を染めた。 「その方が、すっきり、しますから。あ、今までに皆さんからもらったメールとか、アドレス帳とかは、ちゃんとメモリーにコピーしてありますから、全部無事です。だから、大丈夫です」 「普段大人しい人間がこういう言動を行うと、本当に怖いな」 正弘が、しみじみと呟いた。透は眉を下げ、身を縮める。 「あ、え、その、そういうつもりじゃなくて、いっそ壊すんだったら、この方が、いいと思っただけで」 「うん。そういう気持ちは解るなぁー。破壊衝動は快楽に繋がっているもんねー」 百合子は頬杖を付き、笑う。正弘は、百合子に合わせる。 「そうだな」 「で、これ、どうするんだ?」 鋼太郎が壊れた携帯電話を指すと、透は答えた。 「後は、捨てる、だけです。これ以上切り刻んじゃうと、片付けるのが、面倒ですから」 捨ててきますね、と透は携帯電話からカッターナイフを引き抜くと、充電池から漏れた液をティッシュで拭いた。 これ以上漏れないようにするためか、手の上にティッシュを重ねてから携帯電話を持ち、部屋から出ていった。 透の足音が階段を下り、遠ざかっていく。百合子は、透の行動に驚いてはいたが、困惑したりはしなかった。 昨日の凶行の方が、余程凄まじいからだ。多少のわだかまりは残るかもしれないが、そのうち消えることだろう。 透は、やはり透だ。鋼太郎と正弘を窺ったが、二人もそれほど動揺はしておらず、見た目には平然としている。 この様子だと、二人も百合子と同じ考えだと思っていいだろう。そう思うと、なんとなく嬉しくなってきてしまう。 部屋の扉がノックされたが、入ってきたのは亘だった。亘は、昨日のことがあるためか躊躇いがちに笑った。 「昨日は、本当にすまなかったな」 「いえ。オレ達は、気にしていませんから。透は早退扱いになりましたから、安心して下さい。担任と保健の先生には、適当な言い訳をしておいたので」 正弘が返すと、鋼太郎が身を乗り出した。 「んで、透、もう大丈夫なんすね?」 「たぶんな。油断は出来ないけど、きっと、もう大丈夫だ」 亘は、自信はなさそうだったが笑ってみせた。百合子は平たい胸を張り、なぜか威張った。 「そういう時はですね、絶対を使うべきなんですよ! だから、透君も亘さんも絶対に大丈夫なんです!」 「お前なぁ、その自信はどこから来るんだよ」 鋼太郎が呆れても、百合子の自信は削げない。 「根拠なんて後から作ればいいじゃんよー! だから、自信の方を先に付けておくのだよ!」 「オレも、ゆっこの考え方には賛成だな。まぁ、多少楽観的かもしれないが」 正弘が少し笑うと、鋼太郎は首を横に振る。 「多少どころか、宇宙規模で楽観過ぎます。ていうか突っ込んで下さいよ、ムラマサ先輩」 「ありがとう、本当に」 亘は込み上げてくる嬉しさで、頬を緩ませた。百合子は満面の笑みになる。 「だって、私達は透君と友達ですから」 亘はもう一度、ありがとう、と言ってから透の部屋を出た。そこで、階段を昇ってきた透と鉢合わせになった。 盆を持っていて、その上には四人分の茶碗と羊羹が載っていた。亘は擦れ違い様、透の肩を軽く叩いた。 「透。これからも、皆と仲良くしろよ」 「うん」 兄の背に向かって、透は微笑んだ。また、香苗が現れるかもしれない。しかし、透は一人きりではないのだ。 長い間、透一人で闘っていた。折れてしまわないように気張っていたが、心に相当な負担を掛けていた。 母親との闘いは、決して終わらない。香苗の腹から生まれ出た以上、透と香苗の繋がりはそう簡単に切れない。 もしかしたら、一生切れないかもしれない。だが、透は一人ではない。兄がいれば、皆がいれば、闘える。 カッターナイフになど、頼らなくてもいい。その代わり、亘や皆を頼るのだ。もちろん、許される範囲でだが。 透の部屋からは、談笑する三人の声が漏れ聞こえてくる。それだけで心が満ち足りてきて、透は笑っていた。 今日は、皆とどんな話をしようか。 07 1/7 |