もしも、願いが叶うなら。 十一月に入り、季節は秋から冬へと移り変わり始めた。 景色は色彩を失い、空は薄らぎ、雨は冷え冷えとしている。鉛色の空から注ぐ無数の雫が、視界を曇らす。 赤い傘をくるくると回しながら、百合子は歩いていた。手前を行く鋼太郎は、大きな黒い傘を差している。 傘からはみ出している通学カバンはしっとりと濡れ、学ランの肩も雨粒が付着し、艶やかな光沢を持っている。 時折、鋼太郎が振り返る。百合子はそのたびに歩調を早めて鋼太郎の傍に追い付くが、引き離されてしまう。 だから、二人の距離は一向に縮まらなかった。水気を含んだ足音が続き、車道を通る車が泥水を撥ねた。 「あのさ、鋼ちゃん」 百合子は、鋼太郎の背に言葉を投げた。鋼太郎は立ち止まり、振り向いた。 「んだよ」 傘の影の中で、ブルーのゴーグルがほの明るく光を放っている。その光で、湿気を帯びた外装が輝いている。 「あのね」 絶え間ない雨音に掻き消されないように、百合子は心持ち声を大きくした。 「明日っから、検査入院だから」 「どのくらいだ?」 「二泊三日。この間の診察で気になるところが見つかったから、みっちりやるんだってさー」 「どこか悪くなったのか?」 「解らない。でも、調べてもらえばはっきりするっしょ」 百合子の明るい笑顔には、陰りはなかった。鋼太郎は、いつものことだと思う反面、一抹の不安も過ぎった。 彼女が飲んでいる薬の量は、気が付けばまた増えていた。校舎裏で飲み下す錠剤の種類も、三種類になった。 十一月に入る前はきちんと登校していたが、最近は休む日も多くなり、登校してもすぐに帰ってばかりだった。 嫌な想像が頭を過ぎったが、振り払った。鋼太郎は手を伸ばすと百合子の手を取って軽く握り、歩き出した。 「さっさと行くぞ。遅刻しちまう」 「あ…うん」 思い掛けないことに、百合子は反応が遅れた。硬く冷え切った大きな手が、柔らかい手付きで手を掴んでいる。 大きさが違いすぎるので、繋いでいるわけではない。鋼太郎の手が、百合子の手を持っているだけに過ぎない。 思っていた以上に、鋼太郎の手は力強い。百合子は頬が熱くなるのを感じながらも、意識を向けられなかった。 体内に感じる違和感が、日に日に強くなる。それが痛みに変化することもあり、今日もまた少し痛みがあった。 薬で紛らわしていれば動けないこともないのだが、その痛みの領域が増えていくのがとても恐ろしかった。 でも、今は忘れよう。鋼太郎と手を繋げたのだから、そちらに集中するべきだ。百合子は、照れ隠しに笑った。 鋼太郎は、百合子の笑みを見ていたが前に向いた。濡れているせいかもしれないが、彼女の手は冷たかった。 まるで、氷のように。 最初から、良くないとは思っていた。 百合子は、診察室で主治医と向き合っていた。ホロビジョンモニターには、体内の立体画像が表示されている。 前後左右から、胸部と腹部を撮影したものだ。埋め込まれた人造心臓だけは透けておらず、際立っている。 内蔵の周囲に、影がある。それも一つや二つではない。素人目に見ても、普通ではない状態だと解った。 これが、痛みの原因なのだろう。百合子の背後に座っている母親の撫子は顔色を失い、画像を凝視していた。 「百合は、治りますよね?」 撫子が希望を求めるように、主治医に問い掛けた。だが、主治医の表情は曇っている。 「進行が早すぎます。切除したところで、再発してしまうでしょう」 「ですが」 撫子の細い声を振り切るように、主治医は断言した。 「このままでは、持って三ヶ月、と言ったところでしょう」 「三ヶ月…」 百合子は指折り、数えた。 「ムラマサ先輩の卒業式には、出られないってことかなぁ」 数年ほど前から、腫瘍は存在していた。人造心臓の交換手術の際にも、いくつか切除してもらっている。 しかし、全部取りきったわけではなかった。そして、良性ではなかった。ただ、小康状態が続いていたのだ。 薬を使って抑制していたが、それがいつまでも続くわけがない。だが、手術を行おうにも、体力が心許ない。 それでも、今までは悪化しなかった。このままの状態が続き、体力が付けば手術をしようという話もあった。 しかし、百合子の体力が付く前にその均衡が破られてしまった。腫瘍の数は格段に増え、しかも大きい。 道理で、痛みが多くなったと思った。人造心臓を埋め込んだ胸の中心が疼くだけでなく、腹の中が鈍く痛む。 時折鋭利な刃物を突き立てたように鋭くもなるが、薬を飲めば収まっていたので、なんとかなると思っていた。 けれど、今回はいつもとは様子が違う。百合子を見つめている主治医の眼差しには、哀れみが滲み出ている。 覚悟をしろ、ということか。 窓の外では、雨が降っている。 百合子はベッドに横たわって点滴を打たれながら、何も言わない撫子を見ていた。母親は、項垂れている。 今回は、個室に入院した。といっても、大部屋には入院したことがないので、今回もと言うべきなのだろう。 来るべき時が来たのだ、と思っていた。治療のおかげで先延ばしになっていただけで、いつか来ることなのだ。 三ヶ月、と言われても、やはり実感がない。今までにもそういうことを言われてきたが、ここまで生きてきた。 生まれた時に一年も持たないと言われて、三歳になった時に後三年と言われて、それでも十四年も持った。 痛くて辛くて苦しいことばかりだったが、それでも幸せだと思っていた。学校に行けるだけ、まだマシなのだと。 激しい運動は出来ないが歩くことも出来、決して大きくはならないが自由の利く体があり、家族も友人も在る。 それだけで充分だ。それ以上を得ようとしたら、代償が来る。だから、鋼太郎への気持ちを振り切ろうとした。 鋼太郎への恋が叶わないのは、自分が一番理解している。仲の良い友達でいた方が、楽なのだと承知している。 けれど、そこから先を望んでしまう。好きにならないで、と言ったくせに、好きになってほしいと思ってしまう。 鋼太郎は、百合子にとっては憧れの存在だ。世間との接点だからということもあるが、どうしようもなく惹かれる。 際立った取り柄があるわけではない。特別扱いしてくれるわけでもない。だが、いつも、気に掛けてくれる。 見切りを付けてもいいのに、友達でいてくれる。鋼太郎の、普通で当たり前の心遣いが、嬉しくてたまらない。 だから、友達でいたい。そこから先には進みたくない。鋼太郎との関係が変わってしまうのが、怖いからだ。 好きだからこそ、変化を望めない。もしも恋が叶ってしまったら、死を恐れてしまう。朝が来るのが、怖くなる。 友達同士でいるなら、百合子が死んでも鋼太郎の傷は浅くて済むだろう。だが、恋人同士になると訳が違う。 死んでしまえば、鋼太郎は深く傷付く。自分が原因で鋼太郎が苦しむことになってしまったりしたら、嫌だ。 苦しい思いをするのは自分だけでいい。鋼太郎にまで、この痛みを分けたくない。百合子は、深く息を吐いた。 すると、病室の扉がノックされた。扉を開けて入ってきた主治医は撫子を呼び、別室に来るよう、促した。 撫子は立ち上がると、百合子に断ってから病室を出た。百合子は母親と主治医を見送ってから、起き上がった。 昼間に飲んだ薬が弱まってきたらしく、腹部の違和感が重たくなった。その感覚で、肉体の余命を実感した。 手術が出来たとしても、もうダメなのだ。百合子は胸に手を当てていたが、顔を上げ、自分のカバンを取った。 ベッド脇のテレビ台を兼ねたラックの上からショルダーバッグを引っ張り、膝の上に置いてファスナーを開く。 細々とした入院グッズを掻き分けて、底から汚れた野球ボールを取り出した。コウタロウ、と名が書いてある。 「今日は、何してるんだろうなぁ」 枕元の目覚まし時計は、昼休みの時間を指している。今日は雨が降っているので、校舎裏には集合出来ない。 校内にいるのだろうが、どこにいるのかは解らない。百合子は軽い疎外感を感じてしまい、唇を噛んだ。 体さえまともであれば、今日も四人でいられたのに。話したいことも、やりたいことも、いくらでもあるのに。 理不尽だ、と思うと同時に、仕方ない、とも思っていた。自分の身に降り掛かった運命を、受け入れるしかない。 残された時間は三ヶ月だそうだが、それよりも短いかもしれないし、長いかもしれない。その中で足掻こう。 検査の結果が悪かったことは、鋼太郎は当然だが正弘と透にも言わないでおこう。最後まで、隠しておこう。 変に気を遣われるよりも、いつも通りに接してもらいたい。最後まで、サイボーグ同好会の友達同士でいたい。 ボールを握り締めている両手は、子供のようだ。日に当たらないので肌の色は青白く、ちっとも汚れていない。 去年、人造心臓を新しいものに取り替える手術を終えた後に、少しだけ背が伸びた。体重も増えた。成長した。 これからはもっと成長するのだろう、と楽しみにしていたが、体は変わらなかった。それどころか、悪くなった。 せめて月経は始まってほしいと願ったも、何も起きなかった。いつまでも子供のままで、女になどなれない。 子供のままで、死んでいくしかないのだ。せめて年齢だけでも大人になってから死にたかったが、もう遅い。 「馬鹿だよなぁ」 心だけでも大人になりたくて、鋼太郎への気持ちを抑え込んだ。そうすれば、子供ではなくなるような気がした。 だが、何も変わらなかった。鋼太郎と透の関係が変わらなかったことを知って心底安堵して、喜んだのだから。 自分中心に考えて喜ぶなど、大人ではない証拠だ。背伸びをしたところで、元から小さいのだから伸びはしない。 無意識に、左手を開いていた。昨日の登校途中、鋼太郎が手を繋いできたことは本当に思い掛けなかった。 左手に繋いだ鋼太郎の手は大きく硬く、冷ややかで、彼の肉体が人間ではないことを改めて思い知った。 けれど、気持ちは少しも揺れなかった。やはり、鋼太郎のことが好きだ。嫌いになれればいっそ楽なのに。 好きになればなるほど、思えば思うほど、死への恐怖が深まる。死してしまえば、鋼太郎を失ってしまうから。 そして、正弘と透との友人関係も、四人が揃っている騒がしくも楽しい日常も、何もかもが無に帰してしまう。 死ぬことは怖くないと思っていた。いつも傍にあって、最も身近で最も縁の深い脅威だったから、慣れていた。 いや、慣れてしまったのだと思い込んでいた。けれどそれは、思い上がりだ。怖くないことなんてないのだ。 明日が来ないでほしい。時間が進まないでほしい。病室の中だけでも世界が凍り付いてしまえば、死は訪れない。 そして、何も失わないで済む。最初からなかったことになり、百合子の存在もまた、灰になって失われてしまう。 こんなことなら、物心が付く前に、鋼太郎と出会う以前の赤ん坊の頃にでも死んでいれば良かったかもしれない。 その方が、絶対に楽だ。百合子はかすかに泥の匂いがする野球ボールを抱き締めると、雨音に耳を澄ませた。 暗い空から柔らかく降り注ぐ水滴が、窓を伝い落ちる。底冷えするほど冷え込んでいて、窓は結露で曇っている。 「神様なんて」 解りきったことを、口に出した。 「いるわけがないんだよ」 もしも、神とされる全知全能の存在が世界を見守っているなら、もう少しぐらいは不幸を減らしてくれるだろう。 鋼太郎もサイボーグにはならずに、正弘も過酷な過去を背負わずに、透も苛烈な現実を味わわずに済むはずだ。 そして、一つくらいは、百合子の体を治してくれるはずだ。治療した傍から悪くなる体を、良くしてくれるだろう。 だが、何一つ変わらない。無知だった頃は絵本の中の天使や神を信じて願ってみたが、願いは叶わなかった。 おうちに帰れますように。胸が痛くなりませんように。お外で遊べますように。元気に、大きくなれますように。 眠る前に、いつも神様に祈った。けれど神様はその願いを一つも聞き届けてはくれず、空しく消えていった。 一つくらいは叶えてくれてもいいじゃないか。代わりに何かを差し出せと言われたら、喜んで差し出してやるのに。 「鋼ちゃん」 百合子は指先で、乾いた唇をなぞった。 「ごめんね」 やった時は後悔しなかったが、今になって後悔する。鋼太郎の初めてのキスを、自分なんかが奪ってしまった。 初めてのキスは誰にとっても特別なものだ。それを、好きでもない、幼馴染みだというだけの女に奪われるなんて。 あの日のことを、全部忘れてほしい。恥ずかしいから、というのもあるが、実力行使に及んだ自分が情けなかった。 三日間、いや、一日だけでもいいから大人になりたい。大人ではなくても、年相応の十四歳の少女になりたい。 テレビの中の魔法少女や漫画の中の女の子達は、そういう願いを抱いたり口に出したりすると大抵願いが叶う。 だが、百合子にはそんなものは訪れない。万が一そうなったとしても、都合の良い魔法や奇跡を頭から疑うだろう。 大体、あんなに上手く事が運ぶはずがないのだ。世界を滅ぼしかねないほど強大な敵が現れても、仲間がいる。 負けそうになってもアイテムが出現する。死にそうになっても死なずに生き延びる。痛みなんて、味わわない。 なんて、薄っぺらいんだろうか。百合子は自虐的な笑みを貼り付け、野球ボールを枕元に置いて、窓を見やった。 窓には、痩せ細った体を可愛いパジャマで包んだ自分が映っている。少し前に比べて、体の肉が落ちた。 頬に触れてみると、よく解る。ただでさえ肉のない体が骨と皮ばかりになってしまうのが想像出来て、ぞっとした。 こんな現実を、笑い飛ばしてしまいたい。だが、一人ではどうにもならない。他人がいるから、明るくなれるのだ。 一緒になって笑ってくれる友人がいるから、傍にいたい幼馴染みがいるから、辛くても中学校に通い続けていた。 病院を飛び出してしまいたいが、雨の中に出たら肺炎を起こして寿命が縮まり、中学校にも行けなくなってしまう。 「あーあ」 百合子は頬を引きつらせて強引に笑みを作っていたが、目元からは熱い滴が落ちた。 「そっか、私、死んじゃうんだあ」 握り締めた手の指先は、ひんやりとしていた。全体的に、体温が下がっている。死の気配のような気がした。 百合子は、自分の背後に巨大な草刈り鎌を構えた黒衣の死神が立っているような錯覚を覚え、胸苦しくなった。 自分の近くにも神はいた。だが、それは死神だ。生まれた時から背後に張り付いていて、一歩一歩近付いてくる。 それが、目に見える範囲まで迫ってきたのだ。百合子は歯を食い縛って出来るだけ声を殺し、ひっそりと泣いた。 死にたくない。 07 1/9 |