非武装田園地帯




第二十二話 願い事



 特殊外科病棟、三○五号室。白金百合子様。
 番号札の下にある味気ないプレートに書かれた名前を見て、もう一度確かめてから、鋼太郎は扉をノックした。
すぐに、聞き慣れた声が返ってきた。鋼太郎が引き戸を開けると、百合子はベッドの上に腰掛けていた。
ベッドの前半分は斜めに起き上がらせてあり、ベッドの上に掛けるテーブルには漫画本や雑誌が置いてある。

「やっはー! いらっしゃーい!」

 百合子は、勢い良く片手を挙げた。鋼太郎が中に入ると、後ろにいた正弘と透も病室に入ってきた。

「おう」

「鋼ちゃんがお見舞いに来てくれるなんて珍しいじゃーん。どうしたの?」

 百合子はにこにこしながら、裸足の足を軽く振っている。鋼太郎は、顔を逸らす。

「別にどうもしねぇよ。暇だったんだよ」

「たったの三日間とはいえ、ゆっこに会えないのは寂しいんだよ。それに、今日は日曜日だから、せっかくだからってことで一緒に来たんだ」

 正弘が笑う。透は、百合子の元気な様子に安堵して頬を緩める。

「でも、ゆっこさん、元気そうで、良かったです」

「ただの検査入院だってば。心配しなくてもいいよ、透君」

 百合子は、それ使っていいよ、と部屋の隅にある椅子を指した。鋼太郎は、迷わず透を指す。

「じゃ、透な」

「え、あ、いいですよ、別に、あの、そんな」

 透は遠慮がちに身を引くが、正弘の大きな手が肩に置かれた。

「オレ達は疲れないが、透は疲れる。特に、バスに乗ってきたばっかりだからな。まだ酔ってるだろう」

「酔い止め、使い、ましたから、大丈夫です」

 そうは言うものの、透の顔色は心許なかった。鋼太郎は、ちょっと肩を竦める。

「だーから、オレらになんか気ぃ遣うなっての。それこそ疲れるぜ、透」

「あ、はい」

 押し切られる形で、透は椅子に腰を下ろした。百合子は、うんうんと頷く。

「そうそう。それでいいのだよ、透君!」

 百合子の動きに合わせて、パジャマの胸元から伸びるケーブルが動いた。それは、枕元の機械に繋がっている。
液晶モニターの付いた医療用計器が何台も置いてあり、そのどれもが忙しなく動いていて、データを取っている。

「これ、何だ?」

 鋼太郎がモニターの一つを指すと、百合子は首をかしげた。

「さあ? 色々説明されたけど、グラフが多すぎて何が何だか」

 屈託のない百合子の表情に、鋼太郎は内心で安堵した。先日の手の冷たさは、やはり雨が降っていたからだ。
病室の中が暖かいので顔色も良くなっていて、血色も戻っている。目が少しとろんとしているのは、薬のせいか。
それかもしくは、病室が暇だから、眠たいのかもしれない。何にせよ、過剰に心配するのはあまり良くない。
これは、いつものことだ。百合子は年に何度も入院し、場合によっては数ヶ月間出てこられない時だってある。
たった三日なのだから、すぐに終わる。だが、百合子の手の冷たさが不安を掻き立て、鋼太郎を急かしていた。
見舞いに来た理由も、そこにある。百合子の元気な顔を見さえすれば、不安が収まってくれると思ったからだ。
その不安は、無駄だったようだ。鋼太郎は何の気なしに、正弘と言葉を交わす百合子の横顔を、じっと見た。
 長い髪を二つに分けて結んでいるがヘアバンドはいつも通りに付けているので、広い額が露わにされている。
ピンク地に小花の散るパジャマを着ていて、左腕からは点滴の管が伸びている。何の点滴なのかは、解らない。
制服や普段着を着ている時はそれほどでもないが、パジャマ姿だと首筋や手首の病的な細さが際立ってしまう。
いつもは目にしないようにしている事実が、背景が真っ平らな病室の中では、くっきりと浮き彫りにされている。
 ベッドの枕元には、ハート型の目覚まし時計や携帯ゲーム機などと一緒に、あの野球ボールが置いてある。
いつも、持ってきているのだろうか。鋼太郎がサイボーグ化した直後の時に持っていたのは、偶然ではないのか。
鋼太郎自身は、百合子にボールを投げて寄越したことすら忘れかけていたのに、百合子はそうではないようだ。
馬鹿じゃねぇの、と鋼太郎は内心で呟いた。ただの汚れた野球ボールなのだから、持っていても無意味だ。
病室の中だから遊び道具にもならないだろうし、何より、野球に興味がない百合子にとっては不要なはずだ。
 そんなものを、いつまでも大事に取っておいてほしくない。そんなことをされては、息苦しいと感じてしまった。
鋼太郎は、そこまで偉くはない。心の拠り所にされても頼り甲斐がないことぐらい、自分が一番理解している。
決して嫌ではない。だが、了承する気にもなれない。鋼太郎は複雑な気持ちでいたが、正弘に会話を振られた。
 なので、そちらに意識を向けた。そして、思考から気を逸らした。




 帰りの電車の中から、夕日が見えた。
 百合子と話し込んでいるうちに時間が過ぎてしまい、帰りのバスを一本逃し、電車もまた一本遅れてしまった。
田舎故に電車もバスも一時間ごとに一本しかないので、一本でも逃せば帰宅時間は大幅に伸びてしまう。
なので三人は、当初は午後三時頃に帰るつもりだったのだが、鮎野駅に向かえたのは午後五時過ぎだった。
この分だと、鋼太郎が家に到着するのは午後六時を過ぎるだろう。二人は駅に近いが、鋼太郎だけは家が遠い。
鮎野駅から鋼太郎の住む集落までの距離は小中学校との距離よりも長いので、三十分以上掛かってしまう。
 向かいの座席に座っている透は、うつらうつらとしている。無防備な寝顔が可愛らしくもあり、少しだらしない。
鋼太郎と正弘は、ボックス席の進行方向側に座っていた。電車が線路を踏む音が伝わり、車体が震動する。
休日なので学生の姿はなく、乗客はまばらにしかいない。車内に蛍光灯は点いているが、それでも薄暗かった。

「ゆっこは、後、どれぐらい持つだろうな」

 正弘の穏やかながら冷酷な言葉に、鋼太郎は正弘に振り向いた。

「何、言うんすか」

「ゆっこが普通じゃないことぐらい、見れば解るさ。誰だってな」

 正弘は窓枠に肘を置き、頬杖を付いた。角張ったデザインのマスクフェイスが、西日に縁取られる。

「薬の量が尋常じゃない。計器の数も多すぎる。そう思わないか」

「そりゃ…」

 鋼太郎は言い淀む。正弘は、窓に映る鋼太郎の姿を見やった。

「オレはともかくとして、ゆっこには幸せになる権利がある。いや、ない方がおかしいんだ」

「いや、それは、ていうか、ムラマサ先輩にも充分あるっすよ」

 鋼太郎は、首を横に振った。正弘は、自嘲するように一笑する。

「そうだったらいいが、オレはそう思わないんだ。オレは、背負っているものを振り払えない。それを、捨てようと思うことすら叶わない。絶対に捨ててはいけないからだ。だから、身動きが出来ないままだ。動けないから、なかなか前にも進めない。どれだけ足掻いても、戻ってくる場所は同じだからな。たとえ、幸せになれたとしても、また戻ってきてしまうだろう。オレはこの世にいる限り、自分の罪悪からは決して逃げられないんだ」

「…罪悪、っすか?」

 仰々しい言い回しに、鋼太郎はやや驚いた。正弘は頷く。

「ああ。死ねなかったことだよ」

 正弘の淡々としているがとんでもない言葉に反応出来ず、鋼太郎は口籠もった。なんだか、無性に情けなくなる。
百合子も、正弘も、透も、それぞれで戦っている。重たい物を抱えながら歩いている。なのに、自分はどうだ。
透に淡い恋心を抱いて、そのせいで状況が目に入らなくなって、百合子だけでなく正弘まで傷付けてしまった。
挙げ句に透からはきっぱりと振られ、恋心は潰えた。格好悪いなんてものじゃない。ダメの極みのような状況だ。
強烈な自己嫌悪に襲われ掛けたが、気を取り直した。これ以上ダメになってしまうのは、さすがに嫌だった。
百合子は、よくもこんなダメな男を気に入っているものだ。自分が女だったら、三日もしないで見限るだろう。
趣味が悪いというか、なんというかだ。その上、鋼太郎にファーストキスまで捧げてしまうのだから恐ろしい。
 鋼太郎は無意識に、マスクに触れた。指先で百合子の唇が触れた部分をなぞっていたが、ぽつりと漏らした。

「味なんて、しなかっただろうなぁ…」

「何がだ」

 途端に、正弘が振り向いた。鋼太郎は動揺してしまったが、平静を装った。

「いや、別になんでもないっすよ!」

「なんでもないならなんで慌てるんだ、ん?」

 正弘は鋼太郎に詰め寄り、凄む。鋼太郎はずり下がったが、肘掛けに背が当たった。

「だからなんでもないっすよ、ムラマサ先輩」

「オレの想像が外れていることを願いたいがそういうコメントを使う出来事は限定されていてワンパターンしかない」

 一息に言い切った正弘は、鋼太郎のマスクを指した。

「鋼。ゆっこに何かしたのか?」

「してないっすよ! ていうかされたんすから!」

「あ?」

「あの、ムラマサ先輩、声が据わってるっすよ。なんか、怖いっすよ」

「気のせいだ」

「絶対に嘘っすよ…」

「で、何をされたんだ。主語と述語を抜かさずに述べてみろ」

「やりづらいっす…」

「別にオレは妬いているわけじゃない。ただ事実を確認したいだけなんだ。ああそれだけなんだ、他意はないんだ」

「繰り返すところがまた、言い訳臭いっすよ」

 鋼太郎は正弘の視線から逃れるように、あらぬ方向に向いた。

「まぁ…うん、されたんすよ、ゆっこに。あれを」

「あれじゃ解らないぞ」

「想像が付くって言ったくせに問い詰めるんすね」

「確信を得たいから根拠を求めているだけだ」

「ああもう…」

 鋼太郎は正弘を押し返して、座席に座り直した。これ以上は誤魔化せないようなので、腹を決めた。

「だから、その、ですね。結構前に、ゆっこがオレにしてきたんすよ。その、キスを」

「ほう」

 正弘は、もう苛立ちを隠そうともしなかった。鋼太郎はやりづらくなって、がりがりとマスクを引っ掻く。

「まぁ、でも、それっきりっす。本当に。マジで大したことじゃないんす」

「それで?」

「それで、って…」

 鋼太郎は言葉を選びながら、続けた。

「同情するなー、とか、言ってきたんす。で、好きになるな、とか、好きにならない、とか、まぁ、色々と」

「えっと、それは、つまり、その」

 恐る恐る、透が身を乗り出してきた。どうやら、完全に眠っていたわけではなかったらしい。

「ゆっこさんは、意地っ張り、ってこと、ですね?」

「で?」

 正弘が更に問い詰めてきたので、鋼太郎は身を引いた。

「それ以外は別にないっすよ、マジっすよ!」

「お前は、どう返事をしたんだ?」

 正弘に言われ、鋼太郎はきょとんとした。

「はい?」

「あの、もしかして、お返事、してないんですか?」

 透は眉を下げたが、突き放すような口調できっぱりと言い切った。

「それはダメです」

「鋼、それはいくらなんでもないだろう。人として」

 と、正弘は嘲笑するように声を上擦らせる。透は、ちょっと眉を吊り上げる。

「黒鉄君は、ちょっと鈍すぎる、って思います。特に、ゆっこさんのことだと、鈍さは三割り増しです」

「返事なんか、出来るかよ」

 鋼太郎は情けなさと様々な気持ちが入り乱れ、項垂れた。百合子の大人びた眼差しと胸に開いた穴が、蘇る。
百合子が、百合子ではなくなっていく。鋼太郎の知っている、幼くて甘ったれな病弱な少女が変わっていく。
いつのまにか、遠くへ行ってしまったような気がする。そして、久々に触れた手も冷たくてまるで別物だった。
どんどん、百合子との距離が開いていく。いつまでも同じ場所にいるのだと、鋼太郎は勝手に思い込んでいた。
 正弘の告白。透の豹変。百合子の成長。鋼太郎自身の恋。変わらないと思っていたものが、形を変えていく。
百合子の発足したサイボーグ同好会は、危うい均衡で保たれている。次の変化で、均衡が崩れるかもしれない。
それもまた、不安要素の一つだった。最初はあまり気にしていなかった同好会だが、今やなくてはならないものだ。
失いたくないものが多すぎて、前に踏み出せない。鋼太郎は、その中で一番大きなものは何か、と少し考えた。
 考えるまでもなかった。





 


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