透に出来ることは、百合子を受け止めることだけだった。 病室から鋼太郎が出ていき、彼を捜しに正弘も出ていってしまった途端、百合子は崩れ落ちるように泣き出した。 透は百合子に腕を回すことを躊躇いながらも、その軽い体重を感じ、彼女の余命は本当に短いのだと悟った。 テーブルに放置された食べかけのバニラアイスはあっという間に溶けてしまい、液体と化してしまっている。 鋼太郎と言い合ったことで、緊張の糸が切れたのだろう。百合子は透の服を握り締め、苦しげに泣いている。 「い、言わなかったんじゃ、ないんだよお」 百合子の細い声は、涙で詰まっている。 「言えなかったんだよお」 透はベッドサイドに腰掛けると、百合子が縋り付くままにした。百合子は、ごめんね、と気弱に謝った。 「透君。迷惑だよね、こんなの」 「いえ…」 透は首を横に振り、百合子の体を支えた。 「カッターナイフを持ち出した私を、止めに来た時、ゆっこさんは、私のことを、そう思ったんですか?」 「…ううん」 百合子は目元を拭いながら、答えた。 「透君、すっごく辛そうだったから。なんとかしてやらなきゃって思ってたから。だから、迷惑だなんて」 「それと、同じですから。私も、黒鉄君も、ムラマサ先輩も」 透は百合子の背に触れたが、手を引っ込めてしまいそうになった。元から薄い肉が、病で更に薄くなっていた。 背骨に、そのまま触れられそうなほどだった。だが、引っ込めてしまえば、百合子は多少なりとも傷付くだろう。 百合子は背中に触れる透の手の感触に安堵し、もっと泣きそうになった。無理に張った意地が、決壊していく。 フルサイボーグ化することが、怖くないわけがない。脳外科手術など、想像しただけで背筋が逆立ってしまう。 最新鋭の技術で造り上げられた、成長した体。年相応の少女に、大人になれる。だが、やはり、恐怖はあった。 手術されても目が覚めないのでは、本当は普通のフルサイボーグになるのでは、手術する前に死ぬのでは。 そんな不安が、毎日のように心を責め立てる。薬で朦朧とした頭で悪夢を見て、うなされてしまうこともある。 鋼太郎の怒りももっともだ。だが、どうしても言えなかった。言おうと思っても、嫌われるのではと怖くなった。 三人が見舞いに来てくれるたびに、言えないことを罪悪感に感じて、しかし言いたくない気持ちも大きくなった。 だから、ずっと言えなかった。だが、体の中の痛みは日に日に増えてきて、ベッドから下りられない日もあった。 本当に手術する前に、言ってしまわなければ。そう心に決めて、何気ないふうを装って、明るく笑いながら言った。 けれど、鋼太郎を怒らせてしまった。やはり、もっと早くに言うべきだった。百合子は、震える奥歯を噛み締めた。 透は、百合子の手入れの行き届いた髪を見下ろした。入院して以降は、艶がぐっと減ってしまっている。 「あの、どうして、髪を切ったんですか?」 「ん」 百合子はぐいぐいと目元を擦りながら顔を上げ、透を指した。透は、自分を指す。 「私、ですか?」 「うん。ずっと横になっていると邪魔だからって言うのも本当なんだけど、ちょっと、透君が羨ましくなって」 百合子は耳元に掛かる程度の毛先を、痩せた指でいじった。 「それにね。透君みたいにしたら、鋼ちゃんも、ちょっとは見てくれるかなぁって。馬鹿だよね、本当に」 透は、目を伏せた。鋼太郎が一時期とはいえ透を見ていたことが、百合子にはどれほど辛かったことだろう。 直接的な責任は透にはないのだが、多少なりとも罪悪感を覚える。だから思わず、ごめんなさい、と口にした。 「いいよ。もう、気にしてないから。透君もさ、好きな人、いるんでしょ?」 その言葉に、透はびくっと肩を跳ねた。答えようか答えるまいか迷っていると、百合子は詰め寄ってきた。 「それ、亘さんでしょ?」 「え、あ、どうして、まさか、あの、黒鉄君、が」 透が僅かに後退ると、百合子は手を横に振る。 「違うよお。鋼ちゃんは何も言わなかったよ。でも、なんとなく、そうじゃないかなぁって思って」 透は紅潮した頬を隠すかのように、俯いた。 「どうして…」 「解るもん、それぐらい。だって、透君、亘さんの話をする時はすっごく楽しそうだから。だから、きっと」 「あう…」 透は強烈な羞恥に襲われ、精一杯身を縮めた。百合子は、濡れた頬を袖で拭う。 「私もそうだから。鋼ちゃんがいるから、元気が出るんだ。鋼ちゃんが傍にいてくれなかったら、友達になって遊んでくれなかったら、こんなに保たなかったと思うもん。今だって、皆がいなかったらとっくに死んじゃってたと思うよ。一人だけじゃ寂しすぎるから、簡単に負けちゃうもん。いつも、本当にありがとう。私の変な我が侭に付き合ってくれて、友達になってくれて、こんなに心配してくれて。だから、余計に言えなかったの」 「でも、もう、いいですよ。だって、ちゃんと、言ってくれたんですから」 透は恥ずかしさを堪え、笑顔を見せた。百合子はもう一度、ごめんね、と呟いた。謝らずにはいられなかった。 病室の扉がノックされたので、百合子が返事をすると、正弘が顔を出した。肩に雪と思しき水滴が付いている。 「悪いな、透。任せきりにして」 「いえ、別に、平気です。えっと、それで、そっちは?」 透が扉の隙間を覗き込もうとすると、正弘は背後を指した。 「反省したみたいだから、そっちに放り込む。透は出た方がいいかもな」 「あ、そうですね。その方が、きっと、いいですよね」 それじゃ、と透は百合子に頭を下げてから扉を開けた。正弘の隣を抜けて廊下に出ると、鋼太郎が中を覗いた。 百合子は情けないのと気恥ずかしいのとが混じり、顔を背けてしまった。鋼太郎も、似たようなものらしい。 正弘は鋼太郎の肩を小突いて病室の中に入らせると、ぴしゃっと扉を閉めてしまった。鋼太郎は、振り返る。 確かに、謝るとは言った。こちらも悪いのだから、面と向かって頭を下げるのが人間として当然の行為だ。 だが、百合子と二人きりにされては困ってしまう。鋼太郎は居たたまれない気分になりながらも、姿勢を正した。 百合子は泣いていたらしく、頬が濡れて目元が赤らんでいる。鋼太郎は、一層居たたまれなさが増してきた。 出来ることなら、逃げ出してしまいたい。謝りたいのは本心だが、謝る以前に、まともに喋れるのだろうか。 百合子から話を始めてくれればまだ楽なのだが、百合子は押し黙っていて、じっと鋼太郎を見据えている。 病室の外の廊下からは、入院患者を見舞う家族の声や看護師の声、院内アナウンスなどが聞こえてくる。 外が薄暗いために、百合子の背後にある広い窓には、棒立ちしている鋼太郎と百合子の後ろ姿が映っていた。 この、彼女がなくなってしまう。鋼太郎と同じように、小さな桐の箱にすっぽり収まってしまうほど小さくなる。 そして、失った体を補って新たな体を得る。それで百合子が幸せになれると解っていても、少し許せなかった。 この小さな手が、快活な笑顔が、黒目がちな目や、しなやかな髪や、薄く艶やかな唇が、失われてしまうから。 出来ることなら、このままでいてほしい。全身に転移した病巣を摘出して治療し、大人になってほしいと思った。 百合子は、成長している。だから、体も大きくなるべきだ。顔立ちが可愛いのだから、きっと美人になるはずだ。 その姿を見てみたい。冷たくてもいいから、その手に触れてみたい。鋼太郎はそこまで考えて、はっとした。 今、一体何を考えていた。そんなことを考えている場合ではないのに。早く、謝ってしまわないといけない。 「ゆっこ」 鋼太郎が名を呼ぶと、百合子は視線を向けてきた。 「本当に、ごめんね。もっと、早くに言おうと思ってたんだけど、言えなくて」 「オレも、頭に血が昇っちまったみてぇだ。悪ぃ」 鋼太郎が苦笑すると、百合子は物珍しげにした。 「鋼ちゃんが謝ってくれるなんて、ちょっと不思議かも。だって、いつも謝らないじゃんか」 「馬鹿。オレはお前に悪いことなんてしたことねぇよ。そりゃ、ちょっとはからかうかもしれねぇけどさ」 鋼太郎はベッドに近寄ると、テレビ台の棚に置かれているものに気付いた。あの野球ボールは、相変わらずだ。 今回はその隣に、透の描いた水彩画が入った額縁と、正弘のお土産である瀬戸内海の絵はがきが並んでいた。 百合子の支えが一つではなくなったことで、少しだけ気が楽になった。もう、百合子の友人は一人だけではない。 けれど、寂しくもなった。ずっと手の中にいたものが外に出てしまったような、喪失感に似た感情が起きた。 成長するということは、そういうことなんだ。鋼太郎はベッドに近寄ると、百合子の短い髪に手を当てて撫でた。 百合子は子供そのものの顔で、心地良さそうに笑う。ショートカットも、なかなか似合う。そう言うはずだった。 「んく」 間近で、喘ぎに似た声が漏れた。鋼太郎は手の中の百合子の体温と、すぐ目の前の潤んだ瞳に気付いた。 何をしたのだろう。一瞬、時間が飛んでしまったかのような錯覚を覚えたが、記憶はありありと残っている。 百合子を撫でていた。短い髪も似合うと思った。だから、引き寄せた。鋼太郎は自分が何をしたか、理解した。 「…悪ぃ」 鋼太郎はマスクを百合子の唇からそっと離し、顔を逸らした。百合子は口元を押さえていたが、目を伏せた。 「いいよ。気にしないから」 百合子はか細く呟くと、上目に鋼太郎を見上げてきた。 「なんか、らしくないよ、鋼ちゃん」 「オレもそう思う」 鋼太郎は、百合子の感触を確かめるようにマスクをなぞった。 「鋼ちゃん」 百合子は、両腕を掻き抱いた。 「怖いよ」 鋼太郎は、顔を上げた。百合子が手術を怖がるのは初めてだ。いつもは、成功するから大丈夫、と言った。 けれど、普通の外科手術とサイボーグ化手術では訳が違う。脳を取り出されるのだから、完全に無防備になる。 脈拍や呼吸が止まったとしても、それは他の機械で凌げるかもしれないが、もしも途中で脳が死んでしまったら。 百合子の不安も、もっともだ。弱音が出ても、仕方ない。鋼太郎は百合子の肩を掴み、真正面から向き合った。 「大丈夫だ。オレも、ムラマサ先輩も、大丈夫だったんだから」 「鋼ちゃん。帰ってこられなかったら、どうしよう。目が覚めなかったら、どうしよう」 百合子は鋼太郎の腕を掴み、声を震わせる。 「そんなの、やだよ」 「大丈夫だ」 それぐらいのことしか、言えなかった。鋼太郎はやるせなくもあったが、それ以外の語彙が見つからなかった。 百合子の眼差しは、不安に満ちている。少しでもいいから、それを和らげてやりたいという気持ちだった。 「鋼ちゃん…」 百合子は高鳴らないはずの心臓が高鳴っている気がして、息が詰まりそうだった。なぜ、こうもいきなり。 嬉しいことは嬉しい。いつもは絶対にしてくれないとをしてくれているから、舞い上がってしまいそうだ。 けれど、それは哀れんでいるからだと思ってしまう。自分が死にそうだから、こんなに良くしてくれるのだ、と。 不安と、戸惑いと、恐怖が止まない。このままずっとこうしていてもらえたら、少しは怖くなくなるのに。 恋人にならない方がいい。友達のままでいた方が、鋼太郎が悲しむ度合いが減るのだから、ずっと楽になる。 そう思っているのに、そう思えなくなる。一度でもいい思いをしてしまうと、そこから先を求めてしまうだろう。 これ以上、好きになりたくない。好きになってしまったら、鋼太郎が欲しくなる。何から何まで手に入れたくなる。 それだけは、いけない。百合子は力の入らない手で鋼太郎を押し返すと、背を向けた。精一杯の、意地だった。 「もう、いいよ。大丈夫だから」 「そうか?」 鋼太郎は、絶対に大丈夫じゃねぇだろ、とは思ったが言えなかった。今になって、キスをしたことに愕然とした。 きっと、どうかしていたのだ。そうでもなければ、自分から百合子にそんなことをするはずがないのだから。 けれど、現実にはしてしまった。自分でも自分が解らない。本当に、髪を撫でてやるだけのつもりだったのに。 好きなことは好きだ。大事な友人で、幼馴染みだからだ。けれどそれだけで、それ以上求めるはずがなかった。 手を繋いだのは、距離が開いたら登校に遅れるから。頭を撫でてやったのは、そうしてやると百合子が喜ぶから。 ただ、それだけだ。鋼太郎は病室から出ようとしたが、扉に伸ばしかけた手を止めて、百合子に振り返った。 百合子は、鋼太郎を見ようとはしなかった。 07 1/16 |