非武装田園地帯




第二十九話 鋼太郎、恋をする



 二人がいなくなった病室で、静香はタバコを出そうとしたが、止めた。
 正弘は百合子のいたベッドに腰掛け、虚空を見つめている。透はちょっと居心地が悪いのか、身を縮めている。
カーテンが開けられた窓から、雪の上を通って冷やされた風が滑り込み、暖房の人工的な熱を掻き混ぜていく。
静香はタバコのケースとライターを、スーツの内ポケットに押し込めた。窓枠に腰を下ろすと、腕と足を組んだ。

「マサ。あんた、何をぼけっとしてんのよ」

「いえ…」

 正弘が静香に振り向くと、静香は白い天井を仰いだ。

「ゆっこちゃん、可愛くなったわね。まだ、妬ける?」

「少しは。でも、もう、平気です。踏ん切りは付きましたから」

「ま、それならそれでいいんだけど。で、透君」

 静香の目線が透に向くと、透はちょっと驚いたように身を縮めた。

「あっ、はい」

 透が辿々しく返事をすると、静香は言った。

「ゆっこちゃんみたいなボディが普及したら、あなたの左腕も人間そっくりのものに換装出来るようになるわよ」

「そう、出来るんですか?」

 透は期待した面持ちで、僅かに身を乗り出した。静香は、唇の端を持ち上げる。

「まだ保証は出来ないけど、きっとそうなるわよ。昨今の医療技術の進歩は凄まじいんだから」

「でも、オレは別に良いですよ」

 正弘の言葉に、静香は目を丸める。

「何よ、あんたはそのままでいいっての? 自衛隊に掛け合えば、換装費用は全額負担してくれるわよ?」

「いいんですよ。この体も、結構気に入ってますし」

 それに、と正弘は窓の外を見やった。冬の高い空の下には、深い雪に覆われた田園風景が広がっている。

「オレは将来、この国を守る仕事に就くんですから。そのためにも、こういう体の方が都合が良いんですよ」

「なーに格好付けてんのよ」

 がっ、と静香のハイヒールが正弘の背中を突いた。正弘は、少しつんのめる。

「なんで蹴るんですか」

「あ、あの、えっと、その、あのう」

 透は、おどおどしながら静香を止めようとした。静香は何か面白くないらしく、正弘の背にヒールを押し込む。
正弘は理不尽だとは思いながらも、我ながら言い過ぎた、と思わないでもなかったので抵抗出来ずにいた。
 透は静香に話し掛けることも出来ず、困りながら視線を彷徨わせていたが、ふと、テレビのある棚に目を留めた。
入院生活の間に溜まってしまった漫画本や文庫本の上に、装丁が素人臭い薄べったい本が三冊置いてあった。
透が百合子に贈った、百合の花の水彩画とシクラメンの水彩画の入った額のパネルに、その表紙が映っている。
逆文字だったが、読めないこともなかった。透はじっと目を凝らして、その作者名と思しき名を読み上げた。

「伊集院かれんって、誰ですか?」

「うわぁっ」

 弾かれるように立ち上がった正弘は、棚の前に立ち塞がって透に手を振り翳した。

「や、やめてくれ、お願いだからそれだけはやめてくれ! 興味なんて持たないでくれというか見ないでくれ!」

「いいじゃないの、せっかく描いたんだから読んでもらわなきゃ」

 静香は棚に手を伸ばして三冊の同人誌を取り、はい、と透に手渡した。透は、そのタイトルを読み上げた。

「すた、ぷり?」

 可愛らしくデフォルメされたロゴには、すた☆ぷり! とある。正弘は、うぎゃあ、と変な声を上げる。

「あの時は一番出来がいいと思ったんだがそうでもなかったんだ! お願いだぁ、読まないでくれ!」

「そこまで、拒否されると、いっそ、読みたくなるんですが」

 透がぺらぺらとページをめくると、正弘は泣きそうになった。

「コマ割りも悪ければデッサンも間違えているしストーリーはおかしいしキャラはただの馬鹿で…ああ…」

「それね、マサの描いた漫画」

 静香が、しれっと言った。正弘は、頭を抱えて座り込んでしまった。

「透…。頼む、それに触らないでくれ…。オレの黒歴史なんだ、ダークサイドだ、火の七日間だ、積み荷を燃やせ、いっそ腐海に放り込みたい、いや、オレが腐海に沈みたい! 汚れているのは土なんだあ!」

「そこまで、言うなら、やっぱり、読まなきゃ、いけませんね」

 透は、意地悪く微笑んだ。

「伊集院かれん先生?」

「やめてくれぇ…」

 うわあ、と正弘は本当に泣きそうになっている。静香は透と顔を見合わせると、声を揃えて笑ってしまった。
正弘のリアクションがここまで大きいと、いっそいじりたくなってしまう。透は、薄っぺらいページをめくった。
確かに、正弘の言うように発展途上の漫画だった。ペン圧が一定ではないのか、主線の太さもまちまちだ。
だが、色々な意味で面白そうだ。透は正弘の描いた宇宙人でプリンセスな魔法少女を見つつ、思っていた。
 屋上に向かった鋼太郎と百合子は、今頃何をしているやら。




 百合子の足取りは、頼りない。
 バランスが上手く取れないので、足腰が弱い。階段の壁に設置されたバーを頼りにして、なんとか登ってくる。
立ち止まった鋼太郎は、百合子に手を伸ばそうかと思ったが引っ込めた。下手に、手助けをするべきではない。
百合子がサイボーグボディに換装してすぐの頃は、同じフルサイボーグだからということもあり、助けていた。
最初のうちは百合子もありがたがっていたのだが、それではダメだと思ったらしく、自力で頑張るようになった。
そして、意地っ張りになった。体の弱さ故に引っ込んでいた気の強さが、元気になったから表に出てきたのだ。

「大丈夫か?」

 最上段にいる鋼太郎は、階段の踊り場にいる百合子を見下ろした。百合子はバーに縋りながら、頬を張る。

「うるさいなぁ、もう! 大丈夫だもん!」

 生身であれば、息も絶え絶えといった様子の声色だ。バーを掴まずに二三歩歩くが、呆気なく足元が崩れる。
うぎゃっ、と潰れた悲鳴を上げながら百合子は真正面に転んだ。ここに歩いてくるまでの間に、十回は転んでいる。
 オレはそうでもなかったよな、と鋼太郎は思った。自分がフルサイボーグ化した時は、割と慣れるのが早かった。
元々運動だけは得意だったせいか、手足を思うがままに動かす感覚を脳が覚えていたらしく、半月で走行出来た。
そのことを、リハビリ担当の医師から物凄く褒められたので良く覚えている。けれど、百合子はそうではない。
病弱だったために運動らしい運動は一度もしたことがないので、運動するという感覚をまるで知らないのである。
だから、バランスも上手く取れないし、足元も疎かになるし、手足を一気に使えない。つまり運動音痴なのだ。

「ここまで昇ってこられたんだもん、最後までちゃんと行けるんだから!」

 百合子は表情を硬め、バーを握って階段に踏み出した。鋼太郎は、腰に両手を当てて胸を張る。

「おう。待っててやるからよ」

「いっ、一年ぐらい、先輩だからってなんだよお! 私だって、すぐに上手くなるんだからぁ!」

「せめて、転ばないようにしろよ? 転んでばっかりいると、そのうち、マジで顔の皮が剥がれるぜ?」

「そんなことにはならないもん! ただ、ちょっと、重心が取りづらいだけなんだもん!」

 百合子は二段目に足を踏み出したが、先に一段目に置いた足を上げられず、変な格好で踏み止まっている。
タイミングが計れない、という状況らしい。どちらか一方に重量を掛ければ、その方向に転んでしまうからだ。
鋼太郎は、必死な百合子を眺めていた。微笑ましく可笑しい光景だったが、これを決して笑ってはいけない。
フルサイボーグになった人間が、自分自身の力だけで必ず通過しなければならない、関門のようなものだ。
鋼太郎自身も経験しているので、百合子のことは見守ってやるしかない。鋼太郎は、背後の壁に寄り掛かった。
 最初にこの姿になった百合子と対面した時、純粋に感動した。想像していた通りに、彼女は成長していた。
けれど、百合子は事態を上手く把握出来ていないようで、伸びた手足を持て余して顔や体をいじっていた。
鋼太郎の機械式の目とは違う、より生体に近い人工網膜式の目も上手く操れないのか、焦点が定まらなかった。
動作もワンテンポ遅れていて、大人びた雰囲気のある声も機械的で、仕草も百合子の面影はあるが硬かった。
だが、間違いなく百合子だった。鋼太郎が来たと知って安堵した表情も、甘ったれた口調も、何もかもが。
その場で抱き締めてやりたい衝動に駆られたが、撫子や百合子の主治医らがいたので、出来ず終いだった。
リハビリにより、手術直後のいかにもサイボーグ然とした機械的な雰囲気はなくなり、動作も滑らかになった。
しかし、いかんせん経験が足りない。百合子自身が、新しい体と折り合いが取れるようにならなくてはいけない。
鋼太郎は、壁に預けていた背を外した。バランスを取ることに四苦八苦している百合子を見下ろし、言った。

「なぁ」

「うん?」

 百合子は、顔を上げた。鋼太郎は、腕を組む。

「お前さ、手術中、っつーか、意識が戻るまでの間に夢って見たか?」

「うん。見たよ」

 百合子は五段目に立ち、バーを両手で掴んだ。そうしないと、すぐに落ちてしまうからだ。

「私と私が話をしたの」

「どういう意味だ?」

「んーとね、なんて言えばいいのかな。どっちも私なんだけど、あっちの私はもうこの私じゃないっていうか」

 百合子は言葉を探っていたが、そうそう、と頷いた。

「あっちの私はね、私の体じゃないかなって思うんだ」

「体?」

「うん。そんな気がした。なんでかは解らないけど、たぶん、そうなんだって思うの」

 百合子は、申し訳なさそうだった。

「もう、あっちの私には会えない。あっちの私は、私の知らないところに、行っちゃったから。ちょっと、あっちの私に悪いことしたかなって思うんだ。十四年も一緒に生きてくれたのに、切り離しちゃったから」

「また会える。それに、体の方は一足先に死んじまっただけだ。だから、もう一度死んで灰になっちまったら、墓石の下で一緒になれるさ。少なくとも、オレはそう思う」

「…そうだね」

 百合子は悲しげに目を伏せたが、すぐに表情を戻す。

「それとね、もう一つ、夢を見たの」

「どんなのだ?」

「鋼ちゃんと野球をしてるの」

 百合子はとても嬉しそうに笑う。

「鋼ちゃんは、どこの球団かは解らなかったけど、ユニホームを着てマウンドに立っているんだ。ナイターでね、ライトの明かりとかがすっごく綺麗なの。でね、その鋼ちゃんは、前の鋼ちゃんがハタチぐらいになった感じで、結構格好良かったよ。それで、私はバッターだったの」

「お前がか?」

 鋼太郎が一笑したので、百合子はむくれる。

「いいじゃないの、夢の中なんだから! それでね、鋼ちゃんが言ったの」

「何を」

「何回まで、試合延長しようかって。だから私、言ったの。行けるところまで、って」

「おう。行けるところまで、行こうじゃねぇか」

 鋼太郎も、思い出していた。去年の秋に、フルサイボーグとして目覚める前に夢を見た。

「オレもさ、夢、見たんだぜ。やっぱり、野球やってた。スタンドは満員で、オレは新人エースピッチャーで、九回裏のツーアウトスリーベース。自軍が一点勝ってて、ここで押さえたら勝ちってところで、場面が切り替わっちまったんだ。小一ん時の下校途中で、壁相手に投球練習しててさ、後ろにはお前がいてよ。オレと一緒に帰りたい、って、オレが帰るまで待ってる、ってうるさかったんだぜ」

「それで?」

「そこから先は、良く覚えてねぇよ。一年以上前のことだしな」

 でもよ、と鋼太郎は百合子と向き直った。

「たぶん、ゆっこがオレを連れ戻してくれたんだと思うぜ」

「うん。だといいな」

 百合子は七段目に足を乗せて体重を移動し、よろけながらも姿勢を維持した。

「私も、鋼ちゃんがいるから戻ってこられたんだよ」

 百合子は膝を曲げたり伸ばしたり、つま先からすっぽ抜けてしまったサンダルを戻したりしながら、登ってくる。
八段、九段、十段、十一段、十二段、十三段、十四段。足元を確かめるように、しっかり踏み締めて、歩いている。
最後の段を登り切ると、バーがなくなってしまった。百合子は壁に手を付こうとしたが、その腕を不意に掴まれた。

「ゆっこ」

 鋼太郎は百合子を引き寄せ、強く、言い放った。



「好きだ」





 


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