二人がいなくなった病室で、静香はタバコを出そうとしたが、止めた。 正弘は百合子のいたベッドに腰掛け、虚空を見つめている。透はちょっと居心地が悪いのか、身を縮めている。 カーテンが開けられた窓から、雪の上を通って冷やされた風が滑り込み、暖房の人工的な熱を掻き混ぜていく。 静香はタバコのケースとライターを、スーツの内ポケットに押し込めた。窓枠に腰を下ろすと、腕と足を組んだ。 「マサ。あんた、何をぼけっとしてんのよ」 「いえ…」 正弘が静香に振り向くと、静香は白い天井を仰いだ。 「ゆっこちゃん、可愛くなったわね。まだ、妬ける?」 「少しは。でも、もう、平気です。踏ん切りは付きましたから」 「ま、それならそれでいいんだけど。で、透君」 静香の目線が透に向くと、透はちょっと驚いたように身を縮めた。 「あっ、はい」 透が辿々しく返事をすると、静香は言った。 「ゆっこちゃんみたいなボディが普及したら、あなたの左腕も人間そっくりのものに換装出来るようになるわよ」 「そう、出来るんですか?」 透は期待した面持ちで、僅かに身を乗り出した。静香は、唇の端を持ち上げる。 「まだ保証は出来ないけど、きっとそうなるわよ。昨今の医療技術の進歩は凄まじいんだから」 「でも、オレは別に良いですよ」 正弘の言葉に、静香は目を丸める。 「何よ、あんたはそのままでいいっての? 自衛隊に掛け合えば、換装費用は全額負担してくれるわよ?」 「いいんですよ。この体も、結構気に入ってますし」 それに、と正弘は窓の外を見やった。冬の高い空の下には、深い雪に覆われた田園風景が広がっている。 「オレは将来、この国を守る仕事に就くんですから。そのためにも、こういう体の方が都合が良いんですよ」 「なーに格好付けてんのよ」 がっ、と静香のハイヒールが正弘の背中を突いた。正弘は、少しつんのめる。 「なんで蹴るんですか」 「あ、あの、えっと、その、あのう」 透は、おどおどしながら静香を止めようとした。静香は何か面白くないらしく、正弘の背にヒールを押し込む。 正弘は理不尽だとは思いながらも、我ながら言い過ぎた、と思わないでもなかったので抵抗出来ずにいた。 透は静香に話し掛けることも出来ず、困りながら視線を彷徨わせていたが、ふと、テレビのある棚に目を留めた。 入院生活の間に溜まってしまった漫画本や文庫本の上に、装丁が素人臭い薄べったい本が三冊置いてあった。 透が百合子に贈った、百合の花の水彩画とシクラメンの水彩画の入った額のパネルに、その表紙が映っている。 逆文字だったが、読めないこともなかった。透はじっと目を凝らして、その作者名と思しき名を読み上げた。 「伊集院かれんって、誰ですか?」 「うわぁっ」 弾かれるように立ち上がった正弘は、棚の前に立ち塞がって透に手を振り翳した。 「や、やめてくれ、お願いだからそれだけはやめてくれ! 興味なんて持たないでくれというか見ないでくれ!」 「いいじゃないの、せっかく描いたんだから読んでもらわなきゃ」 静香は棚に手を伸ばして三冊の同人誌を取り、はい、と透に手渡した。透は、そのタイトルを読み上げた。 「すた、ぷり?」 可愛らしくデフォルメされたロゴには、すた☆ぷり! とある。正弘は、うぎゃあ、と変な声を上げる。 「あの時は一番出来がいいと思ったんだがそうでもなかったんだ! お願いだぁ、読まないでくれ!」 「そこまで、拒否されると、いっそ、読みたくなるんですが」 透がぺらぺらとページをめくると、正弘は泣きそうになった。 「コマ割りも悪ければデッサンも間違えているしストーリーはおかしいしキャラはただの馬鹿で…ああ…」 「それね、マサの描いた漫画」 静香が、しれっと言った。正弘は、頭を抱えて座り込んでしまった。 「透…。頼む、それに触らないでくれ…。オレの黒歴史なんだ、ダークサイドだ、火の七日間だ、積み荷を燃やせ、いっそ腐海に放り込みたい、いや、オレが腐海に沈みたい! 汚れているのは土なんだあ!」 「そこまで、言うなら、やっぱり、読まなきゃ、いけませんね」 透は、意地悪く微笑んだ。 「伊集院かれん先生?」 「やめてくれぇ…」 うわあ、と正弘は本当に泣きそうになっている。静香は透と顔を見合わせると、声を揃えて笑ってしまった。 正弘のリアクションがここまで大きいと、いっそいじりたくなってしまう。透は、薄っぺらいページをめくった。 確かに、正弘の言うように発展途上の漫画だった。ペン圧が一定ではないのか、主線の太さもまちまちだ。 だが、色々な意味で面白そうだ。透は正弘の描いた宇宙人でプリンセスな魔法少女を見つつ、思っていた。 屋上に向かった鋼太郎と百合子は、今頃何をしているやら。 百合子の足取りは、頼りない。 バランスが上手く取れないので、足腰が弱い。階段の壁に設置されたバーを頼りにして、なんとか登ってくる。 立ち止まった鋼太郎は、百合子に手を伸ばそうかと思ったが引っ込めた。下手に、手助けをするべきではない。 百合子がサイボーグボディに換装してすぐの頃は、同じフルサイボーグだからということもあり、助けていた。 最初のうちは百合子もありがたがっていたのだが、それではダメだと思ったらしく、自力で頑張るようになった。 そして、意地っ張りになった。体の弱さ故に引っ込んでいた気の強さが、元気になったから表に出てきたのだ。 「大丈夫か?」 最上段にいる鋼太郎は、階段の踊り場にいる百合子を見下ろした。百合子はバーに縋りながら、頬を張る。 「うるさいなぁ、もう! 大丈夫だもん!」 生身であれば、息も絶え絶えといった様子の声色だ。バーを掴まずに二三歩歩くが、呆気なく足元が崩れる。 うぎゃっ、と潰れた悲鳴を上げながら百合子は真正面に転んだ。ここに歩いてくるまでの間に、十回は転んでいる。 オレはそうでもなかったよな、と鋼太郎は思った。自分がフルサイボーグ化した時は、割と慣れるのが早かった。 元々運動だけは得意だったせいか、手足を思うがままに動かす感覚を脳が覚えていたらしく、半月で走行出来た。 そのことを、リハビリ担当の医師から物凄く褒められたので良く覚えている。けれど、百合子はそうではない。 病弱だったために運動らしい運動は一度もしたことがないので、運動するという感覚をまるで知らないのである。 だから、バランスも上手く取れないし、足元も疎かになるし、手足を一気に使えない。つまり運動音痴なのだ。 「ここまで昇ってこられたんだもん、最後までちゃんと行けるんだから!」 百合子は表情を硬め、バーを握って階段に踏み出した。鋼太郎は、腰に両手を当てて胸を張る。 「おう。待っててやるからよ」 「いっ、一年ぐらい、先輩だからってなんだよお! 私だって、すぐに上手くなるんだからぁ!」 「せめて、転ばないようにしろよ? 転んでばっかりいると、そのうち、マジで顔の皮が剥がれるぜ?」 「そんなことにはならないもん! ただ、ちょっと、重心が取りづらいだけなんだもん!」 百合子は二段目に足を踏み出したが、先に一段目に置いた足を上げられず、変な格好で踏み止まっている。 タイミングが計れない、という状況らしい。どちらか一方に重量を掛ければ、その方向に転んでしまうからだ。 鋼太郎は、必死な百合子を眺めていた。微笑ましく可笑しい光景だったが、これを決して笑ってはいけない。 フルサイボーグになった人間が、自分自身の力だけで必ず通過しなければならない、関門のようなものだ。 鋼太郎自身も経験しているので、百合子のことは見守ってやるしかない。鋼太郎は、背後の壁に寄り掛かった。 最初にこの姿になった百合子と対面した時、純粋に感動した。想像していた通りに、彼女は成長していた。 けれど、百合子は事態を上手く把握出来ていないようで、伸びた手足を持て余して顔や体をいじっていた。 鋼太郎の機械式の目とは違う、より生体に近い人工網膜式の目も上手く操れないのか、焦点が定まらなかった。 動作もワンテンポ遅れていて、大人びた雰囲気のある声も機械的で、仕草も百合子の面影はあるが硬かった。 だが、間違いなく百合子だった。鋼太郎が来たと知って安堵した表情も、甘ったれた口調も、何もかもが。 その場で抱き締めてやりたい衝動に駆られたが、撫子や百合子の主治医らがいたので、出来ず終いだった。 リハビリにより、手術直後のいかにもサイボーグ然とした機械的な雰囲気はなくなり、動作も滑らかになった。 しかし、いかんせん経験が足りない。百合子自身が、新しい体と折り合いが取れるようにならなくてはいけない。 鋼太郎は、壁に預けていた背を外した。バランスを取ることに四苦八苦している百合子を見下ろし、言った。 「なぁ」 「うん?」 百合子は、顔を上げた。鋼太郎は、腕を組む。 「お前さ、手術中、っつーか、意識が戻るまでの間に夢って見たか?」 「うん。見たよ」 百合子は五段目に立ち、バーを両手で掴んだ。そうしないと、すぐに落ちてしまうからだ。 「私と私が話をしたの」 「どういう意味だ?」 「んーとね、なんて言えばいいのかな。どっちも私なんだけど、あっちの私はもうこの私じゃないっていうか」 百合子は言葉を探っていたが、そうそう、と頷いた。 「あっちの私はね、私の体じゃないかなって思うんだ」 「体?」 「うん。そんな気がした。なんでかは解らないけど、たぶん、そうなんだって思うの」 百合子は、申し訳なさそうだった。 「もう、あっちの私には会えない。あっちの私は、私の知らないところに、行っちゃったから。ちょっと、あっちの私に悪いことしたかなって思うんだ。十四年も一緒に生きてくれたのに、切り離しちゃったから」 「また会える。それに、体の方は一足先に死んじまっただけだ。だから、もう一度死んで灰になっちまったら、墓石の下で一緒になれるさ。少なくとも、オレはそう思う」 「…そうだね」 百合子は悲しげに目を伏せたが、すぐに表情を戻す。 「それとね、もう一つ、夢を見たの」 「どんなのだ?」 「鋼ちゃんと野球をしてるの」 百合子はとても嬉しそうに笑う。 「鋼ちゃんは、どこの球団かは解らなかったけど、ユニホームを着てマウンドに立っているんだ。ナイターでね、ライトの明かりとかがすっごく綺麗なの。でね、その鋼ちゃんは、前の鋼ちゃんがハタチぐらいになった感じで、結構格好良かったよ。それで、私はバッターだったの」 「お前がか?」 鋼太郎が一笑したので、百合子はむくれる。 「いいじゃないの、夢の中なんだから! それでね、鋼ちゃんが言ったの」 「何を」 「何回まで、試合延長しようかって。だから私、言ったの。行けるところまで、って」 「おう。行けるところまで、行こうじゃねぇか」 鋼太郎も、思い出していた。去年の秋に、フルサイボーグとして目覚める前に夢を見た。 「オレもさ、夢、見たんだぜ。やっぱり、野球やってた。スタンドは満員で、オレは新人エースピッチャーで、九回裏のツーアウトスリーベース。自軍が一点勝ってて、ここで押さえたら勝ちってところで、場面が切り替わっちまったんだ。小一ん時の下校途中で、壁相手に投球練習しててさ、後ろにはお前がいてよ。オレと一緒に帰りたい、って、オレが帰るまで待ってる、ってうるさかったんだぜ」 「それで?」 「そこから先は、良く覚えてねぇよ。一年以上前のことだしな」 でもよ、と鋼太郎は百合子と向き直った。 「たぶん、ゆっこがオレを連れ戻してくれたんだと思うぜ」 「うん。だといいな」 百合子は七段目に足を乗せて体重を移動し、よろけながらも姿勢を維持した。 「私も、鋼ちゃんがいるから戻ってこられたんだよ」 百合子は膝を曲げたり伸ばしたり、つま先からすっぽ抜けてしまったサンダルを戻したりしながら、登ってくる。 八段、九段、十段、十一段、十二段、十三段、十四段。足元を確かめるように、しっかり踏み締めて、歩いている。 最後の段を登り切ると、バーがなくなってしまった。百合子は壁に手を付こうとしたが、その腕を不意に掴まれた。 「ゆっこ」 鋼太郎は百合子を引き寄せ、強く、言い放った。 「好きだ」 07 1/25 |