鋼太郎からのメールが途絶え、百合子は眉を下げた。 すぐにこれだ。百合子としてはもう少しメールをやり取りしたいのに、鋼太郎はたったの一回でやめてしまう。 不満だったが、無理強いは出来ない。仕方なく、百合子はピーチピンクの携帯電話を置き、クッションを抱いた。 リビングの壁際のホロビジョンテレビには、新造されたスペースコロニーが映し出され、ゆっくりと回転している。 穏やかな口調のナレーションが、このスペースコロニーがいかに素晴らしい居住空間か、淡々と説明していた。 スペースコロニーの特集番組なのだが、要はスペースコロニーを手がけた企業のプロモーションビデオだった。 巨大なソーラーパネルを何枚も持つ、銀色の円筒に似た人工衛星が闇に浮かんでいたが、それが切り替わった。 今度は、スペースコロニーの建造計画に携わっている技術者達が、月面基地で研究を行っている映像になった。 「お母さん、ほら、いたよ!」 百合子が声を上げると、リビングの隣のダイニングキッチンから母親の撫子が顔を出し、映像を眺めた。 「あー、また後ろの方にいるわねぇ」 「でもいいじゃん、映るんだから」 ほらほら、と立体的な画面を指差す百合子の隣に撫子は座った。 「まぁ、それもそうね」 「お父さんが次に帰ってくるの、いつ頃かなー」 百合子は、ホログラフィックビジョンの中にいる、研究に勤しむ職員の一人を見つめた。それが父親だった。 白金孝彦。宇宙開発に携わる企業の社員で、去年引き抜かれ、月面基地で様々な研究や実験をしている。 この間まで傍にいた人間がテレビ画面の中にいるのは、少し不思議な気分だった。父親の面差しは、真剣だ。 百合子は、ふと撫子を見上げた。母親の眼差しが、ほんの少し寂しげな色を含んでいるのが見て取れた。 寂しいのは、百合子だけではない。だが、仕方ないことだ。百合子の人造心臓を保つにはそれなりの金がいる。 手術をした後にも、保険は利かないがしなければならない治療が多数あり、次から次へと金は消費されていく。 少しでも百合子の体に良いことをさせるために、と父親は会社に志願して、月面基地へと旅立っていったのだ。 その転勤は急だったので、百合子の念願であった家族旅行は出来ず終いで、両親もとても残念がっていた。 たまに帰ってきても移動で休暇が潰れてしまい、百合子が孝彦に会えるのは一日程度で旅行など出来ない。 だが、いつか必ず行きたい。家族で遠出することは幼い頃からの憧れでもあり、ささやかな夢でもあるのだ。 「夏休みには帰ってくるわよ。今度こそ、百合を海に連れて行ってくれるはずよ」 撫子は、娘の長い髪をそっと撫で付けた。百合子は頷く。 「うん」 撫子は娘の手触りの良い髪を撫でながら、リビングテーブルに置かれた携帯電話に気付いた。 「誰かとメールでもしてたの?」 「うん、鋼ちゃん!」 途端に、百合子は声を弾ませた。 「後でね、透君とムラマサ先輩にもするんだ! アドレスも番号も交換したから!」 「トオル君って、男の子?」 「ううん、女の子。転校生。一年生なんだけど同い年の子でね、左腕が機械のセミサイボーグなの」 「じゃあ、先輩って?」 「村田正弘って言うの。鋼ちゃんみたいなフルサイボーグの先輩でね、落ち着いてて大人っぽい人なの」 「そう。仲良くなれそう?」 撫子が微笑むと、百合子は少し照れくさそうに目を伏せた。 「うん」 あ、でも、まだまだだけどね、と百合子は柔らかなクッションを抱き締めた。余程嬉しいのか、にやけている。 撫子も、嬉しくなっていた。鋼太郎と一緒に登校するようになってから、百合子の表情は一層明るくなった。 元来が明るい性格なのだが、それに拍車が掛かっている。それもこれも、鋼太郎との仲が蘇ったからである。 鋼太郎は、百合子にとってかなり特別な存在だ。病気がちだった百合子に初めて出来た、同年代の友達だ。 彼と疎遠になってしまっていた頃は、百合子は笑うがあまり表情は明るくなく、どことなく寂しそうにしていた。 それが、切っ掛けはどうあれ、以前のような関係に戻った。それからというもの、百合子は毎日はしゃいでいる。 見ているだけで、百合子がどれだけ鋼太郎のことが好きなのか、良く解る。本当に、彼を大事に思っているのだ。 撫子も、鋼太郎という少年は好きだ。少々態度が悪く口も良くないが、それはただの照れ隠しに過ぎない。 なんだかんだで百合子に付き合ってくれる、気の優しい子だ。それは、サイボーグとなった今でも変わらない。 「あーあ、早く明日にならないかなー」 百合子はスリッパを引っ掛けた足を揺らしながら、ソファーに小さな体を沈めた。撫子は、娘を見下ろす。 「だったら、夜更かししないでさっさと寝なさい」 「解ってるよう、それぐらい」 お風呂に入ってくる、と百合子はクッションを投げ出すと、スリッパをぱたぱたと鳴らしながら浴室に向かった。 長い髪を流した背が、廊下に消える。撫子は娘を見送っていたが、浮かんでくる笑みが、押さえられなかった このまま、ずっと元気でいてほしい。もう手術をしなくて済むくらいに、丈夫な体になって大きくなってほしい。 いつもはただ生きてほしいと思っていたはずなのに、百合子の体が安定してきたと見るや否や欲が出てきた。 でも、それぐらいなら願ってもいいだろう。撫子は、夫の姿が失せてしまったホロビジョンテレビに目を向けた。 月が、大写しになっていた。 湯船に浸かり、百合子は息を吐いた。 胸の中央にある人造心臓の充電用ジャックの上に貼った、防水シートがずれていないことを確かめ、力を抜く。 うっかり、ジャックの中に水が入ってしまったら、回路が故障してバッテリーから漏電してしまうかもしれない。 そんなことになったら人造心臓はショートし、一発で死んでしまう。そんな事例も、ないわけではないのだ。 ゆるやかに波打つミントブルーの水面から腕を出し、伸ばしてみる。肉がなく、骨と皮ばかりの腕だった。 普段は服の下に隠れている体は細すぎて小さすぎて、十四歳の体ではない。鏡に映すと、とても痛々しい。 中でも特に痛々しいと感じるのは、胸元だった。手術の大きな傷痕もさることながら、肋骨が浮き出ている。 体が成長していないので二次性徴は訪れておらず、月経も始まっていないので、当然ながら乳房などない。 同じクラスの女子の体は、確実に女らしくなっているのに。百合子は軽い嫉妬心を覚えつつ、胸に手を当てた。 去年の秋の、人造心臓交換手術で出来た傷痕を指先でなぞった。完全に塞がっているが、うっすらと溝がある。 「プール、入れないだろうなぁ」 体力的に無理だろう。人造心臓を大きいものに交換して、やっと体が成長し始めたとはいえ、ほんの僅かだ。 身長もそれほど伸びておらず、体力も付いていない。この状態で冷たいプールに入ったら、体を壊してしまう。 「でも、まぁ、いいか」 鋼太郎と一緒にいられるのだから。学校のプールに入れないことぐらいは、我慢出来ないことではない。 百合子は腕を下ろして湯船に浸すと、足を曲げて膝を抱えた。意思とは無関係に、勝手に顔が緩んでしまう。 鋼太郎もそうだが、友人が増えたのが嬉しくてたまらない。正弘も、透も、どちらのことももっと知りたい。 明日がこんなに楽しみになるなんて、珍しいことだ。今までは明日が来るのが怖くて、嫌な時だってあった。 大きな手術をしなければならない時や、また入院しなければならない時などは、明日が来なければいいと思った。 だが、今は違う。早く明日になってほしい。鋼太郎と一緒に中学校に行って、二人ともっと仲良くなりたい。 二人とどんなことを話そう、どんなことをしよう、などと考えるだけでわくわくしてきて、心が浮き立ってくる。 百合子は、立ち上る湯気で真っ白くなった浴室内を見上げた。気分の良さに任せて目を閉じ、深く体を沈めた。 機械仕掛けの心臓の、鼓動が跳ねた気がした。 風呂から上がり、百合子は髪を梳いていた。 なんとなく伸ばしていたらいつのまにか長くなった黒髪を、何度もブラシで梳く。クセがないので、やりやすい。 春になったとはいえ、この地方はもうしばらく寒い。厚手のパジャマの上に、これまた厚い上着を羽織っていた。 撫子は百合子と入れ替わりに風呂に入ったので、リビングには百合子一人で、テレビの音だけが響いていた。 ホロビジョンテレビには映画が映っており、外国の俳優が派手なアクションを繰り広げ、悪役と争っていた。 整え終えた髪を背中に放ってから、百合子はテーブルからマグカップを取り、温かなミルクココアを含んだ。 淹れてから時間が経っており、少し冷めているので飲みやすい温度だ。半分ほど飲んでから、カップを放した。 目は映画を見ていたが、その内容は頭に入っていなかった。自分から言い出したとは言え、少し不安だった。 鋼太郎も百合子の考えを肯定してくれたが、それでも、正弘と透が本当に受け入れてくれたのか心配になる。 お互いがただの同情で接しているのでは、と思ってしまう瞬間がある。それぞれ、哀れまれるべき、境遇だ。 そうかもしれない。そうじゃないかもしれない。様々な思いが浮かんでは消え、また現れ、ぐるぐると渦を巻く。 友達らしい友達は、鋼太郎だけだった。病院で出来る友達は、先に退院するかいなくなるかのどちらかだった。 学校で会うのは友達ではなく、ただのクラスメイトだ。親しく接してくれるけど、それだけで、深い付き合いはない。 正弘と透とは友達になりたい。同情などではなく、二人という人間をもっともっと知ってみたい欲求が出てくる。 こんなことは初めてだった。だから、その場の勢いに任せて、サイボーグ同好会を始めようと言い出した。 明日が、とても楽しみであると同時に不安にもなる。体の内側を締め付けられるような、緊張が湧いてくる。 「よし」 小さく意気込んだ百合子は、頷いた。 「さっさと寝ちゃおう」 眠ってしまえば、朝が来る。朝になってしまえば学校に行かなければならないし、二人にも会うことになる。 今から不安になっていてもどうしようもない。百合子はココアの残りを飲んでから、テレビを消し、立った。 携帯電話の画面を見たが、やはり鋼太郎からのメールはない。残念に思いながら、ポケットの中に入れた。 キッチンの流しにマグカップを置いてこようと歩き出すと、リビングの電話が鳴り、コール音が繰り返された。 百合子が受話器を取ると、電話機のホログラフィックビジョンが作動し、光の柱に似た立体映像が現れた。 「はい、白金ですがー」 『百合か。お母さんは?』 少々輪郭のぶれた立体映像の中に浮かび上がるのは、父親の孝彦だった。百合子は、浴室を指す。 「お母さんならお風呂。お父さん、仕事終わったの?」 『ああ、一応な。百合は、そろそろ寝るのかな』 「うん。明日も学校だし」 『宿題はちゃんとやったか?』 「う、あ」 言われて、思い出した。百合子が苦笑いに似た形で口元を歪めると、孝彦は諫めるように言った。 『あるんだったら、寝る前にやっておきなよ。湯冷めしないうちにな』 「…うん」 受話器から聞こえる父親の声は、遠かった。月面基地と地球では距離があるので、タイムラグが出来てしまう。 普段はあまり寂しいと思わないようにしているが、電話などで話すと、離れていることを身に染みて実感する。 声と映像は近くても、その実体は宇宙空間を隔てた先だ。締め付けられるような切なさに、唇を軽く噛んだ。 『百合』 孝彦の優しい声に、百合子は表情を戻した。 「大丈夫だよ。宿題やったら、ちゃんと寝るから。お父さんも、忙しいだろうけど無理しないでね」 『ああ、解ってるよ』 百合子は父親の姿を見つめていたが、先程の不安が蘇り、受話器を無意識に握り締めた。 「お父さん」 『なんだ、百合』 「あのね、私ね、新しい友達が出来たの」 『そうか。それは良かったな。お母さんの話だと、鋼太郎君ともまた仲良くなったみたいだしな』 「うん。鋼ちゃんと、また仲良くなった。でね、その友達はね」 百合子は二人の体のことを言おうか言うまいか一瞬迷ったが、言うことにした。 「二人とも、私と鋼ちゃんと同じなの。サイボーグなの」 受話器を握る細い指に、力が籠もる。 「同情なんかじゃ、ないんだ。本当に、友達になりたいんだ。ムラマサ先輩も透君も、好きなんだ。明日、また会うのがすっごく楽しみなの。学校に行って、皆で一緒に話したりするのが楽しくて仕方ないの」 でもね、と百合子は目線を落とした。 「なんだか、ちょっとだけ、本当にちょっとだけなんだけど、怖いんだ」 『何が?』 孝彦に問い掛けられ、百合子は少し言葉に詰まった。 「鋼ちゃん以外の人と友達になるのって、私、初めてだから、色んなことぐちゃぐちゃ考えちゃって。だから、なんか、楽しみだけど不安っていうか、そんな感じで。でも、本当に楽しみなんだ、でも、怖いのも本当なんだ」 受話器を握り締めて身を縮めている百合子に、立体映像の父親は優しく笑んだ。 『仕方ないさ、初めてのことなんだから。初めてなら、誰だって不安になる』 「本当?」 百合子の弱々しい問いに、孝彦は頷く。 『僕だって、百合が産まれた時は物凄く嬉しかったけど不安にもなったさ。これからお母さんと百合を支えていけるんだろうか、ってね。だけど、蓋を開けてみればなんとかなっている。それと一緒だよ、百合』 「うん、そうだね。頑張る」 まだ不安は残っていたが、百合子は笑みを戻した。孝彦は、目元を緩ませる。 『そうそう、それでいいんだ。無理はしない程度に、だけどやれるだけ、頑張ってみな』 「おー!」 百合子は小さな拳を掲げ、声を上げた。孝彦は、手を伸ばして立体映像の外に出した。電話を切るようだ。 『じゃあ、一旦切るね。お母さんが風呂から上がる頃にでも、もう一度掛けることにするよ。おやすみ、百合』 「おやすみなさい、お父さん」 百合子が返すと、電話は切られ、父親のホログラフィックも消え失せた。百合子は、受話器を電話機に置いた。 嬉しいのも、楽しいのも、少しだけ不安なのも、どれも本当だ。これからどうなるかなんて、誰にも解らない。 だが、父親の言うように、蓋を開けてみなければ解らない。きっと悪いようにならない、と根拠なく確信した。 キッチンの流しにマグカップを置き、中に水を満たしてから、二階の自室に向かうべく階段を昇っていった。 二階の北東側にある自室に入ると、壁のスイッチを入れてライトを付ける。ベッドに腰掛け、両の拳を固めた。 こんな状態では、宿題に集中出来るとは思えない。明日や皆のことが気になって、勉強どころではない。 しかし、やらなければならない。百合子はベッドから腰を上げると、椅子を引いて机に向かってプリントを広げた。 けれど、さっぱり集中出来なかった。 06 10/12 |