非武装田園地帯




第四話 発足、サイボーグ同好会



 粘着質な、濡れた足音。影が、視界を過ぎる。
 視界の中で、何かが、踊る、踊る、踊る。動かない物体に目掛け、振り下ろす、振り下ろす、振り下ろし続ける。
砕ける。散る。裂ける。割れる。流れる。噴き出す。落ちる。温いもの。熱いもの。そして、どす黒く、赤いもの。
 赤、赤、黒、白、赤。

 鉄の味。塩の味。胃液の味。


 覚えているのは、それだけだ。




 嘔吐感を覚えて口元を押さえたが、硬い指先に触れたのは冷たいマスクだった。
 休眠状態から覚醒状態へと切り替わると、自動的にオフになっていた視界が戻り、明確な映像が脳に送られた。
何度見ても、いいものではない。忘れようと思っても忘れられない記憶は、時折、断片的にだが蘇ってくる。
声だけであったり、感触だけであったり、味だけであったり、映像だけであったり。だが、一部分だけでも強烈だ。
医者によれば、無意識に精神が防衛を行っているのだ、と言う。確かに、全てを見てしまうよりは遥かに楽だ。
 けれど、気分は良くない。正弘は倦怠感を伴った頭痛を感じながら、体を起こし、側頭部を押さえて頭を振った。
目の前に広げてある教科書と参考書を見て、宿題をやりながら居眠りをしてしまったのだ、と正弘は認識した。
なんとも、らしくないことだ。それほど疲れることをした覚えはない。そもそも、この体は疲労を感じない肉体だ。
 七歳の頃から慣れ親しんだサイボーグボディは、関節が摩耗したり消耗したりすることはあるが、それぐらいだ。
生身の体が感じるような感覚は、一切ない。あるのは電子的な刺激と感覚、そして、殻の中にいる気分だけだ。
サイボーグボディの内側にあるのは、ただ一つ残った生身の部分、脳髄だけだ。正弘が正弘なのはここだけだ。
 この機械の体は自分の体と同じように操れるが、操れるだけであって、この体が自分自身であるはずもない。
自分ではない体を操る奇妙な気分や、脳に走る電気信号の異物感は、慣れと共に失せたが違和感は消えない。
一つになど、なれはしない。正弘は脳髄に染み渡るずしりとした鈍い感覚を持て余しながら、顔を上げた。
 付けっぱなしにしていたホロビジョンテレビは、野球中継を映している。タイガース対ジャイアンツ戦だ。
九回裏で同点になったので延長戦にもつれ込み、今は十一回表だ。両軍とも得点は八点で、攻防を続けている。
なかなか面白い試合だ。これからどうなるか気になるところではあったが、宿題を片付ける方が先だと思った。
 教師から渡されたプリントに書かれた方程式を、ルーズリーフに書き写してから、そちらで丁寧に解いていく。
勉強は嫌いではないがそれほど得意というわけではないので、時間を掛けなければ、確実に出来ないのだ。
 眠る前まで解いていた方程式を終え、次の方程式に手を付け始めた頃、テーブルの端で携帯電話が震えた。
正弘はシャーペンを手元に置いて、メタリックグレーの携帯電話を手にしてフリップを開くと肩を落とした。

「またか」

 届いていたのは、短いメールだった。正弘の保護者である人間は、今夜、ここには帰ってこられないらしい。
それ自体は、いつものことだ。身内のいない正弘の保護者という名目だが、所詮は、他人同士でしかない。
保護者は、サイボーグ関連の医療器具会社に勤めている社員で、残業が多く定時で帰ってくることは少ない。
 正弘は、八年前の事件で家族を失っている。両親、兄弟、祖父母が一度に殺され、正弘は一晩で孤児になった。
その事件は、鮎野町で起きたわけではない。正弘が最初に住んでいたのは、鮎野町から遠く離れた他県の町だ。
都市部から少し離れた静かなところで、鮎野町よりは発展していたが、それでも充分田舎と言える土地だった。
 正弘の家は、その町の中心部近くにあった。それなりに人通りのある通りに面した、二階建ての一戸建てだ。
事件は、唐突に起きた。六月七日の夕方、リビングで昼寝をしていた正弘は、激しい物音で目を覚ました。
鈍く粘ついた、何かが叩き潰される音。誰かの叫声。凄まじい生臭さ。それが何か察する前に、切られた。
腕と足と言わず、至るところを滅茶苦茶に切られ、痛みで気を失った。先程の夢は、その直前の記憶の断片だ。
致命傷だった。だが、運が良かったのか頭部だけは無事で、搬送された病院でサイボーグ化手術を施された。
 八年も過ぎた今でも、未だに犯人の目星は付いていない。警察の捜査も、事件当初に比べて鈍ってきた。
悪い夢のような、しかし確かな現実だ。家族は全員死んでいるし、自分の目の前にある手は機械で出来ている。
その手にめり込んだボールの感触を思い出し、正弘は心中に苦々しい思いを感じて、力任せに握り締めた。
 苛々する。気に食わない。妬ましい。ボールを投げた主の姿を思い起こすよりも先に、正弘は項垂れた。
とても嬉しいはずなのに。鋼太郎は、百合子は、透は、友人だ。まだ付き合いは浅いが、大事にしたい。
その彼らに対して、こんな嫌な感情を覚えてしまう自分が更に嫌だった。根源が嫉妬なのが、余計に嫌だ。
 特に鋼太郎だ。半年ほど前に交通事故で体を失ったが、他のものは、正弘から見れば失っていないも同然だ。
羨ましいどころか、いっそ妬ましい。カーブが投げられないようだが、それぐらい、別に大したことではない。
 鋼太郎のことは嫌いではないし、むしろ好きな部類だ。態度こそ荒っぽいが、彼は決して悪い人間ではない。
これからも付き合っていきたいし、仲を深めたいと思う。だからこそ、妬ましいと感じるのが、とても嫌だった。
不幸なのはどちらも同じだ。ただそれが、鋼太郎の場合は事故で、正弘の場合は殺人鬼だったというだけだ。
比べるべきではないし、本来、比べようがないことだ。二人のどちらがより不幸か、など計れるものではない。
 それに、サイボーグというものは下手に哀れまれると辛いのだ。安っぽい同情をされると、うんざりする。
望んでこの体になったわけではないが、かといって、可哀想に、と好奇心半分に言われて気分が良いはずがない。
 体は機械でも、中身はれっきとした人間である。なんとか生きていこうと、必死になって日々を過ごしている。
それが、まるで特別なものであるかのように見られるのは不可解であり、不愉快だ。鋼太郎も、そうなのだろう。
だから、嫉妬など感じたくもない。そう思われていると知ったら、気の良い鋼太郎とて嫌な気持ちになるだろう。
 なんとかして、気持ちを切り替えよう。正弘はテーブルから離れるとベランダに向かい、履き出し窓を開け放った。
夜風が滑り込んできたが、冷たさは感じなかった。冷え切っている手すりに寄り掛かり、街並みを見下ろした。
 正弘の住んでいる町営住宅は、鮎野町の中心でもある鮎野駅のすぐ傍に建っている、四階建ての一番上だ。
身寄りのない正弘は、サイボーグ化手術の際に自衛隊と契約を結び、将来は自衛官になることになっている。
 サイボーグは大衆に浸透したが、それでも数は少ない。よって、自衛隊に所属しているサイボーグも数は少ない。
通常の人間に比べれば、驚異的な耐久性とスタミナを持っているサイボーグは、戦闘員に相応しい存在と言える。
今後の国防を担う、不可欠な人材だ。なので、自衛隊を始めとした政府機関はサイボーグを優遇している。
 サイボーグ化した際に自衛隊などに志願さえすれば、就職するまでの間治療費などを全額保証してくれるのだ。
生命を維持するための定期メンテナンスは欠かせないが、その治療費は一般の診療に比べれば相当な額だ。
保険適応外のものも多いが、治療を続けなければ、サイボーグボディと脳髄を保っていくことは出来ない。
定期的な診察やメンテナンスを行うだけで、普通に働いて稼ぐだけでは到底まかなえない額になってしまう。
それを、政府機関に就職すれば、或いはするという約束をすれば、政府はその治療費を負担してくれる。
 自分の命と体の安全を引き替えに、国に身を差し出せという取引をさせられているも同然だが仕方ない。
そうでもしなければ体を保っていくことが出来ないサイボーグも多く、また、国もサイボーグを欲している。
サイボーグと日本政府の関係は、良く言えばギブアンドテイクだ。お互いがお互いを利用し合っている。
自衛隊や警察に入れば生活は安定するが、その代わり、生身では出来ない過酷な仕事ばかりが待っている。
 生活を保証される代わりに、日常から懸け離れた世界に入るか。それとも、不安定ながら日常を続けるか。
鋼太郎が選んだのは後者のようだが、正弘が選んだのは前者だ。生きていけるなら、それでいいと決めた。
 眼下に広がる街並みは、寂れている。家々の窓からは明かりが零れているが、駅はひっそりとしている。
それもそのはず、鮎野駅にやってくる電車は一時間に一本がいいところだ。路線バスも、似たようなものだ。
人間が少ないから需要がないので、必然的に本数は減る。静かでいいが、たまに静かすぎると感じる時もある。
鮎野町の隣の市、一ヶ谷市や都市部などは発展を続けているのに、ここだけは時間が止まったかのようだ。
 不意に、ホロビジョンテレビから歓声が溢れ出した。条件反射で振り返ると、ホームランが打たれていた。
ランナーは一塁、二塁、三塁、と満面の笑みで駆け抜けてホームベースを踏み締め、仲間と抱き合っている。
十一回の裏、八対九でジャイアンツの勝利だ。鋼太郎はタイガースファンなので、悔しがっているだろう。
 ふと思い立って、正弘は携帯電話を手にした。袖を捲って手首の内側から細いケーブルを出し、接続する。
意思を送ると、瞬時に画面がメール作成画面に切り替わった。体を操る要領で、文字を入力していく。
 そのメールを、鋼太郎に送信した。先程までの嫉妬が薄らいだ代わり、少しばかり意地悪心が出た。
すると鋼太郎からは、メールではなく電話が返ってきた。正弘が受けると、鋼太郎はやや不機嫌そうだった。

『…先輩も見てたんすか、中継』

「端からだけどな」

 ベランダに戻って手すりにより掛かり、正弘は返した。電話口の向こうで、鋼太郎はむっとしているようだ。

『あそこで打たれなきゃ、十二回の表で金木が打ってたはずなんすよ!』

 金木というのは、タイガースの主力バッターの名である。正弘も、スポーツニュースで聞いた覚えがあった。

『前回は守備が甘かったくせに、なんで今回はきっちりしてるんだよ!』

「そりゃ練習したからだろう」

『昔は守備があんなにザルだったのに! トンネルし放題だったくせに!』

「ひどいな」

『事実じゃないっすか』

「それを言うなら、タイガースだって去年のリーグ成績は最下位だったじゃないか」

『それだけは言わないで欲しかったなぁ…』

 あーもう、と受話器の向こうで鋼太郎は嘆いた。

『でもだからって、トラが負けたな、ご愁傷様、はないんじゃないっすか』

「けど、それ以外に言いようがないだろう」

 正弘が少し笑うと、鋼太郎は語気を弱めた。

『そりゃあまぁ、そうかもしんないっすけど』

「鋼。なんでお前、電話にしたんだ? オレはメールにしたんだが」

『面倒じゃないっすか。あの小さいボタンを打つのが。こう、指の角を使わなきゃならないし』

「外部接続用ケーブルを引っ張り出して繋げればいいじゃないか。それで、大抵のものは操作出来るぞ」

『え? あれって、そういう使い方も出来るんすか?』

「当たり前だ。病院とかで教えてもらわなかったのか?」

『オレが教えてもらったのは、視覚とか聴覚とか、その辺の感覚を使うものだけだったんで』

 あー、そうなのかぁ、と鋼太郎はしきりに感心している。そのリアクションが、正弘には新鮮に思えた。

「本当に知らなかったのか?」

『知らなかった、っつーか、まだ体に慣れるだけで手一杯で』

「オレが教えられる範囲だったら、教えてやろうか」

『いいんすか?』

「鋼さえ構わなきゃ、別にいいぞ。せっかくなんだ、有効に使わなきゃ勿体ないだろう」

『あ、じゃあ、よろしくお願いします』

「ああ」

 鋼太郎と話していると、気持ちが落ち着いてきた。鬱屈とした重たいものは、いつのまにか解けていった。
正弘は安堵した。一人で思い悩んでいるから、ダメになる。感情も、外へ向けてしまえば良いだけのことだ。
本心は、嬉しくてたまらない。だが、心に掛けてあるストッパーを全て外せていないから、捻くれた思考になった。
故に嬉しさが歪んで嫉妬へと変貌したのだろう。解りやすいようでいて解りづらい、なんとも面倒な話だ。
 本当に、素直じゃない。正弘は自分に呆れながらも、鋼太郎との電話に意識を戻した。鋼太郎は言った。

『んで、ムラマサ先輩、ゆっこのアレってどう思います?』

「あれって、昼休みに言っていたアレか?」

『そう、アレっす、アレ』

 お互いのアレが何を指しているのか解っているので、鋼太郎と正弘は、主語の抜けたやり取りを繰り返した。

「アレ、なぁ」

 要するに、今日の昼休みに百合子が宣言したサイボーグ同好会のことだ。正弘は、内心で微笑む。

「まぁ、いいんじゃないのか。連むだけなんだから、名前があってもなくても別に変わらないだろうけどな」

『オレもそう思うんすけどねー。けど、ゆっこの奴、言い出したら聞かないっすから』

「鋼の押しが弱いんじゃないのか?」

『反論出来ねぇのがマジ悔しいっす』

 と、鋼太郎はいやに気弱な声で漏らした。正弘は、つい笑ってしまう。

「ゆっこはあれで結構強引だからなぁ」

『困ったもんすよ。もうちょい謙虚だったら良いのに。んじゃ、先輩、また明日』

「ああ」

 正弘が言葉を返すと、鋼太郎は電話を切った。視界の隅に表示される時刻表示を見ると、夜も遅くなっている。
そろそろ眠らないと、明日に差し支えが出る。サイボーグといえど、休眠は取らなければ、気力が持たなくなる。
付けっぱなしのホロビジョンテレビは、野球中継から夜のニュース番組になっており、世界情勢を伝えている。
チャンネルを変えてみたが、興味のないドラマや番組ばかりだったので、結局ニュース番組に戻すことにした。
 改めて宿題に集中するべく、テーブルの前に腰を下ろした。もうしばらく、方程式と格闘しなければならない。
先程少し眠ったおかげで、頭はすっきりしている。時間を掛けずに終わらせたいが、そう上手くいくだろうか。
上手くいかないだろうな、と自嘲しつつ、正弘は方程式に集中した。鋼太郎との会話の余韻が、まだ残っている。
 他愛もない、どうでもいい雑談だ。会話の中身などないに等しく、やり取りした言葉も大したものではない。
なのに、妙に気分が良い。浅い眠りの中で見た、どろどろとした暗い夢で感じた嫌な苦しさなど忘れそうだ。

「また明日、か」

 そんな言葉を言われたのは久々だ。正弘は、自分でも変だと思うほど浮つきながら方程式を解いていった。
浮かれているせいでなかなか入り込めず、やはり時間は掛かってしまい、日付が変わる頃にようやく終わった。
 メインの動力であるバッテリーが消耗してきたので、ケーブルを伸ばして充電を行いながら、正弘は床に就いた。
の、はずだったのが眠れなかった。遠足前日の小学生のような心境で、正弘は無意味な寝返りを繰り返した。
 寝付けたのは、それから大分後だった。





 


06 10/13