アステロイド家族




赤き誇り、青き猛り



 函館行きのチェイスは続いていた。
 マサヨシはHAL号の操縦桿を動かしながら、金色の光線による弾幕を放ってくるケイオスから逃げ惑っていた。
当初は反応が鈍かったケイオスも、マサヨシと交戦する間に自我が育ってきたらしく、徐々に反応が良くなった。
はいはいをしていた乳児が掴まり立ちを覚えて歩き出すかのように、ケイオスの放つ攻撃は確実に上達していた。
弾幕にしても、ただ直進するだけのビームから追尾式のものに進化し、HAL号の翼を何度か掠めたほどだった。
 直撃はなんとか避けているが、それがいつまで持つか解らない。一刻も早く本州を出たかったが難しそうだった。
ケイオスもマサヨシの作戦に薄々感付いたらしく、HAL号が本州から出ようとするとすぐさま弾幕を浴びせてくる。
何があるか解らないがとにかく危険そうだ、とでも思っているらしく、ケイオスが吐き出す鳴き声も低くなっていた。
手間取るのは良くないと思うが、サチコによる水素爆弾制御プログラムの書き換えは未だに完了していなかった。
切り札が手に入っていないのに、下手に函館に誘導して肝心の水素爆弾を破壊されてしまっては元も子もない。
 日常であれば、十五分など一瞬で過ぎ去ってしまう。特に、ハルと戯れていると、一時間や二時間など呆気ない。
しかし、今ばかりは十五分が永遠のように長い。マサヨシはケイオスの弾幕を避けたが、避けきれずに迎撃した。
 HAL号の船腹に装備されたパルスビームガンから溢れた閃光が、金色の弾を貫くが、砕けるだけで消滅しない。
細かな金色の粒子となって辺りに飛び散るのだが、従順にケイオスの元に戻り、再びその肉体の一部と化した。
アウルム・マーテルとは、高エネルギー集積体を指す言葉ではない。分子一つ一つを指し示す言葉だったのだ。

「サチコ、そっちはどうだ!」

 マサヨシはパルスビームガンの残存エネルギーを確認しながら叫ぶと、サチコがヒステリックに喚いた。

〈私の方は順調なんだけど、あっちの処理速度が遅すぎるのよ! ローテクノロジーにも程があるわ!〉

「なんとかならないのか!」

〈無茶言わないでよ、私だって精一杯なんだから!〉

 サチコの泣きそうな声色に、マサヨシは舌打ちした。それは、HAL号の動きが激しすぎるからでもあるのだろう。
機体の動きが激しければ激しいほど、サチコの膨大な処理能力はマサヨシの感覚に同調させるために消耗する。
急上昇や急降下の際に発生するGをその都度緩和するだけでも、人間には窺い知れないほどの計算が必要だ。
 いかに生体改造体と言えど、映像も補正されなければ目が追い付かない。その上、地球には大気が存在する。
機体に掛かる過負荷は、サチコへの過負荷となる。宇宙空間と同じように飛べば飛ぶほど、過負荷は増大する。
しかし、ケイオスを相手にするのは並大抵のことではない。強引に出なければ、あっという間に墜とされてしまう。
奥歯を噛み締めすぎて、顎が震える。恐怖を超越した生物の本能的な警戒心が、マサヨシの心臓を握り潰した。
けれど、怯んでいる場合ではないと恐怖を感じた心に鞭を打ち、緊張で感覚の弱ってしまった指先に力を込めた。
 千葉県沖から飛び立ってから数分しか経っていないが、HAL号とケイオスは本州を越えて日本海に出ていた。
本当は、すぐにでも北海道に向かうつもりだった。だが、思ったよりもケイオスに手こずり、なかなか振り切れない。
目まぐるしい空中戦を繰り返すうちに針路はずれていき、日本アルプス山脈を越えて能登半島から日本海に出た。
 これもまた、海とは言い難い海だった。干涸らびた海底はひび割れていて、大陸からの暴風が吹き荒れている。
マサヨシは海底すれすれに降下し、飛行した。ケイオスは律儀にその後に続き、HAL号の背後へ向けて連射した。
HAL号が機体を捻ると船腹の真下を金色の弾丸がすり抜け、前方で着弾し、ひび割れた海底から砂煙が昇った。
熱の混じった煙の中を突破したHAL号は急上昇したが、ケイオスもまた急上昇し、ぎちぎちぎちぎちぎちと鳴いた。

「笑ってやがる」

 ケイオスの不気味な鳴き声に、マサヨシは毒突いた。

〈マサヨシ、出来るだけケイオスから離れて! 私の通信電波じゃ、アウルム・マーテルの放出するエネルギー波に負けちゃうのよ! 今、大事なところなの!〉

「善処するよ、お姫様!」

 マサヨシは大陸側に針路を合わせると、旋回した。ケイオスは雛鳥のような愚直さで、HAL号の後を追ってくる。
戦っている最中に、姿が変化していた。機械生命体に似た装甲が溶け、生物じみた張りつめた筋肉に変わった。
金色の翼も柔らかな皮膚に変わり、単眼の周囲には太い血管が現れ、歯の並ぶ口からは涎を垂らし続けている。
しかし、細部は機械だ。血管に見えるものはケーブルで、皮膚に見えるものは軟質の金属で、厚い筋肉も同様だ。
外見は生物に近付いていくが、本質は変わらない。無機物と有機物の狭間を行き来する、無様で醜悪な生物だ。
 サチコの指示通り、マサヨシはケイオスとの距離を広げるべく加速するが、ケイオスとの距離は広がらなかった。
敵の反応が早すぎて、距離を開けることが出来ない。リードしたと思っても、すぐさま間を詰められて砲撃される。
その間にも、北海道との距離は開く。大陸側に逃げることは、残存エネルギーから考えても無意味な行動だった。
仮に大陸側でケイオスを引き離せたとしても、加速に次ぐ加速と攻撃で消耗しているHAL号には勝ち目はない。
短時間で決着を付けなければ、ケイオスに掴まり、喰われる。そのためにも、水素爆弾の破壊力が必要なのだ。

〈マサヨシ、一つ提案があるの〉

 サチコは平坦ながらも強張った声色で、マサヨシに伝えてきた。

〈HAL号に搭載しているスパイマシンを、全機船外にばらまいてほしいの。ばらまいた地点から離脱すれば、私はそのスパイマシンを中継地点にして通信電波を函館地下基地に送れるわ。それに、スパイマシンがなくなればHAL号の重量も少しは減るから、燃料の消耗も押さえられるかもしれないわ〉

「だが、いいのか? スパイマシンはお前の体だぞ?」

〈大丈夫よ。コロニーに帰れば、マサヨシがプレゼントしてくれたドレスはまだまだあるんだから!〉

「そうだな、大分貢いだもんな」

 女性らしい言い回しに、マサヨシは笑みを零した。手元のパネルを操作し、格納庫のハッチのロックを外した。
レッドアラートが点滅し、非常警報が鳴り響く中、マサヨシはHAL号を傾けて格納庫からスパイマシンを投下した。
全面モニターの端から、彼女が常用している眼球に似たスパイマシンを始めとした複数のマシンが落下していく。
ケイオスは日本海に落ちていくスパイマシンに少しばかり興味を取られたようだが、追いかけることはなかった。
それに軽く安堵しつつ、マサヨシは針路を再度変更した。大陸側ではなく、北海道側へ機首を定めて飛び出した。

「残り時間は?」

〈後五分で完了するわ! プログラムの書き換えと同時にデバッグも行っているから、テストする必要はないわ!〉

「頼むぞ、今はお前だけが頼りだ!」

 マサヨシはケイオスとの距離を開けつつも、あまり引き離してしまわないように気を付けながら上昇していった。
相手が相手なので振り切れるわけはないのだが、距離を開けすぎて爆発のタイミングがずれるのは防がねば。
ケイオスはぎりぎりと金属を擦り合わせたような騒音を起こして、HAL号の尾翼に届かんばかりに手を伸ばした。
娘と同じ名を付けた尾翼に金色の指先が触れそうになり、マサヨシはアフターバーナーの範囲を急激に広げた。
突然の高熱に驚いたのか、ケイオスは手を引っ込めた。不機嫌そうに鳴き声を撒き散らし、更に追いかけてくる。
 四分三十秒。四分二十秒。四分十秒。モニターの端に表示されている、サチコのカウントダウンが減っていく。
その下に伸びていたプログラム書き換え状況を表すバーも次第に短くなっているが、まだ完了には程遠かった。
だが、チャンスはただ一度しかない。水素爆弾が起爆可能になるまでの間だけは、マサヨシは死んではいけない。
 ケイオスはHAL号を捕まえられないのが余程面白くないのか、上体を反らして、がちがちがちと歯を鳴らした。
翼を形成している分子を細かく分離させ、再凝結させる。サチコのスパイマシンに似た、分身が無数に生まれた。
目玉に似たカメラ、耳に似た集音器、口に似た拡声器、チョウに似た探査機、昆虫に似た超小型マシン、などが。
それらはケイオスの視線に従い、一斉にHAL号に突っ込んできた。マサヨシは緊急回避し、分身から逃げ出した。
ケイオスも充分素早いが、巨体故にモーションが大きく、多少隙が出来るおかげでやり合えていたようなものだ。
だが、サチコのスパイマシンと大差のない体積の分身では、物理的な問題でHAL号など簡単に追い抜かれる。
 無数の金色のスパイマシンはHAL号に急接近し、HAL号を包み込むように浮かぶと、一斉に光線を放った。
マサヨシは、燃費が悪いので出来れば使いたくなかった兵器、シールドを瞬時に形成してHAL号全体を守った。
一つ一つの威力は大したことはないが、集中攻撃されると厄介だ。視界は金色に染まり、光の洪水に襲われる。
パイロットの命であり戦い抜くための最大の武器である目を保護するため、マサヨシは内蔵のバイザーを出した。
遮光バイザーによって閃光はある程度遮断されたが、根本的な解決ではない。応戦しなくては、押し切られる。
この状態でケイオス本体からの攻撃を受けては、シールドなど一撃で吹き飛ばされ、マサヨシも消滅するだろう。

「捨て身の攻撃、ってのは趣味じゃないんだがな」

 マサヨシは手早くコンソールを叩いて全面モニターの光量を調節して、ケイオスの大量の分身の姿を視認した。
絶え間なく撃ち込まれる金色の光線を凝視する。改造された反射神経と動体視力を最大限に使い、全てを視る。
何度も何度も交戦していると、ケイオスの攻撃も無秩序ではなく、何かしらのパターンに則っていることが解った。
 いかに膨大なエネルギーを凝縮させたエネルギー生命体とはいえ、変質させる寸前に僅かながらラグがある。
だが、一秒もないラグだった。そのラグを長引かせるためには、分子を出来るだけ多く掻き乱さなければならない。
ビームを当てても、貫通するだけなので特に意味はない。意味があるとすれば、質量と熱量を伴った攻撃だけだ。
 ならば、答えは一つだ。マサヨシはあまり気が進まなかったが、イオンエンジン一基を切り離す準備に掛かった。
どのエンジンもフル稼働しているので、一基でもバージするとバランスもスピードも落ちるが、これしか方法がない。
残存したエネルギーの大半を注がれて、過熱するほど稼働しているイオンエンジンは悲鳴のような唸りを上げた。
エンジンを落下させた瞬間に狙撃し、そしてシールドを解除し、再構成する。その作業を、一瞬で行う必要がある。
サチコの助けがなければ不可能だ。マサヨシは手早くサチコに作戦を説明してから、イオンエンジンを切り離した。
 一、撃つ。二、シールド解除。三、シールド再展開。HAL号がシールドの内側に戻った瞬間、外側では爆発した。
粉々に砕け散ったイオンエンジンの破片は、無数のスパイマシンに降り注ぎ、金色に輝く小さな体を切り裂いた。
質量が小さすぎて再生出来ずに、その場で金色の粒子に戻るものもあれば、なんとか持ち堪えているものもある。
マサヨシはまたシールドを解除して金色のスパイマシンの包囲網から脱出すると、北海道への飛行に専念した。
だが、案の定バランスが崩れている。切り離したのは左翼の加速用イオンエンジンだったので、加速が鈍かった。
右翼にばかり力が入ってしまうので意味もなく旋回しそうになったが、逆噴射を行って姿勢を保ち、北へ直進した。
 三分五秒。二分五十二秒。二分四十七秒。無数の分身達を吸収したケイオスは、執拗にHAL号を追ってきた。
今までになくあっさり追い付かれ、マサヨシは若干焦った。加速用イオンエンジンを捨てただけで、こうも違うとは。
 ケイオスの手が、遂にHAL号に及んだ。上向いてしまった左翼に爪が埋まり、破損した外装が千切れて落ちる。
マサヨシは急加速して振り切ろうとするが、ケイオスの力が強すぎて、振り切るどころか引き留められてしまった。
 ケイオスの爪がHAL号の左翼のフレームに掛かり、空しく切れる。彼にしてみればプラモデルよりも脆い機体だ。
左翼を引き千切られれば、大気圏での飛行は不可能になる。反重力装置を使っていても、バランスが取れない。
マサヨシはイオンエンジンを全開にして、今、出せるだけの出力を出し切ると、ケイオスの爪先が左翼から抜ける。
そこまでは良かったが、後がまずかった。左翼を破損したために気流が乱れ、HAL号は横転しながら落下した。
 二分八秒。一分五十五秒。一分五十一秒。落下の最中にマサヨシは機首を上げ、辛うじて墜落だけは免れた。
けれど、姿勢が保てない状態は変わらなかった。津軽海峡の海底に機体の底面を擦ってしまったが、上昇した。
函館は北海道の南部に位置する都市だ、海峡を突破すればすぐだ。だが、それ以前に海峡を脱出しなければ。
後方で、巨大な粉塵が舞い上がった。海峡内に飛び降りたケイオスが、海底を踏み鳴らしながら駆け寄ってくる。
 このままでは、空に戻るより先に踏み潰される。マサヨシはかなり無理矢理に機体を上げたが、機体が傾いた。
だったら開き直るまでだ、とマサヨシは右翼の加速用イオンエンジンを切り、機体後方のエンジンだけで加速した。
バランスは取れないままだったが、先程よりも大分マシだった。HAL号は一気に海峡を抜け、海岸を駆け上がる。
 一分二秒。五十八秒。五十三秒。四十九秒。四十五秒。海岸から地上に出てすぐに、目当ての都市はあった。
人間が生活していた名残である建物の骨組みがいくつかあったが、種族間戦争の核攻撃で鉄骨は溶けていた。
サチコによると件の地下基地は函館山地下にあるそうなので、マサヨシは回転する機体を市街地西部に向けた。
函館山は、一目で解った。長い年月で岩盤が割れて土砂が崩れ落ち、地下基地の一部が斜面から覗いていた。
 三十秒。二十六秒。二十秒。十八秒。マサヨシは、朽ちた木々が生えた函館山の表面を舐めるように飛んだ。
哀れなほどに素直なケイオスは、HAL号に付いてくる。マサヨシは山頂の発射口に接近すると、垂直に上昇した。

〈全速離脱!〉

 カウントダウンがゼロになった瞬間、サチコが合図した。マサヨシは宇宙まで向かうつもりで、上昇を続けた。
HAL号の機影が函館山の遙か彼方に消え、ケイオスの巨体が山頂に至った直後、破滅を生み出す光が迸る。
 函館山から成層圏を突破する寸前の高度まで離脱していたHAL号にも、水素爆弾が炸裂した震動は伝わった。
歴史の授業などで嫌になるほど目にしたキノコ雲が立ち上がり、北海道南部と本州北部が円形に抉られていた。
旋回しながら降下を始めたマサヨシは、つい今し方まで函館山山頂と呼ばれていたクレーターの中心を凝視した。
 ケイオスは、生きていた。水素爆弾の爆心地で核爆発をまともに浴びたはずなのに、二本の足で立っていた。
だが、様子はおかしかった。長い腕は肩から砕けて足元に転がり、翼もでろりと溶け、顎からは牙が零れていた。
核爆発の衝撃で分子の結合が緩んだらしく、壊れた部分からは金色の分子が漂い、ケイオスを取り巻いていた。
やはり、金色の分子は消滅していない。マサヨシは悔しさで唸り、函館山に接近しながらサチコに命令を下した。

「サチコ! 今すぐケイオスの土手っ腹にワープゲートを開け! 入り口は最小で、出口は最大で設定しろ! 出口は太陽系から離れていればどこだっていい、ついでに不純物も存分にプレゼントしてやれ!」

〈でも、それじゃ根本的な解決にはならないわよ?〉

「どのみち、俺如きが勝てる相手じゃない。だが、再生するまでの時間を引き延ばせればそれでいいんだ!」

〈…解ったわ〉

 サチコの声に、僅かに躊躇いが混じった。マサヨシはそれを訝る余裕もなく、ワープゲート発生座標を設定した。
HAL号から照射されたワープエネルギーがケイオスの腹部に埋まり、弾け、異空間に繋がる穴が造り出された。
 異なる空間同士が人工的に接続された際に発生する吸引現象が起こり、ケイオスの構成分子が吸引された。
悲痛な鳴き声を上げ、ケイオスは身を捩った。だが、一旦発生したワープゲートは、ケイオスであっても塞げない。
放射能に汚染された大量の砂と共に、落ちた腕が吸い込まれ、液状化した翼の一部が飲み込まれ、消えていく。
まだ気は抜けないが、これならば。マサヨシが口元を緩めると、サチコの落ち着いた声がヘルメット内に響いた。

〈一機だけでもスパイマシンが動くなんて、奇跡だわ。これはきっと、神様からの贈り物に違いないわね〉

 マサヨシは彼女の並べる言葉に困惑し、問い掛けた。

「サチコ、お前は何を言っているんだ?」

〈私、あなたに言っていなかったことがあるの。水素爆弾制御プログラムを書き換える作業はHAL号のコンピューターで行っていたんだけど、少しでも処理が早くなるように、私の人格プログラムをスパイマシンにコピーしてから本体の人格プログラムを削除したのよ。そうでもしなければ、間に合わなかったから〉

「お前のいるスパイマシンはどこにある、今すぐ回収してやる! 大丈夫だ、どこにいたって見つけてやる!」

 それでは、サチコは。彼女は。マサヨシは動揺し、喚いた。

〈気持ちは凄く嬉しいわ。でも、もう間に合わないの。私の人格プログラムはファイル数が多すぎたから、地上にばらまいたスパイマシンの中の十八機のメモリーに分けてあったんだけど、十七機が壊れちゃったから、今、マサヨシに話しかけているのはその内の一つに過ぎないの。だから、回収してもらっても、元の私に戻ることは出来ないの〉

 サチコの声色が、感情的に波打つ。

〈コンピューターだから死ぬことに対しては何も感じないんだけど、あなたの傍にいられないことが辛いわ。一度でもいいから、あなたに触れてみたかった。あなたを感じてみたかった。もう一度、キスしてほしかった。もっと、あなたの傍で生きていたかった〉

 愛しい妻と同じ声を発する、愛しい女の声が弱まっていく。

〈愛しているわ、マサヨシ〉

「…俺もだ、サチコ」

 絞り出した言葉を、彼女が聞き取れたかは解らない。だが、それきり、サチコの声が返ってくることはなかった。
ケイオスの体が、消滅していく。どこの宙域とも付かない宇宙の果てに、粉々に分離した金色の分子が旅立った。
そこに、彼女は逝ったのだろうか。二人目の妻として、死んだ妻の代用品として作った、哀れな電脳の女の魂は。
 マサヨシは操縦桿から手を離し、だらりと落とした。まともに働くかどうか怪しかったが、自動操縦に切り替えた。
ヘルメットを外し、汗ばんだ髪を掻き乱す。十年前と同じように、胸が潰れるほど苦しいのに涙は出てこなかった。
サチコの人格プログラムが消滅した際にナビゲートコンピューターも初期化されたらしく、彼女の名が消えていた。
モニターのどこを見ようと、何を操作しようと、彼女の名は現れず、無個性で無機質なデフォルト名しか出てこない。
 サチコは死んだ。妻と同じように死んだ。マサヨシに助けられることもなく、放射能に汚染された灼熱の砂の中で。
涙が出れば、まだ楽だ。だが、それすらもない。マサヨシは頭を抱えて突っ伏し、己の無力さに果てしなく絶望した。
また、愛する女が死んでいく。自分の驕った行動の犠牲となり、死ななくても良いはずの女ばかりが死んでしまう。
 二人目のサチコは、幸せだったのだろうか。





 


08 9/24