降り注ぐ日差しは暖かく、風は柔らかい。 小高い山を伝って降りてきた風には草木の青い匂いが入り混じり、スカートの裾を緩やかに翻して通り過ぎた。 人工の空だと解っていても、空の色は美しく澄み切っている。ゆったりと流れる雲は、風を受けて形を変えていく。 今日は、父親と二人の機械生命体が帰宅する日だ。昨日から楽しみで仕方なく、無意味に早起きしてしまった。 ピンクのパーカーとデニムのジャンパースカートを着たウェールは、背中の中程までの茶髪を揺らし、駆けていた。 ウェールの前方を駆けるのは、次女、アエスタスだった。しなやかに細い手足を動かす様は、子ジカのようだ。 ハーフパンツを履いているアエスタスは、赤っぽい茶髪をショートカットにしているので、傍目には少年のようだ。 彼女は四姉妹の中で最も運動神経が良く、足も速いのだが、精神体に染み付いた軍人気質が抜けていない。 日頃から、アエスタスは遊ぶことよりも訓練に時間を割いている。走り込みだけでなく、射撃、格闘、操縦などだ。 表情も軍人のように硬く、子供らしさは少ない。だが、生真面目すぎるせいで妹達からやりこめられることも多い。 「あーちゃーん、ちょっと待ってー!」 ウェールが森へと向かう次女の背に声を掛けると、アエスタスは振り向いたが、足を止めなかった。 「遅れた方が悪い! 私は先に行く!」 「もー…」 歩調を緩めたウェールは、随分遅れている二人の妹に振り返った。 「むーちゃん、ひーちゃん、あーちゃんってばまた先に行っちゃうってさー!」 「協調性がありませんわね、相変わらず!」 フリルとレースのたっぷり付いたスカートを持ち上げながら走っていたヒエムスは、長女に追い付いた。 「まあ、あーちゃんだからねぇ」 ウェールが苦笑すると、一番最後に追い付いたアウトゥムヌスは、両手に抱えていたバスケットを降ろした。 「道理」 「大体、お母様の元に行くのに追いかけっこになることからしておかしいですわ!」 ヒエムスは走るうちに乱れた髪を整えて、唇を尖らせた。四女の姿は、少女趣味の固まりのような服装だった。 淡いピンクのワンピースは裾や襟や袖口に白いフリルが付いていて、腰の後ろには大きなリボンが付いている。 スカートもパニエで大きく膨らませており、靴も先が丸い革靴で、これまた白いフリルの付いた靴下を履いている。 色素の薄い髪はミイムの手によってふわふわの巻き髪にされており、白い肌と相まって西洋人形のように見える。 外見が幼くなったことで、ヒエムスは精神面もかなり幼くなった。大人びたことを言うくせに、一番の甘えたがりだ。 暇さえあればミイムやヤブキに付き纏い、姉達にも構われたがるので、鬱陶しがられるが同時に愛されてもいる。 「心配」 アウトゥムヌスは、少し眉を下げてバスケットを見下ろした。四姉妹の中で、最も変化が少なかったのが三女だ。 成人した姿でも幼かったせいもあり、十歳児になっても大差はなく、表情の少なさも口数の少なさも変わらない。 そして、ヤブキに対する愛情も変わらない。時系列調節の影響で、ヤブキとの婚姻関係は解除されてしまった。 それを知った途端、アウトゥムヌスはすぐさまヤブキに結婚を申し込み、当然ヤブキも未来の妻にすると申し出た。 結婚指輪を填められなくなってしまったので、ヤブキと同じようにネックレスにして、肌身離さず身に付けている。 ヒエムスに比べれば質素に思えるほどシンプルなシャツワンピースの襟元からは、金の鎖と指輪が垣間見えた。 「いいよ、あーちゃんは放っておいて私達はゆっくり行こうよ」 ウェールは妹達の手を取り、歩き出した。長女には、ハルと呼ばれていた頃の人格が未だ色濃く残留している。 サチコの精神体を宿した異次元からの漂流者、アニムスの元にいた頃のような高圧的な態度ではなくなっている。 あのやけに強気な態度は弱みを見せないための防衛策だったのだが、今はそんなことをする必要がないからだ。 なので、屈託がなく明るい性格のハルに近しい性格となり、姉らしさを追求しながら三人の妹達を可愛がっている。 アニムスの元では、姉妹は姉妹でありながらも交流が皆無だったので、お互いに家族としての意識が薄かった。 だから、実の父親であるマサヨシの元で家族として暮らし始めた当初は、四人が四人ともぎこちなく接していた。 けれど、三ヶ月も過ぎればおのずと馴染んでくるもので、まだ少し不慣れな部分はあるが姉妹らしくなってきた。 ウェールは妹達の柔らかな手を握って歩きながら、アエスタスが走り抜けていった森の中の道を歩いていった。 厚く積もった雪が溶けた後、ヤブキが草を切り払って土を均して石を退けてくれたので、かなり歩きやすくなった。 この道は、ウェールがハルとして眠っていたコールドスリープ・ポッドがあった場所に真っ直ぐに繋がる一本道だ。 青く茂った葉に日差しが陰り、空気が少し冷たくなった。以前は日陰に残雪があったが、すっかり溶け切っている。 あの出来事の後に訪れた新たな季節は、時が過ぎるに連れてその力を増し、枯れていた草木に命を呼び戻した。 精神的にも肉体的にも幼かった頃は、父親の付けてくれた名前の意味があまり解らなかったが、今なら良く解る。 きっと、マサヨシは生まれてくる娘に無限大の希望を抱いていたのだ。春は、そんなことを思わせてくれる季節だ。 ウェールはハルの生体情報を元に生み出された個体なので、厳密に言えばハルが長女でウェールが次女だ。 マサヨシに見つけ出されてからの三年間、ウェールは生まれなかった姉を演じながら、偽りの家族を組み立てた。 あのまま、何も解らずに生きていくのも悪くなかったと思ったが、次元と時間の流れはそれを許してくれなかった。 キーパーソンが集うに連れて次元のバランスは崩れ、次元の歪みが乱発し、次元同士の均衡も乱れ始めた。 それぞれの次元で、銀河系の運命すら変えてしまうほどの変数的な存在を、狭い場所に集めたのが原因だった。 当初の計算では、異変はあまり起きないはずだった。キーパーソン同士が変数を相殺すると思っていたからだ。 だが、現実にはそうではなく、キーパーソンが持つ決して逃れられない運命が絡み合った末、レイラに襲撃された。 レイラ・ベルナールは、本来ならばキーパーソンには介入しない個体であり、ウェールも妹達もノーマークだった。 だが、アニムスすら干渉出来ない別次元の存在であるグレン・ルーの介入によって、レイラはコロニーを襲撃した。 恐らく、今までも似たような事象が起きていたのだろう。だから、ウェールらが介入しても改変出来なかったのだ。 アニムスはサチコの精神体が融合しているおかげで生命を保てている状態なので、万能だが不安定な存在だ。 ウェールらは、そんなアニムスに頼りすぎていた。母こそが全てであり、母がいなければ何も出来ないのだ、と。 だが、マサヨシや皆のおかげでそうではないと気付いた。生きようと思えば、どんな世界でも生きることは出来る。 森の奥に進むに連れて、地面や濡れた草の葉に別の色が現れた。薄く淡いものが、風に乗ってはらはらと散る。 視界が開けると、その色を纏った太い木が現れた。一番先に到着していた次女は、その木をじっと見つめていた。 「あーちゃん」 ウェールが次女に声を掛けると、アエスタスは髪に付着した花びらを払った。 「遅いぞ、お姉様方」 「アエスタスお姉様が早すぎるだけですわ」 ヒエムスは次女に文句を言ってから、木に近付いた。 「まあ、やっと満開になりましたのね。今までも綺麗でしたけど、満開になると迫力が違いますわね」 「風流」 アウトゥムヌスは子供の腕には重たいバスケットを抱え直し、姉と妹に倣って木を見上げた。 「でも、お兄ちゃんが言うには、この木がこんなに大きいのは変なんだってさ」 ウェールは妹達と並んで立ち、母の墓標を包み込むように枝を広げている桜の巨木を見上げた。 「この森には桜の木は何本か生えてるらしいんだけど、いくら遺伝子操作されて成長が早くなっていても、こんなに大きくなるわけがないんだって。どう見積もっても、樹齢五十年とかなんとか」 「だったら、お母様の手が加えられたに決まっておりますわ。ていうか、それ以外に有り得ませんわ」 ヒエムスの意見に、アウトゥムヌスは頷いた。 「正論」 「だが、私達は、いつまでお母様のことを記憶しておけるのだろうか」 アエスタスは、無数の花びらの舞い散る空を仰いだ。 「全ての次元が第五次元に上書きされ、統合されてから、こちらの時間で三ヶ月が経過した。お母様が与えてくれた炭素生物の肉体に精神体を固定したため、次元超越能力は消失し、最低限の超能力までも失った。お母様の元で得た知識は辛うじて残留しているが、それも薄れつつある。次元が安定するということは、次元の歪みが発生しなくなり、お母様の次元との接点も失うと言うことだからだ」 「いずれ、私達は変わる」 アウトゥムヌスは、暖かな風に乱された髪を薄い耳に掛けた。 「それは生命の必然であり、最善」 「そうだね」 ウェールは頷き、妹達に向いた。 「私達は次元を超えることは出来なくなったけど、お母様には会えなくなったけど、本当のママに会うことが出来たし、パパや皆とは一緒にいられるようになったんだもん。それに、このコロニーでパパ達と一緒に暮らすって決めたのは、私達自身なんだから」 四姉妹の視線が、桜の巨木の前に埋まる金属柱に向いた。桜を映した滑らかな表面には、名が刻まれていた。 SACHIKO・MURATA。HAL・MURATA。その下では、生まれなかった姉を孕んだ母親が永久の眠りに付いている。 四姉妹との新たな生活を始めて数日後、マサヨシが次元管理局の倉庫からサチコの遺体を引き取ったのだ。 次元が統合された影響で、サチコの遺体に残留した放射性物質も力を失い、何の害も成さない物質に変わった。 念のため、ガンマのセンサーで一通りの検査を行って安全性を確かめてから、マサヨシは愛する妻の墓を建てた。 銀色の墓標には、生まれなかった娘の名も加えた。その時、マサヨシの十年に渡る孤独な戦いは終焉を迎えた。 そして、マサヨシの中で十年前のあの日以来凍り付いていた時間が動き出し、新しい時間を刻めるようになった。 「ママ」 ウェールはサチコの墓標に付いた桜の花びらを払い、母の名に触れた。 「パパは、嘘吐きじゃなかったよ。本当のママにも会わせてくれたし、パパは本当のパパだったし、ずっと一緒にいてくれるって約束してくれたもん。この体は普通の体だから、私達はいつか大人になって、このコロニーを出て行くことになるかもしれないけど、その時は胸を張って出て行くよ。だって、それが一番の恩返しだもん」 「これ」 アウトゥムヌスは抱えていたバスケットを墓標の前に置くと、開き、中身を取り出した。 「お母さんに」 バスケットの中から出てきた皿には、いびつなおにぎりが四個載っていた。 「もしかして、おにぎりの作り方を知りたいって言っていたのはこのことでしたの?」 ヒエムスに問われ、アウトゥムヌスは照れ隠しに目を伏せた。 「…いけない?」 「いけなくはないが」 アエスタスは三女の作ったおにぎりを見下ろしたが、どれも大きさが違い、海苔から白飯がはみ出していた。 「だが、もう少し綺麗に作れなかったのか?」 「精一杯」 アウトゥムヌスは少し不愉快げに唇を尖らせ、その皿を母の墓前に置いた。 「じゃ、また後でパパと一緒に来るね、ママ」 ウェールは母の墓標に笑いかけてから、姿勢を元に戻した。 「あ、やっぱりここにいたっすか!」 足音が近付いてきたかと思うと、快活な声が掛けられた。四人が振り向くと、カゴを抱えたヤブキが立っていた。 例によって農作業をしていたらしく、作業着を着込んでおり、ベルトに挟まれた大きな軍手は土と草で汚れていた。 「ジョニー君」 アウトゥムヌスは頬を染め、真っ先に駆け出した。 「今日も宇宙一可愛いっすよ、オイラの未来の妻ー!」 ヤブキは駆け寄ってきたアウトゥムヌスを抱き上げ、ぐるりと一回転させてから、抱き締めた。 「ん」 アウトゥムヌスはヤブキのマスクを小さな手で挟むと、身を乗り出して薄い唇を重ね、ヤブキもそれに応えた。 見慣れた光景なので、姉妹は何も言わなかった。というより、何を言っても無駄なのだと悟りきっていたからだ。 婚姻関係が解除され、十年分の年齢差が出来てしまったとはいえ、二人の愛は弱まるどころか強くなっていた。 しかも、やることは前と変わらない。当初はマサヨシや姉妹も注意したが、毎日見せつけられると慣れてしまった。 「どうもっす、サチコ姉さん」 アウトゥムヌスを下ろしたヤブキは、サチコの墓標に敬礼した。 「そろそろお昼の時間っすから、探してたんすよ。早く帰らないと、またミイムが拗ねちゃうっすよ」 四姉妹に差し伸べられたヤブキの手は以前と変わらず大きいが、その手が繋がる腕の中身は変わっていた。 レイラの攻撃で下半身が吹き飛ばされたヤブキは、エウロパステーションで治療を受けた際に全武装を解除した。 第二次元での本来あるべきヤブキの姿は、彼の心に強く焼き付き、力を求めることは危険だと思い知ったからだ。 安易に武力を得ると、それに頼ってしまうからだ。それに、コロニーで生きてさえいれば、ヤブキが戦うことはない。 全ての次元に上書きされ、第五次元に次元が統一された後でも、可能性さえあればあの未来は充分に有り得る。 だから、ヤブキは力を捨てることでその可能性を排除した。ヤブキ自身も、戦うことは似合わないと思ったからだ。 両足には飛行用のイオンスラスターを残したが、それぐらいだ。重量が減ったおかげで、燃費もかなり良くなった。 それでも、摂取する食事の量は変わらず、アウトゥムヌスは体格に応じて食欲は落ち着いたがヤブキは同じだ。 「じゃ、今日は誰がお兄ちゃんに肩車してもらう?」 ウェールが提案すると、ヤブキは四姉妹を見回した。 「そうっすねぇ。一昨日はうーちゃんで昨日はひーちゃんだったから、今日はあーちゃんでも」 「いや、私は」 アエスタスは躊躇うが、ヤブキはひょいっと次女を担ぎ上げてしまった。 「でも、変な感じっすねー。ついこの前まではオイラの上官だったってのに、今はオイラの肩の上なんすから」 「まあ、それはそうだが…」 ヤブキの肩に跨ったアエスタスは、気恥ずかしさで赤面した。 「じゃ、帰るっすよー。あーちゃん大佐、落っこちないように気を付けるっすよー」 ヤブキはカゴを持ち直し、歩き出した。アウトゥムヌスは彼のズボンを掴んで歩きながら、カゴを覗き込んだ。 「今日は何?」 「イチゴっすよ、イチゴ。赤くなったのが多くなったから、収穫してきたんす」 ほい、とヤブキはカゴの中から熟したイチゴを一掴みし、姉妹に差し出した。 「まあ素敵。ミイムママは大喜びですわね」 ヒエムスはイチゴを囓り、その甘酸っぱさに顔を緩めた。 「上出来」 アウトゥムヌスは一口で食べてしまい、唇に付いた甘い汁を舐め取った。 「さすがは兄上」 イチゴを食べ終えたアエスタスは、素直にヤブキに感心した。 「ねえお兄ちゃん、今度は私達もお手伝いしていい?」 ウェールも食べ終えてから、ヤブキを見上げた。 「そりゃもちろんっすよ。これから忙しくなるっすから、手伝ってくれなきゃ困るっすよ」 ヤブキは、笑いながら頷いた。一本道を辿って森から出ると、家の方向から母親役の少年がやってきていた。 どうやら、四姉妹を迎えに来たらしい。ヒエムスは真っ先に飛び出して、彼の名を呼びながら駆け寄っていった。 サイコキネシスで飛んでいたミイムは着地してヒエムスを受け止めると、小動物のように甘えてくる少女を撫でた。 「んで、今日のお昼は何すか?」 ヤブキがじゃれ合う二人に近付くと、ミイムはにんまりした。 「皆が大好きでボクも大好きな、卵がふんわりトロトロのオムライスですぅ」 ミイムが首を傾げると、ピンクの柔らかな髪も揺れた。あの日、熱線で断ち切られた髪は肩の下程まで伸びた。 切り揃えた当初はボブカットよりも短く、切り口が整いすぎていたので違和感があったが、元に戻りつつあった。 髪が伸びるに連れてふわふわしたウェーブも掛かるようになり、時間が経てば以前のような状態に戻るだろう。 ミイムは、ミイムとしてだけ生きている。もう二度とレギーナには戻らない、と、髪を切り揃えた直後に明言した。 それまでは、少しだけ皇族としての日々に未練があったが、最悪の未来を見せられるとそんなものは掻き消えた。 ルルススの犠牲により、レギーナは完全に死した。だが、ミイムがレギーナを引き摺っていてはその死は無駄だ。 フォルテが断腸の思いで下した決断も、他の者達の懸命な働きも、ミイムの気紛れ一つで引っ繰り返ってしまう。 だが、皇帝の器ではないことはミイム自身が一番良く知っている。だからこそ、皇位をフォルテに譲り渡したのだ。 けれど、二度と未練を抱くことはない。権力を失ったからこそ、穏やかな生活を手に入れることが出来たのだから。 「で、それはなんですかぁ?」 ミイムはヒエムスを降ろしながら、ヤブキの抱えたカゴを見下ろした。 「イチゴっすよ、イチゴ」 ヤブキが赤く熟れた実の詰まったカゴを向けると、ミイムは両の頬を押さえて身を捩った。 「それじゃあ、今日のおやつはイチゴのお菓子に決まりですぅ! スポンジケーキはハートの形にしてぇ、ふわふわのクリームを一杯付けてぇ、甘くて酸っぱい初恋みたいな味のソースを掛けちゃってぇ、ついでにチョコレートソースで名前なんかも書いちゃますぅー!」 「どこのメイドカフェっすか。ていうか、そこまでやるとくどすぎてイチゴの味が台無しっすよ、台無し」 ヤブキが首を横に振ると、ミイムは途端に眉を吊り上げてヤブキを蹴り飛ばした。 「ヤブキのくせに何抜かしやがるんだドチクショウアホンダラですぅ! ボクと同じぐらい可愛い女の子が食べるんだから、デザートもキュンキュンするほど可愛くするのが宇宙の真理ってもんじゃねぇかスットコドッコイですぅ!」 「どぅわぉうおっ!」 ヤブキは仰け反ったが、カゴを掲げて上体のバランスを保ってアエスタスも支え、なんとか踏み止まった。 「ちっ」 足を上げたまま舌打ちしたミイムに、ヤブキの頭上から落ちかけたアエスタスは深呼吸し、肩を落とした。 「…不意打ちは卑怯だ」 「その辺は抜かりないですぅ。たとえボクの素晴らしい蹴りでヤブキがぶっ飛ぼうがぶっ潰れようがぶっ壊れようが、あーちゃんとイチゴはちゃあんと守ってあげますぅ」 足を降ろしてスカートの裾も整えたミイムは、聖母のような笑みを見せた。 「お兄ちゃんもミイムママも、相変わらず仲良しなんだから」 ウェールが込み上がる笑いを堪えていると、ヤブキの頭に縋るアエスタスは首を捻った。 「私には、とてもそうは思えないんだが…」 片手でアエスタスの背を支えつつ、ヤブキはカゴを覗き込んでイチゴの無事を確認した。 「ま、そのうち慣れるっすよ。ていうか、慣れなきゃやってらんないっすよ、あーちゃん」 「さあ、おうちに帰るですぅ」 ミイムはヒエムスと手を繋いで、ヤブキと並んで歩いた。すると、反対側の手にウェールが掴まり、繋いできた。 ミイムはハルであった頃と変わらない長女の仕草に笑みを零し、歩幅の広くない二人と歩調を合わせて歩いた。 アエスタスを肩車しているヤブキは、イチゴの詰まったカゴを脇に抱え、空いた手でアウトゥムヌスと手を繋いだ。 アウトゥムヌスはヤブキと手を繋いでから、ヒエムスの手を取り、繋いだ。その結果、皆、一直線に並んでしまった。 そのせいで歩調はますます遅くなったが、文句は出なかった。互いの手に感じる体温は、日差しよりも熱かった。 緩やかに、柔らかに、時が重なっていく。 最早自家用機と化したHAL号を、カタパルトに固定した。 無事に帰還したマサヨシは、ナビゲートコンピューターであるガンマの意識が宿ったスパイマシンを作動させた。 コクピットの片隅の充電スタンドから浮かび上がったガンマは、マサヨシとイグニスとトニルトスをぐるりと見回した。 三人の姿を確認したガンマは、コクピットのドアを開け、通路の隔壁を上げ、船内のドアというドアを全開にした。 イグニスは立ち上がり、肩を回しながらコクピットを後にした。トニルトスも背筋を伸ばしてから、コクピットを出た。 マサヨシもベルトを外して、操縦席から体を起こした。ガンマに右手を差し伸べると、彼女は従順に近付いてきた。 〈お疲れ様でした、マスター〉 「君もだ、ガンマ。俺達がいない間、HAL号を守ってくれるのは君だからな」 マサヨシが笑みを向けると、ガンマは目玉に似たスパイマシンを僅かに下向けた。 〈当然のことです〉 その反応に、マサヨシは出会ったばかりの頃の愛妻が重なった。やはり、彼女はサチコの一部を継いでいる。 だが、ガンマはガンマであり、サチコはサチコなのだ。ガンマはガンマとして、一人の人格として愛すべきなのだ。 「さあ、俺達も行こうか」 マサヨシが立ち上がると、ガンマはマサヨシのすぐ後ろに付いた。 〈了解しました〉 HAL号から出ると、既に二人は荷物の入ったコンテナを担いでおり、運搬用エレベーターの扉も開いていた。 コンテナを担いだイグニスとトニルトスに続いて、マサヨシとガンマもエレベーターに乗ると、滑らかに動き出した。 下に行くに連れ、体に掛かる重力が変化していくのが解る。カタパルト内と、コロニー内では重力レベルが違う。 それを感じると、改めて帰ってきた実感が沸く。マサヨシが自然と頬を緩めていると、トニルトスが見下ろしてきた。 「マサヨシ」 「なんだ、トニルトス」 マサヨシが聞き返すと、トニルトスは赤い光で成された瞳を僅かに細めた。 「近頃、思うのだが。我らはサチコの意志と次元の導きによって巡り会い、共に暮らすことを選んだ。だが、それは全体の出来事の一端に過ぎないことなのだと。サチコの意志によって我らは動かされ、意志すらも促されていたが、最終的に貴様と生きることを選んだのは私達自身だ。貴様にならば、命を預けられるとな」 「違いねぇ」 イグニスはコンテナを担いだまま、明るい笑いを漏らした。 「だから、俺はここにいるんだ。ウェールらが可愛くてどうしようもねぇってことも理由ではあるがな」 「本当に良い連中だよ、お前らも、あいつらも」 マサヨシは肩の上に降りたガンマのスパイマシンを、愛玩するように軽く撫でてやった。 「だが、一つ注文を付けさせてもらえれば、もう少し訓練生に手加減してやってくれないか? じゃないと、いつまでたっても連中に合格点をあげてやれないでね」 「冗談抜かすな。手ぇ抜いたら、訓練にならねぇだろうが」 イグニスが肩を竦めると、トニルトスは首を横に振った。 「弱い連中であればあるほど、本気で挑まねばならんのだ。それ以前に、あのような青二才に放つ弾丸を被弾すると思うだけで、我が気高き魂は屈辱に苛まれる」 「そりゃ、俺もそう思うんだが、空挺団全体のバランスってのもあってだな」 マサヨシはそう言ったが、二人が意見を譲る気配はなかった。この分だと、またしわ寄せは自分に来るのだろう。 二人の意見は尤もだが、軍隊はバランスが重要だ。一部隊だけ実力が突出していると、扱いづらいのも事実だ。 実際、マサヨシら三人で構成されているファントム小隊は、下手に強すぎたからこそ訓練専門小隊になったのだ。 週末の休暇を終えたら、ブライアン・ブラッドリーら三人のヴァンピール小隊の訓練プログラムを練り直さなければ。 だが、今ばかりはそれを忘れていよう。せっかく帰宅したのだから、その間は家族のことだけを考えていればいい。 エレベーターがコロニー内に到着し、ドアが開くと、馴染み深い水と草の匂いが満ちた風が箱の中に流れ込む。 更に隔壁が開くと、夕日が差し込んできた。その眩しさにマサヨシは目を細めたが、駆け寄ってくる影に気付いた。 それは、父親達の帰りを待ち侘びていた四姉妹だった。力一杯手を振って先頭を駆けるのは、長女、ウェールだ。 「お帰りなさい、パパ!」 娘達の背後には、待ち焦がれた我が家がある。その後ろに広がる森の奥では、愛すべき妻と娘が眠っている。 背中には二人の戦士の気配を感じ、肩の上には妻の後継者が載り、家の玄関先には青年と少年が待っている。 サチコは死んだ。ハルを守って死んだ。だが、サチコは生きている。マサヨシの胸に、四人の娘の内に、この家に。 マサヨシは、家族に笑みを向けた。 「ただいま」 さあ。この宇宙の中心で、家族団欒を始めよう。 08 11/16 |