アステロイド家族




ミッション・イズ・ロスト



 何度掛け直しても、繋がらなかった。
 恐らく、ルシールは情報端末の電源を切ったのだろう。当然だよな、と思う反面、諦めきれない気持ちが燻った。
第五ブロックのメインステーションに到着した頃には午後五時を過ぎていて、普通の神経なら帰っているはずだ。
増して、相手はあのルシール・ヴィルヌーヴなのだ。デートの約束を取り付けただけでも、良いと思わなければ。
この分だと、愛想を尽かされてしまっているだろう。顔を合わせることがあっても、言葉を交わしてくれるかどうか。
それ以前に、視界に入れてくれるかどうか。謝れればいいな、と思いながら、ブライアンはヒエムスと共に歩いた。
 夕方になると、人出も増えていた。ブライアンからもはぐれたら面倒なので、ヒエムスの小さな手を握っていた。
本当ならルシールの手を握りたかったのだが仕方ないことだと妥協し、少女の柔らかすぎる手を緩く掴んでいた。
 メインステーションから十五分程歩いた先に、ヒエムスがマサヨシらと共に訪れたショッピングモールがあった。
正面ゲートを抜け、家族の待ち合わせ場所であるセンターホールに入ったが、それらしい姿は見当たらなかった。
巨大なショッピングモールに相応しい、だだっ広い空間だが、機械生命体がいればまず最初に目に付くはずだ。
しかし、何度見渡しても見当たらない。サービスカウンターに行って店内放送でも掛けてもらうべきか、と思った。

「ツラ貸せやオンドリャアですぅっ!」

 唐突に罵声が轟き、ブライアンは肩を掴まれて振り向かされ、細身ながら体重の載った拳に頬を抉られた。

「続いてぇっ、ミラクルかかと落としぃいいいいっ!」

 咄嗟にヒエムスを背後に回したためによろけたブライアンに、声の主はかかと落としを全力で喰らわせてきた。
それがまた、痛い。拳と同じく華奢な足で、振り上げた様は見惚れるほどしなやかなのに、やたらと重たかった。
応戦しようと拳を固め、目を上げると、足を高く上げた際に翻ったミニスカートの中がまともに目に入ってしまった。

「…あ?」

 履いていない。何だよそれ、と一瞬気を取られた瞬間に、やはり重たい膝蹴りが胸を突き上げてきた。

「エスポワール飛び膝蹴りぃいいいいっ!」

 冗談としか思えない掛け声の攻撃を受け、ブライアンは吹っ飛ばされたが、ヒエムスを避けて受け身を取った。
頬、肩、胸、そして受け身を取った半身に痛みを覚えながらブライアンが顔を上げると、暴力の主が視認出来た。
 怒りを漲らせても美しさが感じられる顔立ち、細く長い手足が目立つ肢体、背中の中程まで伸びたピンクの髪。
そして、頭の両脇から生えた長い耳、白い尾。とてもではないが、ブライアンを吹っ飛ばせるとは思えなかった。

「我が家のお姫様に気安く触るんじゃねぇよ、若造」

 見た目とは相反する低い声を発した美少女は、片手を差し伸べ、ブライアンを浮かばせた。サイコキネシスだ。
これで、先程の攻撃の重たさに説明が付いた。恐らく彼女は、拳や足にサイコキネシスを纏わせていたのだろう。

「さあて、どう料理してやろうか。悪いが、俺の機嫌は最悪だ」

 ブライアンの襟首を掴んで顔を寄せた美少女は、金色の瞳に狂気じみた輝きを帯びていた。

「楽に死にたいか? それとも、苦しみ抜いて死にたいか? 五秒以内に答えろ、答えなくても潰すがな!」

「いけませんわ、ミイムママ! ブライアンお兄様は悪くありませんわ!」

 ヒエムスが美少女の尻尾を掴むと、美少女は途端に凶相を緩め、ヒエムスに向いた。

「みゅ? どういうことですかぁ、ひーちゃん?」

「ブライアンお兄様は、センターブロックまで行ってしまった私をここまで連れてきて下さいましたのよ」

 ヒエムスが祈るように両手を組むと、美少女はヒエムスとブライアンを見比べたが、ブライアンを投げ捨てた。

「命拾いしやがったなコノヤロウですぅ」

「やりたい放題しやがって…」

 硬い床に転がされたブライアンは、強かに打った背をさすりながら腰を上げ、熱を持っている頬を押さえた。
半異星人故に再生能力が高いので、この程度の負傷なら半日もしないで治るだろうが、直後はさすがに痛い。
美少女はヒエムスを大事そうに抱き締め、みゅーん、との二次元の存在しか言いそうにない言葉を発していた。
傍目に見れば、姉と妹である。だが、先程、ヒエムスは間違いなくこの美少女のことをミイムママと呼んでいた。
ということは、これがマサヨシの後妻なのか。だが、ブライアンが想像とは懸け離れた可愛らしい美少女だった。

「待てよ…?」

 耳、尻尾、ピンクの髪、超能力。それらの情報を統合したブライアンは、一ヶ月近く前の出来事を思い出した。
太陽系から発進した開拓植民船が不時着したことを切っ掛けに交流を持った、コルリス帝国の種族のことだ。
コルリス帝国の主要種族であるクニクルス族は完全な女系社会であり、女性が一際強く進化した種族だった。
男女の概念が反転していて、女性が屈強で男性が華奢だ。髪の色も女性が水色で男性がピンクに別れている。
そして、コルリス帝国の皇帝であるフォルテ・ドゥオ・フェーミナ・コルリスは、下手な兵士よりも逞しい女性だった。
彼女が近衛兵として連れていた少年兵の外見を良く思い出したブライアンは、ミイムママと重ね合わせ、悟った。

「あんた、男かよ!」

 ブライアンがぎょっとすると、美少女にしか見えない美少年、ミイムはむっとした。

「そうですぅ。ボクはとおってもとおっても可愛い男の子ですぅ。それがどうかしやがったのかコンチクショウですぅ」

「あー…あれ?」

 では、ヒエムスら四姉妹は誰が産んだのだ。また新たな疑問が生まれ、ブライアンは首を捻った。

「あ、普通に考えりゃいいんだ。うん。まず、教官は最初に普通に結婚したんだ。んで、その時にヒエムスとその姉貴を作ったんだ。んで、その後に何かあって別れて、このオカマウサギはその後釜なんだ。たぶんそうだ。でも、やっぱり解らねぇ。兄貴ってなんだよ、どうしてそんなのがいる必要があるんだよ? 大尉達は解るけど」

 訳の解らない家族構成を整理するためにブライアンが独り言を漏らしていると、ミイムが蹴ってきた。

「何をごちゃごちゃ言ってやがるんだタクランケですぅ」

「とりあえず、私が無事であることをお父様方にお伝えしなければなりませんわ」

 ヒエムスはミイムとブライアンの間に入り、蹴りを止めさせた。

「みゅふう、すぐに伝えられますぅ。捜索部隊が帰ってきたみたいですしぃ」

 ミイムは顔を上げ、スクリーンパネルで成された空を仰ぎ見た。ヒエムスとブライアンも、釣られて上空を見た。 
青空にはゆったりと白い雲が流れているが、その前に何かが翳ったかと思うと、それが一直線に落下してきた。
赤い機影、青い機影、人間大の機影。訓練で見慣れた二機が迫る様に心臓が縮こまり、ブライアンは後退った。
一瞬、いつものように撃墜されると思ってしまった。訓練ではないと解っていたのだが、恐怖は払拭出来なかった。

「こぉのぉっ!」

 ショッピングモール全体が揺らぐほどの衝撃を伴って着地した赤い機影は、躊躇いなく拳を振り上げた。

「よくも俺達の娘をぉおおっ!」

 イグニスの怒声に圧倒されてしまったブライアンは、放たれた拳を避けられず、その場に立ち尽くしてしまった。
だが、風を切りながら飛んできた赤い拳は見えない障壁に弾かれた。イグニスは大きく仰け反り、ミイムを睨んだ。

「てめぇっ、何しやがる!」

「話はまとめてしてやるぜですぅ!」

 ミイムはイグニスに背を向け、次に迫ってきたトニルトスにも手を向けて、念力による障壁を張った。

「そおりゃさああっ!」

「ふぐおっ!?」

 突然現れた障壁に顔面を強かに打ち付けたトニルトスは、空中で制止してミイムに怒鳴った。

「貴様ぁっ、炭素生物の分際で!」

「さぁそりゃぁああっ!」

 最後に、ミイムは人間大の機影に手を振り翳し、強烈な加重を与えて叩き落としてしまった。

「うぐえっ!?」

 模造大理石の床に叩き落とされたフルサイボーグは、関節を軋ませながら首を起こし、ミイムを見やった。

「何するんすかー、外装歪んじゃったら困るんすからー…」

「大丈夫ですぅ。このボクに限って、手加減出来ないなんてことはないんですぅ!」

 ミイムは平たい胸を張ってから、三人を見渡した。

「これ以上こんがらがると超面倒だからぁ、簡潔に説明しますぅ。そこのお兄さんはひーちゃんを保護してくれた善意の人でぇ、誘拐犯でもなきゃロリペド野郎でもないですぅ。それにぃ、勢い余ってボクが殴っちゃったからぁ、二度はないですぅ。一度目はお茶目で済むかもしれないけどぉ、二度三度とぶん殴ったらリアルに警察沙汰になりますぅ」

「一度でもアウトだぞ。面倒だから訴える気はねぇけどさ」

 ブライアンがミイムに言い返すと、イグニスとトニルトスは顔を見合わせてから、ブライアンを見下ろした。

「なんだ、ブリィがヒエムスを連れてきてくれたのか。だったら、特に心配することもなかったな。安心も出来ないが」

「そうだと解っていれば、もう少し上手く対処出来たものを。貴様はパイロットとしての腕は三流で軍人としての心意気は二流だが、人格は毒にもならなければ薬にもならないからな」

 イグニスとトニルトスの無遠慮極まりない言葉に、ブライアンはげんなりしたが表情を繕った。

「そりゃどうも」

「それじゃ、オイラ達が散々飛び回ったのも無駄ってことっすか。スラスターなんか使ったからマジ腹減ったっす」

 血糖値がヤバげっす、とぼやきながら、フルサイボーグの青年は両足のイオンスラスターを戻して外装を閉じた。
恐らく、これがジョニーお兄様だろう。ジョニー青年はブライアンに気付くと、右手を素早く掲げて敬礼してみせた。

「ひーちゃんを保護してくれて本当にありがとうございました! いやー、思ったより早く見つかって良かったす! あ、オイラ、ジョニー・ヤブキっす! マサ兄貴の未来の息子っす!」

「ブライアン・ブラッドリー准尉です」

 先程まで誘拐犯扱いしていた相手を感謝してくることに戸惑いつつも、ブライアンは名乗り返した。

「それで、ミイムママ。お父様とお姉様方はどこにいらっしゃいますの? 謝らなければなりませんわ」

 ヒエムスがミイムに縋ると、ミイムは親指を立ててセンターホールに併設しているカフェテラスを示した。

「パパさん達はぁ、あそこで待ってますぅ。散々大騒ぎしたからぁ、すぐに来ると思いますぅ」

 ミイムの指した方向にヒエムスが向いたので、ブライアンもそちらを見ると、血相変えたマサヨシが走ってきた。
少し遅れて、似たような背格好と顔立ちだが、趣味が全く違う服装の三人の少女達がマサヨシを追い掛けていた。
息も切らさずに駆けてきたマサヨシは、ばつが悪そうに俯いたヒエムスの前で止まると、膝を折って屈み込んだ。

「良かった…」

 今にも泣きそうな顔のマサヨシは、躊躇いもなく娘を抱き締めた。

「もう、一人で勝手に行くんじゃないぞ」

「怒って、おられませんの?」

 マサヨシの腕の中でヒエムスが怖々と問うと、マサヨシは娘の頭を愛おしげに撫でた。

「ちゃんと帰ってきてくれたんだ、怒ることなんてない」

「お父様ぁ、お会いしとうございましたわぁー! いなくなったりして、すみませんでしたわぁー!」

 途端に顔を歪めたヒエムスは、マサヨシに縋って泣き出した。

「早期解決」

 父親の肩越しに妹の姿を確認したアウトゥムヌスは、安堵して頬を緩めた。

「良かったぁ、これでひーちゃんと一緒におうちに帰れる」

 ヒエムスの背後に回り込んだウェールは、末っ子の頭を撫でてやった。

「お帰り、ひーちゃん」

「おねえさまぁ…」

 涙に濡れた顔を上げたヒエムスは、頷いた。

「それで、そちらの方は」

 アエスタスがブライアンに気付いて見上げたので、マサヨシはヒエムスを抱く腕を緩め、顔を上げた。

「ブライアンじゃないか。そうか、お前がヒエムスを助けてくれたんだな?」

「ええ、まあ、成り行きで」

 おかげでデートが潰れたが。ブライアンがぎこちなく笑みを作ると、マサヨシは訝った。

「確か、今日はルシールと会うはずじゃなかったのか?」

「てか、なんで教官が知っているんすか?」

「知らないわけがないだろう。休暇前の訓練の時、機体のセッティングをしながらパウエルとピエトロに自慢しすぎて鬱陶しがられていたじゃないか。あれだけ何度も何度も話されちゃ、聞く気がなくても覚えちまうよ」

 マサヨシはハンカチを出し、ヒエムスの顔を拭ってやってから、ブライアンに向いた。

「それで、ルシールにはヒエムスのことを説明してきたのか?」

「いや、それが…」

 ブライアンは少々迷ったが、話した。

「待ち合わせの時間の少し前に、お嬢さんを拾っちゃったもんで。だから、ヴィルヌーヴ少尉には会えていませんし、連絡しようとしたんすけど繋がらなかったんで連絡しようがなかったんす。それに、もう大分時間が過ぎちゃってるっすから、今更行ったところでどうにも」

「貴様とあの女の合流地点というと、センターブロックの中央公園噴水前、であったな?」

 急にトニルトスが発言したので、ブライアンは驚きつつも返した。

「あ、はい、そうっすけど」

「少し待て」

 トニルトスは数秒間黙していたが、ブライアンを見下ろした。

「私の知るヴィルヌーヴとは懸け離れた服装と化粧と髪型だが、待機を続行している」

「え? つか、今、何を見たんすか?」

 ブライアンが戸惑いながら尋ねると、トニルトスは悪びれずに答えた。

「何のことはない、エウロパステーション内の監視カメラが捉えた映像を少しばかり拝借したのだ。犯罪に抵触するレベルではないから安心しろ。誉れ高きカエルレウミオンである私は、盗撮などという低俗な性癖には興味はない」

「さっさと行っちまえよ、ブリィ。すぐに出撃しねぇと、あの女は射程外に出ちまうぜ?」

 イグニスはにやけると、トニルトスの肩に腕を載せた。

「元より、我らは貴様とヴィルヌーヴの逢い引きに手出しするつもりはない。早急に失せろ」

 イグニスの腕を払ってから、トニルトスは冷たく言い捨てた。

「んじゃ、これ、ひーちゃんを助けてくれた御礼とそのお姉さんへのお詫びってことで」

 ヤブキは背負っていたリュックを開き、紙袋を取り出してブライアンに押し付けた。

「帰りに皆で食べようと思って、ひーちゃんを探す途中で買ってきたタイ焼きっす。中身はこしあんとクリームとチーズとチョコレートっすけど、ちゃんと見分けが付くようになってるっすから大丈夫っす。数が多いっすから、残ったら冷凍すればいいっす」

「デートなんですからぁ、もうちょっと気の利いたものを持たせやがれですぅ! ていうか、ボクもタイ焼きは食べたいからぁ、後でお店に行って買い直してきやがれですぅ!」

 ミイムはヤブキに文句をぶつけていたが、ブライアンに向いた途端、花が咲いたような笑顔を見せた。

「さっきは引っぱたいたりしちゃってぇ、本当にごめんなさいですぅ。でもぉ、ボクなんかが一発殴ったぐらいじゃ整形出来ないぐらい男前ですからぁ、きっとデートも上手く行きますぅ」

「ひーちゃんを助けてくれて、どうもありがとうございました。デート、頑張って下さいね!」

 ウェールはブライアンに向き直り、一礼した。

「御武運を祈ります」

 本当の戦闘に送り出すかのように、アエスタスはかかとを叩き合わせて鋭く敬礼した。

「大丈夫。問題はない。ジョニー君の選んだタイ焼きは美味」

 アウトゥムヌスは、真顔で筋違いのことを言い放った。

「迷惑をお掛けして申し訳ございませんでしたわ、ブライアンお兄様。おかげで、お父様やお姉様方と一緒におうちに帰ることが出来ますわ。この御恩は、一生忘れませんわ」

 ぐずぐすと泣きながらも、ヒエムスはスカートを広げて丁寧に礼をした。

「とにかく、一秒でも早くルシールの傍に行け。命令だ、ブライアン」

 マサヨシはブライアンに敬礼し、そして、センターブロックの方向を示した。

「イエス、サー!」

 ブライアンは最敬礼してから、駆け出した。マサヨシらの声を背に受けながら、力の限り足を動かして走った。
途中でタイ焼きの紙袋を落としそうになったので、ショルダーバッグを開いて中に押し込めてから、走り続けた。
マサヨシらに聞きたいこと、言いたいこともあったが、現時点で最優先するべきは他でもないルシールのことだ。
 ルシールが待っていてくれている。嫌われたかもしれないが、それならそれで恋に区切りをつける良い機会だ。
心から好きになっても、好きになられるとは限らない。一時であっても、視線が交わったことを幸福と思うべきだ。
あれほど苛立っていた心中が、いつのまにか晴れていた。ヒエムスが家族と再会出来たことが、素直に嬉しい。
ルシールとデートを楽しんだとしても、迷子の少女を置き去りにした罪悪感に駆られて集中出来なかっただろう。
だから、これで良かったのだ。どうせ、成就しないことが大前提の恋なのだから、散るならば潔く散ってしまおう。
 それもまた、恋だ。




 再び中央公園を訪れた時には、日没を過ぎていた。
 息を切らしながら公園に入ったブライアンは、歩調を緩めて歩きながら呼吸を整え、薄暗い辺りを見回した。
繁華街のイルミネーションの切れ端が植え込みや花壇を照らし出し、街灯が柔らかな黄色い光を落としていた。
レンガを模した歩道を歩いていると、月光に似せた青白い光を放つ噴水が目に入り、ブライアンは足を止めた。
 昼間に比べて弱めに噴き出されている水は、しゃらしゃらと涼やかに人工池に落ち、青い水面を波打たせた。
人気はなくなり、ブライアン以外の足音は聞こえない。自分自身の鼓動と呼吸の音が、いつになく耳障りだった。
植え込みの影に設置されているベンチが、水の膜のような噴水に映り込み、そこに座っている者の姿を見せた。
青い水に吸い取られた赤い影は項垂れ、裸の肩は縮められていた。ブライアンは深く息を吸ってから、言った。

「ブライアン・ブラッドリー准尉、ただいま到着しました!」

 すると、彼女は弾かれるように顔を上げ、ブライアンに振り返った。

「遅い」

「すみません。まあ、色々とあったもんで」

 ブライアンが苦笑いすると、ルシールは後れ毛を掻き上げて先の尖った耳に掛けた。

「言い訳は聞かん」

「俺も話す気はないっす。余計なことで時間喰いたくないんで」

 ブライアンはルシールの前に立つと、頭を下げた。

「俺の方から誘ったくせに、今の今まで来られなくてすいませんでした!」

「…もういい。大分遅れたが、ちゃんと来たのだから不問だ」

 ルシールはブライアンから視線を外し、太股の根元近くまで入ったスリットを隠すように裾を下げた。

「それで、その、なんとも思わんのか?」

「そりゃ、もう」

 ブライアンは曲げていた腰を上げると、やたらと気恥ずかしげに目を伏せているルシールの格好を凝視した。
軍服と戦闘服以外のルシールを見るのは、初めてだった。それも、真紅のドレスを着てくるなど予想外だった。
だから、喜ぶ以前の問題だった。スリットから覗く太股や滑らかな肩や首筋や胸の谷間で、頭が煮えそうになる。
ドレスに合うダークレッドの口紅を載せた唇から垣間見える牙がまた扇情的で、下半身が反応しそうになった。
それを辛うじて押し込めたブライアンは、期待と不安を含めた視線を注ぐルシールを見据え、全力で言い切った。

「最高っす!」

「ほ、本当か? 娼婦には見えないか? いや、それ以前に似合っているのか?」

 余程不安だったのか、ルシールは矢継ぎ早に問い掛けてきた。ブライアンは、何度も頷く。

「上品っす、似合ってます、宇宙一っす!」

「それは、言い過ぎじゃないのか?」

 ルシールは口元を隠し、肩を震わせた。声を上げるほどではないが、彼女が笑う様を見たのは初めてだった。
彼女に釣られるような形でブライアンも頬が緩んできたが、締まりのないにやけ笑いしか出来上がらなかった。
ルシールはひとしきり笑うと、すまん、と小声で謝り、呼吸を落ち着けて表情を整えてからブライアンを見上げた。

「それで、どこに連れて行ってくれるんだ?」

「色々考えていたんすけど、その気が失せちまいました」

 ルシールの隣に腰を下ろしたブライアンは、照れ臭さで若干声を上擦らせた。

「ていうか、その格好の少尉を引き摺り回したくないっす。なんか、勿体ないっつーかで」

「だから、言い過ぎだ」

 ルシールはすぐさま顔を背けたが、青白い頬に赤味が差していた。

「それに、俺は少尉の傍にいられれば、それだけで充分なんで」

 ルシールの横顔を見つめながら、ブライアンは真摯に述べた。今、出来ることは思いを伝えることぐらいだった。
自分から強く迫ったくせに、いざ本番という時にルシールを放り出してヒエムスをマサヨシの元に連れて行った。
後悔はしていないが、すぐには諦められなかった。心を奪われてからというもの、ルシールが宇宙の中心だった。
少しでも彼女の傍に行きたくて、少しでも同じ世界を共有したくて、少しでも視界に入りたくて、強くなろうと思った。
そして、今、ルシールと同じ場所に座れている。それだけでも充分だ、と思おうとしても、気持ちが止まらなかった。

「少尉」

 深く息を吸ってから、ブライアンは言い切った。

「ずっと前から、俺は少尉が好きでした!」

 きっと、これからも好きだ。そう言おうとしたが、どうしても言えず、ブライアンは乾き切った喉に唾を飲み下した。
こんなことで、待ち惚けさせてしまったことを償えるわけがない。だが、これしか言えることが思い付かなかった。
それに、今でなければ言えない。虚脱感に襲われたブライアンは視線を落とし、意味もなくつま先を睨み付けた。
 噴水の静かな水音と街の喧噪が沈黙を掻き乱していたが、滑らかな衣擦れの音がし、ルシールが振り向いた。
細い眉は下がり、視線も左右に彷徨っていたが、ルシールはブライアンを見つめて躊躇いながらも唇を開いた。

「本当に、私で良いのか?」

「じゃなかったら、デートに誘ったりしませんよ」

「遊び、とか、そういうのではないのだな?」

「俺の腕で、少尉を弄べると思いますか?」

 自嘲と自虐を混ぜてブライアンが呟くと、ルシールは手袋を填めた手を握り締めた。

「そう、か」

 安堵を滲ませたルシールは、唇を締めて顔を上げ、いきなりブライアンの襟首を掴んだ。

「ならば、私にも言い分がある! 心して聞け、ブラッドリー准尉!」

「あ、お、了解!」

 反射的にブライアンが敬礼すると、ルシールは叫んだ。

「お前を好きでなければ、こんな格好で二時間以上待っているわけがないだろうが!」

 待っている間に溜まりに溜まった感情が溢れ出し、ルシールは掠れるほど強く声を張り上げた。

「凄く怖かったんだからな! お前はなかなか来ないし、通りかかる人間には妙な目で見られるし、首も肩も下半身もすかすかして心許ないし、からかわれたかもしれないと思ったらそうとしか思えなくて、だから連絡を取るのも怖くなってしまって、でも、凄く会いたかったんだ!」

 思いの丈を吐き出したルシールは、ブライアンの襟首を放し、俯いた。

「だから、どこにも行かないでくれ。また、会えなくなるのが怖いから」

 ブライアンは、何を言われたのか理解するまで少々時間が掛かった。彼女が乱れる様を見たのは、初めてだ。
好きだと言った相手から、好きだと言われた。その事実が脳に至ると、堪えきれなくなり、ルシールを抱き寄せた。
初めて触れた肌は恐ろしく薄く、柔らかく冷たかった。腕の中に収めてみると、憧れの女性は思いの外細かった。

「どこにも行きません。ついでに、行かせません」

「行くものか」

 ルシールはブライアンの胸元から顔を上げ、僅かに腰を浮かせた。

「やっと、お前が来てくれたのだから」

 唇に、冷ややかな唇が重ねられた。ルシールはブライアンの存在を確かめるように接してから、慎重に離した。
思い掛けないことにブライアンが驚くと、唇を離したルシールは首筋から耳元から真っ赤になり、小声で漏らした。

「言っておくが、お前が最初だ」

 嬉しすぎて思考が停止したブライアンは、ルシールの口紅が付いた唇を拭うことも出来ずに、固まってしまった。
ルシールもまた、自分の大胆な行動に恥じ入ってしまったのか、俯いたまま身動き一つせずに硬直してしまった。
 すると、胃が収縮する際に発される音が至近距離から聞こえた。ルシールはますます赤くなって、小さくなった。
考えてみれば、そろそろ夕食時だ。待っている間、ここから動かずにいたのなら、何も食べなかったに違いない。

「あ、ああそうだ!」

 ブライアンはショルダーバッグを下ろして開き、ヤブキから押し付けられた紙袋を取り出した。

「タイ焼き、喰います?」

「なんでタイ焼きなんだ?」

 目を丸めたルシールに、ブライアンは曖昧に笑った。

「話せば長くなっちまうんすけど…」

「ならば、その話はタイ焼きを食べながら聞くとしようじゃないか」

 頬は赤らんでいたが、ルシールは余裕を取り戻した。ブライアンは紙袋を開き、彼女に向けた。

「じゃ、何がいいっすか?」

「そうだな、クリームが美味しそうだ」

 ルシールは手袋を外してから紙袋に手を入れ、クリームのタイ焼きを取り出すと、半分に割った。

「私一人で味わっては、勿体ないではないか」

 差し出された半分のタイ焼きを受け取ったブライアンは、牙を覗かせて笑った。

「そうっすね」

「今夜は、良い夜になりそうだな」

 口紅が剥げることも気にせずに、ルシールはカスタードクリームの詰まったタイ焼きに牙を立てて噛み千切った。
ブライアンもまた空腹を感じたのでタイ焼きにかぶりついたが、皮に合った甘さの口当たりの軽いクリームだった。
三四口でタイ焼きを食べ切ってしまったブライアンは、幸せそうな顔でクリームのタイ焼きを頬張る彼女を眺めた。
 当初のデートプランでは、今頃は気合いの入ったレストランにいるはずだったが、こちらの方が余程楽しかった。
無理に気取ったことをするより、身の丈に合うことをするべきだ。ルシールとの恋も、始まったばかりなのだから。
手が届かないとばかり思っていた彼女が、すぐ傍にいる。実力は遠く及ばないが、少しずつ距離を狭めていこう。
一回りも年上であり、生まれも育ちも違うルシールとは行き違うこともあるかもしれないが、緩やかに進めばいい。
 道に迷ったら、立ち止まればいいのだから。







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