アステロイド家族




乱れた白昼



 作戦の概要はこうである。
 まず、ウェールが接着剤を塗ったシートを家の周辺に敷き、餌のおにぎりを付けたガンマを囮として飛ばすのだ。
その間、もちろんウェールは退避している。ガンマなら、万一ゴキブリに囓られたとしても、機械なので平気だろう。
ガンマの立ち回りが何より重要な作戦だが、ガンマならば大丈夫だ。父親のナビゲートコンピューターなのだから。
 罠の材料をリビングに運んだウェールは、フローリングにシートを敷いてから、接着剤を全体的に塗り始めた。
隙間が出来ては、ゴキブリが踏んでも外れてしまうかもしれないので、接着剤のチューブの先端を使って広げた。
接着剤自体の量が足りなかったので完璧とは行かないまでも、シートの七割方が接着剤によって塗り潰された。
だが、塗り終えた時には塗り始めの箇所が少し乾き始めていて、指先で触れてみると粘り気は随分減っていた。

「事態は急を要するのよ!」

 ベタベタのシートを引き摺ったウェールは、どこから外に出そうかと辺りを見回し、掃き出し窓を見定めた。

「ガンマ、ゴキブリはどこにいるの?」

 ウェールが振り返ると、餌のおにぎりを括り付けられたガンマが斜めに傾きながら報告した。

〈現在、侵入者は家の裏手に移動しています〉

「じゃ、今のうちだね!」

 ウェールはカーテンを開けてから、掃き出し窓を開け、ベタベタのシートを庭に引き摺り出して広げた。

「これで良し。それじゃ、ガンマ、作戦開始!」

〈了解しました〉

 ガンマは上手くバランスが取れないのか、ふらふらと左右に揺れながら、リビングを出て家の裏へと回った。
無理もない、あのおにぎりは目玉に似たスパイマシンと近しい大きさであり、それ以上の重量を持っているのだ。
だが、ガンマなら上手くやるはずだ。そう確信したウェールは、リビングに戻り、カーテンを少しだけ開けて覗いた。
 それから数分後、ガンマが戻ってきた。おにぎりは付いたままで、ふらふらと左右に揺れながら移動している。
その後を、あの巨大ゴキブリが追ってきていた。だが、おにぎりを掴むわけではなく、しきりに首を捻っていた。
ガンマの移動速度に合わせた歩調でリビングの前までやってきた巨大ゴキブリは、掃き出し窓へと振り向いた。

「そこのお嬢ちゃん」

 体格に見合った低い声を発した巨大ゴキブリに、ウェールは心底驚いて後退った。

「いやあああっ!」

「驚かせて申し訳なかった。だが、俺は怪しい者ではない。通りすがりの正義の味方だ」

「どこがー! 怪しくないゴキブリなんていないでしょうがー!」

 全速力でキッチンに逃げ込んだウェールは、冷蔵庫の前で縮こまった。

「それと、このスパイマシンが何なのか説明してくれないか? さっきから俺の後を付いて回っている上に、変なものが括り付けられているんだが」

 巨大ゴキブリがガンマを小突いたのか、硬い金属音と共にガンマの声が聞こえてきた。

〈侵入者に対しての応答は許可されていません〉

「なんでガンマに触ってるのー! ていうかなんで罠に誘い込んでくれないのー!」

 ウェールが髪を振り乱しながら絶叫すると、ガンマが窓越しに答えた。 

〈ドーター・ウェールの指示通りに、侵入者を誘導しました〉

「そりゃ、しろって言ったけど、もうちょっと罠っぽい誘い方があるじゃない! なんで普通に連れて来ちゃうの!」

〈申し訳ありません〉

 ガンマは平謝りすると、二人のやり取りを見ていた巨大ゴキブリは事を察したようだった。

「罠って、ああ、これか。ということは、俺は填められそうになっていたわけか」

 おーい、お嬢ちゃん、と巨大ゴキブリから声を掛けられ、ウェールは怯えながらキッチンの影から這い出した。
慎重な足取りでリビングに戻り、カーテンを少し開けたが、至近距離に立っているゴキブリに背筋が逆立った。
すぐさまカーテンを閉め、後退った。遠目に見ても気持ち悪いが、近くで見るともっと気持ち悪い。害虫だからだ。

「お嬢ちゃん、気持ちは解るがそんなに怖がらないでくれ。俺はただ、人に会いに来ただけなんだ」

 巨大ゴキブリに柔らかく話し掛けられ、ウェールは頭を抱えて座り込んだ。

「うちにゴキブリの知り合いなんていないー!」

「だが、教えられた住所は間違いなくここなんだが」

「違うったら違うぅうううっ!」

「…参ったな」

 巨大ゴキブリはきちきちと顎を軋ませ、頭を振った。ウェールは涙目になりながら、掃き出し窓を睨んだ。

「とりあえず、餌に誘われて罠に填ってよ! そうしてくれなきゃ困るんだから!」

「餌って、このおにぎりのことか?」

「そうよ、それよ! いいからさっさと食べちゃってよ、でもって罠に填ってよ!」

「なぜ俺が罠に填らなければいけないんだ? その意味が解らないんだが」

「とにかく罠に填ってよ! 意味ならちゃんとあるわよ、罠を作った意味がないじゃない!」

「それは道理だな」

「じゃあ、おにぎり食べてから、そこの粘着シートに引っ掛かってちょうだい。せっかく作ったんだから」

 ウェールは掃き出し窓に近付き、カーテンを少しだけ開けた。巨大ゴキブリは腰を曲げ、視線を合わせてきた。

「だが、君自身が意図を明かしてしまった罠に填ってくれと頼むのは妙じゃないのか?」

「いいから填ってよ! 私もガンマも填められないんじゃ、填ってもらうしかないじゃない!」

 ウェールが窓越しに喚き散らすと、巨大ゴキブリは顎を押さえて肩を震わせた。

「それはおかしな話だな」

「笑わないでよ! 頑張ったんだから!」

 ウェールがむくれると、巨大ゴキブリは笑いを収めた。

「やあ、すまんすまん。ならば、俺は君の願いを果たすとしよう。それもまた正義だ」

 巨大ゴキブリはガンマに括り付けられていたおにぎりを外し、ラップを開いた。

「あ、そうだ」

 おにぎりに味を付けていなかった。それを思い出したウェールは、キッチンに戻り、醤油差しを持ってきた。

「そのおにぎり、味を付けて作らなかったから、塩っ気を足さないとおいしくないかも」

「ん、そうか?」

 巨大ゴキブリが上右足を伸ばしてきたので、ウェールは窓を細く開け、醤油差しを置いた。

「使いすぎないでよね。うちのお醤油なんだから」

「では、改めて」

 巨大ゴキブリは顎を開いてウェール手製のおにぎりを囓り、咀嚼していたが、触覚を下げた。

「ぬるっとするのにガリッとした…。おまけに妙に青臭い…」

「だからお醤油が必要なんじゃない」

「ならば、その言葉を信じよう。それこそが正義だ」

 巨大ゴキブリは醤油差しを傾け、おにぎりの中に数滴落とした。そして、再度囓り、触覚を上げた。

「おお、味が付けば旨いぞ! 塩気とは素晴らしいものだ、ばらばらだった具に統一性が生まれている!」

「食べ終わったら、罠に填ってよね」

「承知しているとも」

 一口食べるごとに醤油を垂らしつつ、おにぎりを食べ終えた巨大ゴキブリは、醤油差しを窓の隙間に戻した。

「では、とくとご覧頂こう。俺の罠の填りっぷりを!」

 妙に意気込んだ巨大ゴキブリは、ウェールの仕掛けた粘着シートの上に立つと、勢い良く前のめりに転倒した。

「うおおおっ!?」

 突然叫んだ巨大ゴキブリは、みぢみぢと接着剤の糸を引きながら身を起こし、派手に頭を振った。

「俺としたことが、こんな罠に誘われてしまうとはっ! 一生の不覚ぅ!」

「…妙に本格的だなぁ」

 あまりの熱の入れようにウェールが呟くと、巨大ゴキブリは接着剤にまみれながら身悶えした。

「だ、だが、俺はここで負けるわけにはいかん! 正義を果たすその時まで、倒れることは許されないのだ!」

 うぐうっ、とやはり大袈裟に声を漏らしてから、巨大ゴキブリはウェールを見上げた。

「ほらほら、攻撃するなら今のうちだぞ、お嬢ちゃん。この罠の設定がどれほどのものかは知らんが、早くやらないと俺は逃げてしまうぞ。何せ、俺には必殺技があるからな」

「調子狂ってきた…」

 罠に填ってくれるまでは良かったが、指示されるとやりづらい。ウェールはリビングに戻り、二つの武器を取った。
クエン酸溶液のスプレーと重曹の粉である。ぐおおお、うおおお、と悶える巨大ゴキブリに、スプレーを吹き付けた。

「ぐああああっ!」

 案の定、派手なリアクションをした巨大ゴキブリは、顎を開閉させて喘いだ。

「俺の外骨格を焼くとは、なんという強力な毒だ…!」

「え? でも、これ、クエン酸だよ? これも食品だって書いてあるよ?」

「いいから、そのままやってくれ。俺の方もなんだか調子が出てきたことだしな」

「あー、うん」

 罠に填っている相手に指示されることに疑問を抱きつつも、ウェールは重曹を巨大ゴキブリに投げ付けた。

「えいっ!」

「ぐぉあああああああっ!」

 物凄い絶叫を放った巨大ゴキブリに、ウェールの方が驚いてしまった。

「うわあっ!」

「俺はどんな拷問にも屈しない、なぜなら俺は正義の味方だからだ!」

 重曹を頭から被って真っ白くなった巨大ゴキブリは、もっともらしく声を張った。

「何これウザい」

 うんざりしてきたウェールが顔をしかめると、おにぎりを失ってバランスを取り戻したガンマが近付いてきた。

〈一連の出来事は、ドーター・ウェールの望んだことではありませんか〉

「違うよ。私はもっと格好良くやるつもりだったんだから」

 重曹のボトルのキャップを締めたウェールは、忌々しい巨大ゴキブリを睨み付けた。

「害虫を罠に填めて、退治して、お姉ちゃんらしいことをしたいって思っただけなんだもん」

「ならば、最初からそう言ってくれれば、俺も演じようがあったんだが」

 巨大ゴキブリに意見され、ウェールはなんだか急に腹が立ってきた。

「うるさいうるさいうるさぁああいっ!」

 元はと言えば、こいつのせいだ。お姉ちゃんらしく家を守ろうと思っていたのに、おかしなことになってしまった。
怖かったが、頑張って戦おうと思った。たまには良いところを見せたいから、怖いのも気持ち悪いのも我慢した。
それなのに、ゴキブリは罠に掛かってくれないばかりか、正義だなんだと訳の解らないことを言い出す始末だ。
これでは、一つも良いところを見せられない。それどころか、巨大ゴキブリに翻弄されて愚行を繰り返している。
お姉ちゃんらしいどころか、家族の中で一番情けない。そう思った途端、空しくて馬鹿馬鹿しくて涙が出てきた。
 お姉ちゃんになりたいのに、お姉ちゃんになれなかった。




 彼の名は、テリー・ブラックという。
 ウェールはミイムが淹れてくれた甘いミルクティーを飲みながら、向かい側のソファーに座る害虫を見つめた。
その隣では、ヤブキがばつが悪そうに頭を掻いている。巨大ゴキブリことテリーは、ヤブキの友人なのだそうだ。
ハイスクールで同じクラスになったのが切っ掛けで友人になり、特撮好きという趣味を通じて仲を深めていった。
そして、ヤブキが訓練学校に進むと、テリーは特撮専門のアクションアクターになるために俳優学校に進んだ。
その後はメールや通話で頻繁に連絡を取っていたが、どちらも忙しかったため、あまり顔を合わせられなかった。
なので、家族にはテリーのことを紹介する機会がなく、今日訪問するというメールは磁気嵐のせいで届かなかった。
 ちなみに、磁気嵐は十五分前に沈静化して通信障害が解消されたので、ガンマが家族全員に通信を行った。
ガンマの要点を掻い摘んだ簡潔な報告を受けた皆は、即座に帰宅し、異形の訪問者と疲れた長女と対面した。
 テリーに関する情報を一通り話し終えたヤブキは、萎れてしまったテリーを見、励ますためにその肩を叩いた。
マニア向けのコアな特撮番組とはいえ、ヒーローである自分が子供を泣かせた事実に打ちひしがれているのだ。

「テリーを見てビビらないのは、余程の虫好きか特オタっすよ。だから、そう凹むことないっすよ。オイラだって、一緒のクラスになった時はそりゃもうビビったんすから」

 ヤブキが声を掛けると、接着剤もクエン酸も重曹も落とされて綺麗になったテリーは項垂れた。

「そうかもしれないが、俺の目指す正義の在るべき姿ではない…」

「磁気嵐も収まってきたから、これから船に戻るんすよね? またロケっすか?」

「ああ。事務所の宇宙船がこのコロニーの近辺に停泊しているから、メールなり何なりで連絡すれば、テレポーターが俺を戻してくれるはずだ。だが、このままでは俺は…」

「とにかく元気出すっすよ! オイラは毎週見てるっすよ、昆虫闘士コックロイド! グロくてエグくて大人向けすぎてお子様には絶対見せられないどころか、動画サイトにアップロードしても即削除対象になるほど凄い内容っすけど、だからこそ愛して止まないっす! 演出も脚本も飛ばしすぎてるせいで、世間の認知度も評価も低いかもしれないっすけど、いずれは評価されるはずっす!」

「そうか? 俺や関係者のブログに来るコメントは、九割方批判なんだが…」

「一割でも肯定されてるからいいじゃないっすか! どんな名作だって、最初は評価されないもんっすよ!」

 テリーは一度落ち込んでしまうと一ヶ月は立ち直らない性分ので、ヤブキはここぞとばかりに励ました。

「戦え、僕らのコックロイド! 立ち上がれ、正義のコックロイド! 強いぞ、孤高の戦士コックロイド! っす!」

 必死にテリーを持ち上げようとするヤブキに、テリーは伏せていた顔を上げ、少し笑った。

「相変わらずだなぁ、お前は」

「モチベーションが低いと、演技にも出ちゃうっすよ。プロならプロらしく、胸張って演技するっす!」

 ヤブキが拳を握って頷くと、テリーはぎちぎちと顎を軋ませた。

「そうだな。俺はプロの正義の味方なんだ、子供を泣かせたぐらいで演技を鈍らせるわけにいかん」

「キモメン同士で盛り上がってるところ悪いんですけどぉ、うーちゃんを無視しすぎですぅ」

 ウェールの隣に座っているミイムに睨まれ、ヤブキは腰を引いた。

「あ、そう、っすね…」

「すまん、つい」

 テリーも身を引き、頭を下げた。ミイムはウェールを撫でてやってから、テリーを見据えた。

「テリーさん、まず最初にやるべきことがありますぅ! 大人の義務を果たしてからじゃないと、キモオタトークは許可出来るわけねぇだろスットコドッコイアホンダラコノヤロウですぅ!」

「本当にすまなかった」

 テリーはウェールに向き直り、深々と頭を下げすぎてリビングテーブルに複眼をぶつけてしまった。

「私も悪かったから、謝らなくてもいいよ」

 気が静まって頭も冷えてきたウェールは、眉を下げた。

「私の方こそ、ごめんなさい。お兄ちゃんのお友達なのに、色々と変なことしちゃって」

「許してくれるのか、俺のことを」

 顔を上げたテリーに、ウェールは苦笑いした。時間が経つと、先程とは別の意味で自分が情けなくなってきた。

「それを言うのは私だよ、テリーさん。怖いけど、気持ち悪いけど、最初にお話を聞いておけば良かったんだよね」

「ありがとう、ウェール。今日の過ちは、今後に生かすと誓おう。アボカド納豆とキュウリのおにぎりは旨かったぞ」

 テリーは再度頭を下げてから、三本の爪が生えた上右足をウェールに差し出した。

「私も、次はもっと落ち着いて行動することにするよ。おにぎりも、もうちょっとまともな具を入れるね」

 ウェールはテリーの冷たい爪に触れ、頷いた。テリーは上右足の爪を下げると、漆黒の複眼に少女を映した。
人型昆虫なので顔に表情は出ていなかったが、笑うように顎を開いていたので、ウェールも照れ混じりに笑んだ。
すると、リビングのドアが少しだけ開いた。皆が振り返ると、それぞれの表情で困惑している妹達が覗いていた。
ウェールはマグカップを置いてソファーから下り、リビング前の廊下に集まっている妹達に近付いて声を掛けた。

「大丈夫だよ。あの人ね、見た目は凄くアレだけど、そんなに怖くないよ」

「お、お姉様は、あ、あれが平気なのですかっ!? だ、だって虫ですよ、虫、虫、虫ぃっ!」

 一番怯えているアエスタスは、ヒエムスの背に隠れて震えていた。

「ゴキブリの方がいらっしゃった時、ウェールお姉様はガンマお姉様と家にいらしたんですわよね? 本当に大丈夫でしたの、変なことをされたり、襲われたりしませんでしたの?」

 心底不安げなヒエムスは、ウェールの両手を取った。

「畏怖」

 アウトゥムヌスはウェールに寄り添い、しがみついてきた。

「平気だよ」

 ウェールは妹達に笑みを向け、胸を張った。

「だって、私はお姉ちゃんだもん!」

 すると、妹達の表情が次第に緩み、少しばかり安堵したようだった。ようやく、お姉ちゃんらしいことが出来た。
ウェールは三人の妹達を一人ずつ撫でてやりながら、小さな優越感とその何倍もの大きな達成感に浸っていた。
思い描いていた理想のお姉ちゃんには程遠かったが、少しだけお姉ちゃんになれた気がして、嬉しくなってしまう。
 逃げ腰のアエスタスを引き摺り、固まっているアウトゥムヌスを押しやり、後退るヒエムスをリビングに入らせた。
三者三様のテリーに対する反応を眺めながら、ウェールは再びミイムの隣に戻り、温かいミルクティーを啜った。
ガンマが一部始終を記録しているので、いずれ真相は知られてしまうだろうが、その時はその時だと割り切った。
家族全員に全てを知られたとしても、動じないほどの立派なお姉ちゃんに成長すればいいだけのことなのだから。
 そして、いつか、宇宙一のお姉ちゃんになるのだ。







09 5/8