アステロイド家族




芳しき秋



 いただきます。ごちそうさま。


 夢を見る。
 透明の卵の内側から、彼の背中をじっと見つめている。頼りがいのある背中、いつも寄り掛かっていた背中、時には 背負ってくれていた背中、旧人類でもなければ新人類でもない雑種、第三人類の未来を担う背中。少し前まで は手を伸ばせば届いていたのに、今は触れられない。培養液の中から出て外気に触れた途端、生体組織が崩壊 して死に至るからだ。死ぬのは怖くない。何も怖くない。けれど、空しい。
 瀕死の重傷を負った肉体を捨て、改造手術を施され、機動歩兵の生体コンピューターになってからは、以前より 彼のことがよく解るようになった。彼はとても優しい。周りを大切にする。他人を慈しむ。人を尊重出来る。けれど、 今はその優しさが喰い物にされている。彼が第三人類軍の総司令官に祭り上げられたのも、参謀である上位軍人 達の指示に刃向かわないからだ。彼はそれを解っている。その方がいいんだ、とも言う。一日でも早く、泥沼の戦争 を終わらせるためには効率の良い作戦を打って出る必要がある、だが俺の頭では思い付かないんだ、と言った。
 彼は、遠からず折れてしまう。その前に戦死してしまうかもしれない。だから、せめて、機動歩兵のコクピットの中 では心穏やかに過ごせるように愛の言葉を繰り返す。現実の苦しみを紛らわすために、同じ言葉を繰り返す。
 大丈夫、問題はない。




 大丈夫ではない。問題は大有りだ。
 眉根を寄せ、唇を曲げ、手元のタブレット端末を凝視する。アウトゥムヌスは奥歯を噛み締めながら、統一政府から 届いた合否通知の電子文書を見つめた。結果は不合格。これでもう三度目だ。しかし、この国家資格を取らなければ 次の段階には進めないのだから、諦めてはいけないと奮起しようとするも、その気力が沸かなかった。
 それでも、傍目から見ればアウトゥムヌスはいつもと変わらない無表情だった。いつまでも電子文書を見ていても 合格通知に変わるわけもないので、そのホログラフィーを消した。代わりにこれから取得すべき資格をリスト化した ファイルを開き、眺めた。完全循環型コロニーを管理、整備、個人所有するために必要な資格は、全部で五十五。 簡単なペーパーテストと実地試験だけで簡単に取れるものもあれば、三度の国家試験と二百五十六時間の講習を 受けなければ取れないものもある。未来の夫であるジョニー・ヤブキと協力し、比較的簡単に取れる資格から一つ ずつ取得し、ようやく十五個目に到達したのだが、まだまだ先は長い。

「むーちゃん、ランチ、食べないの?」

 アウトゥムヌスの目の前にやってきたのは、ランチを盛った皿を乗せたトレーを抱えた少女だった。ハイスクール の学区内にあるカフェテリアは、今日もまた大勢の生徒達で混雑している。アウトゥムヌスもランチを食べるつもりで トレーと皿を運んできたのだが、ビュッフェに向かう前に合否通知の電子文書が届いたので、それを確認すること を優先したから皿は空っぽだった。もっとも、その内容は不合格だったのだが。

「後々」

 アウトゥムヌスが平坦に答えると、少女、サナ・リューガーは尻尾で椅子を引いてから腰掛けた。それもそのはず、 彼女は惑星ドラコネム出身の竜人族であり、留学生なのだ。だが、その頭部からはリリアンヌ・ドラグリオンのような ツノも生えていなければ翼も生えておらず、紫のウロコに覆われた尻尾と瞳孔が縦長の赤い目が特徴的だ。尻尾 以外の外見は人間に似ていて、赤紫の髪が肩まで伸び、肌も白く柔らかい。頬骨の盛り上がった部分には紫色の ウロコがそばかすのように散らばり、耳元まで裂けた口からは牙が生えているが、恐ろしげな外見とは裏腹に愛嬌の ある性格でクラスメイトからは好かれている。そして、アウトゥムヌスと寝起きを共にするルームメイトでもある。

「むーちゃんってさぁ」

 青ジソドレッシングを掛けた山盛りのグリーンサラダを頬張ってから、サナはアウトゥムヌスの手元を指した。

「将来はコロニーでも運営するの?」

「否定。実家の管理、維持」

「あー、そうなんだ。個人所有のコロニーなんて珍しいねー。だから、尚更、守りたくなるんだね」

「明察」

「それでなくても、コロニーの管理者って人気のある職業だよね。エウロパみたいな大きなコロニーは凄く儲かるし、 上手くやれば千年単位で保つけど、その分リスクも大きいんだよねー。住民同士のトラブルは絶えないし、うっかり 病原菌やカルト宗教をばらまかれたら住民もろとも全滅しちゃうし、民間寄りにしすぎると資本主義になっちゃって 貧富の差が激しくなりすぎるし、かといって軍需にしちゃうとただの前線基地になっちゃうし、それでいて観光資源 を作ったところで受けるとは限らないし。難しいもんだよね」

「問題山積」

 眉を下げるアウトゥムヌスを横目に、サナはたっぷりとマッシュポテトを掬ったスプーンを銜える。

「私も、進路を決めておかないとなぁ。ドラコネムに戻って就職するのも悪くないけど、せっかく太陽系まで出てきた んだから、こっちで仕事を見つけるのもいいよなー。だけど、今の私ははっきりした目標があるわけでもないしなぁ。 かといって、銀河中を渡り歩く探査船に乗り込むような度胸もないし……。むーちゃんが羨ましいなぁ、やりたい ことが決まっていて。んで、恋人もいて」

「否。夫」

 サナを一瞥したアウトゥムヌスは、シンプルなシャツワンピースの襟元から、チェーンに下げた結婚指輪を出して みせた。サナはその結婚指輪から目を逸らし、羨望を隠さずに嘆息した。

「あー、いいよねぇ、それも。でも、私と結婚するような男が果たして現れるのか……」

「大丈夫、問題はない。サナは婚姻関係に必要な技術と生殖能力を備えている」

「それとこれとは違うの、違うんだよ! 結婚ってぇのは、自分もそうだけど相手の長所も短所も利点も汚点も全部 見せ合わないと出来ないことじゃない! 物理的にも! まぐわったら結婚になるんだったら、世の中のアレやコレを どうこうした異種族は全部結婚することになるじゃない! たまにネットで見かける異星間ポルノグラフィーなんかは 全部お見合いになっちゃうじゃない!」

「サナが動揺する理由が解らない」

「聞きたい? 聞いてよ、聞いてよお願いだから!」

 サナはぐっと身を乗り出すと、アウトゥムヌスの手を取って握り締めてきた。

「うちのお母さんがね、今度、ゼク・ト・ゼーとかいう軍人と結婚するとか言い出したの! あ、うちのお母さんはね、 遺伝上では繋がっていないんだけど、卵だった頃の私を引き取って育ててくれた人でさ、若い頃は教会で修道女を していたのね。名前はファシィ・リューガーっていうの。んで、そういう人だから、出向って名目で実質追放処分された 惑星フィーブ出身のゼク・ト・ゼーっていう変な単眼オオトカゲの軍人と関わるようになったら、そいつが可哀想だと か言い出しちゃってさぁ。でも、あいつは追放処分されて尤もなんだよ。だって、あの単眼オオトカゲ、自分の上官 の妾を寝取ったんだよ? しかも、その妾っていうのが男と女の両方なんだよ? なんで処刑されなかったのか、 不思議で仕方ないんだけど、そういう奴のことだから色々と手を回したんだろうね。で、そんな奴がお母さんと結婚 なんかしちゃったら、きっと泥沼の愛憎劇が始まっちゃう! ああ嫌っ、嫌すぎる! 異星間婚姻ってのはね、あの ドラマの宇宙夫婦ギャラクティカみたいな、ちょっとした擦れ違いとカルチャーショックを経て解り合うのがいいの!  どう見ても最悪の結末しか見えない結婚なんて、最初からすべきじゃないの!」

「サナ」

 まだ言い足りなさそうなサナの口を押さえ、アウトゥムヌスは首を横に振った。すると、サナは周囲の生徒達から 注がれる視線の刺々しさに耐えかね、座り直した。少し冷めたミネストローネを啜り、サナは俯く。

「まあ……うん。あいつとお母さんが仲良くしてくれるなら、それでいいんだけどさ……。そうならなかったら困るし、 私もあいつとも出来る限りは仲良くしたいけど、その自信もないから……」

「最悪の事態に陥る可能性が見受けられる場合は、早急に法的措置を取るべき」

「うん、そうだね! それがいいね! そう思ったら、進路も見えそうだよ! 星間弁護士ってのもいいね!」

 悩み事を喋るだけ喋って気が済んだのか、サナは一気に明るさを取り戻した。

「とにかく、今はランチを食べよう。はい、どうぞ」

 そう言って、サナはアウトゥムヌスの目の前にパンを差し出してきた。アウトゥムヌスはそれを銜え、咀嚼して嚥下 する。ざらついた食感の全粒粉の小麦で出来たパンが胃に収まったが、それ以上は入らない。食べた傍から消化 してしまう体質であるアウトゥムヌスはいくら食べても足りないのが常なので、早々に満腹感が訪れるのは滅多に あることではない。サナもその体質を知っているので二つめのパンを差し出してくれたのだが、アウトゥムヌスは首を 横に振った。サナは不思議そうに首を傾げ、パンを下げた。

「むーちゃん、お腹でも痛いの?」

「否定」

 アウトゥムヌスははぐらかしたが、ただの強がりだった。胃が重たいのは気のせいだと思おうとしても、日に日に 違和感は強くなる。食欲が微塵も湧かなくなってしまい、そのせいで何を食べてもおいしいとは思えなくなった。 そして、不安も強くなる。実家のコロニーを維持するために必要な資格は山ほどあるし、ハイスクールの授業にも 出て単位を取らなければならないし、単位を落とせば大学進学に支障を来す。やることはいくらでもある。
 十四歳になったのだから、もっと頑張らなければ。だが、焦った分だけミスが増えているのもまた事実で、先日の テストの結果は散々だった。単位には響かないテストではあったのだが、だからといって平均点以下を取っていい はずがない。勉強しなければ。しっかりしなければ。だから、せめて食べるだけ食べておかなければ身が持たない、 とアウトゥムヌスはトレーを手にして立ち上がったが、不意に視界が暗転した。
 それきり、意識が途切れた。




 宇宙ステーションの裏側は汚い。
 その中に不特定多数の人間や異星人が住んでいるのだから、至極当然だ。炭素生物に限らず、生命活動を行う 者は捕食した分だけ排泄する。植物が二酸化炭素を吸収して酸素を排出するのと、なんら代わりはしない。火星の グリーンプラントで動植物にまみれて生まれ育った経験も相まって、ヤブキは排泄物や老廃物に強烈な嫌悪感は ない。家畜の排泄物を利用して作る有機肥料はこの時代になろうとも現役だし、ヤブキが愛して止まない農作業 には付き物だからだ。もちろん、衛生観念と倫理観はきちんと持っているが。
 エウロパステーションの大きさと住人の数に相当した規模を誇る浄化プラントは、立派なものだった。感染症やら 何やらを防ぐための防護服を全身に纏ったジョニー・ヤブキは、ゴーグルの上に被さっているビニールマスクの中 から、太いパイプラインを仰ぎ見た。一番太いパイプは汚物と汚水の混じったものを第一浄化タンクに流し込むため のパイプなので、その中には数分前に住民達が排泄したものが詰まっている。パイプの長さは数百メートル、直径 は十メートルを越えている。中身さえ知らなければ壮観だ。

「いやー、凄いもんっすねー。あれだけのブツがあれば、肥料がトン単位で出来るっすねー」

 ヤブキが素直に感嘆すると、隣に立っている男は訝った。

「なんだ、その貶めているのか褒めているのか解りづらい感想は。だが、浄化プラントの第一段階を見学しに来る奴 がいるとはな。大抵の業者も第二段階までしか入ってこない上に、俺と直に接触しようとする奴はほとんどいないん だが……。もっとも、俺もその方が気楽ではあるんだが」

「現場の作業を実地で見ないことには、解らないことが多いんすよ。ここ以外にも、色んなブロックの環境維持装置 のプラントを見学して回っているんす。そこで勉強したことが身に付くかどうかは、オイラ次第っすけどね」

 ヤブキが両手を上向けると、黒い防護服で全身を覆っている男、バッドスタックは口角を曲げた。ように見えた。 というのも、バッドスタックは防護服と同じ素材の黒いマスクで頭部を覆っているので、表情はおろか目元も一切 見えない。顔の角度によっては目元に小さな切り込みがあるのが解るが、その隙間もかなり狭いので、視界はゼロ といっても差し支えがない。が、仕事には支障を来していないようなので、彼なりの事情があるのだろう。

「次に行くぞ」

 バッドスタックは黒い防護服の上に着ている擦り切れたトレンチコートの裾を翻し、歩き出した。ヤブキは彼の背 を追っていくが、その歩調に合わせてじゃりじゃりと金属音が聞こえていた。その音源は、バッドスタックの右の袖口 からはみ出している太い鎖だった。何に使うのかと問うと、浄化プラントは重力制御が行き届いていない部分が多い ので、パイプラインにフックの付いた鎖を投げ付けて噛ませ、移動する際に使うのだそうだ。
 それから、ヤブキはバッドスタックに浄化プラントの構造とその役割、そして整備方法を教えてもらった。その内容 自体は、浄化プラントの取り扱いに関する資格を取得した際に学んだものと同じではあるが、ホログラフィーで見る のと実物を見るのとでは訳が違う。ヤブキは事ある事に感心しながら、未処理の排泄物が大量に収まる第一浄化 タンクを滅菌処理するための作業行程、滅菌処理された排泄物を凍結させるための第二処理タンク、そこから更に 排泄物を圧縮して換装させるための第三処理タンク、それから第四、第五、第六、と経て第七処理タンクに至ると、 ようやく排泄物は肥料に加工される段階に入っていった。この行程と並行している浄水のパイプラインはこれよりも 更に時間が掛かっていて、幾度となく濾過して不純物や汚物を排除し、煮沸、凍結、滅菌、滅菌、滅菌、更に煮沸 してから上水道に戻っていった。宇宙ステーションでは、水は貴重だからだ。
 見学コースというには薄暗い道順を辿って、最後に行き着いたのは、バッドスタックの事務所であるプレハブ小屋 だった。古めかしいプレハブ小屋の周囲には、雑多な生活用品が積み重なっていたので、彼はここで寝起きしていて 居住区には滅多に上がらないのだろう。裏方の仕事をする人々には、よくあることだ。

「あ・とぅぼわら!」

 プレハブ小屋の錆びたドアが開いて少女が現れ、舌っ足らずなフランス語で挨拶してきた。防護マスクで鼻と口を 覆っていて、黒い防護服を身に付けていたが、腰回りにはピンクの裾が広がったスカートが付いていた。薄緑色の髪 と金色の瞳もさることながら、最も目を惹くのが背中から生えている妖精じみた翅だった。

「けりゅ?」

 来客が物珍しいのか、少女は首を傾げる。バッドスタックは身を屈め、少女の丸い頬を撫でた。

「害はない。放っておけ」

「その子、娘さんっすか?」

 どうも御邪魔するっす、とヤブキが一礼してから尋ねると、バッドスタックはきっぱりと言い切った。

「いや。嫁だ」

「そうっすかー! いやあ可愛いっすねー!」

「めるしぃ」

 ヤブキが屈託なく褒めると、少女はにんまりした。バッドスタックに促されて事務所に入ると、バッドスタックが仕事 の行程を書き記したホログラフィーを見せるよりも先に、少女が二人の思い出を記したアルバムのホログラフィー をヤブキに見せてくれた。バッドスタックとの結婚生活を、自慢したくてどうしようもなかったらしい。
 そのアルバムの写真と少女のフランス語と第一公用語混じりの拙い説明によると、バッドスタックは、以前は巨大 移民船の乗組員として浄化プラントの管理と整備を行っていたそうだが、そこで突如発生した奇病の影響で能力を 得てしまった。それは、触れたものを全て腐らせてしまう腐敗能力であり、皮膚に触れた空気すらも一瞬で腐敗して しまうようになった。外宇宙の探索と植民惑星を探すための旅路のはずが、巨大移民船はあれよあれよという間に 能力者同士が争う場と化していき、バッドスタックも馬鹿げた争いに巻き込まれてしまった。そこで出会ったのが、 妖精じみた外見の少女、ペリーヌ・ポワレだった。奇病の影響で妖精に似た外見に変化したペリーヌは奇病を治療 出来る抗体を持っていたので、能力者達が奪い合っていたのだが、紆余曲折を経てバッドスタックの元に来た。だが、 バッドスタックは彼女の抗体を使って争いに勝つつもりもなければ、争いを終わらせる気もなかったので、巨大移民船 から逃げてきた。というわけなのだそうだ。

「んで、統一政府が無法地帯と化した俺達の移民船を片付けてくれるまでは、エウロパステーションで糊口を凌いで いるっつーわけだ。んでも、俺らの能力が知られちゃうとまた面倒臭いことになっちまうから、あんたはスタッキーと 妖精ちゃんとこの俺から聞いた話を、誰にも言わないで“くれよ”?」

 と、ヤブキに迫ってきたのは、ガスマスクを被ってオレンジ色の作業着を着ている少年だった。彼も浄化プラント の住人であるらしく、事務所の奥から出てきたのだ。すると、その後頭部に黒い手袋を填めた拳が振り下ろされ、 少年はつんのめった。バッドスタックの仕業である。

「なーにしやがんだよスタッキー!」

「お前は黙っていろ。それと、隠蔽工作にお前のつまらん強要能力を使うな。ややこしくなる」

 こいつはオスカー・ワーウィックだ、とバッドスタックは少年を再度小突いてから、ヤブキに向いた。

「聞きたいことはあるか」

「そのお二人は普通の名前なのに、なんでスタッキーさんはバッドスタックなんつーヒーローっぽい名前なんすか。 自称っすか、他称っすか。本名はあるんすか」

「黙れ。初対面の相手にそこまで込み入ったことを話せるものか」

「そうっすか、そこは突っ込んじゃいけなかったんすか。すいません。んで、そのガスマスク少年はなんすか?」

「説明するとややこしくなるから割愛するが、俺と妖精が逃げ出す時にくっついてきた馬鹿だ。役に立たんし、放って おけばずっと喋るからうるさいだけなんだが、放り出すと後が面倒なんでな」

「へー。スタッキーさんは面倒見良いっすねー」

「いや、そういう意味では……。まあ、なんだ。必要な資料があれば、渡せる範囲で渡してやるが」

「んじゃ、これとこれのパイプの水圧なんすけどね……」

 ヤブキは透明の防護パックで覆ってある情報端末を出し、立体映像の構造図を浮かび上がらせた。バッドスタック は身を乗り出して、現場の人間でなければ解らないことを事細かに説明してくれた。浄化プラントのパイプラインに 設置された濾過装置を点検するタイミング、万が一汚水が浄水に流れ込んでしまった場合の対処法、熱と低温では 殺菌しきれない病原菌の種類、そしてその病原菌に由来する感染症の症状、更にはその感染症に有効な薬剤の 種類、と、これでもかと教えてくれた。どうやら、バッドスタックという男は人付き合いが苦手だが、人に関わることは 根っから嫌いではないようだった。面倒見の良さも、その延長なのだろう。

「お?」

 バッドスタックによる講習が一段落した頃合いに、ヤブキの情報端末が通話を受信した。発信元はアウトゥムヌス だったので、すぐさま受信した。が、聞こえてきた音声はアウトゥムヌスのものではなかった。

『ヤブキさんですよね!?』

「そうっすけど、どこのどなたっすか」

『えっと、私、むーちゃんのルームメイトのサナ・リューガーっていうんですけど、これ、むーちゃんの端末を借りて、 えっとえっと、むーちゃんが倒れちゃってぇっ!』

 サナ・リューガーと名乗る少女はひどく動揺していて、泣きじゃくっていた。ヤブキはないはずの心臓が縮み上がる 感覚に襲われたが、サナの言葉を聞き逃してはならないと踏ん張った。それによると、ハイスクールのカフェテリア でランチをしていたところでアウトゥムヌスは突然倒れ、それきり動かなくなったらしい。サナはすぐに教師を呼んで きて、アウトゥムヌスを最寄りの病院に搬送してもらったのだそうだ。サナからアウトゥムヌスの情報端末を返して もらう約束を取り付け、病院の位置を教えてもらってから、震える手で電話を切った。ヤブキの脳裏にありとあらゆる 最悪の事態が駆け巡り、泣きそうになったが、バッドスタックらにしっかりしろと励まされた。
 バッドスタックは、一刻も早く傍に行ってやれ、と言ってヤブキに居住区に出る最短ルートを教えてくれた。その道 を辿りながら、ヤブキは何度も膝を折りそうになったが、背筋を伸ばして走り続けた。エウロパステーションに資格 取得のために来てからはアウトゥムヌスに会ったし、デートもしたが、異変なんて感じなかった。いつも通りだった。 それなのに、一体何があったのだ。ヤブキは泣き出したい気持ちを堪えながら、進んだ。
 未来の妻の元を目指した。







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