時には、姉妹らしく。 ふと、気が緩む瞬間がある。 数々の勲章と自国の紋章が付けられた上着を脱ぎ、襟元を緩め、ベッドに身を預けて天井を仰いだ時だった。 深く息をすると、年齢を重ねるに連れて張り詰めた乳房が上下し、肺にずしりとした脂肪の塊の重みが訪れた。 それに応じて筋肉も発達してきているので、普段は大した問題ではないが、仰向けになると煩わしく思えてくる。 額に当てた手も厚く、大きかった。指先には書簡を書き続けたためにインクが染み付き、袖口も少し汚れていた。 それが、血でないことが何よりだった。二人の兄が入れ替わり、母を殺し、兄を殺したからこそ、この現実がある。 だが、もう兄と顔を合わせることはない。二人いた兄の片割れは片割れを守って死に、もう一人は皇位を捨てた。 それで良かったのだと思うし、それ以外の結末はなかったとも思う。けれど、時折、十七歳の少女に戻ってしまう。 「失礼します、陛下」 寝室の扉が叩かれた後、同じ顔をした側近の一人、トリアが現れた。 「どうした」 フォルテが身を起こすと、トリアはポケットから巻き尺を取り出した。 「先程の会談の際、陛下の後ろ姿を拝見していたのですが、礼服の肩幅がきつそうに見えましたので、仕立て直すために寸法を計り直させて頂けませんか」 「そうか?」 フォルテは骨格の太い肩に触れてみたが、自分では今一つ解らなかった。 「ええ。背もまたお伸びになりましたし、腰回りも少々増えておられますので」 失礼します、とトリアは立ち上がったフォルテの体に巻き尺を回し、慣れた手付きで寸法を測っていった。 「先代陛下が崩御される以前でしたら、衣装係に新しい礼服を作らせたのですが、今はそうもいきませんからね」 「服に回す金があれば、民に回している」 「御立派です、陛下」 フォルテの胸囲を測ったトリアは、巻き尺を入れていたポケットから小さな手帳に取り出し、寸法を書き留めた。 「また胸囲が大きくなられましたね。私とクアットロはそうでもないのですが」 「何だったら、切り分けてやるが。鬱陶しいんでな」 「身を切るのは私とクアットロの仕事ですので、謹んで遠慮いたします」 「だが、どうしても入り用ならば申し出よ。お前も民の一人だ、民のために尽力することこそが皇帝の本分だ」 フォルテはベッドに腰を下ろすと、太い足を組んだ。膝丈のタイトスカートの裾からは、白く長い尾が出ていた。 対するトリアの尾は、その半分程度しかない。生まれた時に尾を切り落とし、側近と皇族に分けられた証だった。 母親である先代皇帝はルルススの手で暗殺され、レギーナの尾も切られた今、尾が長いのはフォルテ一人だ。 クニクルス族は、尾の長さで地位を分けている。尾が長ければ長いほど地位は高く、短ければ短いほど低いのだ。 頭部の両脇に伸びたウサギに似た耳の長さは年齢で変化しても尾だけは変化しないので、生まれた習慣だった。 だが、いずれその習慣も廃止されるだろう。数千年に渡って続けられてきた習慣も、時代の流れには逆らえない。 貴族と平民の間にある壁を取り払い、元老院を解体し、選挙制の議院を作り、独裁から民主主義に切り替えた。 絶大な権力を持っていた軍部からも権力を奪い、一度フォルテの元に全て集めてから、官民に分散させていった。 けれど、まだ国内は安定していない。三百年間に渡って繰り広げられていた独裁政権も、完全な悪ではなかった。 初代皇帝がコルリス帝国を支配する以前は、内乱に次ぐ内乱で国内は荒れ、皇族は宰相や大臣の道具だった。 汚職と賄賂が跋扈した腐敗政治が長く続いたため、貧富の差は広がり、貴族は贅沢に溺れ、民は飢えて死んだ。 他国に攻め入って食糧や物資を略奪してもその場凌ぎにしかならず、上位軍人と貴族だけがそれらを得ていた。 腐り切った帝国は最早自滅するだけかと思われたその時、現れたのが、初代皇帝カルブンクルス一世だった。 カルブンクルスは地方都市の貧しい貴族の長女として生まれたのだが、幼い頃から強力な超能力を有していた。 そのため、周囲からも軍人になるように強く勧められ、本人もそれを志し、成人した直後に志願兵として従軍した。 だが、乱れた政治の影響を顕著に受けた軍部は、上位軍人が絶大な権力を持つ一方、兵士は虐げられていた。 誰一人として軍人の誇りを持たず、欲望を満たすことだけに執心して、帝国の平和を望んでいる者はいなかった。 カルブンクルスは奮起し、立ち上がった。彼女の天賦の才はサイコキネシスだけでなく、戦術の腕も秀でていた。 役に立たない上位士官を押しのけて部隊を率いて、他国との戦闘で勝利を重ねた彼女は、数年で将軍になった。 そして、その権限で当時の皇族を捕らえ、処刑し、新たな皇族として名乗りを上げてコルリス帝国を再生させた。 だが、時が経ち、世代を重ねるに連れてカルブンクルスの気高い心は失われ、過去の過ちを繰り返してしまった。 彼女が築き上げた民衆のための政治体系は崩れていき、皇帝の独裁政権が何世代にも渡って繰り広げられた。 それを打ち破る切っ掛けを作ったのが、フォルテのもう一人の兄であり皇太子レギーナの側近、ルルススだった。 ルルススはレギーナの身代わりとなって国葬され、帝国の未来を切り開いた英雄として、民衆に信仰されている。 ルルススを始めとした数々の犠牲を経て、暗殺の危機を乗り越え、フォルテは兄に代わって皇帝として即位した。 レギーナを利用して財を得ようとしていた貴族達や、男性主義者の一派からは批判を受けたが、受け流している。 今は、それどころではないからだ。政権を派手に作り替えたために、フォルテの元には日々仕事が押し寄せる。 二人の側近や部下を使ってなんとか処理しているが、終えた傍からまた新たな仕事が舞い込み、休む暇もない。 唯一心が安らぐ食事の時間すらも、各国首脳との会談であったため、今日の夕食はろくに食べた気がしなかった。 フォルテの年齢は十七歳なので周辺諸国の統率者に比べれば二三回り以上若いため、彼らの評価は低かった。 そのため、会談とは名ばかりで、フォルテの政治手腕と皇帝としての器を探るための腹の探り合いと化していた。 彼らの物言いを受け流し、やり込め、翻弄することで忙しかったため、豪奢な食事の味はほとんど解らなかった。 「トリア、すまんが何か持ってきてくれないか。腹が減った」 空腹感を感じたフォルテが言うと、トリアは礼をした。 「そう来る頃だと思っておりました。それで、今夜は何を御所望でしょうか」 「そうだな…」 フォルテは少し考えてから、兄と共に最後に摂った食事を思い出した。 「トリア、カレーは作れるか?」 「カレエ、ですか?」 「いや、それではアクセントが違う。カレー、と伸ばすんだ」 「似たような名前の郷土料理なら、手が覚えておりますが」 トリアは素早く思念を放ち、フォルテの記憶を手繰ったが、首を捻った。 「ですが、それは陛下が御所望のものではないようですね。炊き上げた穀物を盛った皿に、香辛料で味付けされたソースで煮込んだ野菜と肉を掛けるのですか。少しお待ち下さい、食料庫の材料で出来るか考えてみます」 「お前が知らなくても無理はない。これは地球人類の料理なんだ」 フォルテが付け加えると、トリアはフォルテから読み取った記憶を更に読み取り、あ、と小さく声を上げた。 「これをお食べになった時、レギーナ様と食卓を共にされたのですね」 「そうなんだ。だからかもしれんが、何か、凄く美味しかったんだ」 フォルテは少し気恥ずかしげに、笑みを零した。トリアも頬を緩めたが、すぐに表情を戻した。 「では、御所望のカレーについてですが、私の記憶だけでは心許ないのでクアットロも呼び付けましょう」 「そうだな、クアットロがいれば確実だ」 フォルテが頷くと、では、とトリアは目を閉じて思念を放った。数秒後、寝室の扉の空間が歪み、妹が現れた。 もう一人の側近であり妹、クアットロだった。書庫で調べ物をしていたらしく、服の裾や袖が埃で白く汚れていた。 メガネの奥の瞳は、とろんと眠たげだ。無限記憶能力者であるが故の知識欲が、睡眠欲に勝っているせいだ。 「お呼びでしょうか、陛下」 クアットロはフォルテに近付こうとしたが、絨毯の端に躓いて転び掛けた。 「うきゃっ」 「眠いのなら寝てきても構わんぞ」 フォルテが苦笑すると、クアットロは姿勢を戻した。 「お気遣いありがとうございます、陛下。ですが、私は陛下を支える側近の片割れなのですから、陛下からのお呼び出しとあれば睡魔如きに負けるわけにいかないのです」 「だけど、それにも限度があるわ。睡眠不足が祟りすぎて発狂寸前の思念を延々と送り込まれる私の立場も考えてくれない、クアットロ。ついでに、私のテレパシーに勝手に思念を接続した挙げ句、取り留めのない知識をだらだらと送り込むのもやめてほしいんだけど。私はあなたの知識のゴミ箱じゃないんだけど」 トリアが憮然とすると、クアットロは半開きの瞼の下で金色の瞳を動かし、側近の片割れに向けた。 「いいじゃない、それぐらい。知識はいくら得ても荷物にはならないし、一つも無駄にはならないんだから」 トリアは末の妹に対してまだ何か言いたげだったが、フォルテの目の前なのでそれ以上の文句は言わなかった。 敬語ではない言葉を交わす妹達が羨ましく思えると同時に、二人との間の壁を感じ、フォルテは少し寂しくなった。 だが、それは皇帝として生きるためには仕方ないことだ。すぐにフォルテは気持ちを切り替えて、カレーに戻した。 「疲れているところをすまんが、クアットロ。カレーとやらを構成している材料を調べてくれないか?」 「では、その情報を」 クアットロがトリアに向くと、トリアは目を閉じ、フォルテから引き出した情報をクアットロに送った。 「陛下が覚えておられるカレーの情報は、これが全部です」 「んー…」 クアットロはトリアが伝えてきた記憶を再生させ、自身が記憶している情報と照合した。 「太陽系は恒星と惑星の距離を始めとし、惑星を構成している物質といい、大気成分といい、生態系といい、文化といい、惑星プラトゥムとの類似点が多々見られます。それ故に食文化も近いので、彼らが摂取出来る物質の大半はプラトゥム人にも摂取出来ると考えてよろしいでしょう。レギーナ様や陛下が摂取してもなんら問題が起きなかったのは、そのためです。この広い宇宙で、そのような偶然が起こるのは天文学的数値の確率ですが、その辺りのことは端折らせて頂きます。本題から逸れてしまうので」 クアットロは情報を分析しつつ、意識を膨大な記憶の深層へと沈み込ませた。 「カレーと呼称される料理のソースの味を構成している香辛料は二種類、辛みを構成しているのは四種類、色を構成しているのは三種類、香りを構成しているのは七種類。とろみを付けるために使用されているのは穀物の粉末。ソースに入れられている食材は、根菜が二種類、鱗茎が一種類、草食動物の肉片。ソースが掛けられているのは、粒状の穀物を炊いたもの。これなら、食料庫の食材で代用出来そうです」 「じゃ、それを私に伝えてくれます? 探しに行きますので」 トリアが胸に手を当てると、意識を引き戻したクアットロが返した。 「それなら、私も一緒に行った方が確実です。トリアじゃ、細かな違いまでは解らないでしょうから」 「味音痴のあなたには言われたくないですが、その方が効率が良いのは確かですね」 では、とトリアが頭を下げると、フォルテは立ち上がった。 「ならば、私も行こう。一人だけ寝室に残されていても、つまらんからな」 「ですが、陛下は公務で疲れております。少しでも長くお休み頂いた方が」 トリアが心配すると、フォルテは笑った。 「それと、私にもナイフを握らせてくれないか。そのカレーを作ってみたくなったんだ」 「ですが、それでは私とクアットロの仕事がなくなってしまいます」 「そうですよ、陛下。そりゃ、陛下は私に比べれば器用ですけど、皇帝陛下にそんなことをさせるのは」 妹達に反論されるも、フォルテは引かなかった。 「皇帝である以前に、私はお前達の姉だ。皇族は近親者の交流を禁ずる、という法令を敷いた記憶はないが?」 「そりゃ…まあ…」 クアットロが短く切った水色の髪を掻き、口籠もった。トリアは観念し、小さくため息を吐いた。 「解りました。ですが、今回だけですよ、陛下?」 「男娼を連れ込んで夜伽に耽るよりは余程健全だと思うがな」 フォルテが歩き出すと、二人はすぐさまそれに続いた。 「ですが、それもいずれなさらなければなりませんよ、陛下。まずは夜伽に慣れて頂かなければなりません」 「レギーナ様が亡くなられた以上、先代皇帝の直系の血を引くのは陛下お一人なのですから、優れた血族の殿方と交わられてお世継ぎをお産みになりませんと」 トリアに続き、クアットロがもっともらしいことを述べた。 「すまんが、私はまだ男には興味はない。もうしばらくは純潔を保つつもりだ。帝国を建て直さねば何も始まらん」 扉を開けたトリアに促されて廊下に出たフォルテが素っ気なく返すと、トリアは顔をしかめた。 「ですが、少しは経験がお有りになりませんと、後々苦労なさるのは陛下ですよ?」 「妊娠出産は年齢を重ねるに連れて肉体への負担も増えるのですから、祝言を挙げるのは遠くても二十代前半がよろしいかと思います」 フォルテは足を止め、二人に振り返った。 「そんなに言うなら、まずはお前達がやってみせろ。その結果次第では検討しないでもないぞ?」 「えっ」 トリアが身動ぐと、クアットロは尾をぱたぱたと揺らしながらトリアの背を押した。 「大丈夫だよ、トリア。生殖行為自体は大して痛みはないってのが大多数の感想だし、万が一妊娠したとしても出産は短時間で済むし、産んだ後も側近の仕事は続けられるから。それに、私達は結婚出来ない身の上だしね」 「じゃあクアットロがやりなさいよ! 私は陛下にだけ身を捧げているんだから!」 赤面したトリアが妹に言い返すと、クアットロは長い耳を両手で塞いでしまった。 「私が妊娠している暇なんて、この先十五年はありません。私以外の誰が皇居の書庫を管理出来るんですか」 「この…」 トリアは拳を固めたが、振り上げることはなく下げた。幼い頃から、手を出してしまうのは専らトリアの方だった。 決してトリアの血の気が多いというわけではないが、クアットロの物言いがいちいち引っ掛かってしまうからだった。 クアットロは悪気があるわけではなく、むしろそれが正しいと思って言っているので、尚更トリアを苛立たせるのだ。 トリアが苛立ちと共に放つ思念をクアットロも感じ取っているはずなのだが、クアットロが態度を改める様子はない。 というよりも、無遠慮な物言いが出来ることが無条件の信頼の証だと、クアットロなりに思っているからなのである。 トリアもそれは解っているのだが、感情は押さえきれない。側近と言えども、どちらもやはり十七歳の少女なのだ。 「とにかく食料庫に行くぞ。暗殺者がいたら、その時は適当に処分しておけ」 フォルテはなんだか可笑しくなってきたが、歩き出した。 「私はカレーが食べたいんだ」 「お待ち下さい、陛下!」 トリアが慌てて後に続き、クアットロも耳から両手を離した。 「というか、そんなにカレーっておいしいんですか! その辺だけはなんだか気になってきました!」 フォルテは妹達が追い付いたことを確かめてから、若干歩調を緩め、二人とあまり距離を取らないように歩いた。 幸い、フォルテの高感度のテレパスには皇居内に暗殺者の気配は感じていなかったが、気を緩めてはならない。 だが、無性にカレーが食べたいのは本当だった。トリアのテレパスで、兄との記憶を掘り返されたせいなのだろう。 自国の食材であの味を完全に再現出来るとは思えなかったが、トリアとクアットロなら成果を上げてくれるはずだ。 けれど、どうせなら兄と共にまた食べたかった、とも思ってしまう。皇帝でも何でもない、一人の妹としてそう思った。 しかし、皇帝に即位した今では叶わぬ夢だ。口には絶対に出せないし、思念に交えることも許されないことだが。 思うだけなら、許されても良いはずだ。 08 11/23 |