アステロイド家族




果てしなき春



 蕾は綻び、花は開く。


 夢を見る。
 母を見上げている、矮小な自分の存在を見下ろしている。母は母であり、それ以外の何物でもなく、絶対であり、 真理であり、完全だった。母がどこで生まれ、どうやって全能の力を手に入れ、なぜ母は母であったのか。しかし、 疑問を抱いたところで無駄なのだ。母は母なのだから、子が親を疑うべきではないのだ。
 母はいつも傍にいるが、とてつもなく遠かった。地球のマントルコアと同等の体積を有する巨大な脳であり、地球 と折り重なる次元にて存在し続ける惑星型宇宙戦艦テラニア号そのものであり、太陽系と人類の過去と未来を司る 神にも等しい。遙かなる未来で、新人類の叡智を超越した存在が戯れに造り上げたものであり、夫と子を思う母の 深き愛を利用して次元と時間の壁を乗り越えるための船でもある。
 だから、母はいつも夢を見ている。それは悪夢であり、覆せない悲しみであり、取り戻せない過去であり、二度と 出会えない家族への憧憬でもある。けれど、母は娘に手を差し伸べてはくれない。抱き締めてもくれない。母が成す 次元と時間の旅路を歩き続け、何百人もの妹達が次元の崩壊と同時に果てる様を目の当たりにしてきた、長女を 見つめてはくれない。母は母であるからだ。本物の娘を愛していても、紛い物の娘は愛していないからだ。
 だから。




 鏡に写る自分を、今一度見つめる。
 肩より少し長く伸びてきた髪は寝癖を直してあるし、前髪はヘアピンでまとめてある。制服の下に着ているブラウスは アイロンをきちんと掛けてあるし、ネクタイも締め方を間違えていないし、階級章も付いている。メイクは必要最低限 に止めておいたが、リップの色はオレンジ系ではなくてもう少し大人っぽい色にした方がよかったかな、と悩んだが、 背伸びするよりも年相応の化粧にしておいた方がいいと思い直した。
 一年半分の航海に必要な大量の荷物を詰め込んだトランクは発送済みで、次元探査船ウィンクルム号に無事に 積み込まれたとの報告のメールが情報端末に入っている。だから、持っていくのは手荷物だけなので、ウェールは ハイスクール時代から使っているショルダーバッグを提げ、女子トイレを後にした。エウロパステーションの宇宙港 に着港している定期宇宙船の名前を確かめたが、ウェールが乗る予定の船便はまだ到着していなかった。それも そのはず、船便の到着予定時刻よりも一時間以上早く来てしまったからだ。搭乗手続きは早々に終えてしまったし、 忘れ物がないかどうかは確かめたし、船便の中で食べる御菓子も買ってしまったので、やることがない。
 なので、ウェールはだだっ広い待合室の一角で、情報端末にダウンロードした電子書籍を読んでいた。けれど、 その内容はほとんど頭に入ってこなかった。次元探査航行に出発する前から緊張していては身が持たない、とは 思うのだが、ハイスクールの訓練航海とは訳が違う。規模も段違いだ。

「はー……」

 せめて家族の誰かが見送りに来てくれたらよかったのに、とウェールは内心で嘆いたが、皆、絶妙なタイミングで 予定が合わなかった。訓練学校を無事卒業したアエスタスは機動歩兵部隊の一員となり、アルファ・ケンタウリ星系 の前線基地に派遣されたので、今まで以上に会いづらくなった。ガニメデステーションの大学でコロニーを維持する ために必要な資格を全て取得したアウトゥムヌスは、婚姻関係を結んで晴れて夫となったジョニー・ヤブキと実家 を守っている。デザイン学校を卒業して駆け出しの服飾デザイナーとして頑張っているヒエムスは、土星圏のコロニー でミイムと同居していて結婚する日も間近だ。そして、父親であるマサヨシとその部下であり友人であるイグニスと トニルトスは、統一政府軍木星基地で今日もまた新兵に訓練を付けている。
 だから、物理的に会えるはずもないのだ。ウェールはまだ履き慣れていないローヒールのパンプスを履いた足を 投げ出し、座り心地の悪い座席に寄り掛かっていると、待合室の自動ドアが開いた途端に人影が飛び込んできた。 文字通り、飛んできた。

「うーちゃあーんっ!」

 ミニスカートを翻して尻尾を振り回しながら飛んできたのは、ミイムだった。

「うおわっ!?」

 待合室の人々の頭上と座席を飛び越えてきたミイムは、ウェールに飛び掛かってきた。それを避けられるはずも なく、ウェールは仰け反った。サイコキネシスで浮かんでいるミイムは、満面の笑みでウェールに抱き付いてくる。

「ふみゅうん、会いたかったですぅー!」

「な、なんで?」

 ミイムに抱き付かれながら、ウェールが戸惑っていると、家族を伴った軍服姿の父親が現れた。

「そりゃ、皆が皆、予定を練り直して時間を作ったからさ。無論、俺もだが」

「オイラとむーちゃんはともかくとして、他の皆は忙しいから大変だったんすよ。でも、そうでもしないと、うーちゃんと 会うのは一年半後になっちゃうっすからね。もしかするとウラシマ航法を使っちゃったりするかもしれないっすから、 そうなったら一万二千年後でオカエリナサトになっちまうっすからね! それはいくらなんでも寂しすぎるっすよ!」

 四角い風呂敷包みを抱えているヤブキは、ウェールに大きく手を振ってきた。

「アルファ・ケンタウリ星系と太陽系を行き交う定期便が運行し始めたから、明日には前線基地に戻れる。だから、 こうしてウェール御姉様にもお会いすることが出来るようになったんだ」

 減り張りの付いた体に栄える軍服を着込んでいる次女、アエスタスは父親に続いて待合室に入ってきた。

「惜別」

 いつまでたっても小柄なアウトゥムヌスは、両手でラッピングした丸い瓶を抱えていた。

「どれほど忙しかろうとも、愛すべきウェール御姉様をお一人で旅立たせるなんて、薄情なことはいたしませんわ」

 白とピンクのロリータドレス姿のヒエムスは、スカートを持ち上げながらウェールの元に駆け寄ってきた。

「ちゃんと仕事して、無事に帰ってくるんだぞ。何かあったら連絡しろよ、ぶっ飛んでいって助けてやらぁ」

 待合室を囲んでいる壁の上から手を振ってきたのは、イグニスだった。

「貴様の父親のように、伴侶となる男を掴まえてくるのも一興ではあるがな」

 イグニスの傍らに立つトニルトスは、マサヨシを一瞥する。

「そうなったらそうなったで、良しとしようじゃないか」

 マサヨシは苦笑混じりに返してから、妹達に囲まれている長女に歩み寄った。

「サチコも連れていってやってくれないか」

 マサヨシが差し出してきたのは、桜の花びらをラミネート加工した栞だった。

「これ、お母さんの……」

 ウェールがその桜の栞を受け取ると、マサヨシは子供の頃と同じように長女の頭を撫でた。

「この程度のものなら、個人の重量制限には引っ掛からないはずだろ?」

「私からも、これを。洒落たものは思い付かなかったんだ」

 アエスタスがウェールに渡してきてくれたのは、航海安全御守だった。

「餞別」

 アウトゥムヌスは大事に抱えていた瓶を、ウェールに差し出した。その中身は、カラフルな金平糖だった。

「今はセミロングですけれど、いずれ髪が伸びますわ。その時に必要でしょうから」

 ヒエムスはレースをふんだんに使ったシュシュを差し伸べてきたので、ウェールはそれを受け取った。

「ありがとう! うん、大事にするね」

「オイラのお弁当はここで消費してもらうとして、イグ兄貴とトニー兄貴はないんすか?」

 重箱に詰め込んだ弁当を広げてから、ヤブキが機械生命体達に問うと、イグニスは後頭部を押さえた。

「いやあ……それがなぁ……。俺が贈ろうと思ったモノはことごとくアエスタスに却下されちまってよ……」

「当たり前です。ネジの一本や二本ならともかく、自己増殖型強襲要塞の残骸の合金板だなんて」

 眉を吊り上げたアエスタスに咎められ、イグニスは首を縮める。

「すまん。だが、それも上手く加工すれば、ウェールの手荷物に入るぐらいには……」

「なりませんし、許しません! 長期航海の重量制限がどれだけシビアなのか、やっぱり解っていないようですね。 あなた方機械生命体は宇宙空間でも活動出来ますから、重量増加が搭乗員全体の生死に関わったりはしません が、私達はそうもいきません。私達とこれだけ長く付き合っているのに、まだ少し相違があるようですね」

「従軍してから、前よりももっと頭が硬くなっちまいやがって」

 言い返してきたイグニスにアエスタスはまだ何か言いたげだったが、ウェールはそれを諌めた。

「まあいいじゃないの、あーちゃん。私は別に気にしていないし。それにしても、あーちゃん。小父さんを尻に敷く のが早すぎじゃないの? そうなるだろうなぁ、とは薄々感じていたけどさ」

「なっ」

 アエスタスが赤面して硬直すると、イグニスはやりづらそうに顔を背けた。

「否定出来ねぇのが情けねぇ……」

「ふはははははは、愚劣なルブルミオンなど放っておけ、ウェール! この私が選りすぐった珠玉のアイドルソングを 二百五十六曲詰めた圧縮ファイルをウェールの情報端末に転送しておいたぞ、大いに感謝するがいい!」

 トニルトスは仰け反るほど胸を反らし、なぜか勝ち誇った。着信音がしたので、ウェールが情報端末を確認すると、 トニルトスの言葉通りの内容の圧縮ファイルが転送されていた。その曲名の一覧を少し見ただけでも、うんざりする ものばかりだったが、長い旅路ではどうでもいいジャンルの曲を聴きたくなるかもしれない、と思ってウェールは削除 せずに保存しておいた。今のところは、だが。
 それから、ウェールは出発時間まで家族団欒を楽しんだ。ヤブキが作ってきてくれたお弁当の中身は、どれもこれ もウェールの好物ばかりでおいしかった。久々に家族と直接言葉を交わし、アエスタスとイグニスが緩やかに情を 深め合っていることを知り、アウトゥムヌスとヤブキの夫婦生活が円満であることも見せつけられ、ヒエムスとミイム が結婚式を挙げるために互いのドレスを手作りしていることも教えられた。トニルトスは相変わらずのアイドルオタク ではあるが、任務に支障を来さない程度に止めている。マサヨシはHAL2号のナビゲートコンピューター、ガンマが 遠隔操作しているスパイマシンを使い、一部始終を記録させていた。要するにホームビデオである。
 家族からの愛情を一心に受け、ウェールは次元探査航行に向かうべく次元管理局へと旅立った。定期宇宙船の 中で、父親と妹達の餞別を見つめていると切なくなってきたが、涙は浮かべずに口角を上げた。
 家族の愛情に報いるためには、立派な次元管制官にならねば。




 そして、次元探査船ウィンクルム号は出航した。
 次元管制官としての最初の仕事であるワープドライブのナビゲートは、無事完了し、ウェールは少し気を緩めた。 ヘッドセットを外してもいい、とチーフの管制官から許可されたので、管制官同士や操縦士達と連絡を取り合うため に用いているヘッドセットを外して乱れた髪を整えた。ウェールは目を動かし、これから運命を共にする搭乗員達の 顔触れを見回した。学生上がりであろう若い操縦士やオペレーターもいるが、ベテランも多い。中には船長時代 の父親を知っている人間もいるかもしれない。だが、モニターから注意を逸らしていると咎められるので、ウェールは 手元のモニターに目を戻し、矢継ぎ早に飛び込んでくるワープ空間の情報を分類しては保存した。
 出航してから十二時間後、ウェールが担当しているシフトが終わった。狭い座席の中で緊張し続けていたため、 すっかり肩や腰が強張ってしまった。集中力も限界だった。ウェールは次のシフトの次元管制官に引き継ぎを行う べく、次元管制官の共用データベースにデータを保存していると、名を呼ばれた。

「ムラタ二等管制官」

「はい、なんでしょうか」

 ウェールが振り返ると、船長であるラルフ・クロウが立っていた。何かミスをしたのだろうか、とウェールが背筋を 伸ばすと、ラルフはウェールを眺めて目を細めた。マサヨシのそれに似た、娘を愛でる眼差しだった。

「サチコによく似てきたな、君は。君の父親と俺は同期でね」

「はい、存じ上げております。父からも、船長のお話は伺っております」

 ウェールは緊張しながらも答えると、ラルフは軍帽の鍔を上げ、全面モニターに映るワープ空間を見上げた。

「今回、本船が辿る航路はマサヨシとサチコが巡った航路と同じものだ。その航路に、あいつらの娘が旅をするかと 思うと、なんだか感慨深くてね」

「船長は、母のことも存じておられるのですね」

「そりゃあもう。色々あったしな。だが、思い出そうとしても、どうしても思い出せないことがあるんだよ」

「どのようなことですか?」

「マサヨシが中佐に昇格したのと同時期のことだ。サチコが君達四姉妹を身籠もって、マサヨシの転属に伴って木星 のコロニーに引っ越して、出産した頃のことなんだ。サチコが君達を産んでから間もなく息を引き取ったということは 知っているんだが、サチコの葬儀に出た記憶がないんだよ。だが、サチコの墓は君の実家にあるし、俺もステラと 墓参りに行った。しかし、あのマサヨシが葬儀を上げなかったとは考えづらいんだが……」

 いや、すまなかった、とラルフは言葉を切り、ブリッジを後にした。ウェールはその背を見送ってから、作業を終え、 ブリッジを出て居住区へと向かった。サチコの葬儀をした記憶がない、というラルフの記憶は正しい。本当に葬儀を していないからだ。現実を受け入れられなかったマサヨシが、敢えて何もせずにいたから、時系列が修正された後も 関係者の記憶には葬儀をした記憶が出来上がるはずもない。大抵の記憶は些細な違和感で済むのだが、強烈な 印象を与える出来事の前後はどうしても齟齬が生じてしまう。惑星型戦艦テラニア号の核である生体コンピューター である母が手を加えれば、その程度のことは修正出来るはずなのだが、この分では何もしていないようだ。四姉妹 が新人類として真っ当な人生を送るようになったから、遠巻きに眺めているだけなのか、それとも。
 そんなことを考えながら、ウェールは通路の壁に設置されているハンドルを握って移動し、自室のあるブロックに 到着した。ロビーに入ると重力制御装置の作用が及んでいたので、足を着けて歩き、次のシフトを担当する搭乗員 と入れ違いになった。彼らと挨拶を交わしてから、ウェールは女性専用ブロックに入り、次元管理局職員のIDカード でもあるカードキーを使って自室のドアを開けた。

「あら」

 すると、相部屋である女性職員が着替えていた。ウェールはすぐさまドアを閉め、愛想笑いをする。

「ごめんなさい、ノックもしないで」

「いいのよ、気にしないで。どうせ、これから長い付き合いになるんだから」

 女性職員は長い黒髪を払い、ブラウスの襟元を整え、ネクタイを結んだ。その色はウェールとは異なる水色で、 オペレーターである証だった。

「けれど、顔を合わせるのは今日が初めてね。私は、ウィンクルム号に搭乗する直前まで土星圏で研修を受けていた ものだから。所属が違うから、ミーティングでも会わなかったのね」

 テーブルに置いていたメガネを掛け、前髪を直してから、彼女はウェールに手を差し伸べてきた。

「改めて自己紹介するわ。ユキコ・パーカーよ、ウラヌスステーション生まれ。あなたより三つ年上」

「ウェール・ムラタです」

 握手に応じながら、ウェールは懸命に笑みを保った。ユキコの手は頼りないぐらい細く、肌色も白く、デスクワーク だけの人生を送ってきた女性なのだと一目見て解った。少し吊り上がり気味の知的な青い瞳、しなやかで手入れの 行き届いた黒髪、アジア系の顔立ち、上背のわりに肉付きが薄めの体形。その、どれもが。
 おかあさん、とウェールは言いかけた。が、寸でのところで押し止め、口角を上げることで唇を閉ざした。ユキコは 次のシフトを担当しているからと言い、部屋を出ていった。ウェールは笑顔でユキコを見送っていたが、ドアが閉じた 途端に崩れ落ちた。心臓が破裂しそうなほど荒れ狂い、喉が痛み、目の奥が熱くなる。両腕に爪を立てて背を丸め、 ウェールは早く細い呼吸を繰り返す。おかあさん、おかあさまおかあさまおかあさまおかあさま。

「……おかあさま」

 頭では解っている。ユキコは、サチコ・パーカーと同系列の遺伝子を原型にして生み出された生体改造体であり、 ウラヌスステーションで生まれ育った人間の何割かはサチコと類似性のある遺伝子を持っているのだから、彼女が 母親に似るのは自然なことだ。だから、ユキコはサチコによく似た別人であって、サチコ・パーカーとは関係のない 人生を送ってきた女性であって、マサヨシとも出会わない人間であって、ウェールの母親ではない。
 それなのに、ウェールの腹の底では鼓動と共に欲望が沸き上がっていた。母親を独占出来る、今度こそ母親の 愛情を、目線を、関心を、全てを自分のものに出来るはずだ、と。だが、すぐにそんなものは稚拙な妄想だと悟り、 ウェールは二の腕に爪をきつく食い込ませた。それでも、母を乞うてしまう。
 おかあさま。







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