アステロイド家族




果てしなき春



 次元探査航行は順調に進んだ。
 ウェールを始めとした新人の次元管理局職員は、それまで学んできたことから逸脱した事態が起きるたびに混乱 してしまったが、仕事に慣れてくると融通が付けられるようになった。先輩の次元管制官からは、次元探査船ウィン クルム号に搭載されている観測機器のクセを教えてもらった。宇宙空間に放出して次元の歪みを検知するための 探査機も、年季が入っているものだと微妙な違いが出てくるからだ。それでなくても、次元の歪みは不安定であり、 不規則だ。空間湾曲率や空間内の反物質の含有率で次元の歪みが出現すると予測した地点にきちんと出現する ことは稀で、近くて数キロ、遠くて数百キロもの誤差が生じる場合がある。その誤差を予測した上で算出しなければ ならない数字も多く、扱う数値も膨大かつ緻密で、ウェールは数字の悪夢にうなされたこともあった。
 次元管制官は何人もいるし、次元の歪みを感知するための観測機器は多種多様で十七機もあるし、数値を計算 するためのソフトウェアもいくつもあるが、それでもミスが起きる時は起きる。だが、人間が持ち得る柔軟さがなければ 感知出来ない数値もあるので、この時代になろうともオートメーション化出来ないのである。六年前に発生した、 天の川銀河全体の空間が裂けてしまった大規模な空間断裂現象の際も、多くの人命を救ったのは、機械ではなく 人間の手だったこともまた、オートメーション化に至っていない理由の一つでもある。だから、次元管制官は最後の 砦であり、次元探査船のみならず銀河全体に作用を及ぼす可能性を持った数字を操っているのであり、次元探査 航路に重なる星系の運命をも担っている。
 そのぐらいの覚悟を据えておけ、とハイスクールの次元学部で教師が力説していたことを夢うつつに思い出して、 ウェールはベッドの中から這い出した。ルームメイトのベッドを窺うと、きっちりとベッドメイキングされているが、住人 は収まっていなかった。ユキコ・パーカーのシフトは終わっているはずなのだが、帰ってきていないことから察する に、オペレーター仲間とのお喋りに興じているのかもしれない。もしくは、トレーニングルームで筋力を鍛えているの か、或いは。ウェールは枕元の情報端末を引き寄せ、寝ている間に受信したメールを開いて眺めたが、目が滑って しまう。それもこれも、ユキコが気になってどうしようもないからだ。

「ダメだ、これ、ダメだよ」

 ウェールは亜空間通信を経て妹達から届いたメールを閉じると、枕に顔を埋めた。散髪している暇がなかったの で伸びてしまった髪が広がり、弱重力で柔らかくシーツに落ちた。

「ダメだ……」

 家族からの近況報告にも目を通さず、ウェールは毛布の中に籠もって丸くなった。ユキコ・パーカーは、大人しく 物静かな女性で勤務時間外は熱心に読書をしている。その内容は学術書から漫画までジャンルは幅広く、真剣な 顔をして読み耽っている。だが、読み耽りすぎて時間を忘れてしまうことがあり、ウェールがシフトを終えて帰ってきた 時に慌てて寝床に潜り込んだりもする。ファッションにはあまり興味はないようだが、長い黒髪の手入れは丁寧に していて、トリートメントを塗り込んで浸透させる時間が長いので当然ながらバスタイムも長い。下着はちょっとだけ 子供っぽく、レースが付いたものよりもチェック柄が多い。冷え性気味なのか、ストッキングではなく厚めのタイツ を愛用している。ニンジャファイターシリーズも子供の頃に見たことがあり、ニンジャファイター・ビゼンがお気に入り だったそうだ。コーヒーよりも紅茶が好きだが淹れるのは下手で、料理をしたことは一度もなくて、けれど密かな夢は 家庭を守る母親になることで、だけど異性と恋愛関係になったこともなければ、恋をしたこともない。
 シフトの都合で同じ時間を過ごすのはたったの数時間とはいえ、毎日のように顔を合わせて話し込めば、彼女の ことを知ってしまう。覚えてしまう。その度に、ウェールは得も言われぬ充足感に浸ってしまう。ユキコは母ではない と解り切っているはずなのに、独占欲が膨らんでいく。妹達に対して、優越感すらある。

「気分転換しよう! そうしよう!」

 ウェールはベッドから飛び起きると、毛布を蹴り飛ばした。いつまでも寝ているから、そんなことを考え込んでしまう のだ。せっかくだから、ウィンクルム号のトレーニングルームに併設しているプールに行ってみよう。今までは忙しくて 行くに行けなかったし、太陽系からはるばる持ってきた水着が無駄になってしまう。
 思い立ったら吉日だ、とウェールは水着とバスタオルと着替えをトートバッグに詰め込み、トレーニングルームへと 移動した。更衣室で水着に着替え、髪をまとめてから、バスタオルを手にしてプールに入ると、1Gの重力によって 水が平面に押さえ付けられていた。競泳用の五〇メートルプールと遊技用の少し浅めの流れるプールが併設して いて、ウォータースライダーでは、戦闘部隊の隊員達が歓声を上げて滑り落ちていた。天井の全面モニターには、 リアルタイムの宇宙空間が映し出されているので解放感がある。ウェールは温水シャワーを浴びて体を潤してから、 体を解すために遊技用のプールに入って手足を伸ばした。疲れない程度に遊んでから、競泳用のプールでしっかり 泳ぎ込んで体を鍛え直そう。そうすれば、ユキコに対する感情も振り払えるはずだ。
 水遊びに興じる同僚達を横目に緩やかに泳いでいると、ウェールの視界の端に奇妙な物体が過ぎった。思わず 振り返ると、黒いクラゲのような物体が浮かんでいる。はてなんだろう、と目を凝らしてみると、その黒いクラゲの下 には首があり、胴体が繋がっている。ということは、これは。

「うわあ!?」

 溺れている人間だった。動転したウェールが黒いクラゲを掴んで持ち上げると、周囲の人間も異変に気付いて、 黒いクラゲと化していた人物を抱えてプールサイドまで運んでくれた。幸い、救護班に所属している看護士もプール にいたので、的確な応急処置を施してもらった。濡れた長い髪を掻き分けて顔を出すと、正体が解った。それは、 他ならぬユキコ・パーカーだった。こうなってはプールどころではないので、ウェールはユキコに付き添って救護室に 行った。そこでユキコは医師から手当され、診断も受けた。寝不足が原因の貧血を起こし、溺れたらしい。
 ユキコの身支度を手伝ってやってからベッドに寝かせると、ようやく一段落付いた。ウェールは湿り気の残る髪 を整えてから、ぼんやりと天井を見つめているユキコを窺った。ただでさえ色白なのに、溺れて血の気が引いたせい で白磁人形のような儚げな色味になっている。半開きの唇は体が冷えたために青紫になっていて、形の良い前歯 の尖端が覗いている。栄養剤入りの点滴を投与されている腕は頼りなく、細い血管に刺さっている針が痛々しい。 そういえばお母さんも航海中に倒れたんだっけ、と考えながら、ウェールはベッドサイドの椅子に腰掛けた。

「ムラタさん……なのよね?」

 弱々しく漏らしたユキコは、ウェールを見上げて目元を顰めた。メガネがないからだ。

「ええ、そう。凄く驚いちゃったよ、何かと思ったらユキコが浮いているんだもの。大したことがなくてよかったけど、 寝不足で貧血を起こすなんて。ドクターと相談して、ちゃんと体を整えないと、太陽系に帰るまで身が持たないよ。 仕事が忙しいのは私も同じだから、他人事じゃないんだけどね。私とユキコはシフトの時間帯が違うから、私が変な 時間に帰ってきちゃうせいで寝付けないのかもしれないけど、迷惑だったら言ってくれればよかったのに」

「違うの」

 ユキコは水気を吸わせるためにタオルを敷いてある枕に縋り、首を横に振る。

「あなたが傍にいると、私、どうしたらいいのか解らなくなるの」

「え、それって」

「違うわ、そういうことでもないの。ムラタさんは私と仲良くしてくれているし、私もあなたと良い友達になれると思って いるし、船を下りた後もずっとお付き合い出来たら、って願っているの。けれど、私、あなたを見ていると、とても辛い 気持ちになるの。なんて言ったらいいのかしら……」

 ユキコは青ざめた頬に血の気を戻し、唇を押さえた。ウェールは口籠もり、顔を背ける。

「それは、たぶん。遺伝子のせいだから、気にしない方がいいよ」

「それじゃ、ムラタさんの御両親のどちらかがウラヌスステーション生まれなの?」

「そうなの。母親がウラヌスステーションで生まれたから、私とユキコは遠い親戚みたいなもの。だから、私を見ると 変な感じになるのは、私があなたにどことなく似ているせいだと思う。だから、それだけのことなの」

 そう、それだけだ。ウェールは膝の上に置いた手に力を込め、精一杯表情を保つ。

「そう……。そうだったの」

 ユキコは点滴を繋がれていない右手を差し伸べ、ウェールに向けた。

「ムラタさんには御家族がいらっしゃるのよね」

「ややこしい家族だけどね。父とその戦友が二人と年上だけど義理の弟が一人と、やっぱり年上だけど義理の弟に なる予定の人がもう一人いて、妹が三人。それと、父のスペースファイターのナビゲートコンピューター」

「太陽系に帰ったら、一度お会いしてみたいわ。だって、私、同系列の遺伝子を持つ生体改造体と会ったことがない から。私に使われた遺伝子は欠陥があるから、今も昔も多用されていなかったの。私が作られたのは、その欠陥を 修復出来る技術が開発されたから、実験的に一人だけ生み出されたの。だから、凄く会いたい。私の親戚に」

「ダメ!」

 ウェールは反射的にユキコを咎めたが、我に返り、後退る。

「ごめんなさい、本当にごめんなさい!」

 追い縋るユキコを振り切り、ウェールは救護室を飛び出した。その理由を説明しろと言われたら、ユキコにも妹達 にも父親にも合わせる顔がない。無我夢中で船内を駆け抜けたウェールは自室に戻ると、声を上げて泣いた。母を 求めすぎる自分が情けなくて、見苦しくて、その母に似た別人であるユキコをも縛ろうとしている。ユキコがマサヨシと 出会い、万が一にも愛し合うようになってしまったら、ユキコでさえもウェールから関心を失うかもしれない。
 サチコは誰のものでもないように、ユキコも誰のものでもないのに。ウェールはだらだらと流れ出る涙で首筋から 胸元までひどく濡らしたまま、崩れ落ち、呻いた。また両腕を抱き締めて爪を立て、懸命に堪えた。
 浅ましい欲望を。




 航路の三分の一を終えた頃合いに、全ての搭乗員が待ち侘びていた休暇に入った。
 次元探査船ウィンクルム号は、五百年前に太陽系からの移民が移住してテラフォーミングを行った植民地惑星、 惑星プルウィアの宇宙港に着港した。衛星軌道上に浮かぶ宇宙港から軌道エレベーターに乗って地上に降りると、 水と緑に満たされた広大な土地が広がっていた。重力は1.02Gで、少しばかり体が重たくなってしまうが、ちゃんと 体を鍛えていれば大した問題ではない。自然の風と豊富な空気に澄んだ日差しを浴び、ウェールは思い切り伸びを してから深呼吸した。軌道エレベーターから降りてきた搭乗員達は、誰も彼も解放感に浸っていて、惑星プルウィア のセントラルシティに行って遊び倒そうと話している者達もいれば、銀河系有数の観光地であるビーチリゾートまで 足を伸ばそうと語らう者達もいる。いかにウィンクルム号が設備の整った宇宙船であろうと、閉鎖された環境である ことに代わりはないからだ。
 ウェールはと言えば、同じ次元管制官の同僚や、ブリッジで毎日顔を合わせているうちに親しくなった操縦士や、 トレーニングルームで話し込んで仲良くなった戦闘部隊の隊員から遊びに出ようと誘われたが、人工重力と自然 の重力の違いのせいで貧血気味だったので、丁重に断った。長い船旅では健康が第一だからだ。なので、ウェール は軌道エレベーターのターミナル内にあるカフェで、瑞々しい果物がふんだんに使われたパフェを食べていた。

「相席、よろしいかしら」

 新鮮なオレンジを囓っていたウェールが目を上げると、トレーを携えたユキコが立っていた。

「そりゃ、もちろん」

 ウェールは気まずくはあったが応えると、ユキコはウェールの向かい側の席に座った。ターミナルとその周辺地域 を一望出来る窓際の席で、青い空と草木が生い茂った地平線が横たわっていた。その合間には、新人類の移民達が 造り上げた、惑星の自然環境に適合した都市が栄えている。

「こうしてお話しするのも、久し振りね。ムラタさん」

 ユキコは紅茶を味わってから、こんもりとクリームが盛られた分厚いパンケーキをナイフで切り分け、頬張る。

「うん、おいしい。ふわふわ。これにして正解ね」

「他の皆みたいに、遊びには出ないの?」

「私、泳げないもの。服も手持ちの分だけで充分だし、消耗品だって船内の購買で賄えるし、電子書籍はいつでも どこでもダウンロード出来るわ。だから、こうしている方がずっと気が休まるし、落ち着くの」

「じゃあ、あの時、溺れちゃったのって」

「貧血だったのは本当だけどね。宇宙空間を泳ぐのは得意だったから、その要領でなら泳げるようになるんじゃないか って考えて、泳いでみたんだけど、その結果は御存知の通り」

 クリームの山の頂点からメープルシロップを掛けてから、ユキコはもう一切れパンケーキを食べる。

「それと、あの時、具合が悪かったせいで心細かったの。だから、あんなことを言ってしまったのよ」

「私の方こそ、動揺してあんなことを言っちゃってごめんなさい。ユキコは、お母さんに似すぎているぐらい似ている から。私の家族に会ったらきっと大騒ぎになるって考え過ぎちゃったから、思わず」

「そうね、ムラタさんの言う通りだわ。私の方こそ、出過ぎたことを言ってしまってごめんなさい」

 ユキコが照れ臭そうに微笑んだので、ウェールは笑みを返す。

「それじゃ、あのことはもう忘れようか」

「それが一番ね。だって、恥ずかしいから。溺れたことも、年下に甘えちゃったことも」

「私も。考えすぎるにしたって、一足飛びどころか百は飛び越えちゃった感じだったし」

「人が食べたものを食べることに抵抗がなければ、だけど、一口いかが?」

 ユキコが切り分けたパンケーキをフォークに差し、掲げたので、ウェールは躊躇った。

「それは大丈夫だけど、でも、それは」

「とってもおいしいの。だから、ね」

 無邪気に微笑んでいるユキコと、その手にあるフォークの尖端に刺さっているパンケーキの切れ端を、ウェールは 見比べてしまった。真っ白なクリームと琥珀色のメープルシロップがふっくらとした卵色の生地に吸い込まれ、銀色 のフォークの柄に甘い雫が伝っていた。芳しい紅茶の香りに甘い香りが混じり、ウェールの心を掻き乱した。それを 口にしてはならないと、心中で何かが騒いでいる。けれど、母に甘えられなかったのだからユキコに甘えてもいい はずだ、とも誰かが叫んでいる。逡巡した後、ウェールは口を開き、ユキコの好意を受け入れた。
 甘すぎる雫が、舌を焼いた。





 


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