アステロイド家族




果てしなき春



 要するに、これはグルーミングだ。
 大人が二人で入るには狭いベッドの中で彼女と身を寄せ合いながら、ウェールは微睡んでいた。長い黒髪を指で 梳いてやると、ユキコは小動物のように鳴いて頭を擦り寄せてくる。トリートメントの甘ったるい匂いと、湿っぽい空気 と、食べかけのままテーブルに放置されているパンケーキ。自分よりも年上で背の高い女性から甘えられる感覚は むず痒かったが、家族以外の人間に肌を許すのは不思議と清々しかった。
 毛布の中で体を丸めるユキコと抱き合いながら、ウェールは淡い意識と現実の狭間を彷徨った。休暇中にやりたい ことはいくらでもあったし、行きたい場所も、欲しいものもあったのに、今はそれが全て煩わしかった。友人達からの メールも読んでいないどころか、情報端末にも触れていない。素肌の背中に回されている腕は華奢だが、懸命 に力を込めていた。彼女もまた、離れるまいと必死になっている。

「近頃、夢を見るの。広い場所に放り出されて、寂しい気持ちになる夢を」

 ユキコの言葉と共に吐き出される吐息が、ウェールの鎖骨を暖める。

「私も夢を見る。御母様の夢を」

 ユキコの頭を抱き寄せて頬を添えながら、ウェールは独り言のように語る。

「御母様が大事なのは、私じゃなくてお父さん。妹達ですら、大事にしてくれなかった。御母様はずっとそうだった。 私のことは、見ているようで何も見ていなかった。だから、いつの頃からか、私は諦めていた。そうでもしなければ、 御母様が恋しくて恋しくて気が狂いそうになるから」

「会えない相手ほど愛おしくなるのって、不思議よね」

「私は御母様のものであって、娘じゃない。増して、お姉ちゃんでもない。お姉ちゃんだったら、妹達のことを守るべき だったのに、私は御母様の関心が妹達に移るのを恐れて、妹達を大事にしなかった。それなのに、妹達は私を 慕ってくれる。お父さんだって、私を責めたりはしなかった。他の皆もそうだった」

「許されているから、辛いの」

「愛されていない、だなんて考えるほど思い上がっているわけじゃない。私も含めた上での家族だから、私の役割を 知って認めた上での今があるんだから、もっと喜んでいいのに、捻くれてしまうの」

「藻掻けば藻掻くほど、浮き上がれなくなるの」

「本当のお姉ちゃんがいるのに、私は一番上のお姉ちゃんになってしまった。四人同時に生まれたことになっている んだから、本当は全員がお姉ちゃんであって妹なのに、私は最初からお姉ちゃん。お姉ちゃんじゃないのに、私は お姉ちゃん。ずっと、お姉ちゃんでいなきゃならない」

「寂しいの」

「……うん。ずっと、寂しい」

 ウェールはユキコの温もりを貪ってから、震える声で絞り出した。

「それだけなの」

 二人で、体温と時間と感覚を共有した。恋愛感情や性欲が切っ掛けではなかったから、はっきりとした行為には 及ばなかったが、求める分だけ応え、応えられる分だけ求めた。狭いベッドの中から転げ落ちないように気を付け ながら、取り返しの付かないことにならないように配慮しながら、互いの寂しさを埋めるために重ねた。
 握り合った指を戒め、ユキコが離れてしまわないように止めながら、ウェールは思い出す。本当の長女であるハル のことを。ハルはウェールではない。ウェールはハルを演じていただけだ。本当のお姉ちゃんはハルであり、父親と 他の皆が愛していたのもハルだった。妹達が慕うべきなのもハルだった。ただの憎まれ役に徹するべきだったのに、 ウェールはハルの立場に収まってしまった。だから、そのズレがいつまでもウェールを苦しめる。
 精神を戒める。




 休暇が終わると、忙しない日々が戻ってきた。
 そして、ウェールとユキコの間にも、ルームメイトの均衡が戻ってきた。あの日の出来事は、どちらもなかったこと にしていた。記憶には強烈に焼き付いていたし、忘れがたい初体験ではあったのだが、それを表に出して引き摺る と仕事に支障を来してしまうからだ。次元探査航行のルートを辿って再び出航したウィンクルム号に揺られながら、 次元の歪みと空間の軋みと出会うたびに計算し、算出し、また計算し、乗り越えていった。
 そんな折、ユキコが再び倒れてしまった。また貧血でも起こしたのかと少し呆れつつ、ウェールは救護室に見舞い に行った。ユキコの好物であるクリームをたっぷり載せたパンケーキを手土産として持っていってやると、ユキコは とても喜んでくれた。口の周りにクリームを付けながら一生懸命食べていたので、そんなに焦らなくてもいいのに、と ウェールは苦笑した。体調が良くなったら部屋に戻るから、と言いつつ、ユキコは手を振ってくれた。
 それが、彼女と最後に交わした会話になった。何の初期症状もなく、ユキコの脳の血管が裂けた。広範囲に渡る 脳内出血を起こし、応急処置の甲斐もなく息を引き取った。シフトを終えたウェールが再び見舞いに行った時、既に ユキコは単なる蛋白質の固まりと化していた。それから、何をしたのかはウェールは一切覚えていない。
 喉が裂けるほど叫んだことだけは、体が覚えている。




 桜の栞、航海安全御守、瓶詰めの金平糖、レースのシュシュ。
 テーブルに並べた贈り物を見つめながら、ウェールは空っぽのベッドを見ないように務めていた。だが、シーツは ユキコが寝ていた形にシワが寄ったままで、毛布も丸くなっている。枕には長い髪の毛がちらほら残っていて、私物 も手付かずになっていた。どうしても片付けられないし、近付くことさえ憚られたからだ。
 生体改造体にはよくあることだ、と船長のラルフ・クロウは言った。新しい治療法で修復されたとばかり思っていた 遺伝子が綻び、突然死を迎えることは珍しくもなんともないことだ、とも。だが、ラルフは悔しげで、軍帽を深く被った まま顔を上げようともしなかった。情に篤い男なのだ。茫然自失のウェールは救護班のカウンセラーと会話すること すら出来ず、もちろん仕事にも戻れなかった。ウェールが抜けた分、次元管制官のシフトには穴が空いてしまった のだが、誰も咎めはしなかった。咎められたとしても、聞き取れなかったといった方が正しいかもしれない。
 不意に、船体が大きく軋んだ。次元の歪みに近付きすぎたからだ。仕事から離れていても観測された次元と空間 の情報だけは頭に入っているので、ウェールは半ば無意識に暗算し、次元の歪みから生じる空間の揺らぎを予測 した。二十三秒後に一度、それから百三十七秒後に二度、それから更に三分二秒後に一度、空間に発生した波が ウィンクルム号を揺らがせた。その衝撃で船体の内部にも揺れが生じ、テーブルに並べていた贈り物がずれていき、 瓶入りの金平糖が真っ先に転げ落ちた。瓶が割れては一大事だとウェールは腰を上げ、瓶を追った。
 かしゃかしゃかしゃっ、と岩石惑星の地表のように尖った砂糖の粒が混ざっては砕け、カラフルな砂糖の粉が瓶の 内側にこびり付いた。ユキコが脱いだままになっている制服の上を跨ぎ、ユキコの使いかけのトリートメントのボトル が倒れた傍を駆け抜け、ユキコが紅茶を飲み終えたままのカップが落下してくる直前に方向転換しながら、船体の 傾きに沿って丸い瓶は転がり続けた。バスルームと洗面所のあるスペースに入り込んだので、ウェールがその中に 入ると、小さな手が丸い瓶を受け止めた。

「はい、どうぞ」

 そう言って、満面の笑みで瓶を差し出してくれたのは、輝く金髪に澄んだ青い瞳に白い肌の少女だった。

「……あ」

 ウィンクルム号の搭乗員でないことは、考えるまでもなかった。ウェールが硬直していると、少女は金平糖の瓶 を抱き締め、にこにこする。ウェールは首を横に振りながら後退し、動揺で荒くなった呼吸を整えようとする。

「怖がることなんてないよ。だって、私はお姉ちゃんのお姉ちゃんじゃない」

 少女、ハルはウェールを見上げてくる。

「でも、なんで、どうして」

 ウェールが途切れ途切れに問うと、ハルは金平糖の瓶を抱えて飛び跳ねる。

「私がこっちにいるのは、次元のずれのせいだってさ! お母さんがそう言っていた!」

「御母様と通じているの!?」

「御母様じゃないよ、お母さん!」

 見覚えのあるワンピース姿のハルはウェールの足元まで近付いてくると、屈託のない青い瞳を瞬かせる。

「お母さんはね、ずっとウェールを心配しているよ」

「違う、それはあなたのお母さんであって、私の御母様じゃない!」

「違わないのに。お母さんは御母様だけど、お母さんだよ。なんにも、違っていない」

 ハルは不安げに眉を下げ、ウェールを見つめる。ウェールは拳を固めて息を詰めるが、動機は収まらない。

「お母さんはね」

「いや」

「ずうっとウェールに謝りたかったんだって」

「聞きたくない、そんなもの!」

「ウェールがとても聞き分けのいい子だったから、いつもウェールに頼っちゃって」

「御母様は言い訳なんかしない、御母様は私を思い遣ったりもしない、御母様は!」

「抱っこしてあげたかったんだ、って」

 ハルは短い腕で、三女の贈り物を守るように抱く。

「でも、お母さんの体はもうない。偽物の体を作っても、ウェールが悲しむだけだから、ずっとずっと我慢していた。 これからも、ずっとそうするつもりだった。でも、ユキちゃんが……」

「ユキコは御母様じゃない、お母さんでもない!」

「うん。でも、ユキちゃんはお母さんに会ったんだ。お母さんと同じ遺伝子を持って生まれたから、ほんの少しだけ、 お母さんと会えたの。その時に、ユキちゃんはお母さんとお話ししたんだ。ウェールに会ってあげて、少しでもいい から話を聞いてやってあげて、って。でも、お母さんは来られないから、凄く会いたがっているけど、物質宇宙に来る とまたバランスが崩れちゃうから、代わりに私が来たの。お遣いなの」

「御母様が……?」

「うん。出来れば他の皆にも会いたいけど、今、会えるのはウェールだけだから」

 壁に背を当てて座り込んだウェールに近付いたハルは、ウェールに金平糖の瓶を返してくれた。

「それで、お母さんからの伝言。うーちゃんは、お母さんみたいにならなくてもいいし、ハルにもならなくてもいいよ。 ユキちゃんにならなくてもいい。うーちゃんは、うーちゃんのままでいればいいの」

 小さくも柔らかい子供の手が、ウェールの手を握り締めてくる。

「うーちゃんは、大人になったら何になりたかったの?」

「解らない。お母さんみたいにならなきゃいけないって考えていたから、考えたことなかった」

「私はね、お姉ちゃんになりたかった。だから、妹が一杯出来て凄く嬉しい!」

 ハルはウェールの手に頬を寄せ、はにかみ混じりに笑う。

「……お、ねえ、ちゃん」

「うん、ハルお姉ちゃんだよ。うーちゃん」

 ウェールが辿々しく呼ぶと、ハルは誇らしげににんまりする。

「皆によろしくね、うーちゃん」

 金髪と青い瞳の少女の姿が滲み、ぼやけていった。それは歪んだ次元と空間が平常に戻りつつあるからであり、 ウェールが滂沱しているからでもあった。マシュマロのように儚い感触の手が消え失せると、ただの白昼夢だった のではないかと思いそうになったが、ウェールの手中にある瓶には小さな手のひらの痕が付いていた。

「お姉ちゃん。一つ、食べていけばよかったのに」

 瓶の蓋を開け、黄色い金平糖を一粒取って口にした。砂糖の粒を囓ると、ほのかなレモン味が舌の上に広がり、 喉の奥に溜まった塩辛さを紛らわしてくれた。ハルの温もりがかすかに残っている瓶を膝の上に置いて、金平糖を ゆっくりと食べていくと、少しずつではあるが心中が落ち着いてきた。
 金平糖の残りが三分の一まで減ると、ウェールは立ち上がる気力を取り戻していた。糖分が体中に回ったおかげ である。ハルからの問いに返せる答えがあるだろうか、と思案しながら、ウェールは散らかったままのユキコの遺品 を一つずつ片付けた。短すぎる思い出を噛み締めながら、彼女の棺に何を入れてあげようか、と考えた。
 最初で最後のプレゼントになるからだ。




 長いようで短い一年半が過ぎ、次元探査船ウィンクルム号は太陽系へと帰還した。
 しかし、その搭乗員は出航時より一人減っていた。それを知る者は少ない。航行記録には記載されるが、単なる 数字の増減でしかなく、同じ船の搭乗員であっても彼女の存在を知っているとは限らない。戸籍はあれども親族は 一人もいないため、役所で簡単に処理されるだけだ。航行中での出来事だったので宇宙葬も簡素で、葬儀に出た 搭乗員も少なかった。ウラヌスステーション時代も、次元管理局時代も、彼女には友人がほとんどいなかったことも あり、それでなくても希薄だった彼女の存在は透き通っていった。薄氷が、水溜まりに溶けるかの如く。
 ユキコの遺体を収めた棺を宇宙空間へと送り出すだけの宇宙葬を終えた後、船長のラルフ・クロウはサチコの 葬儀がいかなるものだったのかを語ってくれた。恐らく、母がユキコの葬儀を元にした記憶をラルフに与えたのだろう。 無数に重なる宇宙で長らえる母であろうと、己の死を認めるのは容易くないようだ。ユキコの死は極めて無益なもの ではあったが、その死がなければ母と姉に触れ合えなかった。それを思うと、とてつもなく切なくなる。
 次元管理局から定期宇宙船を乗り継いで、エウロパステーションの宇宙港まで戻ってきたウェールを、出発時と 同じく家族が出迎えてくれた。だが、ウェールの事情を知っているからか、皆、少し大人しかった。無事に帰ってきた ことをめいめいのやり方で喜び合ってから、ウェールは家族に詫びた。

「ごめんね。出発する前に皆が贈ってくれたもの、友達にあげちゃった」

「ルームメイトに贈ったんだな」

 切なげに頬を持ち上げるマサヨシに、ウェールは応じる。

「うん。だって、ユキコはこれから長い旅をするでしょ? 分子になって、宇宙に溶けて、またどこかで再構成されて 生まれ変わるまで、何百万年掛かるか解らないもの。だから、寂しくないようにって思って」

「あんなものでよければ、いくらでも」

 アエスタスは目元を拭い、アウトゥムヌスは潤んだ目を伏せる。

「献上」

「ユキコさんは綺麗な長い黒髪をお持ちなのですもの、髪を括るものは必要ですわ」

 ヒエムスは声を少し詰まらせながらも、笑みを返してくれた。

「それでね、お父さん」

 航海の最中、ずっと考えていた。ウェールはショルダーバッグのストラップをきつく握り、意を決した。

「私、これからはお母さんの真似はしない。ハルお姉ちゃんの真似もしない。だから、もう一度勉強し直して遺伝子 工学に進んで、遺伝子の欠損をきちんと治せるような技術を見つけるの! そうでもしないと、同じことの繰り返しに なるから! だから、お父さん、もうちょっとだけ脛を囓らせて!」

「そりゃ豪儀だな。だが、やりたいようにやりゃあいいさ」

 イグニスが笑うと、トニルトスは片膝を付いてウェールと目線を合わせる。

「それが貴様の導き出した人生の針路であるならば、心から祝福してやろうではないか」

「そうっすか、うーちゃんがそう思うんなら、そうするのが一番っすよ。んじゃ、進路決定のお祝いをしなきゃっすね!  んで、うーちゃんの十七歳の御誕生日もついでに祝うっすよ!」

 ヤブキが諸手を挙げて喜ぶと、ミイムは胸の前で両手を組む。

「みゅみゅん、そうですぅ。間違えたことに気付いたら、その度に引き返してやり直せばいいんですぅ」

「誰も反対しやしないさ、ウェール。俺はもう十年はスペースファイターに乗るつもりでいるからな」

 マサヨシはウェールと向き合い、快諾する。呆気なさすぎて気が抜けたが、ウェールは心から家族に感謝した。

「ありがとう! 頑張る!」

 ウェールはマサヨシと手を繋ぐと、何よりも父親に報告したかったことを伝えた。

「私ね、ハルお姉ちゃんに会ったんだ。お母さんからのお遣いで、私に会いに来てくれたんだ。お母さんは私のこと も皆のことも、ずっと前から大事に思ってくれている。だけど、それが当たり前すぎて、今まで気付かなかったんだ。 でも、もう大丈夫。寂しくないし、寂しいはずがなかったんだから」

 こんなにも家族から愛されているのだから。ウェールは次元管理局の制服を脱ぎ捨ててから、妹達とじゃれ合い ながら宇宙港の外に出た。薄紅色の吹雪が舞い散り、暖かな風が肌を掠めていく。宇宙港前のロータリーに併設 されている庭園では、古き良き桜、ソメイヨシノが咲き誇っていた。マサヨシからの餞別であった桜の栞も、ユキコに プレゼントしてしまったので、作り直さなければ。そう思い、ウェールは地面に落ちた桜の蕾を拾った。
 今、春が来た。







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