アステロイド家族




父、奮迅



 惜しみない、愛を込めて。


 それは、異様な光景だった。
 エプロンを付けたマサヨシが、キッチンに立っている。それだけで、違和感と同時に不安に苛まれてしまった。
リビングのソファーに座ったミイムは紅茶を啜っていたが、不安のあまりに、豊潤な香りが今一つ解らなかった。
それは向かい側に座るヤブキも同じらしく、機械的にクッキーを食べている。上の空が過ぎて、黙り込んでいた。
だが、彼の気持ちも痛いほど解る。ミイムはそっとため息を零してから、次第に冷めつつある紅茶を口に含んだ。
掃き出し窓の外では、四姉妹が機械生命体達と元気一杯に遊んでいる。今は、大縄跳びをしているようだった。
少女達の歓声に混じって戦士達の穏やかな話し声が流れ、降り注ぐ日差しも暖かく、実に和やかな休日である。
ミイムは掃除や洗濯などの家事を一通り終え、ヤブキも朝の畑仕事を終えたので、一息吐いているところだった。
そして、リビングに戻ってきた二人が見たものは、汚し尽くされたキッチンとやたらと真剣なマサヨシの姿だった。

「ぱーぱさぁん」

 ミイムが呼び掛けるが、マサヨシは反応せずに手を動かしている。しかし、既に大量の失敗作が出来ていた。
今日一日だけで、どれほどの材料を無駄にしたのだろうか。そう思うと、ミイムは母親役として切なくなってきた。
マサヨシとイグニスとトニルトスの給料を合わせても、育ち盛りの子供達のいる家族を生活させるのは大変だ。
雑費や諸経費を抜いた後にガンマから与えられる生活費だけでは、赤字になってしまいかねない時もあった。
どれほどヤブキが野菜を作ろうと、それだけでは暮らしていけない。だからこそ、食料は大切に使うべきなのだ。
だが、マサヨシはそれを大量に浪費し続けている。しかも、一つも成功させていないのだからどうしようもなかった。

「ホント、どういう風の吹き回しっすかねぇ」

 あーあ、とヤブキは落胆と諦観を込めてため息を漏らし、ソファーに背を預けた。

「マサ兄貴が料理をしようだなんて、また銀河が真っ二つに割れちゃうっすよ」

「別にお前らに見てもらう必要はないんだが」

 マサヨシはボウルを掻き混ぜる手を止めずに、二人を見やった。

「見ていないと怖いんですぅ。なんかぁ、キッチンを吹っ飛ばされちゃいそうでぇ」

「そうっすよそうっすよ。何か作ってもらいたいんだったら、オイラかミイムに頼めばいいことっすよ。大体、マサ兄貴ってばスペースファイターの射撃は針穴に糸を通せるぐらい正確で、結構几帳面だから掃除も得意なのに料理だけは何が何でもダメなんすから、その辺だけはオイラ達に任せておくべきなんすよ」

「ていうかぁ、そのためのママなんですからぁ、頼るべき時には頼られたいんですぅ」

 ミイムがわざとらしく拗ねるが、マサヨシは手元から目を離そうともしなかった。

「すまん。だが、今回はそうもいかないんだ」

「つーかまず、理由が解らないんすよ、理由が」

 ヤブキは腰を上げ、リビングと面しているキッチンに歩み寄った。

「でもって、さっきからずっと手順と材料を見てるんすけど、何を作りたいのかさっぱりなんすけど」

「卵と牛乳と薄力粉と砂糖を大量に使っているからぁ、お菓子らしいってことだけは解るんですけどぉ、そこから先が全然なんですぅ。パパさんってば、一体何を作りたいんですかぁ?」

 ミイムも近寄り、マサヨシの手元を覗き込んだ。ボウルというボウルには、よく解らない物体がこびり付いていた。
牛乳に薄力粉を混ぜただけのもの、生卵に砂糖を入れたもの、バターをねじ込まれたが混ざっていない薄力粉。
マサヨシなりにある程度考えているようだったが、そこから先が解らないらしく、成れの果てばかりが出来ていた。
特に多い残骸が、卵の殻だった。その数は十個や二十個ではなく、先日の買い出しで入手した卵の半分以上だ。
明日の昼食に親子丼を作る予定だったヤブキは絶望し、プリンを作る予定だったミイムは泣きたくなってしまった。

「とりあえず、何がなんだか説明してくれないと困るっす。オイラ達にもオイラ達の考えがあるんすから」

 これ以上犠牲を出されたら敵わないのでヤブキが懇願すると、ミイムは両手を組んで金色の瞳を潤ませた。

「そうですぅ! あんまり材料を無駄にされちゃうと、ほんっとおーに死活問題なんですぅー!」

「…だが」

 マサヨシは少し躊躇ったが、二人の必死さに観念し、ようやく手を止めた。

「それもそうだな」

 その言葉に二人は心の底から安堵し、思わず手を取り合った。マサヨシは手を洗い、エプロンで水気を拭った。

「だが、これだけはどうしても俺の手でやらなきゃいけないことなんだ」

「だから、それって何なんすか」

 ヤブキが問い詰めると、マサヨシは気恥ずかしげに答えた。

「レモンパイを作ろうと思ってな」

「はあ?」

 拍子抜けしたミイムは、眉根を曲げた。

「もしかしてぇ、パパさんはそれを作るためだけに大量の卵を犠牲にしたんじゃねぇだろうなこの野郎ですぅ」

「白身と黄身を分離出来なかったんだ」

 情けなく眉を下げるマサヨシに、ヤブキは大袈裟に仰け反った。

「たったそれだけの理由で廃棄したんすかー!? 中身は捨てちゃダメっすよ、後でちゃんと食えるんすから!」

「失敗したからもう使えないと思って、卵の中身は排水溝に流してしまったが」

 悪気の欠片もないマサヨシに、ミイムは額を押さえて後退った。

「これだから料理をしない輩ってダメなんですぅ…。ていうか本気でどうかしてるぜこの男ですぅ…」

「黄身と白身が分離出来なくても、それを混ぜ合わせりゃいくらだって料理になるっすよー! 親子丼から始まって茶碗蒸しに厚焼き卵にオムレツにああんもうー!」

 貴重な蛋白源があっ、と頭を抱えて呻いたヤブキに、マサヨシもさすがに動揺した。

「もしかして、捨てるのはまずかったのか?」

「あったりめぇだろうがぁっ!」

 見事に重なった二人の罵声が、マサヨシに襲い掛かった。ミイムは息を荒げており、ヤブキも肩を怒らせている。
マサヨシは何が悪かったのか考えてみたが、よく解らなかった。無駄にしたのは悪いとは思うが、それだけだった。
怒鳴られても未だに何が悪いのか理解していないらしいマサヨシに、二人はなんだか空しくなってきて項垂れた。
マサヨシは、真面目すぎて融通が利かない部分があるのだ。それが、不得手な料理では顕著に表れたのだろう。

「だ、だがな」

 マサヨシは、二人のあまりの落胆ぶりに狼狽えてしまった。

「どうしても卵が分離出来なかったんだ。それに、サチコのレシピでは、カスタードクリームは卵の黄身だけで作るとあったから、そうしなければならないんだ」

 サチコの名を聞いた途端、二人は顔を上げた。

「なんでそこでサチコ姉さんの名前が出てくるんすか?」

「ふみゅうん?」

「サチコの味を知っているのは、俺だけだろう?」

 マサヨシは自分で言っていて恥ずかしくなったが、続けた。

「サチコのレシピで作ったとしても、お前達が作ったら、それはお前達の味になってしまうじゃないか」

「でも、なんでまたレモンパイなんすか? 超初心者のマサ兄貴にはハードルが高すぎて標高五千メートルっすよ」

 どう考えても、ズブの素人のマサヨシが作れる料理ではない。ヤブキは、彼らしからぬ無謀さに疑問を感じた。

「サチコが、一番最初に俺に作ってくれたものなんだ。まあ、あの頃は下手だったから、不可解な味がしたんだが」

 マサヨシは出会った当初の妻の姿も思い出してしまい、照れた。

「てことはぁ、そのレモンパイはパパさんとサチコさんのラブラブメモリアルってことですかぁ? みゅうーん!」

 途端に頬を染めたミイムは、甲高い声を出した。

「色んな意味で甘酸っぱいっすね」

 ヤブキもにやけたので、マサヨシはますます恥ずかしくなり、声を落とした。

「だから言いたくなかったんだ…」

「でもでもぉ、そぉんなに胸キュンなお菓子を作ってどうするんですかぁ?」

 期待に目を輝かせながら迫ってきたミイムに、マサヨシは少し身を引いた。

「あの子達に食べさせたいんだ。四人とも、サチコが産んですぐに死んだことになっているし、何よりついこの間まで次元だのなんだのってやっていただろう? だから、誰もサチコの作ったものを食べたことがないじゃないか」

「そう言われてみればそうっすね」

 ヤブキは納得し、頷く。マサヨシは、薄力粉の付いた頬を拭った。

「お前らも俺の妻のサチコとは面識がないわけだし、出来れば味ぐらいはと思ってな」

「みゅっふーん、パパさんってばとおっても素敵ですぅー! ボク、惚れ直しちゃいますぅー!」

 尻尾を振り回しながら歓声を上げるミイムに、ヤブキは苦笑してしまった。

「そのマサ兄貴を本気で罵倒したのはどこの誰っすか」

「だから、尚更お前達に手伝ってもらうわけにはいかないんだ」

 マサヨシはキッチンスケールの上に空のボウルを載せ、その中に薄力粉を入れ、計量した。

「軍に復帰してからは随分忙しくなっちまって、週二日しか家に帰ってこられないせいで、皆をあまり構ってやれていないからな。だから、せめてこれぐらいはしてやろうと思ったんだが、どうにも加減が解らないんだ。それ以前に、卵の黄身と白身はどうやって分離させるんだ?」

 ヤブキはマサヨシの手元から卵を一つ取ると、シンクから小鉢を二つ取り、卵を打ち付けてヒビを入れた。

「いいっすか、よく見とくんすよ。まずこうやって卵を割って、殻を二つに割るんす」

 ヤブキは片方の小鉢の上で卵を割り、殻を二つに分けると、その片方に黄身を入れて白身と分けた。

「んで、こうやって黄身と白身を分ければいいんす。やり方さえ解れば、誰にだってすぐ出来ることっすよ?」

 ほれ、とヤブキは黄身をもう一つの小鉢に落とした。マサヨシはその手元を見ていたが、首を捻った。

「すまん、もう一度頼む。よく解らなかった」

「じゃ、今度はボクがやるですぅ」

 ミイムも卵を取り、ヤブキと全く同じ手順で黄身と白身を分け、黄身の入った小鉢の中に黄身を投げ入れた。

「ほうら、とっても簡単ですぅ」

「…そうか?」

 マサヨシは手元に転がる卵を取ると、打ち付けてヒビ割れを作り、その中に親指を入れて二つに割ろうとした。
だが、指を入れた部分から盛大に砕けた。手元の器に、殻の端で破れた黄身が白身と入り混じりながら落ちた。
どう見ても、力の入りすぎが原因だった。恐らくマサヨシは、茹で卵の殻を割る要領で力を入れているのだろう。
卵の殻は硬いので、多少なりとも力を入れなければ割れないのは確かだが、砕け散るほど入れるのは誤りだ。
マサヨシは黄身と白身にまみれた手を見下ろしていたが、二人が分けた黄身と白身を覗き込んで、首を傾げた。

「一体何がいけないんだ?」

「もういいっす、卵はオイラが割るっすから、マサ兄貴はレモン汁でも絞っておいて下さいっす」

 耐えかねたヤブキが挙手すると、ミイムも挙手した。

「パイ生地はボクが焼きますぅ。今日の夕食のミートパイに使おうと思って仕込んでおいたのがありますからぁ」

「だが、それでは俺が作ったことにならないじゃないか」

「オイラが卵を割ったぐらいで、サチコ姉さんの味は変わるもんじゃないと思うっすよ?」

「そうですよぉ。レモンパイで肝心なのはカスタードクリームとメレンゲなんですからぁ、その味付けだけ間違えなければぁ、サチコさんの味はちゃんと再現出来ますってぇ」

 二人のもっともな意見に、マサヨシは少し態度を緩めた。

「そう…だな」

「じゃ、まずは片付けからするっすよ、片付け。こんな状態じゃ、作れるものも作れないっす」

 ヤブキは袖をまくってキッチンに入り、マサヨシが作ったいい加減な物体が入っているボウルをシンクに入れた。

「この分だと、今日のお昼ご飯はキッチンじゃ作れなさそうですぅ。今日は春野菜がたっぷり入ったグラタンにするつもりだったんですけどぉ、予定を変更するしかないですぅ」

 壁掛けのデジタルクロックを見たミイムが嘆息すると、ヤブキは洗剤の泡が付いた手で外を示した。

「だったら、イグ兄貴のガレージから鉄板を出すっすよ。そいつで焼きそばでも焼けばいいっす」

「それじゃあ、皆に説明してきますぅ。キッチンは立ち入り禁止でぇ、今日のお昼はお外だってこと」

 ミイムはぱたぱたとスリッパを鳴らしながら、リビングを後にした。

「すまんな、色々と」

 今になって申し訳なくなってきたマサヨシが謝ると、ヤブキはマサヨシを横目に見やった。

「別にいいっすよ。でも、今度からはちゃんと先に言ってほしいっす。オイラ達なりに一週間のメニューを組んで買い出しを頼んでいるんすから、それを無計画に使われたらたまったもんじゃないっすよ」

「ああ、そうするよ」

「でも、なんでまた急に思い立ったんすか?」

 洗剤を泡立てたスポンジでボウルを洗いながらヤブキが問うと、マサヨシは掃き出し窓の先に目線を投げた。

「まあ、色々とな」

 マサヨシは、戦士達と戯れる四姉妹に目を細めた。帰宅して、娘達と戯れている時に、ふと思ったことがある。
死した今も尚愛している妻の面影と、マサヨシの面影を持つ娘達の笑顔を見ていると、胸が詰まりそうになった。
自分自身の嘘で潰えさせたと思っていた家族も、二度と訪れないと思っていた四人の娘達との日々も取り戻した。
だが、その中にサチコはいない。ナビゲートコンピューターのサチコも、彼女が人間に生まれ変わったサチコも。
それが、どうしようもなく切なかった。サチコが己を犠牲にしたからこそ、この日常があるのだと解っているのだが。
四人の娘達も、事実上の産みの親であるサチコを心から好いている。だが、どれだけ好いても母親には会えない。
次元超越能力を失う前であろうとも、アニムスの力を借りようとも、第五次元で生きていた頃の母親には会えない。
映像や記録文書もサチコの意志で削除されているため、データファイルもマサヨシの手元に残ったものしかない。
四人とも、愛されているとは知っているものの、母親の腕に抱き締められたこともなければ触れられたこともない。
それが、無性に切ないと思った。だから、せめてもの愛情表現として、サチコの味を教えてやりたいと考えたのだ。
 ヤブキもマサヨシの意図をなんとなく察してくれたらしく、それ以上言及することもなく、機械的に洗い物を続けた。
マサヨシはそれを手伝っていると、事の次第を見守っていたガンマのスパイマシンが、マサヨシの前に浮かんだ。

〈マスター。よろしければ、私も助力いたしますが〉

「よろしく頼む、ガンマ。俺の記憶力だけじゃ、心許ないからな」

 マサヨシが返すと、ガンマは礼儀正しく一礼した。

〈了解しました、マスター〉

「分量とか手順とか加減とかも大事っすけど、やっぱり料理で一番大事なのは愛情っすよ、愛情」

 ヤブキは一通り洗い終えると、濡れた手を布巾で拭った。マサヨシはにっと笑い、頷いた。

「その点だけなら、この宇宙で俺に勝てる奴はいないさ」

 下手に力んで妙な意地を張ったから、失敗したのだ。最初から、ミイムとヤブキの力を借りれば良かったのだ。
ガンマは二人の前に浮かぶと、ホログラフィーモニターを表示させ、サチコの書き留めたレシピのデータを映した。
ヤブキはそれを覗き込み、材料の分量と手順を確認した。リビングの窓越しに、子供達の会話が聞こえてきた。
マサヨシが料理をしている、とミイムが報告したらしく、四姉妹は驚きとも戸惑いとも付かない歓声を上げていた。
それ以上に驚いたのがイグニスとトニルトスで、仰け反ったほどだった。反応が過剰すぎる気がしないでもないが。
窓の外から聞こえてくる二人の動揺した言葉の数々は、マサヨシを褒めているのか貶しているのか解らなかった。
その中にはマサヨシの自尊心を抉るものもいくつかあったが、今は二人の文句になど気を割いている暇はない。
 とにかく、レモンパイに集中しなくては。







08 12/2