アステロイド家族




父、奮迅



 操縦桿を握る指に、薄力粉が残っていた。
 似合わないな、とマサヨシは今更ながら自嘲した。やはり、エプロンよりもパイロットスーツの方がしっくり来る。
久し振りに身を沈めたHAL号の操縦席はマサヨシの体をすんなりと受け止め、体に掛かる加重も心地良かった。
訓練で使用する軍用スペースファイターとは違い、レスポンスもマサヨシに合わせてあるので一心同体と言える。
一度造り直したとはいえ、これこそが愛機だ。緊張感に入り混じる安心感に身を委ねつつ、マサヨシは加速した。
 HAL号の両脇を飛ぶ戦士達は、速かった。二人の性能だけでなく、訓練で成したコンビネーションのおかげだ。
それまでは、どちらも速かったが統一性は薄かった。二人は思い思いの行動を取るので、攻撃はちぐはぐだった。
だが、今は違う。ただの傭兵の集まりではなく、ファントム小隊として訓練を重ねるうちに三人の息は合っていった。
それぞれの戦術や才能を殺さず、かといって突出させすぎずに、互いが互いをサポート出来るようになっていた。
 暗黒物質の詰まった空間を飛び抜け、ガンマの示した座標に向かった。その先に、見覚えのある結晶体がいた。
イガのように尖った六角柱を生やした珪素生物、クリュスタリオンがゆっくりと回転しながら宇宙空間を漂っていた。
二人と交信するために開いている通信回線に、高いノイズが混じる。珪素生物が発する、言語未満の高周波だ。

『あれがクリュスタリオンか?』

 イグニスから声が掛けられたので、マサヨシは返した。

「見ての通り、硬いんだ。油断するな、生物と言えど強度は戦艦以上だ」

『だが、どんな輩であろうと我らの敵ではない』

『言われるまでもねぇ』

 トニルトスが自信の満ちた笑みを零すと、イグニスも笑った。

「ガンマ、全センサーでサポートしろ! イグニス、トニルトス、両名は奴の気を引け!」

 マサヨシが命じると、二人の速度が一気に増し、HAL号の両脇から飛び去った。

『任務了解!』

〈了解しました、マスター〉

 二人よりも一拍遅れて、ガンマが応答した。マサヨシの命令通りに全てのセンサーを作動させ、調査を始めた。
マサヨシは十一年前の記憶を呼び起こしながら、操縦桿を倒した。HAL号は大きく旋回しながら、敵に接近した。
クリュスタリオンは、きいきいと耳障りなノイズを発している。見知らぬ宇宙空間に、怯えているのかもしれない。
だが、追い返すことは出来なければ保護することも出来ない。この生物は、高純度金属を捕食するのだから。
アステロイドベルトから離脱したクリュスタリオンが、木星の引力に引き寄せられ、コロニーに接近したら大事だ。
コロニーの外装がクリュスタリオンに捕食されてしまえば、大量の人間が死ぬことが容易に想像出来るからだ。
クリュスタリオンと交戦した経験を持つ軍人は、アウルム・マーテルの攻撃によってほとんどが死んでしまった。
そうでなければ太陽系外のコロニーや移民宇宙船へ旅立ってしまっているので、彼らの協力は期待出来ない。
だから、マサヨシがここで食い止めることが最も安全で確実だ。軍部からは、単独行動を咎められるだろうが。
だが、処分などどうでもいい。今はただ、生きて帰ってサチコのレシピのレモンパイを娘達に振る舞わなければ。

「クリュスタリオンは金属を捕食する生命体だ。お前ら、気を付けろよ!」

 マサヨシが敵の情報を二人に伝えると、すぐさま驚愕の声が返ってきた。

『なんだそりゃあ! それを先に言えよ!』

『つまり、我らも捕食される可能性は充分にあると言うことか!』

 イグニスの絶叫の後に、トニルトスがヒステリックに喚いた。

『ならば、尚更早急に撃破しなくてはならん! この私が捕食対象になるのは屈辱極まりない!』

 トニルトスは急発進し、HAL号とイグニスを追い越した。青い機影が一瞬で遠ざかり、青い炎の尾が伸びていく。
トニルトスとクリュスタリオンとの距離はあっという間に縮まり、トニルトスは結晶体に接近と同時に雷光を放った。
青い雷光は鋭く尖った結晶体の先端に的確に当たり、通信電波に混じるノイズは高ぶり、敵は内側から発光した。

「まずい、退け!」

 あの光には覚えがある。マサヨシが少し焦りながら叫ぶと、結晶体の一つがトニルトスに向き、光が収束した。
トニルトスが身動いだ瞬間、結晶体の先端から収束した光線が放たれ、トニルトスの胸部目掛けて発射された。
反射的に降下したトニルトスは辛うじてその光線を避けたが、暗黒空間を飛び抜けた閃光は小惑星に着弾した。
閃光は巨大な岩石に吸収されたが、直後、爆砕した。砕けた岩石の破片が飛び散り、強烈な熱を撒き散らした。

『なるほど…。面白い生命体だ』

 反撃によって冷静さを取り戻したトニルトスは、六角柱を蠢かせる珪素生物を見据え、赤い瞳を細めた。

『光学兵器を放てば、そのエネルギーを吸収するばかりか、数百倍に増幅して放つことが出来るのだな』

「それを言う前に攻撃するんじゃない」

 マサヨシが呆れと安堵を混ぜて言うと、トニルトスは細めの指先でマスクの顎をさすり、考えを巡らせた。

『ふむ…そうだな。私にいい考えがある』

『良い考えってなんだよ? 光学兵器が通じない上にがっちがちに硬い野郎なんだぜ、どこぞの資源惑星から岩盤掘削用ドリルでも借りてくるつもりか?』

 イグニスが肩を竦めると、トニルトスは一笑した。

『それも悪くないが、遙かに有効で確実な作戦だ』

「とりあえず、その作戦がどんなものか説明してくれないか」 

 マサヨシがトニルトスに問うと、トニルトスはHAL号を視界に入れた。

『この近隣宙域に浮かぶ小惑星に詰め込まれた、イグニスの寵愛を注がれた廃棄物を利用するのだ』

『おいこらちょっと待てやこの野郎!』

 イグニスが掴み掛かろうとしたが、トニルトスはその顎にぴたりと剣先を据えた。

『だが、この状況でそれ以外に有効な策はあるか? 今、奴を取り逃がせば、木星圏に到達してしまうのだぞ』

『そりゃそうだが…。けど、うう、ああ…』

 イグニスが頭を抱えて呻くと、トニルトスは長剣を横たえてイグニスの首筋に刃を添えた。

『ならば今貴様の首を刎ね、捕食させようではないか』

『わーかったよ…』

 イグニスは渋々承諾し、頭を抱えていた手を外した。

『んで、どうすりゃいい?』

『ばらまくのだ。そうすれば、奴の足止めも出来る上に時間も稼げる』

『解りやすくて結構だ』

 イグニスは切なげにため息を零してから、側頭部に触れ、通信電波を放って遠隔操作した。

『さよなら、俺の愛しのブリたん…』

〈前方百キロ圏内に大量の異物反応発生!〉

 イグニスが何かを操作した直後、ガンマが警戒警報を発した。センサーに異物反応が訪れ、点が複数現れる。
それが、一気に増大し、センサーを埋め尽くした。マサヨシはぎょっとし、反応のある宙域の映像を拡大させた。
いつのまにか中をくり抜かれて倉庫に改造されていた小惑星の岩盤が開き、内部からスクラップが溢れ出した。
隔壁は一つだけではなく、小惑星の上下左右が開いていた。その中から、次から次へと金属が吐き出されてくる。
どう見積もっても、数百トンは超えている。いつのまにこんなに集めたのだろう、とマサヨシは心底呆れてしまった。
 イグニスが溜めに溜め込んだスクラップは帯状に宇宙を漂い、太陽光で煌めく様はまるで天の川のようだった。
クリュスタリオンは蠢かせていた結晶体の一つをスクラップの天の川に向けると、結晶体の内部に光を走らせた。
余程空腹だったのか、クリュスタリオンはスクラップの天の川を感知した途端に急加速し、ノイズを撒き散らした。
言葉とは到底言い難い電子音だったが、心なしか嬉しそうだった。珪素生物は接近と同時に、姿を変え始めた。
全身を球状に覆い尽くしていた無数の六角柱の一部が避けていき、その奥から一際純度の高い球体が現れた。
露わになった球体の表面にヒビが走ったかと思うと、開いた。そして、前進してスクラップをその中に入れ始めた。
どうやら、あれがクリュスタリオンの口腔らしい。それを見た途端に、トニルトスはイグニスを引っ張って発進した。

『あ、何、何なんだよ!?』

 トニルトスに引き摺られるまま飛び去っていく相棒の姿に、マサヨシはトニルトスの意図を察してしまった。

「頑張ってこい、イグニス。とりあえず、死ぬなよ」

『存分に戦うが良い、我が友人よ!』

 クリュスタリオンが捕食するスクラップの川に接近したトニルトスは、その中にイグニスを放り込んだ。

『って、今解ったー!』

 動揺したイグニスが絶叫するが、手遅れだった。スクラップを食べながらやってきた捕食者が、目の前にいた。
トニルトスは早々に退避しているし、HAL号も付近にはいない。二人とも、端からイグニスを助ける気などない。
イグニスは逃げだそうとスラスターに点火するが、クリュスタリオンは大口を開けながらイグニスに迫ってきた。
いびつな円形の口の内側には、体表面を覆う六角柱と同じ形状だがかなり小さな歯が、内側に生え揃っていた。
無数の歯はスクラップを吸入すると同時に重たく閉じられ、分厚い宇宙船の外壁を一瞬で噛み砕いてしまった。
その様に、イグニスは身震いした。タルタロスとは違った意味で、即物的な捕食者の恐ろしさに打ちのめされる。

『げっ!』

 応戦するよりも早く、イグニスは吸入された。大気もないのにどうやったんだ、という疑問が頭脳回路を掠めた。
内部に入って、その理由が解った。クリュスタリオンの歯の隙間に身をねじ込んだイグニスは、引力を感知した。
クリュスタリオンの口は消化器官に直結しており、肉体が透き通っているので、体内構造が目に見えて解った。
嫌悪感を催す形状の口の下には胃と腸に当たる消化器官があり、奥には心臓と思しき中核が光を放っていた。
生物らしく、鼓動のように光を点滅させているのだが、光が強くなった瞬間に体が引き摺られそうになったのだ。
つまり、生まれながらにして重力を操る術を持っている生物なのだ。生命構造は原始的だが、変に進歩している。
だが、それが解ったからと言ってどうなるのだ。イグニスは仰け反った姿勢のまま、事態の打開するべく考えた。

『セオリー通りに考えたら』

 イグニスは歯を一本折ると、レーザーナイフで表面を削ってサイズを整え、左腕のリボルバーに装填した。

『こうやるのが道理だよな?』

 リボルバーを左肩に戻したイグニスは、光学兵器でも火薬でもなくハンマーを使用して歯の弾丸を発射した。
慣れない物体を射出したために銃身の内部が擦れ、飛び出した瞬間には軽い痛みと共に火花が飛び散った。
同じ歯を砕きながら放たれた弾丸は、一直線に消化器官に向かい、内壁を呆気なく貫くと、心臓へと到達した。
歯の弾丸が着弾すると、球状の心臓の表面に大きな弾痕が生じ、その部分から細かな裂け目が出来ていった。
途端に凄まじい高出力のノイズを撒き散らしたクリュスタリオンは、歯が折れるほど口を開閉させ、痛みに悶えた。
その隙に体外へと回避したイグニスは、大量のスクラップにまみれながら暴れるクリュスタリオンを見下ろした。
痛みのあまりに身を捩っているらしく、ぎしぎしと結晶体が擦れ、歪み、軋み、ついには棘の下の表面が割れた。
隙間から閃光を迸らせた珪素生物は、一際高出力の高周波を放っていたが、ヒビが全ての六角柱に広がった。
そして、爆砕した。その瞬間に結晶体も粉々に砕けて無数の弾丸のように降り注ぎ、スクラップや岩石を貫いた。
三人はそれぞれに退避し、無傷だった。イグニスは内側に傷の付いた銃身を気にしつつ、青き友人を見やった。

『この野郎…。よくも俺を餌にしてくれたな』

『さすがは我が友人だ、イグニス』

 満足げなトニルトスに、イグニスは銃口を据えた。

『まずは誠心誠意謝りやがれ、でもってブリたんを犠牲にした俺の心を労りやがれってんだよ屈辱野郎!』

 怒りに駆られたイグニスが退避姿勢を取ったトニルトスに掴み掛かろうとした瞬間、ガンマが叫んだ。

〈近隣宙域にワープアウト反応を確認! 敵影、二十八!〉

「どういうことだ?」

 マサヨシが目を剥くと、ガンマは平坦に返した。

〈先程のクリュスタリオンが太陽系へ至るために用いたワープゲートは縮小していましたが、消滅しておらず、空間超越作用は健在だったようです。そのワープゲートを通じて、クリュスタリオンの群れがアステロイドベルトへと〉

「もういい、解った」

 マサヨシはガンマを制してから、浅く息を吸い、深く吐いた。

「だったら、戦うまでだ」

 三人の周囲の空間が歪むと、先程爆砕したクリュスタリオンに酷似している珪素生物が、二十八体出現した。
大きなもの、小さなもの、六角柱の数が少ないもの、多いもの、色が違うもの、既に体に閃光を漲らせているもの。
今し方死した仲間の高周波を聞きつけたのだろう、皆が皆、絶え間なく高周波を発し、通信電波は掻き乱された。
こんな状態では、一番近い木星基地への救援申請も行えない。それどころか、緊急信号すら発せられないだろう。
だが、ここで食い止めなければ大事になる。マサヨシが操縦桿を握る手に力を込め、赤と青の戦士に強く命じた。

「イグニス、トニルトス。存分に暴れろ!」

『最高の命令だぜ、小隊長どの』

 イグニスは拳を固め、手のひらに打ち付けた。

『二時間以内に戦闘を終了させなくては。プリシラ・ストームのセカンドライブ完全生放送に間に合わなくなるのだ』

 至極真面目に言い放ったトニルトスに、イグニスは戦闘中ながらも本気でげんなりした。

『まーたアイドルかよ。んで、今度はどんなのだ?』

『彼女は天使だ。わざとらしい語尾も媚びすぎた言動も時代遅れの衣装も、何もかもが魅力的なのだ』

『一生やってろ、このドルオタ!』

 イグニスはトニルトスに毒突いてから、発進した。トニルトスもそれに続いたが、妙にテンションが上がっていた。

『はははははははは! 今宵も愛らしき歌声を宇宙に響かせてくれたまえ、愛しの天使、プーにゃんよ!』

「プーにゃん、か…」

 マサヨシはトニルトスが執心しているアイドルの愛称に、顔を引きつらせた。彼が言うと、なんだか気色悪い。
プリシラ・ストームとは、最近テレビ番組でちらほらと聞く名前だ。確かに可愛い少女だが、商売戦略が変だった。
まず、衣装がフリフリだ。ミイムがヒエムスに作るロリータファッション顔負けの、フリルとリボンのドレスばかりだ。
そして、言動が変だ。プーにゃんとはプリシラの一人称であり、語尾には常ににゃんを付け、媚びたポーズを取る。
あまりにも突き抜けた言動が多いので、すっかりイロモノキャラ扱いされてしまい、アイドルとしての評価は低い。
実際、歌も下手でダンスも今一つ冴えない。考えてみれば、キャロライナ・サンダーも素人臭さが抜けなかった。
トニルトスは、そういった拙い部分にそそられるのだろう。だが、マサヨシには彼の趣味は未だに理解出来ない。
 だが、今はそれどころではない。マサヨシはセンサーに浮かび上がる二十八の敵影を見定め、唇を引き締めた。
クリュスタリオンは移動し、等間隔を取って三人を取り囲むと、均整の取れた動きで六角柱の先端を向けてきた。
こんなところで、負けるわけにはいかない。マサヨシは操縦桿を倒し、ペダルを踏み、愛機を軽やかに踊らせた。
 レモンパイを、皆で食べるために。




 そして、三人は無事生還した。
 家に帰った頃には日が暮れていて、薄暗くなっていた。マサヨシは疲れた体を引き摺りながら、家を目指した。
イグニスとトニルトスはカタパルト内のメンテナンスドッグで、簡単な整備と補給を行うと言い、同行しなかった。
実際、クリュスタリオンとの戦いは消耗戦だった。通常の光学兵器が効かないので、いちいち面倒な戦闘だった。
普段なら後方支援を行うだけのHAL号も、人員の少なさ故に最前線に出て、かなり無茶な接近戦を繰り返した。
こんなことなら機動歩兵のHAL2号も積んでくるんだった、と途中で何度も思ったが、一人でも抜けたら敗北する。
それが解っていたので、なんとかHAL号だけでその場を凌ぎ、イグニスとトニルトスも手傷を負ったが無事だった。
軍部への報告書を書くのは、一眠りしてからだ。料理と戦闘による疲れが、全身にずっしりとのし掛かっていた。
ガンマも気を遣っており、スパイマシンはマサヨシから離していた。そして、ようやく家の窓明かりが近付いてきた。

「あ、パパ!」

 玄関から出てきたウェールは、マサヨシに駆け寄ってきた。

「お帰りなさい! おじちゃんとトニーちゃんは一緒じゃないけど、大丈夫なの?」

「ただいま、ウェール。二人とも無事だ。だが、外装をちょっとやられたんで、修理しているところだ」

 マサヨシはウェールの頭を撫でてから、長女の手を引いて歩き出した。

「あのね、パパ。今日の夕ご飯はね、皆でミイムママのお手伝いをしたんだよ!」

 得意げなウェールの笑顔を見た途端に、マサヨシは鉛のように重たい疲労が溶けていき、笑顔を返した。

「そうか、それは楽しみだな」

 長女を連れて帰宅したマサヨシは、まず皆に無事を伝えるべくリビングを覗くと、二人以外の皆が揃っていた。
皆が囲んでいるリビングテーブルの上には、マサヨシの渾身の力作である不格好なレモンパイが鎮座していた。

「でもね、おやつが先なの」

 にんまりしたウェールに背を押され、マサヨシはリビングに入った。

「お帰りなさいですぅ、パパさん」

 ヒエムスを膝に載せていたミイムは、マサヨシに笑顔を向けた。

「お帰りなさいっす、マサ兄貴。レモンパイ、結構良い感じに仕上がったっすよ」

 彼の向かい側に座るヤブキが言うと、彼の胸に収まっているアウトゥムヌスもマサヨシを見上げた。

「お帰りなさい、お父さん」

「ご無事で何よりです、父上」

 ソファーに座っているアエスタスは、背筋を伸ばして敬礼した。マサヨシは、次女に敬礼を返す。

「ああ。ちょっと手こずったがな」

「ねえパパ、あのレモンパイはパパが作ったんだよね?」

 ウェールが三人掛けのソファーに座ったので、マサヨシもその隣に座った。

「だが、正直言って戦闘の方が楽だったな。やっぱり、俺は料理は苦手だ」

「なぜ、作ろうとお思いになったのですか?」

 アエスタスは表情こそ変えなかったが、声色には好奇心と期待が垣間見えた。

「なぜ」

 アウトゥムヌスは一刻も早く食べたいらしく、視線をレモンパイに注いでいた。

「それを教えて下さらないと、今日の御夕飯が始められませんわ。だって、御夕飯はおやつの後なんですもの」

 興味津々に、ヒエムスは身を乗り出してきた。

「レモンパイは、サチコが初めて作ってくれたものなんだ」

 マサヨシは愛妻の名を口にし、自然と頬を緩めた。

「だから、お前達にも食べさせてやりたいって思って作ったんだが、なかなか上手くいかなくてな。ミイムとヤブキのおかげで、なんとか食べられそうなものが出来たんだ。良かったら、食べてみてくれ」

「そうと解れば、さくっと切り分けるですぅ」

 レモンパイの横に準備されていたケーキナイフを取ったミイムは、慣れた手付きで切り分けて、八等分にした。
小皿に取り分けられたレモンパイも皆に行き渡ったので食べ始めたが、それぞれの一口目の反応は違っていた。
マサヨシは思い出と全く同じ味に苦笑し、ミイムは首を傾げ、ヤブキは普通に食べ、ウェールは虚空を凝視した。
アエスタスは顔を歪めたが平静を保ち、アウトゥムヌスは大きく切り分けて強引に食べ、ヒエムスは手を止めた。
 最初に口に訪れた味はメレンゲの甘みとカスタードクリームの甘みだったが、クリームの味に違和感があった。
レモンパイと言うからには混ぜ込まれているレモンの酸味とは言い難い、やけに人工的な酸味が舌を刺してきた。
ミイム手製のパイ生地とメレンゲには問題はないのだが、クリームが変だ。レモンと言い切るには、薬臭すぎる。

「父上…これは…」

 洋菓子には有り得ない薬臭さにアエスタスが口元を歪めると、マサヨシはレモンパイを切り分けて口に運んだ。

「カスタードクリームに、ビタミンCのサプリメントの粉末が入っているんだ。一応、レシピではレモンだと書いてあったんだが、思い出してみるとどう考えてもその味だったんだ。だから、入れてみたんだが、やっぱり不味いな」

「だからってまともに再現することないじゃん…」

 うー、と舌を出したウェールに、マサヨシは笑った。

「すまん。だがな、これがあの頃のサチコの精一杯だったと思うと、微笑ましくてたまらないんだ」

「お母様ってば、味音痴にも程がありますわ。ついでに言えば、お父様のベタ惚れ加減もどうしようもありませんわ」

 ヒエムスはそれ以上手を付けることもなく、九割以上残ったレモンパイをテーブルに戻した。

「仕方のないこと。だって、お母さんだから」

 真っ先に食べ終えたアウトゥムヌスは、空になった皿とフォークをテーブルに置いた。

「ま、愛の結晶には違いないっすけどね」

 ヤブキの無難な感想に、ミイムは頬を引きつらせた。

「でもぉ、いくらなんでもこれはないと思いますぅ…。パパさんがレモン汁に何か入れてるなーって思いましたけどぉ、まーさかこんなトンデモな物体だとは思ってもみなかったですぅ。まあ、カスタードクリームをきちんと味見しなかったボクもボクですけどぉ…」

〈ですが、効率的ではあります〉

 マサヨシの背後に浮かぶガンマが発言したが、それは、在りし日のサチコが言いそうな言葉だった。

「他にもまだまだあるんだぞ? サチコのとんでもない料理はな」

 マサヨシは、事も無げに薬臭いレモンパイを食べ終えた。

「ニンニクとショウガの効いたクリームシチューだの、リンゴとバナナだけが入ったカレーだの、砂糖が一切入っていない上に黒焦げのケーキだの、茹で卵が丸々入ったプリンだの、痛いくらい辛いハンバーグだの…」

「もしかして、それ、全部作るつもりだったりしちゃったりするんですかぁ?」

「希望とあれば作ってやるが? 但し、俺の味はサチコよりももっとひどいと思うがな」

 おずおずと声を掛けてきたミイムに、マサヨシはにやりとした。

「全力でお断りさせて頂くっす、マサ兄貴」

 ヤブキが躊躇いもなく土下座したので、マサヨシは吹き出した。

「冗談だ。だが、サチコにもダメなところがあったことを知っていて欲しかったんだ。お前達はサチコのことは情報として知っているが人間としては知らないからな。このままだと、お前達の中のサチコは、完全無欠の聖母にでもなりかねないと思ったんだ。だが、それはサチコという人間ではなく、お前達が理想とするサチコなんだ」

 マサヨシは、愛妻の遺伝子を濃く継いだ四姉妹を見渡した。

「だから、これからゆっくり話してやるさ。サチコのことも、昔の俺のことも」

 サチコとマサヨシが共有した時間は、互いの人生のスパンで考えれば僅かな時間だが、だからこそ大切だった。
その時間を切り取り、娘達に分け与えなければならない。自分にしか出来ないことであり、サチコのためでもある。
そして、娘達のためでもある。薬臭いレモンパイは、その一端に過ぎない。時間を掛けて、娘達に与えていくのだ。
 父親らしく、と考え込んでいる間は父親らしく出来るわけがない。そのことに気付いたのは、娘が増えてからだ。
偽物の娘だと思い込んでいたハルには、どうしても出来なかったことも、皆が本物の娘だと解った今なら出来る。
サチコとの思い出を与え、心からの愛情を伝えてやる。そのためにも、これからも戦っていなければならないのだ。
クリュスタリオンには辛くも勝利したものの、次は解らない。五つの次元が統合した次元の未来は、誰も知らない。
だから、手探りで進む他はない。四姉妹の子育ても、教官としての仕事も、結び付きの強くなった家族との日々も。
 人生とは、そういうものだ。







08 12/4