結局、目的地は決められなかったので、決めなかった。 マサヨシの手に引かれて歩くだけで、サチコは息が詰まりそうだった。可愛いと言われたのは、初めてだった。 子供の頃も可愛気はなく、顔立ちもきつく、背も高いため、可愛らしいと言われるような服装すらしたことがない。 サチコと親しくしてくれる同性の友人、ステラ・プレアデスとレイラ・ベルナールから、戯れに言われることはある。 だが、それは飽くまでも同性の目線からの、可愛い、であり、異性の目から見た可愛らしさとは全く意味が違う。 真面目すぎて融通が利かない性分や、脳を酷使するために糖分摂取量が多い点を指した、愛嬌と同意義語だ。 しかし、先程のマサヨシのそれは違った。自分の不甲斐なさを悔いるあまりに照れたサチコを、愛でていたのだ。 それで、ようやく確信を得ることが出来た。マサヨシは上っ面だけでなく、本当にサチコのことを好いているのだと。 そして、サチコも自覚した。些細なことで過剰に反応してしまう自分も、想像以上にマサヨシを好いているのだと。 シネマシアターのある大通りを抜けて海岸線沿いに走るリニアラインに乗車した二人は、並んで座席に座った。 昼下がりと午後の間という中途半端な時間なので乗客の数は少なく、海水浴シーズンでもないので尚更だった。 太陽系から派生したコロニーや移民宇宙船の暦と季節は統一されているので、ウィンクルム号と全く同じだった。 夏が終わり、秋が始まっていた。時間の流れに合わせて傾いた日差しは柔らかく、無数の波を白く煌めかせた。 リニアラインを下車し、駅を出ると、潮風が緩やかに吹き付けた。サチコは乱された髪を押さえて、目を細めた。 マサヨシはサチコの後に続き、海を見下ろした。地球に存在していた海を模したそれは、空の青さを吸っていた。 このコロニーは完全な平面なので、実際の惑星の海のように丸みはなかったが規模の大きさは素晴らしかった。 もっとも、サチコもマサヨシも本物の海を見たことはない。太陽系内の、海洋プラントコロニーを見学した程度だ。 それでも、生物の本能に訴えかけてくるものはある。紛い物でも、生体改造体であっても、海は生命の母なのだ。 「こんなものを見ちまうと、船に戻る気が失せそうだな」 マサヨシは海を見下ろし、感嘆した。 「ですが、私達の任務は重大ですので」 サチコが返すと、マサヨシは笑みを零した。 「解っているさ。俺は船長だからな」 そして、マサヨシは手を差し伸べてきた。サチコは彼の手に手を伸ばし、触れた。 「では、今度はどちらへ」 「砂浜に降りるのもいいが、高いところに行くのも悪くないよな」 マサヨシは、海岸線の先にある岬に立つ展望台を指した。 「はい」 サチコが頷くと、マサヨシは歩き出した。やはり彼は歩調を緩めていて、サチコの足取りに合わせてくれていた。 展望台までの距離はそう遠くなく、十五分ほど歩けば到着出来そうだった。ささやかな潮騒が、風音に混じった。 相変わらず、マサヨシの手は熱かった。サチコの手はその手に包まれているだけで、握り返してはいなかった。 力強い手なのに、手付きは優しかった。その優しさに身を委ねていると思うだけで、安心感が深みを増していく。 それなのに、もっと縋ってしまいたい気分になる。サチコは彼の手に掴まれている指を曲げて、その指を握った。 すると、マサヨシは不意に足を止めた。いけなかったのだろうか、とサチコは少し戸惑いながら立ち止まった。 マサヨシはサチコに一度振り向いてから、また前を向いた。そして、今度は先程よりも少し強く握り締めてきた。 「どこまで力を入れればいい?」 マサヨシから強張った口調で問われ、サチコは小さく答えた。 「もう少し強くても、構いません」 「君も構うな。その方が、ずっといい」 「はい」 サチコは頷き、マサヨシの手を握り締めた。彼の手の力も強まって、手の中だけだったが隙間がなくなった。 ただ、それだけのことなのに、強張っていた頬が緩んだ。半歩ほど歩調を早めて、彼との間隔も狭めてみた。 待ち合わせた当初に感じた躊躇いは、もう感じなかった。それどころか、マサヨシに近付きたいと思っていた。 けれど、言葉遣いだけは崩せそうにない。そうするべきなのだと思えるようになったが、勇気が足りなかった。 展望台への道程は、短いようで長かった。 海を一望する展望台も、人気はなかった。 展望台の中にはコロニーの歴史と構造を示すホログラフィーモニターが設置され、映像を延々と流していた。 だが、それを見る者はいなかった。サチコもマサヨシも、見慣れない海の光景と夕暮れの街並みを眺めていた。 宇宙船内では決して見ることの出来ない景色の数々は、星空とは違った意味で美しく、安堵感を与えてくれた。 外の暗さに合わせて展望台のライトも落とされており、足元のダウンライトだけがオレンジ色の光を放っていた。 オフシーズンだからか、それとも時間帯のせいかは解らないが、展望台の客のはサチコとマサヨシだけだった。 それがありがたいようでいて、やりにくさも感じたが、どうせなら状況を楽しもうとサチコは開き直りつつあった。 「肩、いいか」 マサヨシから控えめに声を掛けられ、サチコは了承した。 「構いません」 すると、サチコの肩にマサヨシの手が回され、引き寄せられた。右肩と背中に、服越しの体温が伝わってくる。 左肩を包み込む手は、やはり大きい。手を握り合った時の安心感よりも強く、少しだけ激しい感情が胸に迫る。 「サチコ」 穏やかに名を呼ばれ、サチコは顔を上げた。 「なんでしょうか」 「なんでもない。ずっと、君とばかり呼んでいたから、その穴埋めってわけじゃないが」 「私は気にしておりません」 呼ばれるだけで、満たされるのだから。サチコが首を横に振ると、マサヨシはサチコの背に覆い被さってきた。 体の前に腕が回され、腰にも太い腕が回された。一気に鼓動が跳ね上がり、サチコは頬が熱くなるのを感じた。 「あ、あの」 「不思議だ」 「あの、何が」 サチコが混乱していると、マサヨシはサチコの肩に顔を埋めてきた。 「サチコが俺の腕の中にいるんだぞ? 少し前なら、考えられなかったことだ」 「はい…」 暴れる鼓動が聞こえやしないかと不安になりながら、サチコは細く返した。 「手にも、肩にも、髪にも手が届くんだ。こんなに嬉しいことはない」 マサヨシの骨張った指がサチコの黒髪を一束持ち上げ、親指で毛先を丁寧に撫でた。 「手が届いたから、サチコの髪がこんなに良い匂いがするって解ったんだ。それもまた、物凄く嬉しい」 「そう、ですか?」 「サチコの方は、どうなんだ」 「えっと…」 サチコは体に回されたマサヨシの腕に、慎重に手を添えた。 「船長は、立派です。手も、体も、私に対する対応も、全て」 「他には?」 「う…」 答えられることがなく、サチコは声を詰まらせた。背中越しに感じるマサヨシの体温に、溶かされてしまいそうだ。 それよりも先に、内側から溶けて消えるかもしれない。鼓動が痛いほど激しすぎて、頭痛と間違えそうなほどだ。 だが、頭痛とは違う苦しさだ。あれはとても疎ましい苦しさだが、この苦しさは感じていたいと思える苦しさだった。 苦しいのだが、苦しくない。嬉しすぎて息が詰まってしまうのと同じように、満たされすぎて溺れてしまいそうなのだ。 だから、どうしようもなく苦しい。ついこの間まで虚ろだった心の中に、彼が流れ込んできて、隅々まで浸食される。 「あなたに、溺れてしまいそうです」 目眩と錯覚しそうなほどの恋しさに任せ、サチコは呟いた。 「…やばいな」 マサヨシは顔をしかめ、至極真剣に言った。 「本当に任務放棄したくなってきた」 「えぇ!?」 サチコが動揺して目を見開くと、マサヨシはサチコから腕を外し、背を丸めて顔を押さえた。 「すまん、暴言だ。何言ってんだ俺は、マジでどうしようもねぇなおい…」 「あの、私、また何か…」 妙な罪悪感に駆られたサチコがマサヨシに近付くと、マサヨシはサチコの手を取り、ぐいっと引き寄せた。 「してもいいか? どうにも我慢出来そうにない」 その意図を察したサチコは、瞼を下げた。すぐさま体に腕が回されて、先程よりも荒い動作で抱き締められた。 そして、唇に少し冷たいものが重ねられた。顎を押されて呆気なく歯を開かされると、隙間から舌が滑り込んだ。 やはり、どうしたらいいのか解らず、サチコはされるがままになった。解放された頃には、息が上がってしまった。 サチコを離したマサヨシも息を荒げていて、手の甲で口元を拭った。サチコも口元を押さえ、また足元を見つめた。 二人の間に、妙な緊張が流れた。どちらも上気した気持ちと体を持て余していたものの、距離と均衡を保っていた。 五分以上経過した後、マサヨシが先に動いた。感情に任せた言動に自己嫌悪に駆られてしまい、肩を落とした。 そのまま手近なベンチに崩れ落ちたマサヨシに、サチコはどうするべきか考え抜いた末、とりあえず隣に座った。 「度々すまん」 深々と頭を下げてきたマサヨシに、サチコは困惑しながら否定した。 「いえ、船長に非はありません」 「本当にそう思うか?」 マサヨシに詰め寄られ、サチコは身を下げ、目線を揺らした。 「えっと…」 ないわけではない、と判断出来る。しかし、それを明言してしまうのはどうかと思った。相手は、船長だからだ。 だが、今は船長でもなければ少佐でもないのだ。二度も言われたことを思い返してから、サチコは考え直した。 「やりすぎだと、思います」 サチコが実直な意見を述べると、マサヨシは嘆息した。が、すぐに笑った。 「だろうな」 「ですが、私も言い過ぎました。なんであんな恥ずかしいことを…」 「それは俺も同じだ。柄でもないことを言い過ぎて、頭の中が煮えちまいそうだ。いや、絶対に煮崩れている」 「今日のところは、帰還しませんか。時間も遅くなりましたし」 「賢明だ」 マサヨシは立ち上がろうとしたが、ジャケットの裾が引っ張られた。振り向くと、サチコが裾を掴んでいた。 「ですが、まだ未遂の事項があります」 ジャケットを握る手には、力は全く入らなかった。それどころか、緊張のあまりに手が細かく震える始末だった。 マサヨシが軽く引っ張れば、すぐに解けてしまうだろう。ただこれだけの動作なのに、緊張しすぎて息苦しかった。 彼の表情を見ることも出来ず、前を見つめていた。コロニーの夜景は、銀河系の星々に似た輝きを放っていた。 「もう少し」 一度息を呑んでから、サチコは言い切った。 「もう少し、あなたの傍にいさせて」 ただ、それだけのことを言っただけなのに、目頭が熱くなった。眩い夜景が歪み、目尻から体液が滲み出した。 たった数秒間の沈黙が、永遠のように長く感じられた。裾を掴んでいる手から力が抜けてしまい、指が滑った。 ベンチに叩き付けられるはずの手が、熱いものに受け止められた。見ると、マサヨシがサチコの手を取っていた。 「やっと、我が侭を言ってくれたな」 マサヨシはサチコの傍に座り直すと、安堵の笑みを浮かべた。 「敬語も止めてくれた。だが、後一つだけ残っているぞ」 「でも…そんな…」 サチコが目元を拭おうとすると、マサヨシはその手を掴み、止めさせた。 「サチコ。愛している」 「私も」 彼の手を振り解いたサチコは、その手を両手で握り締めた。そうでもしないと、声が出せなかった。 「あなたを愛しているわ、マサヨシ」 それを言い終えたサチコは、全身の力を抜くように息を吐き出し、マサヨシの胸に寄り掛かって目を閉じた。 「だから、まだ船には戻りたくないの。あなたが、船長に戻ってしまうから」 背中に手が回され、抱き寄せられる。だが、手探りだった最初とも荒々しかった二度目とも違い、柔らかかった。 厚い胸に体を収め、間近に彼を感じた。また涙が出そうになったが、これもまた先程とは違った意味の涙だった。 マサヨシと出会うために生まれてきたのだと、心の底から思えた。明確な根拠はないのに、強烈な確信を持った。 「船の消灯時間までは、まだ時間がある。それまでは、俺は船長でも少佐でもない」 マサヨシの言葉の一つ一つに、サチコへの愛情が詰め込まれていた。 「サチコ。君の恋人だ」 「マサヨシ」 サチコはマサヨシの胸に縋り、幸福を噛み締めた。 「あなたに出会えて、本当に良かった」 長い間、がらんどうだった胸の内が埋まっていく。そして、ようやく形を成してきた心の隅々まで彼に満たされる。 マサヨシと触れ合うたび、言葉を交わすたび、思いを伝え合うたび、欠落していた部分が補われていくのが解る。 今までのサチコは、マサヨシがいなかったから空虚だった。知識だけを脳に蓄積させた、感情のない人形だった。 心を見つけ出し、揺さぶれる手は、マサヨシの手だった。だから、自分自身では触れることすら出来なかったのだ。 きっと、この人と添うのだ。根拠も理由もなかったが、先程と同じように確信したサチコは、マサヨシにキスをした。 マサヨシもそれに応えてくれ、愛を交わした。どちらからともなく笑みを零し、体を寄せ合い、互いの思いを感じた。 幸せの意味を、理解出来た瞬間だった。 08 12/8 |