休憩を兼ねた昼食の間に、次の目的地を選ぶことにした サチコには、本当に行きたいところなどなかった。これといって欲しいものがないので、買い物に行く必要はない。 かといって、テーマパークには行きたいとも思わない。動物園、水族館、博物館、などにも興味を惹かれなかった。 マサヨシは事前にコロニーのことを調べたらしく、次から次へと出してくれるが、どれにすればいいか解らなかった。 幼い頃から遊ぶことをほとんどしなかったために、何をどうすればいいのか皆目見当が付かないせいでもあった。 マサヨシに一任すると進言したが、サチコの意見をとにかく尊重したいらしく、自分からは言い出そうとしなかった。 それが嬉しくもあり、また非常に困ったことでもあった。そうこうしているうちに、一時間以上が経過してしまった。 カフェテラスの一角で、二人は向かい合って座っていた。二人共、コーヒーは二杯目で、それも冷めつつあった。 マサヨシは情報端末から展開したホログラフィーを見つめながら、何がいいのか、いつになく真剣に選んでいた。 サチコは砂糖を入れすぎて重たいほど甘ったるくなったコーヒーを啜って、意見を言えない自分に恥じ入っていた。 「申し訳ありません、船長」 「いや…」 マサヨシは髪を掻きむしり、口元を引きつらせた。 「事前に君の好みを聞き出さなかった俺の不手際だ、君が謝ることはない。大体、デートってものは男に主体性が求められるものだ。それなのに、この体たらくとはなぁ…」 「ですが、クロウ大尉からの情報に寄りますと、船長には女性経験がお有りのはずでは」 「あの野郎、何を余計なことを!」 急に声を上げたマサヨシは、椅子を蹴り倒しかねない勢いで立ち上がったが、すぐに座り直した。 「出来れば知られたくなかったんだが、知られているものはどうしようもないな」 「私が知っていることで、何か支障が出るのですか」 「君の方に問題がないのなら別に良い、いや、絶対に良くないんだが、なんというか、俺はそういうつもりじゃないというか、すまん、まとまらない。ああくそ、どうしてこう俺は…」 「船長?」 マサヨシの困惑ぶりに気が咎めたサチコが声を掛けると、マサヨシは額を押さえて項垂れた。 「嫌だと思わないのか、そういうことを。気に病んだら悪いと思ったから、知られたくなかったんだが」 「いえ」 サチコは膝の上で重ねた手を、握り締めた。 「船長こそ、私を疎ましく思われないのですか」 「まさか」 マサヨシは額から手を外し、サチコに目を向けた。 「それはむしろ、俺に対しての評価だと思うがな。デートに誘ったはいいが、そこから先が全然ダメだ。君に楽しんでもらいたくて、色々と考えた末に映画にしたんだが、結局楽しんだのは俺だけで…」 「申し訳ありません」 「謝らないでくれ。全部、俺がいけないんだ」 こんなに弱り切ったマサヨシを見るのは、初めてだ。船長に相応しい態度で振る舞う彼しか知らなかったからだ。 或いは、エースパイロットとしての誇りと自信に満ちた青年将校としての顔しか知らなかったので新鮮ではあった。 だからこそ、やるせなくなった。そんな彼を困らせただけでなく悩ませてしまった自分は、厄介なだけでしかない。 「とりあえず、話をしよう。まずはそれからだ」 マサヨシは気を取り直し、サチコに向き直った。 「解りました。では、何から」 サチコも佇まいを直すと、マサヨシはナプキンスタンドから紙ナプキンを一枚抜いてサチコの前に出した。 「名前の綴りを教えてくれ。俺も教える」 「ですが、それは既に搭乗員名簿に記載されておりますが」 「だが、第一公用語の綴りじゃなくて、ニホンゴの方で頼む。俺のもそうだからな」 「そうなのですか?」 「気付かなかったのか? 俺も生体改造体なんだが、なんでも、俺の元になった遺伝情報は種族間戦争で凄まじい活躍をした旧人類側のエースパイロットだったらしいんだ。まあ、俺の生体情報は完全な新人類のそれに修正されているんだがな。その男の名前が、マサヒロ・ムラタというんだ。血縁関係は全くないが、遺伝子上では親子にも近い関係だからってことで、俺もその名前に似た名前にされたんだ。ちなみに、こういう字を書くんだ」 ウェストバッグからペンを取り出したマサヨシは、紙ナプキンに画数の多い字で名を書いた。村田正義。 「君も、ファーストネームはニホンゴなんだろう?」 コーヒーカップの傍に差し出された紙ナプキンを見下ろし、サチコはマサヨシから渡されたペンを握った。 「はい」 正義の名の隣に、サチコも指示通りに名を書いた。幸子。 「これでよろしいでしょうか」 サチコがペンと紙ナプキンをマサヨシの前に戻すと、マサヨシはその名を見つめた。 「そうか、こういう字なのか」 「ですが、私はあまり好きではありません」 サチコは、素っ気なく返した。時代遅れで古臭い響きの名前を好きになれと言う方が、まず無理な話だった。 それ以前に、サチコ・パーカーという名は戸籍を与えられた際に付けられたものであり、個体識別番号と同じだ。 この名には、意味も込められていなければ理由すらない。その意味も理由も、知りたいと思ったこともなかった。 それを調べたところで、何がどうなるわけでもない。自分という存在に意味が与えられるわけでもないのだから。 「そうか?」 マサヨシはサチコの書いた二つの古めかしい文字を眺め、生乾きのインクに触れた。 「俺は好きだがな」 「なぜそう思われるのですか」 「俺はこの字を知っている。自分の名前の意味を調べている最中に見たんだ、これと同じやつをな」 マサヨシは黒いインクが付着した指先で、幸、の字を示した。 「幸せ、なんだそうだ」 「では、船長のお名前はどういう意味があるのですか」 サチコが尋ねると、マサヨシは若干気恥ずかしげに返した。 「読みを違えると、セイギになるんだそうだ。つまり、ジャスティスだ。青臭くて嫌になっちまうが」 「良いお名前ですね。船長にお似合いです」 サチコが感想を述べると、マサヨシはサチコの目線を戻し、笑った。 「君には負けるさ」 その笑みを見て、サチコは視線を彷徨わせた。褒められたのだろう。だが、それを素直に受け取れなかった。 嬉しいのだが、どうやって返せばいいのか解らなかった。笑みを浮かべようとしても、緊張で頬が強張っていた。 笑みを向けられたのだから笑みを返さなくては、と義務感にも似た思いに駆られていたが、行動に移せなかった。 「君は、俺の何を知りたい?」 マサヨシから問い掛けられ、サチコは意識を戻した。 「解りません」 「なんでもいいから、言ってみてくれ」 「ですが…」 サチコは迷い、唇を噛んだ。マサヨシに対して問いたいことは多いが、特に大きい案件が一つあった。 「では、お聞きします」 背筋を伸ばしたサチコは、仕事上の報告を行う際と全く同じ顔を作った。 「なぜ、私に好意を抱いて下さったのですか」 「俺の方こそ、君に聞きたいよ。何がどうして俺を好きになってくれたのか、さっぱりなんだ」 マサヨシは、椅子に背を預けて足を組んだ。 「だが、俺の方はいくつか心当たりがあるんだ」 「よろしければ、お答え頂けませんか」 「あ、うん、だがな…」 マサヨシは途端に弱り、しばらく黙っていたが、意を決して言った。 「なんだか、君が危なっかしかったんだ。だから、気になっちまったというかで」 「具体的にお願いします」 「そうだな…」 マサヨシは込み上がってくる照れを押し込めつつ、話した。 「次元管理局で最初に会った時はそれほど気にならなかったんだが、第一次定期補給休暇の時に、ひどい頭痛でぶっ倒れていただろう? 君のことを一人の女性として意識したのは、その時だと思う。名前で呼んでも構わない、なんてことを言われちゃあな」 「私、そんなことを言いましたか?」 あの日は特に頭痛がひどかったので、記憶が曖昧な部分がある。サチコが目を丸めると、マサヨシは頷いた。 「言ったぞ。だから、それからは俺は君のことを名前で呼ぶようにしたんだが」 「はあ…」 サチコは、ため息に似た声を漏らした。第一次定期補給休暇以降、彼との距離が縮まった理由がやっと解った。 急に名前で呼んでくるようになったので何があったのだろうと思っていたが、他でもない自分が原因だったらしい。 考えてみれば、サチコがマサヨシを意識するようになったのも、ファーストネームで呼んでくるようになったからだ。 だから、思い上がった末に恋愛感情を報告してしまった。切っ掛けが彼にあったと思っていたからこそ、出来た。 しかし、そうではなかったのだ。サチコは事実を理解していくに連れて、強烈な羞恥に襲われ、項垂れてしまった。 「私…なんて失礼なことを…」 「いや、気にするなサチコ、勘違いした、というか、俺の方が勝手な解釈をしただけであってだな!」 首筋まで真っ赤になったサチコに、慌てたマサヨシは腰を上げた。 「それに、そのおかげで俺と君はこういうことになっているんだから、君がそこまで照れることはないんだ!」 「ですが…」 サチコはこの場から逃げ出したい衝動をなんとか堪え、身を縮めた。 「ああもう…どうすりゃいいんだ…」 マサヨシは照れているサチコの姿を見ているうちに、自分も無性に照れ臭くなってきた。 「可愛いじゃないか、物凄く」 「は、い?」 思い掛けない言葉にサチコが耳を疑うと、マサヨシは照れを誤魔化すために語気を強めた。 「だってそうじゃないか! 無意識も同然の言動だったとはいえ、あれは不意打ちだ!」 マサヨシの怒気にも似た語気に負け、サチコは僅かに声を震わせた。 「そんなに言わないで下さい…。恥ずかしいじゃ、ないですか」 「どこがだ」 「船長とは親しい間柄でもなかったのに、あのような、子供染みた甘えを言ってしまったのですから」 「それが可愛いんだ。ついでに今も」 「はあ…」 マサヨシの言い分が今一つ理解出来ず、サチコは曖昧に返した。 「どうすりゃいいんだ、本当に」 弱り果てたマサヨシは、本音を零した。 「ますます君を好きになっちまうじゃないか」 独り言のように吐き捨てられた言葉だが、いつまでも耳に残った。そんなに、彼を困らせてしまったのだろうか。 それがひどく情けなく、申し訳ないようでいて、なぜか嬉しいとも思った。だが、今だけは羞恥心に勝てなかった。 サチコがひどい照れから回復し、マサヨシが平静を取り戻すまで、それからまた大分時間が掛かってしまった。 間を繋ぐためにまたコーヒーをお代わりし、一時間遅れでデザートを注文すると、二人はそれを作業的に食べた。 マサヨシも時間が経つと自分が何を言ったのか自覚したようで言葉少なになり、ひたすらチーズケーキを食べた。 サチコもシナモンの効いたアップルパイを食べながら、照れすぎた自分を恥じ入るあまりにまた照れそうになった。 だが、また照れてしまうと堂々巡りに陥りかねなかったので、サチコは精一杯の理性で照れ臭さを押さえ込んだ。 アップルパイの味は、解らなかった。 08 12/8 |