豪烈甲者カンタロス




第四話 剥がれた虚勢



 私は強い。セールヴォランは強い。
 吐き気を催すほど白い天井を濁った瞳に映しながら、桐子はそれを何百回、何千回と頭の中で反芻していた。
全身に付着していたセールヴォランの体液は洗い流され、痛みのあまりに出てしまった吐瀉物も除去されていた。
セールヴォランと繋がっていた神経糸は全て引き抜かれていて、首の後ろの接続痕にもガーゼが貼られている。
その代わりに、左腕にはチューブの繋がった針が刺さっていた。大方、鎮静剤の混じった栄養剤の点滴だろう。
鎮静剤と疲労で熱く膨れ上がった脳に、不気味な甲虫の姿が過ぎる。十五号。カブトムシ。カンタロス。兜森繭。

「私は強い」

 桐子はセールヴォランを求め、手を伸ばした。だが、白い天井にすら届かなかった。

「セールヴォランは強い」

 ベッドの周りを囲んでいたカーテンが引かれ、足音が近付いてきた。

「起きた、桐子?」

 視界に入ってきたのは、薫子だった。桐子は目を瞬かせ、いつもと変わらぬ表情の薫子を見上げた。

「チーフ」

「ここは研究所。そして医務室よ。あなた、負けたのよ」

 簡潔に事実を述べた薫子は、ファイルを開いて書類を捲った。

「セールヴォランは?」

 掠れた声で桐子が問うと、薫子は目も上げずに返した。

「近日中に処分するわ」

「え…?」

「当たり前じゃないの。あぎとを片方折られて、足も一本折られたのよ? メインウェポンを失った兵器なんて、兵器としての価値はないのよ。それに、ねねちゃんと二体目の戦術外骨格の実用化の目途も付いているのよ。だから、あなたも用済みなのよ、桐子」

 ファイルを閉じた薫子は、血の気を失っている桐子に勝ち誇った笑みを見せつけた。

「無様なものね、女王様」

 ヒールの高い足音がベッドから遠ざかっていき、医師と手短に言葉を交わしてから、薫子は医務室を後にした。
疲弊した頭には、なかなか現実が染み込んでこなかった。薫子の言葉が耳を上滑りし、意識の表層を掠めていく。
だが、次第に意識が晴れると、桐子は戦慄した。点滴のチューブを千切って背を丸め、歯を食い縛って嗚咽する。

「私の、セールヴォランが」

 セールヴォランが処分される。愛おしい彼が殺される。自分が負けたせいで。

「そんなの、嫌ぁあっ!」

 医師が駆け寄ってきたが、その手を振り払った。桐子はベッドに突っ伏して、だくだくと涙を流しながら怯えた。
敗北の恐怖でもなければ戦闘による畏怖でもなく、セールヴォランが殺されることがたまらなく嫌だったからだ。
セールヴォランは全てだ。セールヴォランがいたから、桐子は強くなれた。それなのに、彼が処分されてしまう。
 桐子は息を荒げながら、医師を突き飛ばし、起き上がった。乱れた髪と入院着をそのままに、素足で歩いた。
冷たい床を踏み締めながら、左腕に刺さっていたままの点滴針を抜いて投げ捨て、指に付いた血を舐め取った。
人型昆虫を処分する場所は解っている。第二研究棟だ。職員達が幽鬼のような桐子に戸惑い、声を掛けてくる。
だが、その声は聞こえてこなかった。雑音でしかないからだ。彼らの表情も、言葉も、全てが脳に染み込まない。
桐子を阻もうと腕を掴む者もいたが、逆に捻って極め、折る。セールヴォランと共に戦うために、覚え込んだのだ。
突然の凶行に、研究員達は装備が義務付けられている拳銃を抜き、桐子に銃口を向けたが、桐子は暗く笑った。
 撃たれる前に、殺せばいいだけだ。




 十年前。桐子が、鍬形桐子ではなかった頃。
 誰とも付かない男の精子と誰とも付かない女の卵子から生まれた桐子は、誰とも付かない人間に育てられた。
似たような生い立ちの子供に囲まれ、騒々しいだけで中身のない日々を過ごし、淀んだ世界の中で生きていた。
目的もなく、意味もなく、言われるがままに学校に通い、親がいないと言うだけで蔑んでくる人間達を蔑んでいた。
親がいることに何の意味があるのか。自分は特別なのだ。特別だから、親がいなくてもこの世に生まれ出たのだ。
選ばれた人間だからこそ、今は淀んだ日々を過ごしているのだ。そう思い、施設と学校の往復を繰り返していた。
 ある日。桐子は、見知らぬ大人に引き取られた。政治家だと名乗る壮年の男の娘となって、名字を与えられた。
それが鍬形だった。ただの桐子から鍬形桐子となった桐子は、それまでとは比べ物にならないほど大事にされた。
仕立ての良い服を着付けられ、髪を整えられ、専属の家庭教師を付けられ、欲しいと言った物は全て与えられた。
政治家、鍬形は桐子を人形のように可愛がる傍らで、桐子に言い聞かせていた。いずれお前は力を得るのだ、と。
幼かった桐子は、その意味を解らずに喜んでいた。お姫様から女王様になれるのだ、と無邪気に受け取っていた。
 そして、鍬形桐子となってから四年が過ぎたある日。桐子は鍬形の部下に連れられ、この研究所にやってきた。
訳が解らないまま、桐子は研究員に引き渡され、鍬形の部下は鍬形の元へ帰り、二度と鍬形とは会えなかった。
研究員は桐子に、これから君は、この国にとって尊いことをする人間になるのだよ、と噛んで含めるように言った。
桐子はやはり意味が解らず、頷くしかなかった。ドレスのような服を脱がされた桐子は、暗い部屋に放り込まれた。
 暗く冷たい地下室に入らされた桐子は、下着も脱がされていて、素肌の上に薄い入院着を着ている状態だった。
もちろん裸足だったのでコンクリートの床が氷のように冷たく、つま先立ちで探るように歩きながら部屋を見渡した。
分厚い金属製の扉は鍵が掛けられ、固く閉ざされていた。暗さに目が慣れてくると、部屋の奥には何者かがいた。
だが、それは人間ですらなかった。白い体と金色の瞳に銀色の羽を持った巨体の昆虫、人型昆虫の女王だった。

「なに、これ…?」

 異形の存在に桐子が怯えると、女王は折られた足を床に突き立て、這いずった。

「いや…やだぁ…」

 桐子が後退るが、女王はぎいぎいと鳴きながら這い寄ってくる。

「出してぇ、ここから出してぇ、お願いぃいいいっ!」

 桐子は力一杯扉を叩くが、誰の声も聞こえない。人の気配はするのだが、反応してくれない。

「お願いしてるじゃないの、私がお願いしてるんだから、出して、出して、出さないと許さないんだからぁ!」

 いつも、我が侭を言えば聞いてもらえた。だから、今も聞いてくれるはずだ。だが、誰一人言うことを聞かない。

「私は桐子よ、鍬形桐子よ! 私の言うことが聞けないって言うの!?」

 涙を散らしながら桐子が喚くが、外にいるはずの研究員は答えもしない。

「私は特別なのよ、お姫様なのよ、なのに、なんで誰も私の言うことを聞かないのよぉおおおお!」

 喉が裂けんばかりに絶叫した桐子はがりがりと扉に爪を立てるが、薄い爪が剥がれて血が流れるだけだった。
指の痛みと息苦しさと恐怖に耐えかね、桐子は扉から手を離したが、背後からはぎいぎいと呻き声が聞こえる。

「うぁ、うああああああん!」

 桐子は扉を背を当てて絶叫するが、女王は純白の腹をうねらせながら、芋虫のように迫ってくる。

「やだぁ、やだよぉ、こんなところで死にたくないぃいいいいっ!」

 女王は細長い触覚を上げ、桐子に向けた。桐子は息を荒げながら顔を背けるが、女王は距離を詰めてきた。
後退ろうとしても、扉に阻まれる。破ろうとしても、爪が折れて指が痛い。走ろうとしても、足が震えて動かない。
恐怖と絶望のあまりに膀胱の筋肉が緩んでしまい、太股の間に生温い液体が流れ落ちて、浅い池を作った。
 六本の足を全て折られている女王は、金色の複眼に桐子を映し、かちかちかちかちかちと細い顎を鳴らした。
きち、と顎が開き、触手のような舌を伸ばしてきた。桐子がしゃくり上げていると、舌の先が股間に滑り込んだ。

「なに、してるの…?」

 桐子が戸惑うと、舌の先が失禁で濡れた陰部に触れた。二次性徴の兆しすらない、浅い割れ目を撫でてくる。
自分でも触れたこともない場所に触れられ、桐子は恐怖が増した。だが、疲弊した喉では悲鳴も出せなかった。
しばらくの間、女王は桐子の体液を味わうように舌を動かしていたが、急に舌に力を入れて抉り込ませてきた。

「いだい、いだいよお!」

 内臓を裂かれるような痛みに桐子は吼えるが、女王は更に奥に押し込み、未熟な性器を掘るようにまさぐった。
とても耐えられる痛みではなく、桐子は苦痛に負けて嘔吐した。体液に混じって血が滴り、女王の複眼を汚した。
自身の体液と女王の体液にまみれながら、桐子は倒れた。ぐしょぐしょに汚れたコンクリートが、尚更冷たかった。

「ぅぐ…あぁ…」

 桐子が呻いていると、女王は桐子を品定めするように触角を動かし、重たげな腹をうねらせながら這い寄った。
だが、最早、桐子には逃げる余力はなかった。痛みと恐怖から解放されるのならば、このまま死んだ方が良い。
 桐子の小さな体の上に、女王の冷たい体がのし掛かる。膨れ上がった腹の下には、縦に細い線が走っていた。
女王はきりきりきりと小さく鳴きながら、折れた足を懸命に伸ばして桐子の体を動かし、線の下へと向かわせた。
不気味な柔らかさを持った腹部に押し当てられた桐子は、線の奥から伸びてきた十数本の神経糸に捕らわれた。
そのままずるりと引き込まれ、コンクリートよりは柔らかいが冷たすぎる体液の中に没し、桐子は意識を失った。
 喰われたのだと思った。




 消毒液の匂いで、桐子は目を覚ました。
 天井は目に染み入るほど白く、吸い込んだ空気は清潔だった。叫びすぎた喉は痛み、息をするのも痛かった。
全身にまとわりついていた体液や吐瀉物は綺麗に清められていたが、陰部の痛みだけはそのまま残っていた。
扉を殴打したために腫れ上がった手と全ての爪の剥げた両手には包帯が巻かれて、丁寧に手当てされていた。
あれは夢じゃなかったんだ、と落胆して桐子は身を起こそうとしたが、腹部に異様な重みがあることに気付いた。
恐る恐る掛布越しに触れてみると、不自然に膨らんでいた。縦の楕円形の異物があり、腸とは違う部分が重い。

「え…?」

 訳も解らず、桐子は目を剥いた。すると、桐子の寝ていたベッドの傍らに人影が現れた。

「被検体五号、覚醒しました」

 白衣を着た研究員が、平坦に報告した。すぐさま桐子を囲む人間が増え、壁とは違った白さに覆い隠された。
彼らは桐子の背後に設置された計器の数値を書き込んだり、脈を取ったり、瞼を裏返したり、喉を覗き込んだ。
右腕を取られて針を刺され、血を採られた。手早くガーゼを貼られながら、研究員の話す言葉を聞き流していた。

「体温、脈拍、瞳孔反応はいずれも正常。身体機能に異常は見られません」

「女王の卵に対する拒絶反応は、現時点では見られません」

「これまでの観察データの通り、女王は絶命しました」

「レントゲンで女王の卵が被検体五号の子宮に癒着したことを確認済みです」

「今回のデータがあれば、移植手術の技術も飛躍的に向上するはずです」

「精密検査の後、人型昆虫との相性を調べなければ」

「現在、十五体の人型昆虫が戦術外骨格用として養育されていますが、いずれもまだ幼虫の段階です」

 センジュツガイコッカク。それが、桐子が得る力だろうか。きっとそうだ、だから、あれほど痛い目にあったのだ。
素晴らしい力を得るためには、代償が必要だ。今までもそうだった。だから、この出来事もそうに違いないのだ。
センジュツガイコッカクがどのようなものかは解らないが、この鍬形桐子が得る力なのだから素晴らしいのだろう。
だから、今は我慢しよう。桐子は体の至るところを冷たい手に探られていたが、先のことを考えて気を逸らした。
 そうでもしなければ、嫌悪感のあまりに泣き出してしまいそうだった。白い天井、白い服の人間、消毒液の匂い。
その全てが気持ち悪い。この者達の手で女王に引き合わされ、卵を押し込まれたのかと思うと、気が狂いそうだ。
だが、逃げる術もなければ気力もなく、彼らに傷の手当を受けなければもっと痛い目に遭うことは子供でも解った。
だから、堪えるしかなかった。桐子は懸命に涙と嗚咽を堪えながら、輝かしく、素晴らしく未来を思い描いていた。
 今まではお姫様だった。だから、これからは女王様になれるのだ。




 それから、一年後。
 桐子は、女王になった。十五匹の人型昆虫の幼虫と引き合わされた桐子は、気に入った幼虫を選び出した。
カブトムシやスズメバチといった他の人型昆虫の幼虫もいたが、一番心が惹かれたのは人型クワガタムシだった。
桐子はその人型クワガタムシの幼虫にセールヴォランと名付け、研究員達と共に養育して、女王の味を与えた。
幼さ故に腐葉土を喰らうことしか出来ないセールヴォランに、桐子は女王の卵の匂いが混じる体液を舐めさせた。
唾液、血液なども与え、桐子の匂いを覚えさせた。それを繰り返していくと、セールヴォランは桐子に懐いてきた。
桐子と共に成長し、柔らかく太ったセールヴォランはさなぎとなり、戦術外骨格になるための改造手術を施された。
 地下室の湿った腐葉土から出てきたセールヴォランは、茶色い殻を脱ぎ捨てて、柔らかな外骨格を曝していた。
桐子は、その様を眺めていた。外気に曝されたばかりのあぎとは湿り気のある茶褐色だったが、乾きつつあった。
電子頭脳を移植して知性を強化し、本能を押さえ込む施術を行われたため、後頭部の外骨格には傷跡があった。
きちきちきち、と体液の絡む顎を打ち鳴らしていたセールヴォランは漆黒の複眼に桐子を捉えると、顔を上げた。

「おはよう、セールヴォラン」

 桐子はセールヴォランに歩み寄り、見下ろした。

「私のこと、解るわよね?」

「…うん」

 発声装置から零れた彼の声は体格に応じて低かったが、驚くほど幼かった。

「ぼくの、きりこ」

「そうよ、私が桐子よ。あなたの女王よ」

 桐子は革靴と靴下を脱ぎ捨てると、よたよたと這いずるセールヴォランの前に細い足を差し出した。

「どうすればいいのか、解るわよね?」

「うん」

 外骨格が乾き始めたセールヴォランは、不慣れな仕草で顎を開き、神経糸に似た舌をにゅるりと伸ばした。

「きりこ」

「そう、良い子ね」

 セールヴォランの冷え切った舌が、桐子の素足を舐めた。ぬめついた感触に、桐子はぞくりと背筋が逆立った。
足の甲や裏だけでなく、指の間や足首にまでセールヴォランの舌は及び、にゅるにゅると脹ら脛にも絡み付いた。

「あなたは私のものなのよ、セールヴォラン」

「ぼくはきりこのもの」

「あなたは私の道具なの。私がいなければ、何の役にも立てないのよ」

「ぼくはきりこのどうぐ」

「あなたは私から愛されなければならないのよ」

「ぼくはきりこからあいされる」

「だから、あなたも私を愛しなさい。セールヴォラン」

 桐子は膝を曲げてスカートの裾をたくし上げ、白い太股を見せつけた。

「ぼくは、きりこをあいする」

 漆黒の外骨格が乾き切ったセールヴォランは、自重でぎしぎしと関節を軋ませながら、上体を起こしていった。
セールヴォランは上両足を伸ばすと、艶やかな三本の爪先で探るように桐子の太股に触れて、薄い肌を撫でた。
怖々と肌をなぞっていく爪の感触に、桐子は頬を緩めた。セールヴォランの好奇心が、滲み出ているようだった。
セールヴォランは触角を動かしながら顔を寄せ、桐子の太股に顎を寄せると、隙間から再び細長い舌を出した。
彼の意図を察して桐子が下着をずらすと、セールヴォランの舌先は、女王の卵が没している陰部に触れてきた。
女王のそれとは違い、優しかった。少女の肉の割れ目をなぞっていた彼の舌は、潤いを確かめてから差し込んだ。
胎内に滑り込んできた異物に桐子は細く声を上げ、熱混じりの吐息を零し、セールヴォランの愛撫に身震いした。
 女王だけが味わえる、極上の快楽だった。





 


09 2/11