豪烈甲者カンタロス




第四話 剥がれた虚勢



 あれから、丸一日が経過した。
 繭はリビングのソファーに座り、湯気の昇るココアを啜りながら、退屈凌ぎに昼のワイドショーを眺めていた。
朝刊の一面に都立高校の写真が印刷され、仰々しいキャプションが踊り、テロ事件が発生したと知らせていた。
だが、その内容は事実とは大きく異なっていた。テレビで流れる情報も同じで、人型昆虫のことは報じていない。
今日こそは塚本真衣が行方不明になっていることが報じられるのではと冷や冷やしていたが、杞憂に終わった。
 高校でセールヴォランと戦った後、カンタロスは堂々と空を飛んで移動し、人型カミキリムシの群れを殺戮した。
人型カミキリムシの群れは見知らぬ商店街に現れたので、当然、カンタロスは衆人環視の中で戦闘を行った。
人型カミキリムシに喰われた人間も多かったが、カンタロスの攻撃の巻き添えを食って死んだ人間も多かった。
だが、そのどちらも報道されていない。その代わりに、繭の通っていた高校が襲撃されたと報道されるだけだ。
繭は遅刻したと思われているらしく、生き残った学校関係者から回ってきた連絡網で、自宅待機だと言われた。
特に言うべき事もなかったので、繭は曖昧に受け答えしておいた。次の生徒にも回したが、相手は死んでいた。
それは昨日の時点で既に知っていたことだが、何もしなければ怪しまれてしまうので事務的に報告しておいた。

「これから、どうしよう…」

 繭は半分ほど飲んだココアのマグカップを置き、小さくため息を吐いた。いずれ、繭の身元は割れることだろう。
高校から逃げる際、数人の兵士を殺して奪われた通学カバンも取り戻し、個人情報が割れるものは回収済みだ。
だが、多数の人間に顔を見られている。印象の薄い顔だと思っているが、生徒の写真と照合すれば解るだろう。
女王の卵の存在に畏怖して、カンタロスの持つ力に浮かれすぎて、自分の置かれている立場を忘れかけていた。
 繭はれっきとした犯罪者だ。塚本真衣だけでなく、自衛軍の兵士や一般市民を多数死傷させた殺人犯なのだ。
だが、目の前で他人が死ぬ様を見ても、罪悪感は感じなかった。やっと、自分を求めてくれる相手が現れたのだ。
乱暴でいい加減で強引だが、カンタロスは繭を守ってくれる。道具扱いされているが、それはこちらも同じなのだ。
カンタロスが繭を女王の卵の入れ物として扱っているように、繭もカンタロスを身を守るための武器と考えている。
けれど、それでいいのだ。どうせ、繭自身の人格を求めてくれる人間も昆虫もこの世に存在していないのだから。

「ねえ、カンタロス」

 繭は振り返り、リビングの壁際で胡座を掻いているカンタロスに向いたが、彼は触角の先すら動かさなかった。
黒い複眼は伏せられ、首が下がっているので逞しいツノも斜めになり、胡座を掻いた格好で器用に眠っている。

「やっぱり、疲れちゃったんだ」

 繭は少し笑み、マグカップを両手に挟んだ。あの後、二人はは別々に食事を行い、その後泥のように眠った。
人型昆虫や人間を単独で食い荒らしてきたカンタロスは、帰宅するや否や座り込み、寝る、と一言だけ言った。
繭はカンタロスの汚れきった外骨格を清めてやってから、大量の夕食の後にまた少し食べた後、深く寝入った。
目が覚めると太陽が高く昇っていて、午前十時半を過ぎていた。リビングに入ると、カンタロスはまだ眠っていた。
それを起こすのが忍びなかったので、繭は音を立てないように気を付けて料理し、朝食を兼ねた昼食を食べた。
デザートを終えて腹ごなしにココアを飲んでいるのだが、その段階になってもカンタロスが目覚める気配はない。

「カンタロス」

 繭はマグカップをリビングテーブルに置いてから、ソファーの背もたれに寄り掛かり、カンタロスを見上げた。

「カーンタロスぅー」

 他人の名前を呼べるのが楽しくて、繭は繰り返し呼んだ。それだけのことなのに、胸が詰まってしまうほどだ。
巨大な甲虫は黙していて、やはり反応しない。繭は黒光りする複眼を見つめながら、懸命に感情を偽っていた。
 怖い。嫌だ。おぞましい。辛い。苦しい。悲しい。繭の中にまだ残っている常識的な感覚が、叫び続けている。
これ以上関われば、繭は悲惨な死に方をする。カンタロスに喰われるか、他の虫に食われるか、殺されるか。
だが、カンタロスがいなければ、繭はまた一人きりになる。辛いことを堪えてさえいれば、一人ではなくなるのだ。
だから、我慢しようと思うのに、最後の部分でダメになる。今朝だって、カンタロスの姿を確認して震えたほどだ。
しかし、カンタロスから離れるのはとてつもなく嫌だった。だから、繭に残された選択肢はただ一つしかなかった。

「カンタロス。私、頑張るね」

 カンタロスを好きになるしかない。繭はソファーから立ち上がり、カンタロスに近付いたが、多少距離を開けた。
スリッパを履いた足を意味もなくフローリングに擦り付けながら、繭は両手をきつく組んで、躊躇いと戦っていた。
 好きにならなければ、もっともっと辛くなる。だが、好きにならなければ、と思えば思うほど、もっと息苦しくなる。
今まで誰も繭を好いてくれなかったのは、繭が他人を好かなかったからだ。だから、今度こそはと強く思っている。
けれど、そう簡単に上手く行くものではない。相手が人間ならまだしも、相手は甲虫だ。しかも、凶暴かつ残虐だ。
どこを取っても、好意を抱ける要素はない。ハンバーグを食べてくれて、褒めてくれたが、それではまだ足りない。
散々迷った挙げ句、繭は彼に背を向けた。ココアを飲み干してマグカップをシンクに運び、他の皿と一緒に洗った。
 家事をすれば、気晴らしになるかもしれない。




 底の浅い記憶の断片が脳を掠め、意識が引き戻された。
 もう一つの脳の中に収められていた訳の解らない情報が脳内に入り乱れていたが、強引にそれを封じ込めた。
長い眠りからようやく目覚めたカンタロスは、胃に詰め込んだ人間や人型昆虫が消化されていることに気付いた。
外骨格に貼り付いていた汚れは拭き取られ、艶を取り戻している。嗅覚には、生温い女王の匂いが感じられた。
それほど広くないリビングのソファーでは、女王の卵を宿した少女が、薄手の毛布にくるまって寝息を立てていた。
テーブルの上には読みかけの本が伏せられ、ページが歪んでいる。カンタロスは、関節を軋ませながら立った。
すぐさま触角を上げ、感覚を研ぎ澄まさせる。他の人型昆虫が現れた気配がないと知って、少しだけ気を緩めた。
あれほど深く眠ったのは、初めてだった。セールヴォランとの戦いは短時間だったが、消耗が凄まじかったのだ。
自分の体力は無限大だと確証もなく思っていたが、そうではないと知覚したので、これからは気を付けなければ。

「俺の、女王」

 カンタロスはソファーの背もたれ越しに身を屈め、繭に顔を寄せた。髪の隙間から見える首筋には傷があった。
それは、カンタロスの神経糸が繭の頸椎に接続した際に出来たものだったが、真新しい傷口は塞がっていない。
薄い肌に穴が空き、僅かに血が滲んでいる。他の人間とはまるで違う血の匂いが嗅覚に触れ、本能がざわめく。

「お前は俺だけのものだ」

 上右足を添えて、繭の顎を上げさせる。女王の匂いに誘われるまま、半開きの唇に舌を滑り込ませた。

「ん、うぅ…」

 いきなり口中に侵入してきた異物に繭は呻き、眉を寄せた。

「目覚めろ、女王」

 カンタロスが低い声で命じると、繭は息苦しさで瞼を開き、状況が解った途端にソファーから転げ落ちた。

「ひゃあ!?」

「どうした」

 にゅるりとカンタロスが舌を収めると、繭は畏怖のあまりにカンタロスの唾液が混じった唾液を嚥下した。

「だって、今…」

「それはお前が女王だからだ」

「でも、やっぱり、あれって…」

 繭が涙目になって俯くと、カンタロスはソファーを押しのけて近付いてきた。

「俺が俺の所有物の味を確かめて何が悪い」

「だって…は、はじめて、だったのに…」

 ぼろぼろと涙を零し始めた繭に、カンタロスはぎちりと顎を噛み締めた。

「どうして泣くんだ」

 泣いて何が悪いのだ。繭は恐怖と悲しさで涙を落としながら、カンタロスの体液に濡れてしまった唇を拭った。
厳密に言えば、キスだとは言い切れない。だが、いきなり舌を口に滑り込ませたのだから、キスには違いない。
それまでにも神経糸を突っ込まれてはいたが、それはそれだ。そして、これはこれなのだ。だから、悲しかった。
好きにならなければとは思ったが、これではますます好きになれない。好きになろうとした傍から、潰されていく。

「体液の無駄遣いだ」

 カンタロスは何の苦もなく繭を押し倒すと、覆い被さり、またもや舌を伸ばして涙を拭い上げた。

「う、うぁあ…」

 目元を撫でた舌の冷たさと状況に困り果て、繭は余計に涙が出てしまった。

「俺はお前のせいで体液を失いっぱなしなんだよ。だから、返してもらおうじゃねぇか」

 カンタロスの舌が畏怖に歪んだ唇に向かってきたので、堪りかねた繭は顔を覆い、身を縮めた。

「いやあっ!」

 突然泣き出した繭に、カンタロスはやや驚いて身を退いた。

「…だから、どうして泣くんだ」

「だって、だってぇ…」

 繭は両腕を掻き抱いて、フローリングに額を押し当てた。

「どうして、こんなことするの…?」

「それはお前が女王だからだ」

 即答したカンタロスに、繭は唇を歪めた。

「そんなのって、ないよぉ…」

 自分の身を守るための盾。力を得るための武器。正体不明の怪物。だが、それでも、彼を大事にしたかった。
好きになれば、戦いの道具だという概念も抜けるかもしれない。そう思っていたのに、カンタロスはそうではない。
それが無性に悲しくて、繭は泣き伏せた。諦めたはずなのに、自分自身を好いて欲しいと心の隅で願ってしまう。

「うざってぇな」

 泣き続ける繭に辟易し、カンタロスは身を起こして離れた。大きな影が遠ざかると、繭は安堵した。

「はぁ…」

 床から起き上がった繭は、服の袖で涙を拭った。カンタロスは本当に鬱陶しかったらしく、壁際に戻っている。
もう少しちゃんと手順を踏んでくれればいいのに、と思ったが、人型昆虫に一般常識を求めるのは間違っている。
だから、ちゃんとしてほしかったら、こちらから行くしかないのだろう。繭はショックが抜けきらないまま、呟いた。

「女王なんて、呼ばないで」

「あぁん?」

 不機嫌極まりないカンタロスに、繭は一握りの勇気を振り絞った。

「女王って呼ばないで、ちゃんと名前で呼んで!」

「なんでだよ。なんだって同じじゃねぇか」

 不愉快さを丸出しにしたカンタロスに聞き返され、繭はひくっと息を呑みかけたが声を張った。

「違うよ!」

「どうして、お前はそんなことにこだわるんだ」

「だって、私…」

 繭は俯きかけたが、懸命に顔を上げた。

「カンタロスのこと、好きに、なりたいから。だから、必要なことなの」

「お前の下らん感情を俺に押し付けるな。それこそうざってぇんだよ」

「でも、そうしなきゃダメだから」

「意味が解らん」

「そ、それとね。さっきみたいに、無理矢理、舌とか入れてこないで。本当に、本当に、嫌だったから」

「たかが唾液だろうが。大した問題じゃねぇよ」

「違うんだよぉ…」

 繭がまた泣き出しそうになると、カンタロスは苛立たしげに顎を鳴らした。

「いちいち体液を流すな、でもってぎゃんぎゃん喚くな。寝起きの頭には響くんだよ」

「それと、ね」

「まだ何か言いやがるのか」

「体液が欲しいのなら、先にそう言って。私、がっ、頑張るから」

「だったら寄越せ」

「…うん」

 カンタロスの乱暴な要求に、繭は目元の涙を取り去ってから頷いた。自分からするのであれば、まだ気が楽だ。
カンタロスは一家の主のような態度で胡座を掻き、待っている。繭は心臓が縮み上がる思いだったが、近付いた。
二人の体格差がありすぎて、普通に前に立っただけでは顎に近付けないので、彼の許可を得て下右足に載った。
胡座を掻いた下右足の太股に当たる部分に膝を付いて、カンタロスの肩に手を置いてから、繭は身を乗り出した。

「顎、開けてくれないと、入らないよ」

「俺に命令するんじゃねぇ」

 苛立ちながらも、カンタロスは縦開きの顎を開いた。繭は何度も深呼吸してから、彼の顎の上へ顔を近寄せた。
普段は鉄扉のように閉ざされている顎の内側には、体内より色の薄い唾液が絡み付き、食道は繭の腕より太い。
人間の骨や人型昆虫の外骨格を容易く噛み砕く顎は、歯も兼ねているので、ナイフのように鋭いが分厚かった。
カンタロスの顎に触れてしまえば、繭の舌や唇など切れてしまうだろう。細心の注意を払って、繭は口を開いた。
舌を伸ばして、口に溜まった唾液を伝い落とさせる。繭は逃げ出したいほど恥ずかしかったが、必死に我慢した。
餌を待つ雛鳥のように口を開けているカンタロスは、黄色く細長い舌で繭の唾液を受け止め、食道に流し込んだ。

「これでいいかな、カンタロス?」

 赤面した繭は口元を押さえたが、カンタロスは顎を閉じなかった。

「まだだ。足りるわけがねぇ」

「うぅぅ…」

 繭は先程とは別の意味で泣きそうになりながら、再び身を乗り出して、カンタロスの顎の中に唾液を落とした。
少し口を閉じて唾液を溜めてから、舌を伸ばして喉へと流し込む。その度に、カンタロスは触角を動かしていた。
これでは、どちらが女王か解らない。むしろ、繭に奉仕させて、繭を支配しようとしているカンタロスの方が王だ。
 結局、カンタロスが満足してくれたのは、一時間以上も過ぎた後のことだった。当然、繭は疲れ果ててしまった。
どういう理由で体液が欲しいのかは解らないし、解るつもりもない。繭は痛む首を押さえつつ、夕食の支度をした。
日が暮れてくると空腹になってきたのか、カンタロスは一人で狩りに飛び出し、僅かばかりの平和がやってきた。
だが、それも一時間程度のことだ。繭はカンタロス用の味のないハンバーグを焼きながら、乾いた唇を舐めた。
 カンタロスが繭を名前で呼ぶことは、なかった。





 


09 2/11