豪烈甲者カンタロス




第六話 放たれた衝動



 肌を潤す体液が、冷たかった。
 目を開かずとも、視界には外界が映る。無数の六角形に分断された映像が、脳の隅々にまで染み渡ってくる。
最初は籠もっていた音も鮮明に聞こえるようになり、自分自身で感じるよりも遙かに鋭敏に空気の流れが解った。
多種多様な匂いが触角をくすぐり、外骨格の上に生えた薄い体毛が揺れる。顔を上げると、それも顔を上げた。
目の前の強化ガラスの向こうでは、紺色のパンツスーツを着た薫子と研究員達が揃い、ねねの様子を見ている。
 そこに映るねねは、ねねではなかった。顎の尖った頭部、分厚い胸部、楕円形の腹部、四枚の羽、そして毒針。
上両足は特に太く、ねねの本来の腕に比べれば三倍近くありそうな太さで、筋肉質だが外骨格に覆われている。
その下に生える中両足は上両足に比べれば細めだったが、やはり充分太く、意志を送れば思った通りに動いた。
直立している体を支える下両足は、上中両足よりも幅広の爪を備えており、重量のある巨体を難なく支えていた。
黒と黄色の極彩色の外骨格を持つ巨大な人型スズメバチがねねを包み込み、もう一人のねねとして動いていた。

「うっわマジこれヤバくね?」

 人型スズメバチと化したねねは、ぶんぶんと上右足を振ってみた。

「ね、なんか壊していい? てか、あたしマジ暴れたいんだけど」

「そう言うだろうと思って、用意してあるわ」

 薫子はいつも通りに平坦に言い、研究員に指示を出した。異形の背後の隔壁が、重たい音を立てて昇っていく。
人型スズメバチが振り返ると、防火扉のような金属製の扉が上がり、十数匹の人型昆虫が雪崩れ込んできた。
人型バッタ、人型カメムシ、人型コオロギ、などが並んでいたが、いずれも弱っているのか足取りもおぼつかない。
すぐに襲い掛からないように設置されている鉄格子の間から足を伸ばし、顎を鳴らすが、力のない音ばかりだ。

「何これ。あたしのこと舐めてんの?」

 ねねの不満を感じ取ったのか、人型スズメバチはきちきちと顎を鳴らした。

「いいから、やってごらんなさい。桐子は五分もしないで制圧したわ」

 薫子が指示を出したので、人型スズメバチは顎を開いて舌を出した。

「あたしはあたし、あいつはあいつ。マジムカつくから比べんじゃねぇよバーカ」

 人型スズメバチは薫子に背を向け、床を蹴った。だが、自分自身の体とは勝手が違い、バランスを保てない。
足元に敷き詰められたコンクリートは爪とは相性が良くないのか、噛むどころか滑ってしまい、前のめりになる。
立ち直ろうとすれば毒針を備えた腹部が重りとなり、上両足で壁に手を付こうとしても、目測を見誤ってしまった。
それどころか、真正面から転んでしまった。人型スズメバチは壁を殴りながら、苛立ちに任せて顎を打ち鳴らす。

「んだよこれ! マジ腹立つ! てか動かねぇよ!」

「あなたとその戦術外骨格の相性もあるけど、まあ、一日で動かせる人間は少ないわね」

 薫子は立ち上がろうとしてまた転んだ人型スズメバチの様子を見、手元のファイルに書き込んだ。

「何それ! あたしのこと利用するくせに、そういうのマジ有り得ないんだけど!」

「悔しかったら、訓練することね。ちなみに、桐子は二十分でセールヴォランを飛行させたわ」

「だからあのキチガイ女と比べんなよ、死ねクソババァ!」

 人型スズメバチは薫子を睨み、びいいいっ、と羽を震わせて威嚇した。

「城岡君、ねねちゃんのこと、よろしく頼んだわ。私は他の用事があるので」

 薫子はファイルを研究員に手渡すと、ヒールの音を響かせながら出ていった。

「では、蜂須賀二尉。訓練を続行します」

 薫子からファイルを手渡された研究員は人型スズメバチに向き直り、事務的に言った。

「訓練用人型昆虫の数は十五体。十五分以内に撃破して下さい。それと、なるべく戦術外骨格を傷付けないようにして下さい。現在、使用可能状態にある戦術外骨格は、そのスズメバチだけなので」

「あたしに命令すんじゃねーよ!」

「それと、もう一つ」

「まだ何か言うのかよ、マジウザいんだけど!」

「その戦術外骨格には、まだ名前がないんです。ですから、蜂須賀二尉が付けて下さい」

「名前?」

 人型スズメバチの複眼を通じて自分自身の姿を見たねねは、少し考え、ある単語を思い出した。

「ベスパ。この前、あたしがパクった原チャの名前」

 今し方ベスパと名付けた人型スズメバチの体内で、ねねは怒りを滾らせた。このスズメバチは、下僕なのに。
それなのに、女王である自分の言うことを聞かないとは。言うことを聞かない下僕など、何の意味もない。嫌いだ。
ねねは苛立ちに任せて、喉の奥まで差し込まれた神経糸を強く噛み締めた。途端に、ベスパがびくんと痙攣した。

『おおおっ! 何をなさいますか、クイーン!』

「なんだ、あんた喋れんの」

『当然です。私は対人型昆虫用戦術外骨格でありながら、最も高度な知性と理性を持つ個体ですので』

「じゃ、あたしの代わりに適当にやってよ」

『それは出来ません、クイーン。クイーンと合体した際に、私はクイーンの制御下となりましたので』

「んだよ使えねーな。じゃどうしろってんだよ!」

『ですから、クイーンが思考なされば良いのです』

「だから、それがどうやればいいのか解らないっつってんだろうが! 空気読めよ!」

『申し訳ございません』

「てか、お前マジウザいんだけど! 頭ん中で喋んな!」

『申し訳ございません。ですが、これも戦術外骨格の仕様ですので』

「訳解んねーこと言ってんじゃねーよ! ああもう、やめた! マジダルくなった! だから出せ!」

『それは出来ません、クイーン』

 ぎ、とねねではなくベスパの意志で顔が動き、視界に人型昆虫の姿が映るが隔てていた鉄格子が消えていた。
言い争っている間に、訓練が始まっていたらしい。皆、動きは鈍っているものの、顎を開いて戦意を現している。

『戦って下さい、クイーン』

 ベスパの窘めるような言葉に、ねねはますます苛立った。

「だったら、あたしが考えた通りに動きやがれ! この馬鹿バチ!」

 背後で羽が震え、体が軽くなる。ベスパは浮遊状態を保ったまま足元を踏み切り、上両足を掲げながら飛んだ。
半分以上がベスパの意志で、ねねの意志はあまり作用していなかった。それがまた、ねねの怒りを煽ってきた。
たかだか昆虫に操られている自分が不甲斐なく、下僕の分際でねねに指示を出してくるベスパが鬱陶しかった。
その苛立ちのまま、ねねはベスパとして上両足を振り回して、近付いてきた人型昆虫を次から次へと切り裂いた。
セールヴォランやカンタロスの爪とは違い、ベスパの爪は軽く薄い。砕くことは出来ないが、切れ味は抜群だった。
触角や複眼、外骨格を切り裂かれた人型昆虫は体液を吹き出した。胸部を切り、頭部を切り裂き、腹を割いた。

「…うお」

 ベスパは爪に絡む体液と、腹を割かれて内臓を零す人型昆虫を見比べた。

「何これ、つかマジ凄くね?」

 全て思った通りはいかないまでも、思ったところに爪が伸び、敵を壊す。それが、子供染みた楽しさを生んだ。
ねねはベスパの発声機能を借りてけたけたと笑いながら、生き残った人型昆虫を睨め付け、漆黒の爪を構えた。
乱闘の最中に触角や足を欠損した人型昆虫達は後退ったが、快楽を見出したねねは、ベスパの意志を制した。
 思うがままに動いた爪で、人型バッタの頭部を掴み、爪を食い込ませる。ぶちっ、と頭部が割れて体液が散る。
そのまま頭部を押し潰して倒し、その後ろにいた人型コオロギの首を刎ね飛ばし、人型カメムシの胸部を貫いた。
体液の雨が降り、コンクリートの壁が濡れた。最後に人型テントウムシの胸部を踏み潰したベスパは勝ち誇った。

「あたし、最強じゃね?」

『御見事です、クイーン。女王に相応しい強さをお持ちです』

 浮かれたねねの言葉に、ベスパが応えた。途端に、ねねの上機嫌は反転した。

「だからあたしの頭ん中で喋んじゃねぇっつってんだろうが! キモいんだよ!」

 ベスパは訓練施設と研究室を隔てる強化ガラスに近付くと、意志を送り、胸部の外骨格を開かせた。

「終わったんなら、あたし出る。てか、こいつマジウザっ」

 ベスパの体内から顔を出したねねは、口中から神経糸を吐き出し、身を乗り出して陰部からも引き抜いた。

「いぎっ!?」

 途端に、内臓が裂けるような痛みが走った。ねねは青い体液の散らばるコンクリートに膝を付き、背を丸めた。
鼓動に合わせ、ずくんずくんと傷が痛む。楕円形の膨らみがある腹部には、抜糸されたばかりの手術痕がある。
女王自身から卵を産み付けられた繭や桐子とは違い、ねねの場合は人間の手によって女王の卵を移植された。
幼い子宮を切開され、ねねの神経や血管を女王の卵に繋げて投薬し、産み付けられた際と似た状況を作った。
へその下から真っ直ぐ伸びた手術痕は、数日前に抜糸したばかりなので、陰部から強引に異物を抜けば痛む。

「無理に合体を解除されてはいけません、クイーン」

 腹部を押さえたねねに、ベスパは近付いた。だが、ねねは人型昆虫の破片をベスパに投げ付けた。

「あたしに近付くんじゃねぇよ害虫!」

「了解しました」

 ベスパは、深々と礼をした。あー痛ぇ、と呻きながら、ねねは出口に近付いた。

「マジウザい。てか、あんたマジキモい。死ね」

 ねねが扉を開けて研究室に入ると、女性研究員がねねにタオルを差し出してきたので、それを引ったくった。
全身にまとわりついたベスパの体液を拭い、口に入った体液を足元に吐き捨ててから、ねねはその部屋を出た。
 訓練施設の傍に設置されているシャワールームに入り、ベスパの体液を落としたが、痛みを堪えきれなかった。
シャワーを浴びながら、ねねは喘いだ。腹部の手術痕を見るのも嫌だったので、タイルに背を預けて天井を仰ぐ。
どうして、こんなことになっているのだろう。なぜ、こんなことをしているのだろう。そう思うと、泣きたくなってしまう。
 シャワーの温水に混じって涙を落としながら、ねねは頭を抱えた。ただ、どうしても家に帰りたくなかっただけだ。
だから、毎晩夜遊びに耽っていた。見ず知らずの少年少女と連みながら、時には初対面の男に金で買われた。
その方が、家にいるよりは余程楽しかった。タバコや酒に溺れ、躊躇いもなく体を開いていた方が楽だったのだ。
 あの日もそうだった。いつものように深夜の繁華街に繰り出して、男達にたかって手に入れた酒を飲んでいた。
酔いに任せてどうでもいい話で笑っていると、身なりの整った男に声を掛けられて、君を買いたい、と誘われた。
いつものことだったから、躊躇いもなく男に付いていった。だが、行き着いた先はホテルではなく、研究所だった。
そこで何をしているのか知らされないまま検査を受け、手術を行われた。そして、ねねは女王の卵を身に宿した。
 人型昆虫の女王がいかなる存在か、人型昆虫がどのような生物なのか、戦術外骨格とは何のための兵器か。
ある程度は聞かされたが、あまり覚えていない。自分がどういったことに巻き込まれたのか、知りたくないからだ。
知ってしまったら、頭がおかしくなるに違いない。人型クワガタムシに魅入られていた美少女、鍬形桐子のように。
それだけは嫌だ。だけど、絶対に逃げ出せない。ねねは乾いた笑いを零しながら、痛みが止まるまで泣き続けた。
 苦しまないためには、もっともっと馬鹿になるべきだ。




 シャワーを終えたねねは、あてがわれた自室に戻った。
 病室のような部屋だった。白い壁に囲まれたベッドがあり、テレビが一台備え付けられているだけの空間だ。
壁際に設置されたハンガーには、ねねが誘拐された際に着ていた制服と、くたびれた通学カバンが掛けてある。
私立中学の派手なセーラー服はいつのまにかクリーニングされたらしく、染みも落ち、プリーツもぴんとしている。
それが少し嫌だったが、物に当たれるほど物がないので、ねねは売店で掻き集めてきたスナック菓子を広げた。
ベッドの上に放り投げた菓子を手当たり次第に空け、食べていく。そうでもしないと、空腹で死にそうだったからだ。
意味もなく付けたテレビからはバラエティー番組が流れてきたが、今のねねにとってはどんな冗談もつまらない。
中身がないのに騒がしいだけの番組を、面白いと思える余裕がない。よくあんなもので笑えたものだとすら思う。
 だらしない笑い声に辟易し、ベッドの傍らにある窓のカーテンを開けるが、窓の外側は鉄格子で塞がれていた。
窓自体も半分も開かないので、身を乗り出すことも出来ない。鉄格子の外では、灰色の雨粒が降り注いでいた。

「雨、降ってたんだ」

 ねねは独り言を漏らし、チョコレートを口に入れた。今日は昼過ぎに目が覚めたが、窓は開けなかったのだ。
目覚めてすぐに身体検査をされ、大量の食事を摂り、様々な薬を投与された後に、あの訓練施設に行かされた。
だから、何も解らなかった。研究所に閉じ込められるようになってからは時間感覚も狂って、日付も忘れがちだ。
梅雨入りしていたことも、雨が降り出していたことも解らない。そんな状態が続けば、本当に気が狂いかねない。

「ま、その方がマジ楽かもしんないけど」

 ねねは空になったチョコレートの箱を投げ捨て、他の菓子を取ろうとしたが、部屋のドアがノックされた。

「んだよウゼぇな!」

 ねねが罵声を返すと、厚いドアが開き、先程の研究員が顔を覗かせた。

「休憩中に申し訳ありません、蜂須賀二尉」

「だったら来んじゃねぇよ、死ね」

「水橋現場主任より、蜂須賀二尉への連絡があったもので」

「だったらあいつが来りゃいーじゃん。マジ舐めてんの?」

「いえ、そうではありません。水橋現場主任は、たった今別の研究所に向かわれたので、その代わりに俺が蜂須賀二尉の後方支援に回ることになったんです。ですので、これからよろしくお願いします」

 礼儀正しく頭を下げた研究員の名札には、城岡玲司、とあった。

「ふうん」

 その名を一瞥したねねは、新しく開けたポテトチップを口に押し込んだ。

「んで、城岡。あんたはあたしに何させたいわけ? つか早くしてよ、あたし忙しいんだから」

「では、簡潔に報告します」

 城岡はねねの態度に表情を変えることもなく、脇に抱えていたファイルを開いた。

「蜂須賀二尉に外出許可と戦闘許可が下りました。必要に応じて、戦闘部隊の出動申請も可能です」

「…へ」

 それでは、まさか。ねねがきょとんとすると、城岡は続けた。

「水橋現場主任からの伝言です。思う存分家族を殺してこい、とのことです」

「それマジ? てか、ウケるんだけど」

 ねねは食べかけのポテトチップを置き、様々な菓子の味が付いた指を舐めた。

「んで、あたしを出してくれんのはのいつ? 明日?」

「要望とありましたら、今夜中にでも準備を整えますが」

「うっそマジで!? てか、ヤバ過ぎだし!」

「では、今夜でよろしいんですね」

「そうしといて」

「了解しました。では、外出時には俺も同行しますので」

「あっそ。てか、どうでもいいし」

「それでは、失礼します」

 城岡は丁寧に礼をして、部屋を去った。ねねはペットボトルを取って蓋を開け、喉を鳴らしてジュースを飲んだ。
唇に付いた油と塩混じりの甘みを舐め取ってから、一息吐いた。一家惨殺、というのは八割本気で二割冗談だ。
あの時は手術されたばかりで気が立っていたし、桐子に研究所が破壊されたので、投げやりな気分になっていた。
だから、勢い余って言ってしまったのだが、言ってみるものだ。自分の家族が死ぬと思うと背筋がぞくぞくしてくる。
もちろん、恐怖や躊躇いではない。ねねはペットボトルの中身を飲み干し、床に空のボトルを投げ捨て、笑った。

「マジウケるし」

 家族を壊さなければ、ねねは死んでも死にきれない。蜂須賀一家は、世間一般で言うところの中流家庭である。
両親に兄に自分という在り来たりな家族構成で、両親も在り来たりなサラリーマンと主婦で兄も在り来たりな男だ。
だが、その中にねねはいない。両親は成績が良く愛想の良い兄にばかり構い、いつの頃からかねねを無視した。
兄もまた兄で、普段はねねをいないものとして扱うくせに、ねねが珍しく家にいる時は部屋に押し入って犯してくる。
最初は散々泣き喚いて抵抗したが、兄の力には勝てず、蹂躙された。両親にも言ったが、逆に殴られてしまった。
だから、ねねは家を飛び出して荒れに荒れた。家出をしたことも数知れず、学校で問題を起こしたことも多かった。
だが、両親は何が何でもねねを無視した。兄もまた、勉強や両親からのプレッシャーの捌け口に、ねねを犯した。
 その家族を、自分の手で壊せる。そう思うと、ねねは笑いたい気持ちになったが、また泣きたくもなってしまった。
両親がねねを可愛がってくれた頃のことや、兄とも普通の兄妹関係だった頃のことを思い出してしまったからだ。
けれど、ここまで来ては、もう後戻りは出来ない。ねねは泣くべきか笑うべきか迷ったが、結局どちらもしなかった。
 どちらにせよ、体力の無駄だと思ったからだ。





 


09 2/17