酸の雨は星の落涙



第三話 純潔であるが故の自決






 惑星レーヴ船籍の宇宙船に搭載されていたナビゲートコンピューターであるヒルダについて明記する。
 彼女は極めて有能であり、知的生命体にも匹敵する自我と自己判断能力を兼ね備えた、進化した人工知能だ。
 キャリアウーマンを思わせる自意識の高さと職務に対する誇りを持った、女性としても魅力的な人格の持ち主だ。
 そんな彼女を蔑ろにし、使役することは本当に罪深い。だが、それを望み、実験に利用したのは他ならぬ私だ。
 ヒルダという名も、彼女の母星語を理解出来ない私が後から付けた識別名称であり、本当の名ではない。
 偽りの名を与え、辱めも同然の立場に置き、絶対服従させている私は、何度となく彼女から殺害されている。
 だが、それは当然の罰だ。私は彼女から憎まれるべきだ。
 在るべき世界に戻る時が来たら、私は彼らの前に首を差し出し、切り落としてくれるように頼むこととしよう。
 非礼を詫びるには、それ以外に考えられない。


 アリシア・スプリングフィールドの日記より




 そして、また朝が訪れた。
 またも、ゲオルグはアリスのベッドにいた。昨晩のようにアリスを窓越しに狙撃しなかったので、義眼を貫いたプラズマ弾に 人工頭蓋骨ごと脳を抉られた感触は残っていなかったが、下手にアリスに近付くとまとわりつかれてしまうので、ベッドから 遠く離れた寝室の扉に背を預けてプラズマライフルを抱えていた。だが、緊張で張り詰めた眠りから意識を引き上げてみると、 ゲオルグの背は柔らかなマットレスに受け止められていた。御丁寧に体の上には掛布も掛かっていて、アリスと同じものを 共有している状態だった。前両足の間でだらしなく伸びていた、逆関節の三本目の足を曲げて身を起こしてから、ゲオルグは 傍らでぐっすりと眠り込んでいるアリスを見下ろした。枕に押し当てられている唇の端が緩んでいて、一筋の涎が垂れていた。

「不可解だ」

 ゲオルグは掛布を引き剥がしてベッドから下りようとしたが、ぐいっと三本目の足が引っ張られた。

「ゲオルグ…」

 寝惚け眼のアリスが、ゲオルグの三本目の足を掴んでいたからだ。

「なんだ」

 ゲオルグがアリスの手を払ってから三本足で立つと、アリスは口元を拭い、目を擦った。

「まだ眠っていましょう」

「日の出から既に二時間は経過した。これ以上の休息は無意味だ」

「なぜそう思われるの?」

「俺は任務を継続している」

「そんなもの、どうだっていいじゃない。ねえ、ゲオルグ」

 アリスは上体を起こし、気怠げに長い金髪を掻き上げた。

「良くはない。俺は兵士だ」

 ゲオルグは、いつのまにか手放していたプラズマライフルを取り、担いだ。

「じゃあ、あなたは誰と戦っているの?」

 アリスは枕を抱き締め、寝起きで潤んだ青い瞳を瞬かせた。

「敵対関係にある種族はこの星には存在していない。だが、戦闘状況は継続している」

 ゲオルグは、やはりいつのまにか手放していたハンドガンも拾い、左脇のホルスターに差した。

「本当に、そう言い切れて?」

 兵士としての格好を整えるゲオルグの背を見上げ、アリスは薄く微笑んだ。

「その意見が正しいという根拠はない」

「けれど、あなたの判断が正しいという根拠もどこにもなくってよ?」

 アリスはゲオルグの傍まで這い寄り、太い腰に巻かれたホルスター付きのベルトに指を掛けた。

「だから、もう少し眠っていましょう。あなたがいると、私はよく眠れるの」

「その理由の提示を求める」

「いやあね、もう」

 アリスはゲオルグのやや丸まった背に寄り掛かり、目を閉じた。

「あなたが、私の王子様だからじゃないの」

「それについては訂正した。俺は王族でもなければ貴族でもない、一兵士だ」

「私も、それについては説明したわ。女の子を幸せにして下さる殿方が、王子様だってことをね」

「筋が通っていない」

「じゃあ、通るようにしてみましょう」

 アリスはゲオルグの腕を引いて振り向かせると、両腕を伸ばしてゲオルグの顔を挟んできた。

「またか」

「ええ。何度でも、いくらでも、契りを交わすのが、王子様とお姫様なのよ」

 膝立ちになってゲオルグと目線を合わせたアリスは、ゲオルグの硬い鼻先に口付けを落とした。

「私を見て。私を知って。私を欲して。それが、あなたが今すべきことなのよ」

「不可解だ」

 ゲオルグはアリスを振り払えず、直立していた。アリスはゲオルグの首に腕を回し、顔を寄せてきた。

「いずれ解るわ、いずれね」

 今度は、主眼に口付けを落とされた。レンズには直接は触れず、セラミック製のレンズの縁にアリスの唇が触れてきた。 ゲオルグは抗うことも身動きすることも出来なくなり、アリスの拙い愛撫を受けた。主眼の次は人工頭蓋骨に及び、滑らかながら 頑強な外装を撫でてくる。次に人工頭蓋骨と分厚い皮膚との繋ぎ目をなぞり、上顎、下顎、首筋と続き、ゴム製のアンダースーツと 素肌の境目に指を這わせてくる。ただむず痒いだけで、他には何も感じることはなく、ゲオルグは目の前のアリスを注視していた。 いや、他にも感じる感覚はあった。朝食の時間は当に過ぎているはずなのに、ヒルダが呼びに来る気配もなければ起こしにも 来なかった。だから、ゲオルグの巨躯に見合った広さの胃袋はがらんどうで、筋肉と脳を動かすためのエネルギーを欲していた。
 今一つ口に合わない朝食だが、今ばかりは待ち遠しかった。




 一方的な戯れの後、ゲオルグは寝室を脱した。
 少女の皮を被った暴君、アリスが二度寝してくれたからだ。それがなければ、ゲオルグは空腹を持て余したまま、アリスの 訳の解らない感情を注がれ続けていただろう。生身の脳も機械の脳もエネルギーが足りないと警告を発していて、ゲオルグは 強化セラミック製のプラズマライフルの重みをいつになく感じていた。この程度の空腹に負けてしまった自分の弱さを認識しながら、 ゲオルグは無心に大広間を目指した。大広間に辿り着くと、両開きの扉は既に開いていて、かちゃかちゃと小さな物音が零れていた。

「んあ?」

 ゲオルグが扉を開くと、テーブルの上ではエーディが皿に顔を埋めていた。物音の正体は、彼の首輪が皿に引っ掛かって 起きていた音だった。エーディは薄い舌で皿を丁寧に舐め尽くしてから、ゲオルグに振り返った。

「なんだよ、やっと起きてきたのか」

「何をしている」

「何ってそりゃ、メシ喰ってんだよ。厨房にヒルダが作り置きしといた奴を拝借してな」

 エーディは前足で顔と口元を拭ってから、ゲオルグを見上げた。

「お前もとっととお姫様の分を見繕って持っていってやれよ。腹を空かせたままだと、また何をしでかすやら」

「自分の補給が先だ」

「だからって、全部喰うなよ。昼と夜の分もあるんだから、喰い尽くされちゃ、たまったもんじゃねぇ」

「承知している」

「ならいいけどさ」

 エーディは後ろ足を広げて大股に座ると、両前足でタンブラーを抱えて水を呷った。

「で、こんなに長く寝てたってことは、お姫様とよろしくやってたのか?」

「何をだ」

「いい歳こいた野郎に説明する方が馬鹿げてる」

「物理的に不可能だ。それ以前に、行為に至る必要性がない」

「ま、所詮はガキだしな。俺も言ってみただけだ」

 エーディは水を半分ほど飲んだ後、タンブラーをごとんと置いた。

「そっち目的じゃねぇとすると、本当にお前の役割は何なんだ? 王子様っつっても、色々あるぜ?」

「お前には説明が可能なのか」

「出来るわけねぇだろ。お前自身も解ってねぇだろうによ」

「その通りだ」

 ゲオルグはエーディに簡潔に返してから、大広間と隣接した厨房に入った。文明の利器がほとんど見当たらない調理場で、 煤けた窯や原始的な熱源を使うオーブンや水瓶が置かれていて、電源を使用するのは冷蔵庫ぐらいなものだ。 食品を調理加工する器具も壁に掛けられていたが、それはゲオルグの母星のものと大差はなかった。違うのは調理器具の原材料で、 いずれも金属だった。ゲオルグの世界の常識では鍋やナイフの類も全てがセラミック製なので、違和感を感じずにはいられなかった。 冷気が滲み出している冷蔵庫を開けると、そこには昨日の散歩の際に持たされたものとは具の違うサンドイッチと、鍋ごと スープが入っていて良く冷えていた。これは、温め直せ、ということなのだろうか。冷蔵庫の別の段には、エーディの言葉通りに 三人分の昼食と夕食が準備されていて、夕食の分は、オードブル、スープ、パン、肉料理、魚料理、デザートと一通り揃っている。
 ゲオルグはそれらを全て食べても足りるとは思い難かったが、目先の食料を全て食べ尽くすのは賢い方法ではないと解っていた ので、自分の分であろう朝食を取り出した。大広間まで出るのが手間だったので、調理台に腰掛け、やはり薄い味付けのサラダと チーズとハムの挟まった硬めのパンと甘ったるく汁気の多い果物を早々に食べ終えると、一際丁寧に盛り付けられているアリスの分を 盆に載せ、スープの入った鍋をかまどに置き、薪などの可燃物を入れてから火を灯した。煮え滾って蒸発させてしまってはいけないので、 ゲオルグはかまどを見ていることにした。
 一通り食べ終えたエーディは、頭上に皿とタンブラーを担いで二本足で歩いてやってきた。彼は軽く飛び跳ねて洗い場に乗ると、 水が張ってある洗い桶に汚れた皿を入れてから、洗い場の縁を歩いたエーディは、大人しく火の番をしているゲオルグを見やった。

「お前って、つくづく良い奴だな」

「そうか」

「皮肉だよ」

 エーディは窓際に寄り掛かると、尻尾をぱたぱたと揺らした。

「お前がお姫様を構ってくれるおかげで俺は計算と研究に没頭出来るが、なんだって執心するんだ?」

「そのつもりはない」

「じゃ、なんでだ?」

「俺はアリスについての情報を収集しなければならない」

「それを執心っていうんだよ」

「そうか」

「で、成果は出たのか?」

 エーディは片耳を曲げると、ゲオルグは湯気が昇り始めたスープを木製の杓子で掻き回しながら返した。

「その判断を下せる状況ではない」

「特に進展はないってことか。まあ、一日二日じゃな」

「質問する。ヒルダは、なぜ姿を現さない」

「ん」

 ゲオルグの問いに、エーディは素っ気なく尻尾の先で中庭を指した。ゲオルグは温まりきったスープの鍋をかまどから 下ろし、スープカップに注いで盆に載せてから、エーディが指した先に主眼を向けた。
 芝生の上で、機械の女が自殺していた。ヒルダは主要な回路が入っているであろう頭部にハンドガンを押し当てた格好で 仰向けに倒れていて、頭部は抉れて吹き飛んでいた。彼女の周囲には電子部品やケーブルの破片が大量に散らばっていて、 血液の代わりに潤滑油とバッテリー溶液が流れ出していた。

「ま、そういうことだ」

 エーディは表情を変えずに尻尾を元に戻すと、厨房を見回して戸棚のクッキージャーに目を留めた。

「ヒルダは一週間ごとに自殺する女なのさ。一週間っつっても、ヒルダの製造元の惑星の自転周期に合わせた時間だから、お前の 一週間とは違うがな。俺の計算とヒルダの証言によると、一日が三十二時間で一週間が六日だから単純計算で百九十二時間間隔で 自殺していることになる。そりゃ、俺だって最初に見た時は驚いたが、もう慣れちまったから何とも思わねぇよ」

 羽ばたいて上昇したエーディは両の前足でクッキージャーを抱えると、厨房から出ていった。

「んじゃな、王子様」

 エーディの後ろ姿を見送ってから、ゲオルグはアリスの朝食を載せた盆を手にした。それを運び出す前に、今一度中庭を 見下ろした。城の正面に作られた広大な庭園とは違い、中庭は簡素だ。花の色彩も乏しければ数も少なく、濃緑の生け垣ばかりが 連なっている。同じ長さに切り揃えられた芝生に倒れているヒルダは、柔らかなピンクと白の外装を芝生の切れ端と土で汚し、 ゴーグルもマスクも砕けていて、その下に隠されていた知覚モジュールが露わになっていた。ゲオルグの知るロボットとは いくらか構造が違っていたが、整備兵であった頃の経験で配線や回路の配置はすぐに把握出来た。

「ヒルダの回収を行う」

 ゲオルグは思考を記憶するために声に出してから、スープが冷める前にアリスに朝食を届けることにした。二度寝したとはいえ、 アリスもそろそろ起きているはずだ。その時にゲオルグがいなければ、アリスは拗ねるだろう。そうなれば、ゲオルグの身に何が 起きるのか想像も付かない。幼き暴君の元に戻るために階段を上りながら、ゲオルグは二つの脳を同時に働かせた。 今し方目にしたヒルダの構造を分析し、分解、整備、修理に不可欠な機材と部品をどこで調達するべきか考え、すぐに思い当たった。
 エーディの部屋だ。





 


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