シーフードカレーは実に旨かった。 大神が作る大雑把なカレーとは違い、イカもエビもホタテも丁度良い火の通り具合で硬くなっていなかった。 スパイスも絶妙で、辛さだけで誤魔化していない。白飯も、普段と同じ炊飯器で炊いたはずなのに艶が良かった。 付け合わせに出されたトマトとオニオンのサラダも、酢が効いたさっぱりとしたドレッシングが爽やかな味だった。 デザートに出されたアイスクリームは市販品だったが、それすらも心なしか旨かったような気がしてならなかった。 実家にいた頃から芽依子の料理の腕は冴えていると常日頃思っていたが、このカレーは格別だった。これでは、 ますます芽依子を追い返しづらくなる。食べている最中も食べ終えた後も、芽依子を絶賛してしまった。 全く、どうしたものか。大神は芽依子の存在の素晴らしさに心中をぐらつかせながら、銭湯の湯船に身を沈めた。 社宅の共同浴場の数倍はあろうかという広大な空間には、湯船とシャワーから昇った蒸気が白く立ち込めていた。 タイル張りの壁には定番の富士山が描かれていて、近所の住民と思しき年配の男性達が世間話に興じていた。 大神は、芽依子と共に社宅から徒歩五分の銭湯に来ていた。一人なら社宅の共同浴場で済ませていたのだが、 社宅には大神以外の社員も住んでいて、当然ながら彼らは男であり、そして芽依子は怪人だが年頃の女だ。 まかり間違って妙なことが起きたら大変なので、芽依子の身と社員の安全のために芽依子を銭湯に連れてきた。 何事も起こしてはならない。大神は湯船に浸していた体を少し上げ、顔の体毛から滴る汗混じりの湯を刮いだ。 芽依子は何が何でも実家に帰し、事を終わらせるのだ。そのためには、芽依子よりも早く風呂から上がるべきだ。 体毛にまとわりついた湯を大量に落としながら湯船から上がった大神は、人気の少ない場所で身震いした。 全身から滴る大半の湯が飛び、体が軽くなる。タオルで体を拭いてから脱衣所に入り、自分のロッカーを開けた。 乾いたタオルで改めて全身を拭き、扇風機の前に立った。熱が抜けていくに連れ、無意識に声が漏れた。粗熱を 抜きながら体毛の表面の水分を飛ばした後、大神はロッカーから取り出した部屋着を身に付けていった。大きめの Tシャツとハーフパンツを着終えた大神は洗面器の中に濡れたタオルや石鹸などを入れて脇に抱え、入浴前から 飲みたいと思っていた瓶入りコーヒー牛乳を買い、番台を通った大神は外に出て目を丸めた。 「あれ」 銭湯の玄関脇には、大神が荷物入れにと渡した紙袋を持っている女性のコウモリ怪人が待っていた。 「お待ちしておりました、若旦那様」 「芽依子さん、いや、ナイトメア。なんで怪人体に?」 大神が問うと、芽依子、もとい、ナイトメアは背中から生えた薄い羽根を広げた。 「怪人体であれば服を着る必要がございませんので、変身したのでございます。着替えを持ってくるつもりでしたが、 私としたことが、忘れてしまいましたので」 「ああ、そうか」 大神は納得し、久々に目にしたナイトメアの怪人体を眺めた。人間体に比べ、全体的に筋肉質で骨格も太い。 大きく先の尖った耳、若干上向いた鼻、唇を押し上げるほど太い牙、両手足の指先に生えた刃物のような爪。 全身の大部分は薄灰色の体毛に覆われており、胸部と膝から下は装甲を思わせる硬い皮膚に覆われている。 ぎょろりとした大きな目は白目がほとんど見えず、瞳が真っ赤なので、コウモリと言うよりも悪魔に近い形相だ。 本来、コウモリは両腕から羽が生えているのだが、ナイトメアは怪人なので腰より少し上から羽根が生えていた。 「……ん?」 爪先でコーヒー牛乳の蓋を外した大神は、引っかかりを感じてナイトメアに向いた。 「ナイトメア。着替えを持ってくるつもりだった、ってことは……」 「一夜を共にする所存でございます」 さらりと言い切ったナイトメアに、大神はコーヒー牛乳を飲み損ねかけたが、なんとか飲み下した。 「最初からそのつもりだったのかぁ!?」 「無論でございます」 「あのなぁナイトメア、いくらなんでも展開が早すぎないか!」 「これでも慎重に事を進めているつもりでございますが」 「にしたって、期間が短すぎる! 君が俺にあんなことを言ってから、大して時間が経っていないじゃないか!」 「一ヶ月弱も経過したではございませんか」 「一ヶ月弱、しか、だ!」 大神はコーヒー牛乳を一気飲みしてから、空の瓶でナイトメアを示した。 「もう少し自分を大事にしろ! 若いんだから!」 「御安心なさいませ。なるべく音を立てぬように事を起こします」 「起こすな!」 大神は力一杯言い返したが、銭湯に出入りする客から不思議そうに見られたので、ナイトメアを引っ張った。 途中のゴミ箱にコーヒー牛乳の瓶を捨ててから、大神は社宅に戻る道を辿り、ナイトメアを強引に連れ帰った。 社宅に到着すると、幸い、社員達の姿は見えなかった。大神はナイトメアを自室に入れてドアを閉め、 今一つ締まりの緩い鍵を掛け、カーテンも閉めてから、天井からぶら下がった紐を引っ張って蛍光灯を付けた。 六畳間に押しやられたナイトメアは大きな赤い目を瞬かせていたが、大神は呼吸を落ち着けてから言い切った。 「寝る!」 「では、御布団を」 「自分でやる! いいから、とにかくナイトメアは俺んちに帰ってくれ!」 「若旦那様の現住所はこの御部屋にございます」 「ああ、だから……」 大神は言い直そうとしたが、このやり取りを繰り返すのは心の底から面倒だったので、言い直さなかった。 ナイトメアの脇を通り過ぎて押し入れを開け、綿のくたびれた布団を畳の上に放り出すと、ぞんざいに敷いた。 「とにかく、もう帰ってくれないか」 「何故にございますか」 「だから、これ以上傍にいられると困るんだ!」 「若旦那様の御世話は、これからが本番でございます」 「もう夜じゃないか! 後は寝るだけだ!」 「床に就かれてからが本番なのでございます」 「ん、な……」 ストレートすぎないか。大神が身動ぐと、ナイトメアは口の端を上向けて牙を見せつけた。 「夜こそが、私めの本領でございます」 大神が後退ると、ナイトメアはかちりと蛍光灯の紐を引いて明かりを消し、即席の闇を作り上げてしまった。 怪人であろうと、明暗の差が強いと視力は鈍る。大神も目が眩み、至近距離にいるはずの彼女を見失いかけた。 その隙を逃さずに接近したナイトメアは大神に詰め寄ると、鋭い爪の生えた指先で大神の喉の下をまさぐった。 「若旦那様」 「だ、だから……」 大神はナイトメアを押し返そうとしたが、思いがけず柔らかな感触が右手に訪れ、飛び退いた。 「うお!?」 窓際まで一気に後退した大神が顔を引きつらせると、ナイトメアは胸元を押さえて恥じらった。 「まあ、若旦那様ったら。大胆にございます」 「すまん、今のは事故だ、故意じゃない!」 大神は必死に取り繕おうとするが、ナイトメアは大神との距離を詰めてきた。 「お慕いしております、若旦那様」 「だから、俺は……」 好きな子がいる、だから君とは。大神は拒絶しようとしたが、言う前に手が伸びてきた。 顔の両脇に灰色の体毛に覆われた手が添えられ、暗がりの中ではより目立つ血のように赤い瞳が目前に迫る。 大神の目も暗闇に慣れたので、状況が視認出来た。ナイトメアの体は、大神の体に柔らかく押し付けられていた。 人間体の時よりも体積が増したように見える乳房が大神の胸の下辺りで潰れて、悩ましい感触が伝わってくる。 風呂上がりだからだろう、女性特有の匂いにリンスの香りが混じり、それがまた得も言われぬものを掻き立てる。 心臓が早鐘を打つ。流されてはいけない、と大神の内でありとあらゆる感情が喚いたが、体は動かせなかった。 ナイトメアの幻惑能力を行使されたわけでもないのに、大神はナイトメアを見つめたまま呼吸すらも止めていた。 絶品のシーフードカレーを作った手が、どんな仕事も器用にこなす指先が、大神の湿り気の残る体毛を探った。 ナイトメアの細い吐息が鼻先に近付き、大神が両の拳をきつく固めた直後、場違いな明るい音楽が鳴り響いた。 「悪い」 大神はナイトメアの肩を押して引き離し、蛍光灯を付けてから携帯電話を取った。 「野々宮さんからだ」 携帯電話を開いた大神は、美花からのメールを読んだ。来週の夏祭り、一緒に行きませんか、とのことだった。 可愛らしく絵文字が多く使われたメールを読みつつ、横目にナイトメアを窺うと、彼女は口元を軽く押さえていた。 目元は険しく、悔しがっているようではあったが、背中の羽根が垂れ下がっていることが少しだけ気に掛かった。 悔しいだけでなく、何かに安堵しているようにも思えた。大神は携帯電話を閉じてから、ナイトメアに振り返った。 「ナイトメア」 「はい」 ナイトメアは顔を上げたが、語尾は僅かに弱っていた。その変化に気付き、大神は語気を和らげた。 「無理しなくていいぞ」 「そのようなつもりはございません。私めは、若旦那様を心からお慕いしております」 「本当にそうか? 君は何か目論んでいるんじゃないのか?」 「いえ、そのようなつもりは!」 動揺したのか、ナイトメアは声色を上擦らせながら大神を仰ぎ見た。 「とにかく、今日は帰ってくれ。その方が、君のためにもなりそうだ」 大神はナイトメアと視線を合わせ、苦笑いした。 「……そのようで、ございますね」 ナイトメアは大神の視線から逃れるように身を引くと、片膝を付いて礼をした。 「度重なる御無礼を御許し下さい、若旦那様」 「あんまり気にするな。だが、気にしすぎないのも困り者だけどな」 「はい」 ナイトメアは立ち上がると、服を入れた紙袋を抱えた。 「それでは、若旦那様。失礼いたします」 「ああ。おやすみ、芽依子さん」 大神が窓を開けてやると、ナイトメアは窓から空中に踏み出してから振り返った。 「お休みなさいませ、若旦那様」 薄い羽根が夜気を叩き、細身の影が藍色の夜空に紛れていく様を見送りながら、大神は心底ほっとした。 そして、メールを送ってくれた美花に感謝した。あれがなければ、今頃はナイトメアに押し倒されていた。女性経験が 全くない大神では、最後まで流されかねない。緊張が緩んだ大神は、窓を閉めてから布団に座った。美花からの メールを何度となく読み返し、夏祭りに思いを馳せていると、先程の動悸とは違う動悸が起きてきた。緊張で心臓が 鋭く痛むものではなく、胸の底から熱が溢れる。浴衣姿の美花を想像すると、熱は温度を増した。だが、ふとあることに 気付いた大神はカレンダーの日付を睨み、会社のスケジュールを書いた手帳を広げた。 「ほおあああっ!?」 素っ頓狂な叫びを上げてから、慌てて口を閉じた。夏祭りには大勢の社員が参加することになっている。 頭数が足りなかったので、四天王のみならず大神もメンバーに加わっている。そして、その日の仕事内容とは。 「そうだ、夏祭りの模擬店を任されたんだ……」 大神は布団に崩れ落ち、手帳と携帯電話を放り出した。 「確かにこれはジャールの恒例行事で、地元企業として地域社会に貢献するためには必要なことだけど……」 大神は頭を抱えて転がり、仰向けに倒れた。 「総統だからサボるわけにもいかないし、俺がいなくても店は回せるだろうけど示しが付かないし……」 出来ることなら、仕事を放り出して美花と夏祭りを楽しみたい。だが、大神はその楽しませる側の立場だ。 主催である自治体もジャールの人手を当てにしている節があり、お得意様なので、無下にしたら今後に関わる。 ここは腹を括り、美花に断りのメールを出すしかない。大神は本気で泣きたくなったが、返信するメールを打った。 「ごめんなさい、野々宮さん」 大神は頭を垂れて、メールを送信した。数分後に返ってきた美花のメールは、文面だけでも残念そうだった。 七瀬や鋭太といった友人が同行するのでまだいいが、これで美花一人だったら、断った心苦しさで参っただろう。 大神は携帯電話を枕元に落とし、胸を上下させた。美花が鋭太と付き合っていると知っているのになんて様だ。 美花と鋭太の仲を応援するどころか鋭太がいないかのように思考し、何もなかったかのように思いたがっている。 終わった恋なのだから、と思おうとしても、大神の頭は美花に恋をしたばかりの頃となんら変わらずにピンク色だ。 好きな相手に好きな相手がいる。だが、それは自分ではない。そんな現実を受け止めたくないから、なのだろう。 しかし、それを理由に芽依子を受け入れるのは間違いだ。望まない関係を作るのは、両者のためにはならない。 「やっぱり、世界征服するしかないな」 尽きない悩みに辟易し、大神は独り言を呟いた。世界が手中に収まれば胸を張って美花に告白出来る。 そうすれば、全てが解決する錯覚に陥る。美花が大神と付き合ってくれるかどうかも解らないのに、そう思ってしまう。 だが、現実は都合良く事が運ぶわけではない。世界征服して美花に告白しても、そこから先があるとは限らない。 ミラキュルンを始めとした様々なヒーローが、庇護欲をそそる要素を取り揃えた美花を助け出さないわけがない。 だから、手始めにヒーローを倒さなければ始まるものも始まらないが、第一段階すら突破出来ていない始末だ。 世界征服への道程は険しい。 09 7/29 |