翌週、土曜日。午前八時二十二分。 駅の西口改札前の階段にだらしなく座るツヴァイヴォルフは、牙の並んだ顎を全開にして大欠伸を放った。 青い軍服ではあるが堅苦しい礼服ではなく、軍服と似た青い生地で作られているドイツ軍のそれに似た戦闘服だ。 軍帽の代わりに略帽を被り、軍靴の代わりにジャングルブーツを履き、軍鞭の代わりにナイフを腰に提げている。 ハイキングの必要物資を詰めたリュックサックはどう見ても背嚢なので、自動小銃がないのが逆に不自然だった。 ズボン後部から出ている尻尾は眠たげに垂れ下がっていて、ツヴァイヴォルフの瞼もまた今にも閉じそうだった。 その傍らに控えるナイトメアは、自分のリュックサックを大事に抱えてマッハマンが来る瞬間を待ち侘びていた。 ハイキングの誘いの果たし状をツヴァイヴォルフに持たせた時は、まさかここまで上手くいくとは思っていなかった。 先週の決闘の翌日曜日、ミラキュルンから本社に電話があり、マッハマンもハイキングに行くとの連絡があった。 それを聞いてからというもの、ナイトメアは顔にも態度にも出さなかったが喜びすぎてしまい、熱が出たほどだった。 熱が出たのは夜中で一時間もしないで平熱に下がったので問題はなかったが、そこまで喜ぶ自分に心底呆れた。 「マジダリィし……」 ツヴァイヴォルフは太い指先で耳を掻いてから、再度欠伸をした。 「つか、俺、帰っていい?」 「なりません」 ナイトメアは努めて平静を保とうとしたが、若干語尾が上擦ってしまった。 「本日のハイキング、ではなく、マッハマンとの決闘を果たすためには社規に従わねばなりません。そのためには、 普段は誰にも必要とされていない坊っちゃまの存在が今この時ばかりは必要不可欠なのでございます」 「つか、お前、俺が嫌いなん?」 「坊っちゃまのことを好きか嫌いかと問われれば好きな方ではございますが、鼻に突く部分が多すぎるために 僅かばかりの好きが疎ましさに塗り潰されてしまうのでございます」 「それ、結局嫌いなんじゃん」 「嫌いではございません。ただ、好きになれないのでございます」 「何それ。マジ意味不明だし」 ツヴァイヴォルフは尻尾で階段を叩いていたが、気のない眼差しを上げた。 「お」 ツヴァイヴォルフの視線の先には、朝方の駅前の風景には全く馴染まない二人のヒーローが並んで立っていた。 横断歩道の信号が青に変わると、それらしい荷物を背負ったミラキュルンとマッハマンが西口にやってきた。 「おはようございまーす」 快活に挨拶したミラキュルンは、マントの上からリュックサックを背負っていた。 「おはようございます」 やりづらそうに挨拶したマッハマンは、背部装甲のアフターバーナーの上にリュックサックを背負っていた。 「おはようございます、御二方。お待ちしておりました」 ナイトメアが一礼すると、立ち上がったツヴァイヴォルフが仕方なさそうに挨拶した。 「はよっす」 「初めまして、ナイトメアさん。純情戦士ミラキュルン、以下略です」 ミラキュルンが簡略化したポーズを付けたが、マッハマンはしなかったので、ミラキュルンは兄を急かした。 「ほら、お兄ちゃんも。ナイトメアさんともツヴァイヴォルフさんとも初対面でしょ?」 「ん、まぁ……」 ナイトメアと面識があると説明するのが面倒だったので、マッハマンも簡略化したポーズを付けた。 「音速戦士マッハマン、以下略!」 「つかさ、その以下略って何? マジ感じ悪いし」 ツヴァイヴォルフが不満げにぼやくと、ナイトメアは白目がほとんど見えない目でツヴァイヴォルフを睨んだ。 「初対面の御方にまともな挨拶もせず、自己紹介もなさらない坊っちゃまには、それを仰る立場などございません」 「つかマジお前嫌いだし」 ツヴァイヴォルフは舌を出してから、ぞんざいに名乗った。 「暗黒参謀ツヴァイヴォルフだ」 「今日は楽しいハイキングにしましょうね、ナイトメアさん、ツヴァイヴォルフさん」 ミラキュルンは両手を重ね、バトルマスクの下で満面の笑みを浮かべた。 「私もお兄ちゃんも、ハイキングに行くのは初めてなんです。だから、先週からずっと楽しみだったんですよ」 「マッハマンもでございますか?」 ナイトメアに興味津々で問われ、マッハマンはゴーグルを逸らした。 「こいつがあんまりはしゃぐから、ちょっと釣られちまっただけだ」 「つかさ、俺以外全員空飛べるじゃん。山登る必要なんてマジなくね?」 ゆらゆらと尻尾を揺らすツヴァイヴォルフに、ミラキュルンは少しむっとした。 「そんなの面白くないじゃないですか。自分の足で頑張って歩いて山に登るからこそ、楽しいんですよ」 「ミラキュルンの仰る通りにございます。さあ、バスターミナルに参りましょう。八時三十分発に乗る予定ですので」 ナイトメアに先導されてミラキュルンとマッハマンが続くと、ツヴァイヴォルフは解せない顔で最後を歩いた。 バスターミナルには出勤や部活動に向かう乗客達が並んでいて、ヒーローと怪人の混合チームは浮いていた。 普段は日常に馴染みすぎていて注目されないヒーローや怪人であっても、今回ばかりはさすがに異様だった。 なので、スーツ姿のサラリーマンやジャージ姿の中高生から視線が注がれてしまい、少しばかりやりづらかった。 市内経由で山麓に向かうバスが到着すると、一般の乗客に混じって乗り、最後尾の座席に並んで座った。 左の窓際からミラキュルン、ナイトメア、マッハマン、ツヴァイヴォルフの順番で、女子二人は早速話し始めた。 だが、マッハマンとツヴァイヴォルフの間には特に話題もなかったので、二人に話を振られない限りは黙っていた。 市街地を過ぎ、住宅街を過ぎると、次第に乗客の数も減っていって最終的には四人だけしかバスに残らなかった。 同じ目的の乗客は一人もいないのだろうか、とマッハマンは思ったが、考えてみれば山の山頂には車で行ける。 家族連れで行楽に出掛けるのならば、わざわざ山道を登らなくても乗用車を使って山頂に登った方が余程楽だ。 秋に入ったとはいえ、まだまだ残暑が厳しい季節だ。山登りには少し早いのかもしれない。 マッハマンがそんなことを考えているうちにバスは山麓のドライブイン付近のバス停に到着し、四人は下車した。 バスから降りると、紅葉には程遠い青葉に包まれた山が待ち構え、爽やかな風が吹き付けた。 「わー!」 ミラキュルンは感嘆し、ドライブインの隅に立てられている登山道を示す看板を指した。 「あっち? あっちから登るんだよね? ね、お兄ちゃん?」 「そうだ。ガキじゃないんだから、そんなにはしゃぐな」 マッハマンに窘められ、ミラキュルンは少し拗ねたようにリュックサックの肩紐を両手で握った。 「だって、楽しいんだもん」 「では、編隊を決めましょう。ペースを決める先頭は私めが、最後尾はマッハマンにお任せいたします」 ナイトメアが発言すると、ツヴァイヴォルフは片耳を曲げた。 「つか、そんなんマジどうでもよくね? たかだか五百メートルの山だし」 「五百メートルったって、山は山だ。確かに、このメンツじゃしんがりは俺以外にいなさそうだしな」 マッハマンはナイトメアを見やり、リュックサックを背負い直した。 「ナイトメア、これはお前の作戦だからな。お前が責任を持って行動しろ」 「心得ております」 ナイトメアは深く頭を下げてから、ドライブインのだだっ広い駐車場の奥にある登山道入り口を指した。 「では、私め、ミラキュルン、坊っちゃま、マッハマンの順番で登るといたしましょう」 「てか、普通にバス出てんじゃん……」 浮かれて歩くミラキュルンを横目に、ツヴァイヴォルフはバス停の時刻表を認めて呟いた。運行本数は市街地の 半分以下だが朝昼晩と出ており、ここで三十分程待てば午前九時の便に乗れるだろう。わざわざ苦労する意味が 解らない、と内心でぼやきながら、ツヴァイヴォルフは登山道に入った二人を追った。登山道は整備されてはいるが 使用頻度が低いらしく、土が剥き出しになった道には足跡は一つも付いていない。雑草と木々の枝と根が道に迫り出し、 足元は決して良くない。だが、手前を歩くミラキュルンはハイヒールだ。これ危ないんじゃね、とツヴァイヴォルフが 不安を感じると、案の定ミラキュルンはヒールを根に引っ掛けた。 「あうっ」 真正面から転んだミラキュルンは、べちゃっ、とバトルマスクを泥溜まりに埋めてしまった。 「どうかなさいましたか」 先頭を歩くナイトメアが立ち止まると、ミラキュルンは立ち上がり、泥だらけのバトルマスクを擦った。 「あ、大丈夫です。ちょっと転んだだけだから、どこも痛いところはないですし」 「だからバトルスーツにヒールは止めとけっつったろ」 マッハマンはツヴァイヴォルフを押し退けてミラキュルンに近付き、リュックサックからタオルを出した。 「ほら、顔貸せ。手間掛けるんじゃねぇよ」 「だ、大丈夫だよ、自分で出来るって」 ミラキュルンは照れもあってマッハマンの手から逃れようとするが、マッハマンは強引にマスクを拭った。 「今、きっちり拭いておかないと、変身解除した時が悲惨だろうが」 「シスコン野郎」 ミラキュルンの汚れを丁寧に拭き取るマッハマンを見、ツヴァイヴォルフがさも馬鹿らしげに言った。 「つか、その程度で手ぇ出すか? マジおかしいし」 「だから言ったじゃない、もう……」 ミラキュルンが泣きそうな声を出したので、マッハマンは身を引いた。 「すまん」 「私だって、いつまでも子供じゃないんだから」 ミラキュルンは兄の手からタオルを奪い取ると、ピンクのバトルスーツに付いた泥や枯れ葉の破片を拭った。 体の前面を一通り拭って綺麗にしたミラキュルンは、自分のリュックサックに汚れたタオルを入れて歩き出した。 マッハマンはタオルを受け取ろうと手を伸ばしかけたが、所在を失ったので下げ、ツヴァイヴォルフの後を歩いた。 「てか、俺、お前みたいなのマジ嫌いだし」 ツヴァイヴォルフは略帽の下から目を上げ、背後を歩くマッハマンを睨んだ。 「ミラキュルン、自分で出来るっつってたじゃん。なのに手ぇ出すなんて、マジウザ過ぎだし」 「お前はあいつのダメさを知らないからだ」 「横からいちいち手ぇ出されたら、ダメになるに決まってんじゃん」 ツヴァイヴォルフはミラキュルンの背を追いながら、嫌悪感を丸出しにして牙を剥いた。 「助けてほしかったら、自分から言うに決まってんだろーが。その前にゴチャゴチャ手ぇ出す奴があるかよ。 お前に比べりゃ、俺の兄貴の方がまだマシかもしんね。馬鹿だけど」 「……解っちゃいるんだが」 バトルマスクの下で自分にだけ聞こえるように呟いたマッハマンは、不機嫌極まるツヴァイヴォルフを追った。 美花を、ミラキュルンを大人として扱うべきだといつも思っているが、その割に子供意識を抜くことが出来なかった。 自立させなければ、と思っているくせに、妹にはいつまでも甘えてきてほしいという思いがどうしても消えないのだ。 早く大人になってほしいが、子供のままでいてくれた方が寂しくない。だが、それはマッハマン自身の甘えだ。ミラキュルンに ヒーロー活動を始めるように勧めたのも、日常で妹との距離が空いていくことに慣れるためだった。だが、その割に 妹から離れることが出来ず、結局は朝食も弁当も夕食も作ってしまい、本当に突き放せていない。 「ミラキュルン」 マッハマンが声を掛けると、ミラキュルンは振り向いた。 「なあに、お兄ちゃん」 「悪かった」 「もういいよ、怒ってないから」 ミラキュルンは兄に向き直ったが、言葉に反して語気は苛立っていた。 「お弁当だってお兄ちゃんが作った方がおいしいに決まってるし、荷物だってお兄ちゃんが準備してくれた方が 絶対に忘れ物がなくて済むだろうし、お兄ちゃんの言うようにヒールじゃなかったら転ばなかっただろうし、お兄ちゃんの 言うように変にはしゃがない方がヒーローらしくていいだろうし。全部全部、お兄ちゃんが正しいんだから。どうせ私は大したことないよ。 ヒーローの才能だって勉強だって運動だって料理だって何だって、お兄ちゃんには敵わないよ。だから、お兄ちゃんが全部 やればいいじゃない。ジャールの怪人さん達との戦いだってそうだよ。私が戦うよりも、お兄ちゃんが戦った方がお父さんもお母さんも 喜ぶよ。そうに決まってる!」 「だから悪かったって言ってるだろう! 大体、それとこれとは関係あるか!」 「関係ないわけないじゃん! お兄ちゃんはそれでいいかもしれないけど、私は良くないんだよ!」 ミラキュルンは細かく震える手で、ぐいっとハート型のゴーグルの下部を拭った。 「ハイキングもそうだけど、お兄ちゃんと出掛けるのは久々だったから、本当に嬉しかったんだよ! お弁当だって一緒に 作りたかったし、準備だって一緒にやりたかった! なのにお兄ちゃんが全部やっちゃうから、私はほとんど出来なかった! でも、本当に楽しみだったんだよ! それも喜んじゃいけないの!?」 「だから、俺は……」 マッハマンが口籠もると、ミラキュルンはマッハマンに背を向けた。 「もういい! お兄ちゃんなんか知らない! 一人で登る!」 「お待ち下さいませ」 ナイトメアはミラキュルンを引き留めようとするが、ミラキュルンは大股に登っていってしまった。 「大丈夫です! 一本道ですから迷うわけないですし!」 マッハマンは妹を追おうとしたが、それでは余計に怒らせてしまいそうな気がしたのでその場に立ち尽くした。 追わなければ、とは思うが、頻繁に泣きはするがあまり怒らない妹から怒りをぶつけられたショックが抜けない。 「あーあ、嫌われてやんの。マジダセェし」 ツヴァイヴォルフがけらけらと笑ったので、ナイトメアはたしなめた。 「それはそうかもしれませんが、ここはマッハマンに慰めの言葉でも掛けるべき状況でございます」 「そうか? てか、怪人がヒーロー慰めてどうすんだよ」 ツヴァイヴォルフは呆然と棒立ちしているマッハマンを小突き、悪意に満ちた笑みを浮かべた。 「おい、なんか言えよ。てか、今倒せば、こいつ爆死するんじゃね?」 「私もそう感じてはおりますが、この状況で攻撃するのは卑怯極まりないかと思われます」 ナイトメアは登山道を下り、マッハマンと向き合ってから山頂を示した。 「いかがなさいますか、マッハマン。ミラキュルンを追い掛けるのでございましたら、行動はお早い方が」 「いや……やめとく……」 ツヴァイヴォルフを押しやったマッハマンは、重たい足取りで歩き出した。 「普通に登ろう」 マッハマンはミラキュルンのヒールの足跡が付いた道を登り始めたが、足跡の間隔は大きく開いていた。 苛立つあまりに無意識に飛行能力を使ってしまっているからだろう、登るに連れて足跡の間隔は広がっていった。 それが妹の怒りを表しているように感じ、マッハマンはいつになく心が痛んでしまったが、それを堪えて登り続けた。 自分が余計なことさえ言わなければ、こうはならなかった。だが、弁当にしても荷物にしても良かれと思ったのだ。 どうせ食べるのなら出来の良い弁当を、忘れ物がないように、と思ったからであって妹を無下にしたつもりはない。 だが、本気で怒られてしまった。マッハマンはやるせなくなったが、歩くことに専念してひたすら前進した。 楽しいハイキングどころか、雪中行軍のような心境だった。 09 8/31 |