この日を迎えるのが、どれほど面倒だったことか。 国際空港の出入国ゲートに近いベンチに妹と並んで座る速人は、自宅に帰りたくてどうしようもなかった。 両親は二人揃ってマッハ10で空を飛べるのだから、ジャンボジェットに乗って入国してくる意味などないだろうに。 実際、以前の一時帰国の際にはそうしていたので、空港ではなく自宅マンションの屋上で二人を待ち構えていた。 出迎えに行かなくて済む分それはそれで楽だったが、唐突にやってきて唐突に戻ってしまったので鬱陶しかった。 ヒーロー活動の拠点を日本からアメリカに移した後、年に一度は帰国するのだが、不定期で期間もいい加減だ。 前もって知らせてくれれば心構えも出来るのに、といつも思っていたが、今回のように予告されると逆に面倒だ。 速人は暇潰しにと持参したMP3プレイヤーを操作して好きな曲を再生しながら、隣で雑誌を読む美花を窺った。 美花は両親に疲れ果てた速人に比べれば真っ当に両親が帰還することを喜んでいるらしく、横顔は綻んでいた。 「なあ、美花」 「うん?」 顔を上げた美花に、速人はやる気なく尋ねた。 「二段変身、したんだって?」 「うん。物の勢いで。出来れば思い出したくないけど……」 ナメクジ怪人ナクトシュネッケに襲われた際の気持ち悪さを思い出し、美花は顔を歪めた。 「あんまりやりすぎるとジャールとのパワーバランスが崩れるから、気を付けろよな」 「うん、解ってる。それに、二段変身すると凄くお腹が空いちゃうから、そんなに好きじゃないし」 速人の忠告を素直に受け入れた美花は、流行りの固まりのようなモデルがポーズを取る雑誌に目を戻した。 「なら、いいけどさ」 このことは両親に話さないようにしよう、と心に決め、速人は紙カップを傾けてブラックコーヒーを啜った。 両親は、美花が野々宮家のみそっかすだからこそ可愛がっている節がある。ダメな子ほど可愛い、というやつだ。 一般的な両親のように血を分けた存在だから愛おしむのではなく、ヘタレなドジッ子ヒーロー、だから愛している。 その気持ちは速人にも解らないでもないのだが、親との子の関係としては根本的な部分からずれてしまっている。 そんな美花が巨大化だけでなく二段変身をしたとなれば、両親の美花に対する執着は薄れてしまうかもしれない。 下手をすれば、興味すら失う。そうなってしまえば、美花は浮きがちな一家の中から完全に弾かれてしまいかねない。 入国審査を無事終えた乗客達がゲートを通り抜けてロビーに入ってきたので、速人と美花は両親の姿を探した。 審査で弾かれていないだろうか、と、少々不安を抱いていると、人々から頭二つほど飛び出した男がいた。遠目から 見ても間違いようがない。速人は安堵と共に疲労を感じたが、なるべく顔に出さないように努めた。 「おお、迎えに来てくれたかぁっ! 速人、美花!」 大股に歩み寄ってきた巨体の男は、日焼けした顔を緩めた。秋なのに、ランニングとジーンズという出で立ちだ。 しかも、上も下もはち切れんばかりの筋肉が詰まっていて、今にも服を破って飛び出してきそうなほど凄まじい。 「久し振りね、元気してた?」 その男の暑苦しいほど逞しい太い腕に華奢な腕を絡ませているのは、整った容貌の長身の女だった。 男とは対照的にフルメイクで海外ブランドの洒落たスーツを着こなしているので、異様な組み合わせだ。実際、他の 乗客達の目を引いていて、帰国してきた乗客や出迎えに来た家族は興味深げに二人を窺っていた。 「お帰りなさい、お父さん、お母さん」 美花が朗らかに笑うと、父親、鷹男は美花を荒っぽく撫でた。 「おう、ただいまあっ! 美花、速人と仲良くやっていたかっ!?」 「うん、なんとか。お父さんとお母さんも元気だった?」 「元気かなんて、そんなこと聞くまでもないじゃないかっ! なあ鳩子っ!」 鷹男が妻の肩に手を回すと、鳩子は夫の胸に寄り掛かった。 「ええそうね。昨日だって、ニューヨークの空港を襲撃した宇宙サイボーグ軍団を全滅させてきたんだから」 「惑星一つ壊滅させた連中だというからさぞ強いかと思ったんだが、いざ戦ってみると歯応えがなくてなぁ!」 世間話のように笑う鷹男に、速人は微妙な顔をした。 「変身してないんだから、そういう話すんなよ」 「そんなに気にしないの。どうせ誰も聞いてないんだから」 鳩子は平然と笑うが、速人はそのせいで二人が窮地に陥った前例を覚えていた。 「往来のド真ん中で素顔でべらべら喋った挙げ句、秘密基地の防衛システムの情報をだだ漏れにして、秘密基地の 場所を知られたどころか総攻撃を喰らって全滅しそうになったことをもう忘れたのかよ。半年前だぞ?」 「だが、結果としておびき寄せたミュータント軍団を返り討ちにしたんたんだからいいじゃないかっ!」 全く気にしていない鷹男の答えに、速人は言うだけ無駄だったと悟った。 「ああ、そうかもしんねぇな」 「一年振りに会ったのに相変わらずクールねぇ、速人ちゃんは」 鳩子が物足りなさそうに擦り寄ってきたので、速人は母親を振り払ってから歩き出した。 「用事がないならさっさと帰るぞ。人数が増えた分、夕食の支度も急がなきゃならねぇし、部屋の片付けも」 「マイサン、その必要はないぞっ!」 鷹男のやたらと大きな手で肩を掴まれ、速人は父親を見返した。 「なんでだよ」 「うち、引っ越したから」 得意げに笑んだ鳩子に、速人は数秒掛かって意味を理解した。 「……あ?」 「え、あ、う、なんで?」 事の次第が解らないので美花が戸惑うと、鷹男は弾丸さえも跳ね返せる頑強な胸板を張った。 「そりゃあ決まってるじゃないかっ! あんなマンションは金ばかり掛かって不経済じゃないかっ!」 「私達がいない間に、二人の身に何かあったら困るから住まわせていただけだもの。だからね、二人に内緒で 一戸建てを買ったのよ。一括で。でね、速人ちゃん達がマンションを出た後に、引っ越しのお手伝いをしてくれるヒーローを 派遣したのよ。でもね、安心してね。その人は影の中に異空間を作れる能力を持っていてね、マンション一部屋分の 荷物なんて軽々入っちゃうの。だからね、業者さんを呼ぶよりもずっと手っ取り早いし安全なのよ」 突拍子もないことを次々に並べる鳩子に、速人は後退りかけた。 「……なんで、そんなことしやがるんだ」 「俺達はずっと海外や宇宙を飛び回ってきただろう! だから、少しは落ち着こうと思ってだなぁっ!」 「だから、明日からはずっと家にいるわ。ね、嬉しいでしょ?」 悪気の欠片もない両親の笑みに、速人は妹を見やると、美花は今にも泣きそうな愛想笑いを作っていた。 一緒に住んでもいないのに、なぜ引っ越しを決めてしまうのだ。一言でも相談してくれれば全力で断ったのに。 だが、断る機会すら与えず、自分達がそうしたいからというだけで速人と美花の生活を強引に変えてしまうとは。 さあ行こう、と床を踏み砕かんばかりに力強く歩き出した鷹男を、鳩子は浮かれきった足取りで追い掛けた。 野々宮鷹男は見上げんばかりの大男で、日本人離れしていると言う以前に人間離れしている体格の持ち主だ。 身長は二メートル以上あり、全身くまなく筋肉が付き、変身せずに生身で歩いていても怪人が道を空けてしまう。 顔付きも強面で、戦闘ばかりの日々で凶相が染み付いてしまったらしく、表情がなければまるで鬼瓦のようだ。 対する野々宮鳩子は、身長が高めで手足が長く、正直言って美人なので黙っていれば良家の奥様に見える。 ヒーロー体質のおかげか、大学生と高校生の子供がいても若々しさは衰えず、体の弛みもなく肌の色艶も良い。 人間離れした外見の鷹男と並んで歩く様は正に美女と野獣で、似合っていると言えば似合っている夫婦だ。 そんな両親が仲睦まじく笑みを向け合いながら先に行ってしまったので、取り残された速人は美花を手招いた。 美花は読みかけの雑誌を抱えて速人に追い付くと、幼子のように速人の服の裾を掴んで眉を下げた。 「お兄ちゃん、どうしよう」 「どうもこうもないだろ。父さんと母さんが飽きるまで付き合うしかない」 速人は美花の手を解くと、歩調を速めた。非日常にどっぷり浸かっているから、日常が物珍しいだけだ。 味付けの濃い料理を食べ過ぎると白米が恋しくなるようなものだが、身勝手に巻き込まれるのはうんざりだった。 しかし、自宅通いの大学生の身分では独り立ちする資金もなく、両親の元に美花だけ残すのは裏切りに等しい。 だが、両親が飽きるまでの期間が解らない。二三日で家を出る時もあれば、一ヶ月以上滞在していた時もあった。 とにかく、嵐が去るまで付き合うしかない。それまでの辛抱だ、と速人は腹に決め、両親を追って足早に歩いた。 これもまた、戦いなのだ。 門柱には、早々に表札が掛かっていた。 野々宮、と楷書体で名字が刻み付けられた金属板の表札が付いている門は硬く施錠されていた。 至って普通の一軒家で、特に変わったところはない。ガレージが隣接しているが、車ではなく荷物が入っていた。 野々宮家は全員変身後には飛行能力を有しているので、自動車免許を取る必要もなければ意味もないからだ。 だから、両親は免許も車もないのだが、アルバイトで貯めた資金で自動車学校に通っている速人にはありがたい。 普通の人間として普通の企業に就職するためには、普通自動車免許は取っておくに越したことはない。絶対に 俺の車を買おう、と密かな野望を抱き、速人はこっそりと拳を握った。美花はなんだかんだ言って新居が嬉しいのか はしゃいでいて、両親はその様に目を細めている。 「お呼びでございましょうか」 聞き覚えのある声に速人が振り返ると、いつもと変わらぬメイド服姿の芽依子が立っていた。 「え?」 速人が面食らうと、鳩子は速人の前を通り過ぎて芽依子に近付いた。 「あなたがナイトドレインの娘さんね? 悪いわね、引っ越しのお手伝いなんか頼んじゃって」 「いいえ、お気遣いなさらず。私めは使用人にございます故、掃除や片付けはお手の物にございます」 芽依子がメイド服の裾を広げて一礼すると、速人よりも一拍遅れて美花が驚いた。 「え? えぇ!? なんでお父さんとお母さんが芽依子さんのこと知ってるの!?」 「それについては私めから御説明させて頂きます、美花さん」 芽依子は美花に向き、胸元に手を添えた。 「私めにも両親がございますが、三年半前のある出来事を切っ掛けに今までの生活を投げ打ち、私めを取り残して 身勝手に新たな生活を始めたのでございます。そして、私めの両親は野々宮御夫妻が活躍なさっていたアメリカで ニューフェイスのダークヒーローとして活躍し、野々宮御夫妻と知り合ったのでございます。父親は悪を噛み砕く闇の牙、 ナイトドレインとして、母親は真実を捉える闇の瞳、ナイトアイズとして」 「え、でも、それって」 速人は色々と言いたいことが出来たが、両親の手前、言えずに飲み込んだ。 「野々宮先輩と美花さんには既に面識がございますが、改めて自己紹介させて頂きます」 芽依子はスカートを広げ、膝を曲げて礼をした。 「大神家の使用人であり、ナイトドレインことドミニク・内藤の長女、内藤芽依子にございます」 姿勢を戻した芽依子は、エプロンドレスのポケットから鍵を出し、鷹男の手に渡した。 「御夫妻が御到着される前に、全ての御部屋の掃除を済ませておきましたので、後は電気、ガス、水道の名義変更の 書類の署名捺印と野々宮御兄妹の住所移動と御荷物の片付けをするだけにございます」 「ありがとう、芽依子さんっ! おかげで助かったよっ!」 鷹男が門を開けながら礼を言うと、芽依子は微笑むように目を細めた。 「いえ。私めこそ、皆様と接する機会を与えて頂いて誠に嬉しゅうございます」 芽依子の視線が速人に向いたので、速人は少々やりづらくなって目を逸らした。 「へーぇ、知らなかったぁ」 美花は素直に感心し、芽依子に近付いた。 「芽依子さんちもそうだったんですね。ちっとも解りませんでした」 「私めは一介の使用人にございます。改めてお話しするようなことではございませんでしたので」 芽依子が平坦に返すと、美花はふとあることに気付き、今更ながら顔を引きつらせた。 「え、じゃあ、それっていうことは、もしかして芽依子さんは私がアレしてることも知ってるんじゃ……?」 「存じ上げております」 「あ、う、えっと、それはそのあのうんと! ねえお兄ちゃん、どうしよう!」 途端に慌てふためいた美花に腕を掴まれ、速人はよろけた。 「今更キョドるほどのことでもねぇだろ! 大体、俺達は素顔を知られても大して意味ないんだから!」 「で、ででででもぉ」 涙目になりかけている美花に、芽依子はやや声色を和らげた。 「御安心なさいませ。私めは美花さんと先輩の御許しを頂かない限り、口外しませんので」 「あ、じゃ、大神君も鋭太君も、その、私がアレしてるってことは」 「お二方だけでなく、大神家の誰も御存知ありません」 芽依子の答えに、美花はほっと胸を撫で下ろした。 「だったら良かった。じゃ、お兄ちゃん、家の中見てくるね!」 お父さんお母さーん、と両親を呼びながら玄関に入っていく妹を見送ってから、速人は芽依子を労った。 「悪いな、内藤。うちの親が迷惑掛けちまって。うちの手入れ、大変だっただろ?」 「お気になさらず。私めは、先輩のお顔を拝見出来るだけで充分でございます」 芽依子は少し照れくさそうに目を彷徨わせたので、速人はますますやりづらくなった。 「そんなに大したもんじゃねぇだろ」 「いいえ。私めには、先輩以上に特別な御方はおられないのでございます」 「だから、言い過ぎなんだよ、お前は」 妙な沈黙が起きそうになったので、速人は一瞬躊躇ったが、芽依子の腕を取って家に引っ張った。 「ほら、さっさと来いよ。片付けを手伝ってもらわなきゃ、夕飯作るどころじゃないからな」 「ふあっ」 すると、芽依子は妙な声を漏らし、かくっと膝を折り曲げた。 「ど、どうした?」 速人が振り返ると、芽依子は僅かに先が尖った耳から首筋まで真っ赤になってその場に座り込んでいた。 普段はほとんど崩さない表情が戸惑いと緊張で崩れていて、速人に掴まれた左腕は細かく震えてしまっていた。 芽依子は緊張しすぎて言葉も出せないらしく、真っ赤な顔を隠すために右手で顔を覆うが、その手も震えていた。 「あの……」 切なげに上擦った言葉を絞り出した芽依子に、速人はすぐさま手を離した。 「なんかその、すまん!」 「いえ……」 芽依子は玄関脇の柱に縋って立ち上がると、裾を払い、紺色のスカートに付いた汚れを落とした。 「御片付けを手伝ってまいります」 速人に表情を見せまいと俯いて通り過ぎた芽依子は、上がりまちにつまずいたが、転ばすに上がった。 彼女の後ろ姿は頼りなかったが、追い掛けては芽依子の症状が悪化すると思ったので速人は突っ立っていた。 左手には芽依子の右腕の感触が残り、布越しに握り締めた腕の細さと体温の暖かさが生々しく染み付いていた。 半分は怪人だが、やはり芽依子は女だ。束の間とはいえ、戦った時に感じた強張りは一切感じられない。 それどころか、片手だけで腕の一本など容易く握り潰せそうだ。ならば、肌に触れれば、もっと弱々しいのだろう。 そこまで考えて、芽依子に再会した時にキスされたことを思い出してしまい、速人は頭に血が昇ってきてしまった。 今考えることじゃないだろう、と懸命に振り払おうとするが、唇に触れた芽依子の柔らかさがありありと蘇ってくる。 それどころか鼻を掠めた彼女の匂いも過ぎり、おまけに先程の芽依子の赤らんだ顔が瞼の裏に焼き付いている。 好きだと言われてもあまり気にならなかったのに、なぜ急にこんなことになってしまうのか、我ながら訳が解らない。 芽依子は怪人だ。だから、好きになれないし、好きになったところでヒーローとは決して相容れない存在だ。 けれど、芽依子が近くにいただけで頭の芯が煮えてしまう。彼女の腕を取った手が、痺れるほど熱く、胸が痛い。 これは、もう考えるまでもない。 09 9/9 |