純情戦士ミラキュルン




第二十一話 機械と野生の融合パワー! 獣装ウルファイター!



 夜が更けても、都心のオフィス街には明かりが絶えない。
 悪の秘密結社ジャール本社が入った雑居ビル何個分の高さだろう、と考えてしまうほど巨大なビルばかりだ。 上から見ても気圧されるのだから、下から見上げれば資本主義の持つ圧倒的なパワーに気が滅入るだろう。 ビルの大きさは、企業の強さを示すバロメーターでもある。だから、これらの企業から見ればジャールは雑魚だ。 悪の組織ではなく企業が世界征服するのでは、と危機感に駆られつつ、ヴェアヴォルフは鉄骨にしがみついた。

「んーと……」

 ミラキュルンは東京タワーの鉄骨から身を乗り出し、六本木のオフィス街を見回した。

「それで、その、名護さんのお勤めしている会社はどこにあるんですか?」

「なんで普通に地上から行かないんだ!」

 高さと強烈な風に怯えたヴェアヴォルフは、ヒーローのパワーで赤く塗られた鉄骨を抱き締めた。

「えー、だって、下から行くと道に迷っちゃいそうですし、上から見た方が手っ取り早いので」

「この高さをヒールで歩くなー! 見てる方が恐いじゃないか、縮こまっちまうじゃないかー!」

 ミラキュルンはハイヒールを鳴らしながら平然と歩いたので、ヴェアヴォルフは、ひゅえ、と息を吸い込んだ。 現在地点は東京タワーの特別展望台の真下である。びゅるびゅると強い風が吹き付けて、鉄骨を鳴らしている。 ミラキュルンとヴェアヴォルフの居住地は関東圏なので、都心までは加速して飛べば十数分程度で到着出来る。 だが、決して色気のある目的ではない。ヴェアヴォルフが変身解除するために必要なヒーロー活動を行うためだ。 ヴェアヴォルフが思い付いた善行は、夫の帰りを待っている姉の弓子のために名護を早く帰宅させることだった。 そのためには名護の勤務先に行くのが手っ取り早い、ということで都心まで来たが、着地地点がまずかったのだ。

「大丈夫ですよ、地上二百五十メートルなんて大したことないですよ。落ちてもちょっと痛いだけです」

「俺は死ぬ! こんな高さから落ちたらいくら怪人でも脳みそぶちまけて即死だぁああ!」

 ヴェアヴォルフが錯乱しながら喚くと、ミラキュルンはこつんと自身のバトルマスクを叩いた。

「あ、それも大丈夫ですよ。ちょっと脳震盪を起こすぐらいで済みますから」

「それは貴様らだけだぁあああ!」

 最早暗黒総統としての体面も保てず、ヴェアヴォルフは腰が引けていたが、ミラキュルンは平然としていた。

「でも、地上に降りたら目立つって言ったのはヴェアヴォルフさんじゃないですか」

「そりゃそうだがっ、せめてそこら辺の低いビルにしろぉ! 誰が東京タワーに来いなんっつったぁ!」

「えー、でも、東京タワーって素敵じゃないですか。一度、夜に来てみたかったんですよ」

「だからなんだってんだぁ!」

「えい」

 ヴェアヴォルフの反応が面白くなかったミラキュルンは、指先でヴェアヴォルフの肩をつんと小突いた。 ヒーローのパワーで小突かれたヴェアヴォルフは、鉄骨を軸にしてぐるりと体が回り、背中が空中に飛び出した。

「嫌、ああ、死ぬっ、俺死ぬ! 死にたくないけどこれ凄い死亡フラグだー!」

 美しい夜景に似合わない絶叫を轟かせたヴェアヴォルフは、がちがちと牙を鳴らしながら鉄骨に縋った。

「これぐらいの高さ、何が恐いのかなぁ」

「恐い恐い、俺は超恐い! ヒーローの物差しと怪人の物差しが同じだと思うなぁー!」

「解りました、そろそろ助けてあげます」

 ミラキュルンはヴェアヴォルフに近付こうとしたが、ミラキュルンのバトルスーツの下から着信メロディーが鳴った。 ミラキュルンは制服のスカートのように腰の脇にあるファスナーを開け、携帯電話を取り出すと開いて通話した。

「あ、お兄ちゃん? なあに?」

「空気読めやお兄ちゃんー!」

 ヴェアヴォルフはミラキュルンの電話を阻もうと手を伸ばすが、空しいことに届かなかった。

「うん、うん、お風呂は先に入っていいよ。もうちょっと長引きそうだから。え? お母さんがピザまん食べたがってるの?  えぇー、お兄ちゃんが買いに行けばいいじゃない、あ、まだ電話が来てないの? じゃあ仕方ないね、帰りにコンビニに寄るね。 他に何か買うものある?」

「あっても言うなお兄ちゃんー!」

「えぇー、お父さんがお風呂上がりにアイスを全部食べちゃったのぉー? 凄く楽しみにしてたのに、アップルパイの バニラアイス添え。じゃあそのバニラアイスと、お兄ちゃんはしろくまでいいんだよね。お母さんは? えー、ハーゲンダッツ?  ドルチェのミルフィーユ? お金足りるかなぁ」

「足りなかったら立て替えてやる、俺が立て替えてやるから!」

「他にはもうないよね。うん、解った。じゃ、買い物したら帰るね。え? お父さんが生卵飲んじゃった? お兄ちゃんが 特売で買ってきたL玉の十個パックを全部?」

「なんだよ貴様んちのお父さんは! ロッキーかよぉ! 一度はやりたくなるけどさぁー!」

「やだぁ、明日の朝ご飯は目玉焼きがいいよぉ。だから、卵は買っていくね。コンビニ売りのでいいよね。え?」

「いい加減にしろ! 俺を救え、ヒーローなんだろうがぁ!」

「お父さんがお風呂上がりにターミネーターごっこをやってたの? あの、未来から来た直後のアレ? また?」

「てぇことは何か、今までの行動は全裸だったってことかよ! ありがちな話だけど!」

「えぇー、それだけは買いづらいよー。でも、うん、解ったぁ。全部ゴムが切れていたんじゃ仕方ないよね。お父さんの パンツも買って帰るね。恥ずかしいけど」

「貴様んちの父親はどういう下半身をしてるんだぁあっ!」

 いい加減に突っ込むことに疲れたが、何か言っていないと気が紛れないのでヴェアヴォルフは必死だった。 息が荒くなり、鉄骨を握るアームガードの中で手に汗が滲んだ。尻尾は弱々しく丸まり、股間に貼り付いている。 早く終わってくれないか、とミラキュルンを睨むが、ミラキュルンは兄との通話が終わらないのか切る気配はない。 それから優に五分以上経ってから、ミラキュルンはようやく通話を切り、携帯電話をポケットらしき部分に入れた。

「ごめんなさい、ヴェアヴォルフさん。私、お兄ちゃんから沢山用事を頼まれちゃって」

「知ってる! すっげぇ知ってる! だから早く助けろ、俺を!」

「あ、はい、すみま」

 せん、と言いかけたミラキュルンは鉄骨を踏み外し、ぐらりと傾いて闇の中に没した。

「いひゃああああっ……」

 気の抜けた悲鳴を上げ、ミラキュルンは地上二百五十メートルから落下した。しかも、タワーの内側を。 人間が鉄骨に衝突する鈍い音と悲鳴の切れ端が嫌でも聞こえてきて、ヴェアヴォルフは本気で泣きたくなった。 ミラキュルンが鉄骨に当たる音が数回続いた後、真下にある商業施設の屋上に落ちたのか一際鈍い音がした。 ごしゃあっ、とコンクリートが砕け、暗がりの中を破片が転がった。だが、ヴェアヴォルフの視点からは見えない。 それでも一応事態を確認しておかなければ、とそっと首を伸ばすと、人型に抉れた穴から彼女が立ち上がった。

「あ、あのー……」

 気まずそうにヴェアヴォルフを見上げてきたミラキュルンは、もじもじと肩を縮めた。

「お兄ちゃんから頼まれた買い物って、えっと、なんでしたっけ? 落ちた拍子に忘れちゃいました……」

「お、教えてやるから早く俺を助けに来い!」

 とにかく状況をなんとかしてくれ。ヴェアヴォルフは、鉄骨からずり落ちそうな手にありったけの気力を込めた。 ミラキュルンは自分で言っていたように無傷だったらしく、ミラキュリペアなる技で屋上を直してから飛んできた。 やっとミラキュルンに助け出されたヴェアヴォルフは、バトルマスクに隠れているのをいいことにちょっと泣いた。 いい歳をして、とは思うが、本当に恐かったのだから仕方ない。
 ミラキュルンの手に引かれて空を飛んだヴェアヴォルフは、以前弓子が勤めていた証券会社の本社ビルを探した。 大手企業なので苦労せずに見つけられたが、今度は入りづらかった。正面玄関には警備員がいたからである。 今の姿形だけはメタルヒーローであるとはいえ、ヴェアヴォルフはれっきとした悪の秘密結社の総統なのである。 平常時なら押し切れるだろうが、東京タワーでの恐怖とショックが抜けない心境では、問いつめられればダメだ。 さてどうしたものか、とヴェアヴォルフがしばらく考え込んでいると、ミラキュルンは不意にビルの屋上を仰ぎ見た。

「あれ……?」

「なんだ、どうした」

「いえ、気のせいかもしれません」

 ミラキュルンは首を元に戻し、再び証券会社の本社ビルに向いた。

「それで、この会社が、ヴェアヴォルフさんのお知り合いで、近頃帰宅時間が遅すぎて奥さんを泣かせちゃっている 旦那さんが勤めている会社なんですね?」

「ああ、そうだ」

 ヴェアヴォルフは頷いた。ミラキュルンに弓子が身内だと話しては巡り巡って大神の正体がバレるかもしれない。 そして、ミラキュルンを通じて美花にも知られるかもしれない。だから、真実ではないが嘘ではない言い方をした。

「それじゃ、まず、受付に尋ねてみましょうか」

 ミラキュルンが広いロビーの奥にある受付を指すと、ヴェアヴォルフは渋った。

「しかし、俺は怪人だぞ。警備員が通してくれるものかな」

「じゃあ、こうしましょう。ヴェアヴォルフさんも、今は格好がヒーローなのでヒーローになっちゃいましょう」

「それだけは拒否する。俺には俺のプライドというものが」

「それはプライドと言うよりも、単に融通が利かないだけじゃないんですか。お父さんは言っていました、ヒーローとは 勢いとパワーとハッタリで出来ている! って」

「貴様は悪の信念の何たるかが解っていないようだな」

「ですけど、携帯を鳴らすよりも現場を押さえた方が確実だって言って都心まで来たのは」 

「あー俺だ、俺の作戦だ! 解ったよ、俺は今からヒーローだ! 心は純然たる悪だがな!」

「それじゃ、御名前は何にしましょうか」

「もう決めてある。獣の装甲と書いて、獣装ウルファイターだ!」

 ヴェアヴォルフはやけっぱちでポーズを付けると、腰にぶら下がっていた飾りの手錠を外して構えた。

「ちなみに機動刑事だ!」

「それ、いつの時代のヒーローですか? 私、聞いたこともないですけど」

「後で教えてやる! あばよ涙でよろしく勇気、若さとは振り向かないことだ!」

 ヴェアヴォルフはどう考えても邪魔な装飾が付いた手錠を振り回し、ミラキュルンと正面玄関に向かった。 当然ながら、二人は警備員に呼び止められた。なので、ウルファイターと化したヴェアヴォルフは死力を尽くした。 正義だ友情だ愛だの何だのと思い付く限りの薄っぺらい言葉を並べて、ポーズを取って、ヒーローだと名乗った。 そして、ミラキュルンも羞恥心で声を上擦らせながらポーズを決めた。だが、警備員はますます怪しんでしまった。 このままでは間違いなく追い返されるので、ヴェアヴォルフは腕で警備員の首を締めて物陰へと引き摺り込んだ。 ミラキュルンには近付くなと強く命じてから、ヴェアヴォルフは今にも無線機を使いそうな警備員に小声で尋ねた。

「この会社の企画課に名護刀一郎が勤めているはずですが、退社したかどうかを知りたいのですが」

「え、は、はぁ……」

 警備員は大いに拍子抜けしたようだが、無線機で警備員室にいる同僚に尋ね、答えた。

「企画課の名護刀一郎でしたら、定時で退社されていますが」

「え?」

「IC社員証で全社員の入退社確認を行っておりますから、間違いありません」

「そうですか。お仕事中、お手数を掛けて申し訳ありませんでした」

 ヴェアヴォルフは警備員を解放すると、警備員は呆気に取られながらも持ち場に戻っていった。

「どうでしたか?」

 ミラキュルンに結果を聞かれたので、ヴェアヴォルフはマスクの下で歯噛みした。

「思ったよりも根が深そうだ。貴様はもう帰れ、これから先は俺一人でなんとかする」

「ですけど」

「家族から買い物を頼まれているんだろう? 早く帰らないと、貴様の父親は一生フルチンだぞ」

「そっ、そうですね」

 ミラキュルンは気恥ずかしげに俯いたので、ヴェアヴォルフはコンビニの会計時のように一息に言った。

「いいか、貴様が頼まれた買い物は、バニラアイスとしろくまとピザまんとハーゲンダッツのドルチェのミルフィーユ、 明日の朝食に使う生卵に父親のパンツだ。以上六点だ、忘れるなよ」

「ありがとうございます」

 ミラキュルンは一礼すると、ふわりと足元を蹴って浮かび上がった。

「ヴェアヴォルフさん、ヒーロー活動、頑張って下さいね! あんまり役に立てなくてすみませんでした!」

「ああ、大いに役に立たなかったよ!」

 捨てゼリフのようにミラキュルンの背中に言い放ってから、ヴェアヴォルフは名護の行方を捜しに駆け出した。 空を飛ぶのは嫌だが、跳ぶことなら得意だ。ヴェアヴォルフはアーマーの付いた足で、アスファルトを踏み切った。 つま先が外れた瞬間にバトルスーツのせいで普段よりも重たい体が宙に弾き出され、都会の夜景の真上に出た。 重力に従って下降する前に、力を込めて宙を蹴る。物心付いた頃から出来た技だが自分でも仕組みは解らない。 二度目の踏み切りで加速したヴェアヴォルフは、喧噪と排気ガスにまみれた街を見下ろしながら跳躍を続けた。
 オフィス街を過ぎ、公園、繁華街と見下ろすが名護の姿はない。鼻を効かせようにもマスク越しでは難しい。 だが、名護を捜さなければ気が済まない。本当に姉を愛しているなら、すぐに自邸に帰って弓子に謝ってほしい。 ヴェアヴォルフは十数度目の跳躍を終え、ネオンが光り輝く雑居ビルの屋上に着地し、荒くなった呼吸を整えた。

「いかなる姿に変わろうとも、貴様らの穢らわしさは偽れん」

 不意に、鋭くも冷たい声が背中に突き刺さった。

「怪人めが」

 ヴェアヴォルフが振り向くと、隣の雑居ビルに鎧を纏った者が立っていた。その右手には銀色の剣が備わり、 やかましく点滅するネオンを浴び、その者の姿は赤や青や黄色などの極彩色に染められて奇妙に美しかった。 だが、白銀のバトルマスクの中央に貼り付けられた十字架だけはいかなる色にも染まらずに白く発光していた。

「我が名は神聖騎士セイントセイバー」

 銀色の騎士は、きちり、と滑らかな刃を顔の前で横たえた。

「真実の正義を貫く聖剣カラドボルグにて、その穢れを浄めてくれる」

「貴様か。うちの社員に手を出したのは」

 セイントセイバー。その名を聞いた途端、ヴェアヴォルフは全身の毛が逆立ちかねないほどの怒りを覚えた。

「悪いが、覚えていない。私は数多の怪人を手に掛けたが、神は裁いた罪など数えない」

 セイントセイバーは右腕を上げ、切っ先をヴェアヴォルフに据えた。

「故に、私は貴様のことも覚えない。今、この瞬間を光栄に思うがいい。神の慈悲を受けるのだからな」

「宗教の押し付けは嫌われるぞ!」

 ヴェアヴォルフは薄汚れたコンクリートをつま先で抉り、一瞬で隣のビルに飛び移った。

「押し付けではない、これが正義だからだ!」

 セイントセイバーはヴェアヴォルフに斬り掛かるが、ヴェアヴォルフは素早く移動して刃を逃れた。

「正義正義と言うが、ヒーローの正義が救うのは俺達以外のものだ! 怪人が、怪人を救おうとしてっ!」

 腰に手を回したヴェアヴォルフはスナイプライフルを抜いてブレードに変形させ、聖剣と切り結んだ。

「何が悪いって言うんだぁっ!」

「青臭いことを!」

 セイントセイバーはヴェアヴォルフのブレードを押し切り、振り払って構え直した。

「いついかなる時代も、淘汰されるべき者は存在する! 貧者、愚者、弱者、そして怪人だ! 生まれながらに して悪の心を宿した貴様達を葬らなければ、この世界は穢れに塗り潰されてしまう!」

「だからこそ、俺は世界を征服するんだよ!」

 ヴェアヴォルフはブレードをスナイプライフルに変形させ、撃った。ネオンよりも明るい光弾が弾け、飛び散る。 照準の真ん中に据えられていたセイントセイバーは剣を振っていくつかの光弾を弾いてから、頭上へと跳躍した。 ヴェアヴォルフは銃口を上げるが、急降下したセイントセイバーは聖剣を横に振ってスナイプライフルを切断した。 足元に転がった銃身に一瞬気に取られたヴェアヴォルフの背中に、ずしりと重たく強烈な痛みが訪れ、よろけた。

「この……野郎!」

 ヴェアヴォルフは毒突くが、膝が折れた。セイントセイバーは、薄く血が絡み付いた聖剣を下げた。

「さすがはパワーイーグルのバトルスーツ。私の剣も、一太刀では通用せぬか……」

「そうやって、どれだけの怪人を傷付けてきたんだ! 貴様のでたらめな正義をどこの誰が望んでるんだよ!」

 ヴェアヴォルフは戦おうと片膝を上げたが、背中に袈裟懸けに走った傷が激痛を放ち、崩れ落ちた。

「この、私が望んでいる」

 倒れたヴェアヴォルフの目の前に、セイントセイバーは真新しい血が滴る切っ先を差し出した。

「それが正義というものだろう」

 ひたり、と冷たい刃がバトルマスクと頸部アーマーの繋ぎ目に添えられた。

「ヴェアヴォルフさーん! どこですかー! 買い出しのついでに、差し入れ買ってきたんですけどー!」

 夜の街に場違いな少女の声が響き、セイントセイバーは聖剣を止めてピンクでハートのヒーローを一瞥した。

「興が冷めたな」

 セイントセイバーは聖剣を鞘に収めて雑居ビルから飛び降り、銀色のマントの端がちかりとネオンを撥ねた。 ヴェアヴォルフは出血と痛みと消耗で動きの鈍い目を上げるが、セイントセイバーの姿はどこにも見えなかった。 追わなければ、怪人達の敵なのだから、とヴェアヴォルフは起き上がろうとするが、手足から力が抜けてしまった。 だが、それは負傷のせいだけではなかった。初めて敵対した圧倒的な実力のヒーローに、畏怖したからだ。

「だ、大丈夫ですか? その、背中、ひどい傷が……」

 コンビニのレジ袋を下げて屋上にやってきたミラキュルンは、怖々とヴェアヴォルフに手を伸ばしてきた。

「大丈夫だ、触るな、すぐに塞がる」

 ヴェアヴォルフは意地で起き上がると、追い払うように手を振った。

「だから、差し入れとやらを置いてさっさと帰れ。アイスが溶けるし、ピザまんも冷める」

「あ、はい。でも、無理しないで下さいね。辛いようだったら、私が病院に」

「大丈夫だと言っているだろうが!」

「すみません! 本当に本当に、無理しないで下さいね!」

 ミラキュルンはヴェアヴォルフの傍に紙パックのジュースとストローを置くと、時折振り返りながら飛び去った。 その優しさと気遣いが嬉しいと思いかけたが、相手はヒーローなのだと自戒し、ヴェアヴォルフは痛みに呻いた。 大丈夫だと言い切ったが、全然大丈夫ではない。骨には届いていないようだが、筋肉がすっぱりと切れている。
 背中に受けたダメージが余程ひどかったのか、バトルスーツは剥がれるように解除され、光と化して消えた。 それでも尚、パワーブレスにはダメージは及ばなかったらしく、忌々しくもありがたいことに右手首に付いていた。 久々に感じた外気は冷たいが、鼻を掠める己の血臭が生臭い。ヴェアヴォルフ、もとい、大神は痛みに呻いた。

「……ん」

 給水塔の土台に寄り掛かった大神は、ミラキュルンの差し入れに口元を緩めた。

「なんか、野々宮さんみたいだな」

 よく冷えたピーチティーに、ストローが寄り添っていた。ヴェアヴォルフは手を伸ばし、ピーチティーを取った。 蓋を開けてストローを差し、啜ってみると、予想以上の甘さとピーチフレーバーの強さに少しむせそうになった。 そういえば、市立高校の通学路にあるコンビニのアルバイトを辞めてからは、美花とはなかなか会えていない。
 今度はデートに誘おう。怪人である限りは彼女に気持ちを伝えることが出来なくても、少しでも近付ければ。 どこに行こう、どうやって誘おう、何を話そう、どんなことをしよう、考え出しただけで笑みが込み上がってきた。
 初めて飲んだピーチティーは、甘ったるい恋の味がした。




 小さな電子音の後、通話が切れた。
 高鳴る胸は苦しく、火照った頬は熱い。速人と何を話したのか、覚えていたいはずなのに覚えられなかった。 自分が何を言ったのかも、よく解らない。彼の顔が見えないと、面と向かっている時よりも逆に緊張してしまった。 携帯電話を胸に当て、芽依子は唇を噛み締めた。犬歯の代わりに生えている牙が唇を押さえ、浅く傷を作った。 滲み出した血を舐め取ってから、ほうっとため息を零す。夢のような一時が終わると、現実が襲い掛かってきた。
 
「何用でございますか」

 芽依子が振り向くと、隣のビルの屋上から飛び移ってきた異形の男がサンダルを鳴らしながら歩み寄ってきた。

「いんやあ、相変わらず見事な手際だよ。さすがはコウモリだぁねぇ」

 互い違いに目を動かしながら、カメリーは芽依子の肩越しに顔を突き出した。

「神話の時代から、裏切りの専門家だもんねぇ。自分の主も斬っちゃえるんだから、筋金入りよ」

「私めにはまだ仕事がございますので、これで失礼いたします」

 芽依子はカメリーを押しやると、ホックを外さずに背中のファスナーを開き、コウモリの翼を出して開いた。

「また、動きがあればお知らせ下さい」

「はいよ。それが俺の仕事だもんよ」

 カメリーはひらひらと手を振ってきたので、芽依子は翼で空気を叩いて体を持ち上げた。広がってしまう スカートとエプロンを気にしながら高度を上げた芽依子は、風を掴み、方角を見定めて飛行した。襟元から零れ出た 銀色の鎖が小さく鳴り、胸元ではコウモリ怪人には不似合いな銀のロザリオが揺れた。それを手のひらに食い込むほど 握り締めた芽依子は、右腕に残る生々しい手応えに震え、奥歯を噛み締めた。躊躇いや迷いを振り払ってからロザリオを 胸元に入れた芽依子は、戦闘で火照った体を濁った夜風で冷やしながら大神邸を目指した。
 何事もない、明日を迎えるために。





 


09 9/20